No Smoking


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 時計の針が時を刻む音だけが、静まり返った待合室に響いている。私は握りしめた両の手を睨みながら、自責と後悔を繰り返し、スモーカーさんの腕に抱え上げられた青白い顔を思い出すたび、幾度となく悲観に暮れていた。ナマエさんが生きていてくれただけで良かったと思う気持ちと、一体あの海賊たちにどんな仕打ちを受けたのだろうか案じる気持ちと、自分は何も成長していないと歯噛みする気持ちと――煩雑な、整理しきれない感情を持て余し、うなだれた。白いソファに凭せ掛けた体の居心地の悪さ。いたずらに過ぎる時間がひたすらもどかしい。

 スモーカーさんは直角に据えられた私の斜め前の位置で、やはりソファに背を預け、静かに葉巻をくゆらせている。テーブル上の灰皿には、未だくすぶっている吸い殻の煙。彼のジャケットに残る血の色――無論、ナマエさんのものだ――は、これは夢なのではないかという愚かな期待を打ち消すような、真に迫った生々しさを湛えていて、視界に入るたびに現実に引き戻される心地がする。スモーカーさんは何も言わないし、傍目には読み取れないけれど、おそらく内心では……ひどく、感情を乱しているのだろう。彼はいつになく張り詰めた眼差しを宙空に向けていた。

 カタン、と戸が開いた。反射的に視線を向ける。ナマエさんの治療が、済んだのだろうか。


「あなたたち、……酷い顔してるわ」

 ヒナさんがドアの向こうに立っていた。スモーカーさんと私を順に見遣って、困ったように笑っている。けれど私には、そんなことを口にする彼女の面差しも、どことなくやつれているように見えた。

「……どうしてお前が?」

 スモーカーさんは顔を上げ、ヒナさんの台詞には応えず短い問いを投げる。数刻ぶりに耳にした彼の声は落ち着いたものだったけれど、心なしかどことなく余裕がないようにも聞こえた。

「わたくしはもともと所用で医療棟に居たのだけど、そうしたらナマエが……。それで、処置が済むまで付き添ったの。あの子、状況も立ち位置も特殊だから、知り合いが居た方が何かとスムーズだと思って」
「そうか。……助かる」

そう口にしたスモーカーさんがわずかに言葉尻を和らげたのは、ヒナさんを信頼している証拠だろう。実際、ナマエさんは海兵でもなければ一般人とも違う扱いの難しい立場のうえ、彼女を認知しているのは一部の海兵だけなので、医療棟での処遇は気がかりだったのだけど……ヒナさんがついてくれていたとあればひと安心だ。


「そう言うあなたたちは、ずっとここに?」

 敷居を跨いで扉を閉め、彼女はコツコツとヒールの音を響かせながらこちら側へ歩み寄ってきた。テーブルサイドで足を止めたヒナさんの、スーツに染み付いた消毒液の匂いが、ツンと鼻腔を通り抜ける。私は、自然と目を伏せていた。

「いや、現場の後始末が色々とあったんでな……ここへ来たのは用事をあらかた済ませてからだ」
「そう……。なら、検挙された方々から尋問で聞き出したこと、まだ耳に入ってないのね?」
「あァ。……」

 それから、私たちはしばし、黙り込んだ。意味を持たない沈黙だった。真っ先に知るべきことがあるのは明白で、いくら先延ばしにしようと無意味だと分かりきっているのに、私はまだ、ナマエさんの安否を尋ねられないままでいる。情けなくも、はっきりさせてしまうのが怖かった。けれどそれは多分、スモーカーさんも、ヒナさんも同じなのだろう。足場を持たない宙吊りの不安は漠然と底知れないけれど、一歩踏み出さぬ限りはまだ、転げ落ちはしないから。
 もちろん、馬鹿みたいな臆病風を吹かせて、いつまでも黙り込んではいられないのは分かっている。けれど、私は不安定な沈黙を裂く勇気を持てなかった。唇を噛むように小さく俯く。視線の先では、組まれた両手が私の膝上に鎮座している。

 ――刹那の、ぬるま湯のような静寂を破って、スモーカーさんが出し抜けに口を開いた。


「それで、ヒナ……」


ゆっくりと煙を吐き出すように、彼は静かに言葉を紡ぐ。緩急のない、平静な声だった。

「……ナマエの意識は、戻ったか」


 そうだ、まずは……そこから聞かなければ。おそらく、ヒナさんが真っ先に報告を始めなかったのを考えれば、ナマエさんの状態は良好……とはいかないのだろう。そういった予想がつくゆえ、私はこれほどまでに躊躇しているのだから。
 私の不吉な予感を証明するように、一瞬、ヒナさんの顔に複雑そうな表情が浮かぶ。その芳しくない反応によもや、と息を飲んだ私たちを見て、彼女は「ああ、違うの……」と弁明するように微笑んだ。

「そうね……安心して、と言うべきかしら。いえ、ナマエの意識はまだ回復してはいないけれど……ひとまずは無事よ。命に関わるような怪我は見当たらなかったわ」
「! で、では……」
「ええ、"最悪の事態"にはならないでしょう」


 ……っ、ああ、よかった……。

 張り詰めていた緊張がほぐれ、涙腺が緩みそうになる。安易に喜んでしまってもいいのかはまだわからないけれど、それでも気が気でないこの数時間を思えば、この知らせは十分な朗報であった。

「既に手当ても済んでるわ。簡単にナマエの状態を話しておくけれど……」

微笑を消し、ヒナさんはその眼差しに真剣な表情を浮かべる。やはり、命に別状はないとはいえ、楽観視できる状況ではないようだった。

「具体的には、頭部に軽い裂傷、腹部では数箇所の殴打痕が確認されたけれど、どれも軽いものよ。昏倒の原因は外傷というより、極度の緊張によるものでしょう。発見時は随分体温が下がっていたようだけれど、今はむしろ上がってきてるわね。脈拍は安定、性的暴行の形跡も無いし、危惧していた麻薬摂取についても血液からの反応無し。ただ――」

彼女は何事か言いあぐねるように言葉を切った。伺うようにこちら方を見やり――。一瞬、躊躇ったあと、ヒナさんはスモーカーさんの視線に促されるように、言葉の続きを紡いだ。


「腕部に、拷問の形跡があるの」



 ――拷問。

 頬が強張る。血の気が引いていた。拷問……自白させるべく、肉体的な苦痛を与えること。それをナマエさんが、あの無法者たちに?

 ……なんて、酷なことを。ナマエさんは私よりよっぽど海兵向きなんじゃないかと思うくらいに気丈だし、度胸もあるけれど、それでも彼女は身寄りもなく、海兵でもない、庇護されないと死んでしまうような、極めて普通の女の子なのだ。拷問なんて、そんなこと――耐えられるはずがないのに。
 大体、不可解だ。拷問と言うなら勿論、何事か情報を聞き出そうとしたのだろうけど、彼女は海軍の庇護下に置かれているとはいえ一般人。例え恭順しようと、話せることは限られている。状況を考えるに、知りもしないことを聞かれて、答えようもなく拷問されたのか……いや、それとももしや、逆らった、なんてことは――


「スモーカー君は、救出の際、あの子の怪我には気づかなかったの?」

 ヒナさんの声がやけに鮮明に耳に入った。はっとして面をあげる。尋ねられたスモーカーさんには動揺している様子はなく、ただなにかを押し殺したような淡々とした声で応じるばかりだった。

「あァ。……ナマエを発見した部屋がずいぶんときな臭かったんで、薄々、察しちゃいたが。それで、腕ってのはどんな……?」
「……そうね」

ヒナさんは真っ赤な唇をわずかに歪め、長いまつ毛をつと伏せた。いつも堂々と振る舞う彼女の、こんな姿を見るのは初めてかもしれない、なんて頭の隅で考える。

「とにかく、一度見てもらった方が早いわ。……葉巻を置いて、ついてきて」

ようやっと心を決めたように告げると、彼女はヒールのかかとが鳴る音ともに、すっと身を翻した。スモーカーさんも無言のまま、灰皿にまだ新しい葉巻を押し付けて立ち上がる。それは、あらゆる思いを飲み込んだように、ひやりとするほど表情の見当たらない仕草だった。ただ、ガラス製の灰皿から燻る煙の香が、その後を引いて空気に残る。
 私は自然と唾を飲んで――ソファに縫いとめられたかに重い腰を上げ、スモーカーさんの後に続いた。

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