No Smoking


▼ 02-1/3

 本日も晴天なり。

 あれから一週間ほど経過した。しばらくこの船でご厄介になっているわたしであるが、まだ本部とやらに着く気配はない。見上げれば抜けるような青空、雲の近くを旋回する白い鳥。穏やかな微風がわたしの頬を撫でていった。こんな天気のいい日はひなたぼっこに限る。たしぎお姉さんから借りた着丈の合わない花柄のシャツが、ほんの僅かに膨らんだ。
 たしぎお姉さん曰く、この船はほんの僅かに風が吹く"凪の帯カームベルト"の縁ぎりぎりを進んでいるらしい。この海域は常に天気が良く波も荒れにくい気候である代わりに、わたしが出会った巨大魚みたいなのがわんさか住み着いていて、航海するのはとても危険なのだそうだ。海軍の船は比較的安全、と言っていたけどその仕組みまではよく分からない。

「ナマエさん……!って、きゃあ!」
「あれ、たしぎお姉さん。どうかしたんですか」

 甲板の一部が張り出した船長室の屋根へはしご伝いに駆け上がってきたのは噂の彼女なのだが、わたしが散らかした小物に足を滑らせて、危うく転倒してしまったらしい。落下寸前の腕を慌ててひっ掴み、たしぎお姉さんをなんとか引っ張りあげると、彼女は「すみません!」と実に申し訳なさそうに頭を下げた。そういう抜けたところがたしぎお姉さんの魅力なのだから、そんな謝まらなくたっていいのにと思うけど。

「メガネ、かけたほうがいいと思いますよ」
「あっ、ありがとうございます。……それからその、たしぎでいいですよ」
「うーん、じゃ、たしぎ姉さんとお呼びします」
「あまり変わってない気もしますけど……って違います!あのっ、ナマエさん、これはどういうことですか!」

 たしぎ姉さんの指差した先をたどり、自分の周囲を見わたしてみる。あるのはただのティーバッグ30個とコーヒー豆の残りかすの袋詰め20個、それから木炭の山。少々キッチンから拝借したものたちだ。それらを燦々太陽のもと天日干ししてるだけだけど……。

「そんな不思議そうな顔をしてもダメですよ。これは一体なんですか?」
「魔除けです」
「もうっ! 聞きましたよ、消臭グッズだって。ナマエさんいいんですか、海兵たちに"消臭のナマエ"なんて失礼な肩書きで噂されてしまってるのに……!」
「あはは、皆さん仲良くしてくれてます」
「そうなんですか? それはなによりです……ではなくてっ!」

 先ほどから慌ただしい彼女は、どうも怒っているというより焦っているようだ。よくよく考えてみると駆けつけてくれた理由をまだ伺っていない。どうかしたのだろうか。

「ナマエさん、スモーカーさんの部屋にティーバッグ山ほど吊り下げたって本当ですか!? 朝からコーヒーも尽きてるって、ものすごくお怒りでしたよ……!」

 ははあ、なるほど。

「一体、なんでそんなことを?」
「えー……ほらわたし、できることが少ないから、今一応海兵さんたちのお部屋掃除とか、料理のお手伝いとかさせてもらってるんです。雑用ってやつです。男所帯なのでかなり汗臭いんですが、すでに消臭は完璧です。やりがいのある仕事でした。けど肝心のスモーカーさんの部屋だけはヤニ臭くって本当にどうにもならなかったので……」

 50個ほど吊るしときました!と笑うと、たしぎ姉さんは嘆きながら眉間を押さえた。そんなにすごい怒りようだったのか。恐いもの見たさに好奇心がくすぐられる。

「ナマエさんもスモーカーさんに追いかけられるのは怖いんでしょう。どうしてわざわざ怒られるようなことを……」
「消臭は怒られるようなことではないです。ああそれと、使用したコーヒーはちゃんとゼリーにしましたのでご安心を。結構美味しくできましたよ」
「えっ! それは楽しみです!」
「生クリームかけるといい感じです」
「わ、わあ……!」

 ちょろすぎるたしぎ姉さん。この彼女が本部曹長とのことで、確かに心配である。スモーカーさんが本部の恥だと青筋を立てるのはまったく分からなくもない。しかし何度でも言うがそこがたしぎ姉さんの魅力なのだ。

「たしぎてめェ……何餌付けされてやがる」

 噂をすれば影、地底から響くような声に空中を見やれば、そこには半分気化したスモーカーさん。わたしを助けたこれが"悪魔の実"の能力だそうだが、はしごを使うのに横着した程度で軽率に使用しないでほしいもんだ。幽体離脱でもしたのかと勘違いするじゃないか。
 わたしは素早く首につけたマスク代わりのスカーフを鼻の位置まで押し上げる。彼は白煙を纏いながらすうっと足の形を取り戻して着地すると、「あ!す、すみません」と慌てるたしぎ姉さんを尻目にわたしに近づいてきた。本日も咥えられた葉巻は二つ。相変わらず、顔が怖い。

「ナマエ、ほどほどにしておけと言っただろう……!」
「スモーカーさんが"ほどほど"に喫煙してくれるならそうしますよ。いくらなんでも吸いすぎです」
「悪りィが、おれにとっての"ほどほど"はこれだ」

 これ見よがしに煙を吐いたぞこの野郎。ヘビースモーカーに何を言っても無駄なのはわかっているが、その罪悪感のかけらもない顔は度し難いものである。

「大体頼んじゃいねェだろうが、掃除しろなんてのは」
「えーえー、わたしだって本来なら近寄りたくもないんですけどね。仕方ないじゃないですか、不本意ながらわたしの寝床はスモーカーさんの部屋なんですよ」
「てめェ、それが部屋を借りてる奴の態度か?」

 そうなのだ。わたしは今、非常に不本意ながら、何故かスモーカーさんの部屋に寝泊りをする羽目になっている。そう、こんな誰一人として得をしない事態になったのには深くも浅い訳がある。

 当初、わたしはこの船の紅一点であるたしぎ姉さんのお部屋に置いてもらうとばかり思っていたのだが、なんとあの巨大魚によって彼女の部屋は半壊してしまっていたらしい。修繕はしているようだが資材の予備も間に合ってないとのこと。それでは男しかいないこの船でわたしの寝床はどうするのか、との問題が浮上した。一応怪しい身元不明者であることから自由にさせすぎるのは憚られていたし、かといってメインマストに括り付けるわけにもいかないと(当たり前だ)スモーカーさんとたしぎ姉さんの二人がうんうん頭を捻ってくれたのだが。

 結局それに対する提案は、わたしをスモーカーさんの部屋に匿ってはどうかということだった。彼の部屋は大佐ということでやや広く、本人も普段からベッドを使用しないので空きがあり、ついでにわたしの"子守り"もできるとの理屈だ。更にたしぎ姉さんの謎の信頼による「スモーカーさんなら平気です!」のセリフにより、わたしは拒否権を失った。一応ご厄介になっている身ではあるし、部屋無しの彼女は武器庫に施錠して寝る(刀に囲まれて眠れると大喜びしていたので何も言うまい)と言うので、親身な提案にいつまでも文句を言うわけにもいかなかったのだ。
 ちなみにスモーカーさん当人は「仕方ねェ」と言いつつものすごい迷惑そうな顔をしていた。お互い様である。

 しかし当然、愛煙家と嫌煙家を同じ部屋に置いて起きぬ争いはない。

「もちろん、部屋を貸していただいているのはよく理解してます。わたしだって遠慮してますし……スモーカーさんに喫煙をやめろとは一回も言ってないじゃないですか」
「それなら昨夜、お前がおれになんて言ったか復唱してもらいてェもんだ」
「『わたしが入眠するまで部屋から出てってくれませんか?』と言ったんです。遠慮の塊です。わたしはスモーカーさんが葉巻を咥えてないと死んじゃうのはよく存じてますんで、やめろなんて言えませんよ」
「死な……いや、そもそもだ。部屋の持ち主を追い出そうとするんじゃねェ」

 否定しようとしたけど止めたぞこの人。ニコチン中毒の自覚は多少あるらしい。

「スモーカーさん寝んの遅いしいいじゃないですか。ところでそんなことより、消臭くらい許可してください。一旦匂いを取ったら量は減らしますから」
「そいつァいつまでかかるんだ」
「あと二日三日は……」
「却下だ」

 ため息を吐き出したスモーカーさんは、彼からすればかなり低い位置にあるわたしのおでこを、鬱陶しそうに手の甲で押し返してくる。革手袋の硬い感触とマスク越しにも明瞭になる葉巻の匂い。ああ……匂い移りが心配だ。
 そんなやりとりをきょとんとしながら見ていたたしぎ姉さんが、驚いたようにふと呟いた。

「スモーカーさんとナマエさん、ずいぶん仲良しになったんですね」
「……たしぎ、てめェの目は節穴か?」
「わたし副流煙とお友達になる趣味はございません」

 ハッ、口が滑った。逃げよう。

「こンのガキ……」
「あ!スモーカーさん!?」

 や、殺られる!

 たしぎ姉さんの制止も構わず、逃すまいとわたしの肩を掴もうとしたスモーカーさんをなんとか躱し、こんなときのために装備しておいた最終兵器を構える。スモーカーさんの一瞬の動揺、その隙を狙ってわたしはシュッと――

「おあ」

 するりと素早く伸びてきた煙に足を取られ、視界が仰向けにひっくり返った。思考が追いつかないまま空を見上げた。日光がぐさりと目に刺さる。
 そのまま無抵抗に床に倒れこもうとした体は、柔らかい煙にくるりと受け止められてしまっていた。ちくしょう、アフターケアまでバッチリだ。一瞬の出来事だった。ああ、そして背中に触れるは魅惑のふわとろ。

「ナマエ、おれァ"白猟のスモーカー"だぜ」
「身に沁みて分かりました」

 スモーカーさんが葉巻を吹かせながら、情けない格好で煙に乗っかったわたしを見下ろしてくる。能力のことは知ってたけどこれじゃ手も足も出ないじゃないか。ずる過ぎる。後ろの方でたしぎ姉さんがホッと肩を撫で下ろした。

「……こりゃなんだ?」

 わたしがすっ転ぶ前に手放した最終兵器を拾い上げ、スモーカーさんは訝しげな顔をする。そう、茶色の液の入った霧吹きである。

「木酢液です。消臭用に作りました。蒸留したんでちょっと薄いんですけど」
「……煙の匂いがするな」
「あ、そうです、炭を燃やした煙を使うんです。……興味あります?」
「いや、興味はねェが……」

 背中に敷いていた煙がするりとわたしを立ち上がらせた。考えてみれば、実際にはスモーカーさんのエスコートということになる。なかなかスマートだ。

「お前は煙が嫌いなんだと思ってたが」

 変なことを言う。

「いや、わたしが嫌いなのは喫煙ですもん。タバコ葉巻エトセトラが無理なだけで、煙自体は好きでも嫌いでもないです」
「そりゃそうか。……」

 スモーカーさんから無言で手渡された霧吹きを両手で受け取る。そんなわたしを眺めながら、彼は微妙に顔をしかめた。

「……?」

 急に口を噤んでどうしたんだろうか。そうかと口にしてから黙り込んでいるスモーカーさんはまたいつもの怖い顔をしているけど、今は失礼なことは何も言ってないはずだ。しかしなんでか睨まれている。なんでだ。

「なんですか」
「なんですか、じゃねェ。自力で立て」

 くそう。煙にもたれかかってるのがバレていたらしい。……当たり前か。どういう原理なのかぶっちゃけ全然わからないが、一応この煙もスモーカーさんなんだもんな。しかし触覚とかあるのだろうか。

 この感触をもう少し堪能させてほしいのだが、渋っていると今度こそ背中からすっ転ばされてしまいそうなので、わたしは仕方なく立ち上がった。

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