No Smoking


▼ 18-1/3

 部屋を満たすのはカリカリとペンを走らせる音。窓から差し込む陽光は徐々に彩度を上げ、私の手元にも燃えるような朱色を落としている。
 現在夕方、時刻はちょうど6時を回った頃だろうか。今日も今日とて、相も変わらず私たちに与えられるのは終わりの見えない紙の束ばかり。度々訓練や警備も挟むとはいえ、またこうして椅子の上で一日を過ごすとなれば、果たして海兵とはこういったものだったろうかと嘆きたくもなる。もちろん、それはここにいる海兵全員の総意なのだろうけど。

「――ふう」

 積み上げられた書類の最後の一枚、最後の数字を書き込んで、放り投げるようにペンを置いた。これでようやくひと心地――とはいえ、仕事のストックは依然、山の如し。内心悲嘆に暮れつつもこれ以上幸せを逃すわけにはいかないと、私は溢れかけたため息を飲み込んだ。


「スモーカーさん、こちらの書類片付いたので確認お願いします」

 資料を抱えて席を立ち、黙々と手を動かしている我が上司――スモーカーさんへ声を掛ける。机の上に据え付けられた灰皿には大量の吸い殻、相変わらずのヘビースモーカーっぷりだ。

「あァ、右手の束の上に積んでおけ」
「分かりました」

 彼に示された作業机の上には、うずたかく積み上げられた書類の山。一応スモーカーさんには個別の執務室があるのだけど、作業効率が悪いからと机仕事はいつもここでしなさっている。この山を見る限り、多分仕事量は一番多いんじゃないかな。流石のスモーカーさんも顔色がどことなく疲れ気味に見える。それに近頃は、仕事とは別で気掛かりもあるようだし……。

 そんなことを考えつつ自分の席に座りなおそうとしたとき、突然、コンコンと扉をノックする音が部屋に響いた。気を引かれて顔を上げると、耳に入ったのは思いがけず間延びした低い声だ。

「あららら……コリャまた随分と……」

ドアの隙間から覗く、ひょろりと背の高い長い脚。室内を見やって気の毒そうに呟いたのは、何ともはや珍しくも青キジ大将その人である。部屋中の海兵たちは意外な来訪者にざわつくが、とにもかくにもと海兵の一人が慌てたように敬礼しつつ大将の対応に赴いた。

「た、大将青キジ! 一体どのような御用向きで!?」
「あー、そう畏りなさんな。大した用じゃねェんだ……スモーカーは居るか?」
「はっ、あちらに!」
「ん、どうもね」

海兵の肩を軽く叩いてから、青キジさんは緩慢な動きでこちらに歩み寄ってきた。向こうの会話が耳に入っていたらしく、スモーカーさんも紙面から顔を上げ、訝るように軽く眉をひそめる。足を止めた青キジさんを仰ぎ見て、彼はゆらりと葉巻の煙を吐き出した。

「……急用か?」
「いや、そういうわけでもねェんだが……下の階に用事があってな。お前に頼まれた件の調査書も見つかったんで、ついでに持ってきたのよ。早ェ方が良いだろ」
「あァ……助かる」

 一体なんの調査書だろう? 最近スモーカーさんは青キジさんとコンタクトを取る機会が多いのだけど、内密な事案なのか人目があるところで肝心な話はされないので、もちろん私にはこの資料の内容なんて見当もつかない。わざわざ大将に頼むくらいだし、重要なものなのだろうとは思うけれど。
 しかし大将を使いっ走りにするとは、相変わらず恐ろしいです、スモーカーさん。


「しかしまた、酷いザマだな、こりゃあ……。お前らの部隊はどっちかってェと実働向きだってのに」

 スモーカーさんに書類を手渡しつつ、青キジさんは苦笑した。というかやっぱりこの状況、はたから見ても酷いんだ……。肩を落とせば、背にした椅子がため息の代わりとばかりにぎいと軋んだ。

「そうは言うが、実務が制限されてるって点じゃ大将方も状況は変わらねェだろう。アンタが真面目に書類仕事をこなしてるのかはさておき……」
「おいおい……スモーカーお前、最近のおれの働きっぷりを知らねェな? ナマエちゃんを雇ってからここ、センゴクさんもびっくりの提出率なのよ」
「へェ……そりゃ流石だな。全く、うちの居候はよく働く」

当たり前のことをドヤ顔で自慢してくる青キジさんへ、スモーカーさんは皮肉っぽくそう返す。その言い草に思わずふふ、と笑みがこぼれた。確かに、あの青キジさんを働かせるなんて、ナマエさんも相当頑張ってるんだろうなあ。スモーカーさんの言う通り、彼女は出会った当初からとことん働き屋さんだったし。すると青キジさんは「あららら、たしぎちゃんまで……」と頭を掻いて、芝居掛かった困り顔をしてみせるのだった。

「だが冗談抜きに、お前さんはもうちょい融通利かせなさいよ。このご時世、手に余る海兵なんざ、政府も下手に海にゃ出せねェだろ」

 真面目な忠告に、スモーカーさんは僅かに苦い顔をする。青キジさんの言い分を尤もだと思いつつも、彼は政府のために自分の正義を曲げる気は毛頭ないのだろう。そして、その頑固さがスモーカーさんの欠点であり無二の長所なのだ。

「……まァ、その問題児が駆り出されるほどの大事が無いだけマシなんじゃねェか」

と、うんざりしたようなスモーカーさんの言。それを受けて、青キジさんは小さく肩をすくめる。

「そう悠長にもしてられないのよ。知ってるかお前……長らく空席だった白ひげんとこの二番隊長に、ずいぶん若ェのが入ったって話」
「あァ、聞いた。"火拳"だったか……少し前に七武海の勧誘を蹴った奴だろう」
「そうそう、そいつをセンゴクさんが妙に気にしてんのよ……。それに加え、この頃あっちこっちの海でルーキーが名を上げてるしな。政府はまだ軽く見てるが、来年にゃもしかすると大海賊時代始まって以来の"最悪の世代"なんつう……」


『ぷるるるる! ぷるるるる!』


 青キジさんの物騒な世間話を裂くように、いきなり電伝虫が慌てたような鳴き声をあげた。部下の私が出るべきかとちらりと見やると、着信音を鳴らしているのは部屋のものではなく、スモーカーさんの机に備え付けられた個人用のものである。
 ……珍しい、その上いつも気怠げなはずの電伝虫が浮かべるのは、ひどく急を要した表情だ。どこか只ならぬ様子の電伝虫を見て、スモーカーさんは怪訝そうに受話器を手に取った。

「スモーカーだ――」

『っ、わたしです、ナマエです!』




 ――……え?


 彼の言葉を遮って聞こえたのは、切羽詰まったような少女の声。電伝虫越しには馴染みのない彼女の声に、意表を突かれて思考が遅れる。

 ナマエさん。そう、その声も、名前も間違いなく彼女、なのだけれど……。

 掠れて震えた、悲鳴にも似たその音に、私は思わず耳を疑っていた。様子がおかしい。あれでいて肝の座ったナマエさんのこんな声を聞いたのは、彼女が頭に怪我を負った、かつての海賊の事件以来だった。それはどことなく、私を呼び止めたあの悲鳴に似ている気がした。
 状況が掴めず困惑する私を置き去りにして、スモーカーさんは刹那に息を止め、青キジさんは表情を彫像のように凍りつかせる。まるで彼女の次の言葉を知っているかのような、只ならぬ様子だ。嫌な予感が背筋を通り抜ける。これは、一体――。

『はっ、はあっ……繋がってよかったです、えっと』

 ナマエさんの呼吸がずいぶんと荒い。上気した息を整える余裕すら、彼女には無いらしかった。

『状況は、よく、わからないんですけど……、っ、柄の悪い人たちに追っかけられてるんです!』

続けざまに、ナマエさんはそう口にした。


「――ッ!」

 ガタン、と椅子を引くけたたましい音がした。私の体が、ひとりでに立ち上がったせいだ。だけど誰も振り向かない。そんな余裕は一人としてなかった。
 真っ白の頭にジンと痺れたような感覚を覚えつつ、私は強張った目をスモーカーさんの机へ注ぐ。ゴホゴホと咳き込む電伝虫の顔が苦しげに歪んでいた。

「……っ、ナマエ、お前――」
『時間がないので聞いてください、いま、西町の大通りを北側に二本ほど逸れた路地にいます。床屋の裏、正面にゴミ捨て場――行き止まりに誘導されました、これ以上逃げられません』

とにかく情報を伝えんとばかりに早口で紡がれる掠れ声。パニックに陥ってもおかしくないような絶望的な状況に反して、彼女の認識は拍子抜けしそうなほどに冷静だった。まるでこうなることをずっと前から知っていたかのように。

『わたしを逃がすために、おつるさんの隊のお姉さんが気を引いてくれてます。そちらにも応援を早く。 向こう方の人数は正確には分かんないんですが多分5人前後で、それから、すれ違ったときにあの妙な匂――』

ナマエさんが不意に言葉を切った。血の気の引いた顔で、背後に視線を走らせる電伝虫。
 追いつかれたのだ。受話器越しにも、彼女に迫る複数人の足音が伝わってくる。全身に冷や水を浴びせられたような感覚、停止する思考。私たちには、突きつけられた無力感に抗うすべが無い。


『どうか、お願いします、スモーカーさん――』


 堪えていたものが限界を迎えたかのように、彼女の表情がくしゃりと歪む。ナマエさんの言葉のふちが、泣き出しそうな声に滲んだ。

『助けて、くださ』




『このクソガキ、ちょこまかと逃げやがって!』
『っ、あ』

 乱雑な衝撃音に続いて、ガコン、と低い振動が鼓膜を打った。おそらく電伝虫が地面に落ちた音だろう。間髪入れず、男性の罵倒と共に痛々しい殴打の音が数度――その度にナマエさんの呻き声が上がり、やがて彼女の声はひゅ、と呼吸がから回る音を最後に聞こえなくなった。

『おい、殺すなよ』
『分かってらァ、ちょっとばかし大人しくしてもらっただけ……』
『! おい待て、電伝虫だ。こいつ……グズグズしてると追っ手が来るぞ、さっさとずらかれ!』

そんな下衆な会話と、意識のない体を抱え上げたであろう衣擦れと、ぐしゃりと何かが踏み潰される嫌な音。最後にチャリン、と金属が跳ねたような音を残して足音は遠のき、そしてそのまま、通話は途切れた。


 室内に耳が痛くなるほどの静寂が降りる。心臓が馬鹿みたいに速い。まるで、安い素人劇を見せられたような気分だった。それと同時に首に凶器を押し当てられているような、張り詰めたような緊迫感がある。自分の意識が遠い。視界の隅で、受話器を離したスモーカーさんの手が、小さく震えるのを見た。




「――っクソ、呆けてる場合じゃねェでしょうが!」

 一番はじめに動いたのは青キジさんだった。その怒声を皮切りに、ようやく鈍っていた頭が回り出す。

 そう、そうだ、一刻も早く、ナマエさんの元へ、向かわなくては。そうしなくては、あの人が――私の大切な友達が、二度と、戻らなくなってしまう。

「スモーカー、おれァナマエちゃんの指示通り、海兵の救出と西町の捜索に向かう。……おい、お前らもあの子の世話になってるクチだろ! 通話を聞いてたんなら半数、手を貸せ!」

 いつになく気色ばんだ大将の指示に、――どうやら、先ほどの通話が聞こえていたらしく――動揺の広がっていた海兵たちがハッとしたように立ち上がる。そうなれば動きは早かった。ナマエさんの身を案じるのは皆同じ、各々がペンを投げ捨てて武器を取り、焦りを隠そうともしない足取りで部屋を出た青キジさんに従って部屋を駆け抜けていく。

「――スモーカーさん、私たちも早く!」

 慌ただしい足跡と声に騒然とし出した部屋の中、私も早く動かなくてはと愛刀の"時雨"を手にする。そのままスモーカーさんを呼びながら振り向いて、ぎょっとした。彼は未だ椅子に腰を据えたまま、落ち着き払った様子で手元の資料を捲っているのだ。一体何を、と慌てて問えば、スモーカーさんは葉巻の煙を深く吸い込んでゆっくりと吐き出し、そして諭すように短く告げた。

「……待て」
「で、でも! 相手はまだ現場の周辺にいるはずです! 一刻を争う事態なんですよ、考えるより先に動かなくては……!」
「少し、黙れ」

そう言うスモーカーさんの声は、悠長なくらい冷静だった。怒りも焦りも伺えず、ただただ冷えている。そんな声だ。
 どうして――本来ならこの人が一番ナマエさんの身を案じて然るべき、はずなのに。無関心とすら取れるその態度に、無性に裏切られたような気持ちになる。子供染みた感情のまま、私は血の上った頭で思わずカッとなっていた。非難の言葉を口にしかけた私の憤りを遮るように、やはりスモーカーさんは静かに告げる。

「闇雲に探しても意味はねェ。頭を冷やせ、たしぎ」
「っ、そんなこと言ってる場合ですかスモーカーさん! ナマエさんのことが心配じゃないんですか!? そんなの冷静になれるはずがないでしょう、だって、早くしないと、ナマエさんが、」
「――いいから落ち着けつってんだ!」

 スモーカーさんの鋭い怒声に頭を殴られたような心地がした。口を噤んで、私を睨むスモーカーさんの目を見つめ返す。その平静な瞳の奥が、隠しきれなかった動揺で、僅かに揺らぐのを見た。
 ――そうだ、少し考えればわかることだ。スモーカーさんが……焦らないはずがないのに。


 小さく舌打ちしてから視線を逸らし、スモーカーさんは平静を務めるように細く息を吐いた。素早く資料に目を通しつつ、彼は再び口を開く。

「青キジが現場に向かったならそっちは任せりゃいい。だが追跡して間に合う保証はねェんだ。それなら先に奴らの拠点を抑えんのが最善だろう」
「そ、それはそうですが、しかし私たちには何の情報も……」
「頭を回せ。情報ならある、ナマエは何一つ無駄なことは言わなかった」

ナマエさんが……? 何のことだかサッパリ分からない。もしあの通話にヒントがあったとして、しかし、具体的なことは何も分からないはずだ。

「一体どうするって言うんですか?」
「東に向かう」

 勢いよく資料を閉じ、彼はそう断言した。理解の追いつかない私に構わず、いきなり立ち上がって十手を掴んだスモーカーさん。しかしこの人はまた、な、何を言ってらっしゃるのか……!

「ま――全く逆方向じゃないですか! 一体……」

と言いかけて、スモーカーさんと視線が合って、その目を見て、そして私は口を噤んでいた。
 ……何を言ったところで、余計な問答は時間の無駄だ。何しろ私の上司はこうと決めたら譲らない、ものすごく頑固な、しかし信用に足る人なのだ。分かってる、今そんなことを尋ねている場合じゃない。優先すべきはナマエさんの救出だ。

「東、という確信が……あるんですか?」
「あァ。……だが決めつけるにゃァ証拠不十分なんでな、半分はおれの勘だ」

飄々と頼りないことを言う。けれど、スモーカーさんの勘。それは私の経験上、まず外れない。
 スモーカーさんがジッとこちらを見やる。私が耳にしたのは確かな声だった。

「来い、たしぎ。今はてめェの案内が必要だ」
「……はい!」

力強く頷いた。私が何をどうしたらいいのかとかは相変わらず不明瞭、けれど証拠を待っていては動けない。根拠のないことを信じるのは慣れているんだ、これでも。
 スモーカーさんは軽く頷き返すと、十手を背負い、革手袋をはめ直して、ばさりとジャケットを翻した。見慣れた、背中の正義の文字が揺れている。

「おい、お前らも聞いてただろう。二人じゃ人手が足りねェ、残り全員東だ、急げ!」

 スモーカーさんの声に背を押されつつ、逸る気持ちを抑え込み、私たちは床を蹴って駆け出した。

prev / next

[ back to title ]