No Smoking


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「は〜あ……疲れましたね、今日も」
「事務仕事は性に合わねェ……」

 午後8時より少し前。嵩張っていた書類を纏め上げ、私はずり落ちていた眼鏡をかけ直す。もうとっくに陽は落ちて、窓の外には澄んだ宵闇が広がっていた。
 本日分の仕事を終えたスモーカーさんと私は、海兵たちが帰宅するのを見送りつつ凝り固まった身体をほぐす。今日も今日とて紙束の山、体が石になりそうだ。一応鍛錬は別に設けられているとはいえ、とにかく目を通さなくてはいけない書類が多すぎる。マリンフォードに戻ってきてから暫く、こんな日ばかりが続いていた。

「どうして海兵なのに机仕事ばかりさせられるんでしょうか。そろそろ海に出たいです」
「政府の嫌がらせだろう。机に括り付けときゃ"野犬"も大人しくなるってな」
「嫌われてますね、スモーカーさん」

フン、と不機嫌そうに息を吐いてから、スモーカーさんは灰皿に葉巻を押し付けて立ち上がる。私も彼に倣って席を立ち、手早く帰りの支度を整えた。とはいえ私はおつるさんの部下たちが集まっている女性ばかりの兵舎に寝泊まりしているから、帰ると言っても本部を離れるわけじゃないのだけど。

「スモーカーさんはいいですね。今日も家に帰れば、ナマエさんが夕飯用意してくれてるんですから」
「……お前、毎日それ言ってて飽きねェのか」
「だって、私もご相伴に預かりたいんです。いいなあ、ナマエさんの手料理……」
「はァ……そんなに食いたきゃ、おれじゃなくてあいつに直接そう言え」

スモーカーさんは新しい葉巻に火をつけつつ、呆れたようなため息をつく。私だってそれが出来たら苦労はしないのだけれど、タイミングがないのとか、流石に図々しいかなとか、上司の家だしとか、いろいろ悩んでナマエさんに言い出せずにいるのである。だというのに毎日毎日、ずるいなあ、スモーカーさんは。


「しかしたしぎ……てめェはどうしてそうナマエの奴に懐いてんだ」

 十手を背中に担いで革手袋を嵌め直し、彼は眉をひそめながら尋ねてくる。その訝るような声色を心外に思いつつも強く言い返すことはできず、私は言い訳がましくぼそぼそと口ごもっていた。

「な、懐くなんて言い方やめてください。別に、何もおかしな話ではありませんよ。私、ナマエさんとの付き合いは本部の上官方より長いんですから、少しくらい仲良くたって、全然……」
「……嫉妬深ェ女は好かれねェぞ」
「そ、そんなんじゃないですから!」

スモーカーさんは嫌なところにズバッと切り込んでくる。うう、酷い。私の上司はときどきものすごく皮肉っぽくて良くないと思う。そうして不満げな私を宥めるように、スモーカーさんは軽く肩を竦めた。

「まァ……よかったじゃねェか。今度ヒナ含め、三人で出かけるんだろう」
「そうなんです! ふふ、今からそわそわしてしまって……って、あれ、なんでスモーカーさんが知ってるんですか?」
「……ナマエから聞いた。粧し込んでくるから帰宅を楽しみにしておけと、随分期待させてきたが」

しれっとのろけてくるスモーカーさん。冗談めかした口ぶりは私に対する嫌がらせだろうか。無自覚だったら流石に重症だと思うけれど……しかしナマエさん、どうしてデート前の彼女みたいな台詞をスモーカーさんに言ってしまうんですか。私はそんなあなたが心配です。

「まあ、ナマエさんが楽しみにしてくれてるならいいんです。ヒナさんもナマエさんを好き放題できると喜んでおられましたし」
「全く、揃いも揃ってあれの何に夢中なんだか」
「それ、スモーカーさんが言うんですか?」
「……何が言いてェ」
「えっ! あ、すみませ……」

 横目に睨まれてからようやく失言したことに気づき、私は慌てて謝罪しつつ身を引いた。やたら怖い顔のスモーカーさんから逃げるように視線を泳がせた瞬間、タイミングよく部屋の電伝虫が、『ぷるるる……』と鳴き声を上げる。そのおかげで彼の射殺すような視線から逃れられる私。た、助かった……。
 しかし、こんな時間に電話がかかってくるなんて、一体誰からだろう。ともすれば、緊急の連絡とかかもしれない。スモーカーさんは電伝虫の方へ向かい、非常に面倒臭そうな様子で受話器を手を取った。

「――こちら、スモーカーだが」
『あー、スモーカーだな? おれよ……青キジだ』

 意外な人物からの連絡に、私は思わず目を丸くした。電伝虫が口にするのは、青キジさんのいつも通りに気怠げな声色だ。とはいえその声のトーンはどうにも機嫌良さそうに聞こえる。スモーカーさんと青キジさんは何故か仲がいいとはいえ、こうして直接連絡が来るのはかなり珍しいことだった。
 一体青キジさんはどこにいるのか、背景から聞こえてくる陶器のぶつかる音や人々の喧騒のせいで、どうにも彼の声が聞き取りにくい。スモーカーさんも騒音が耳についたらしく、訝かるようにその点を指摘した。

「……やけに騒がしいな」
『あァ、今晩は珍しく三大将揃ったんでな……流れで呑みに来てんのよ。サカズキも酒の付き合いだけは良いからな』
「……大将のお三方って、意外と仲良しですよね」
「仲良いってほどじゃねェと思うが……」

声を潜めて言葉を交わす私とスモーカーさん。部下としては、上司の仲が良好というのは気の休まる話ではある。赤犬さんと青キジさんは不仲だ、とか女の子たちがよく話しているのでちょっぴり不安があったんだけど、噂にされてるほど仲悪くはないようだ。

「――それで、要件は」
『しかしこの番号繋がったってこたァ、お前まだ仕事中か? 遅くまで御苦労なこって……』
「アンタがさっさと用事を済ませてくれりゃ、おれァすぐにでも上がれるんだがな」
『そう毒づくなよスモーカー……あれだ、お前も今から一緒にどうよ』
「流石に大将三人と同席するほど物好きじゃねェ。要件はそれだけか?」

 スモーカーさんは相も変わらず上司に対して不遜だ。いくら青キジさんと交友関係があるからって、そんな嫌味を言ってもいいのかといつも肝が冷えてしまう。というか青キジさんだけならまだしも、彼以外の上官に対しても例外なくこの態度なのだ、スモーカーさんは。はあ、この人がいつかいよいよ海軍をクビになったら、部下の私はどうなるのかなあ。不安だ。

『待て待て……本題はここからだ』

 そんなことに気を揉んでいると、青キジさんが、というか電伝虫がいきなり不敵な笑みを浮かべる。やたらと勿体振る彼を不思議に思っていると、こちらの反応を期待するみたいな顔をして、電伝虫が口を開いた。

『――焦るのは分かるが、残念ながら家に帰ってもナマエちゃんはいねェぞ』

「……はァ?」
「……え?」

 呆気にとられるスモーカーさんと私。一体なんの話だろう。だってもうだいぶ遅い時間だし、普段通りならナマエさんはとっくに帰宅を済ませているはずだ。それなのに、彼女がスモーカーさんの家に帰ってないって、どういう……。

「そりゃ、一体……」
『ノリで拉致したからな……ナマエちゃん、今ここにいるのよ。いやァ、お前まだ帰ってなくて良かったわ……帰宅してたら大騒ぎになるとこだろ』

へらっと笑いながら白々しく言い募る青キジさん。普段に増し増した無責任さ、どうやらこの人、お酒が入っているらしい。受話器を握るスモーカーさんの眉間の皺が、みるみるうちに深まっていく。

「アンタ……酒屋に居るんじゃねェのか」
『あァ、そうよ……だからお前、今からナマエちゃん取りに来い。東の居酒屋っつったら分かるよな』
「おい、そいつはまだ未成年だぞ! そもそも若ェ女をんな場所に……!」
『あららら、らしくもなく真面目じゃないの……』

やはり楽しげな青キジさんに憤慨するスモーカーさん。もっと言ってやれ、と思うのはあれなんだろうけど、拉致したってことはおそらくこの人、断るナマエさんを無理やり連れてったんだろう。大将に掻っ攫われて逃げられる一般人が果たしているだろうか。なんてタチが悪い。これはいわゆるパワハラ(物理)というやつなのではないのですか、大将青キジ!

『急いだ方がいいんじゃないの。なにしろナマエちゃん、今……っと』

 突然、電伝虫の視線が斜め下へ逸れた。青キジさんの不自然に途切れた言葉を追うように、私たちは押し黙って耳を澄ませる。すると、ガヤガヤとした雑音の中、電伝虫から微かに聞こえたのは――


『……なにしてんですか、くざんさん』


どう考えても呂律の回っていない、ふわふわと浮わつくように間延びした、可愛らしい女の子の声。聞き間違えようもなくこの声は、確実にナマエさん、だろうけど……これって、青キジさん、もしかして――。

『あァ……ちょっくら待ってなナマエちゃん』
「おい、アンタまさか、呑ませたんじゃ……」
『おれァお前んち知らねェから送れねェんで……まァあれだったら持ち帰るわ』
「いい加減にしろ、この……」

こちらに全く耳を貸さない青キジさん。スモーカーさんの握っている受話器がミシリと音を立てた。本部の備品だからできるだけ壊さないで欲しいのだけど、もちろん私にも、今はそんなことを気にしている余裕はない。

『そんじゃ、また後でな』
「てめェ……おい、待て!」

制止を無視して、ブツッ、と一方的に通話が途切れる。スッと気まずそうに黙り込む電伝虫。私とスモーカーさんだけが残る、しんと静まり返った執務室。

 ……。

 …………。

 ……………………。



 受話器を置きやって、いきなりスモーカーさんが踵を返した。つかつかと表情の読めない――が明らかに怒り狂っている――足取りで、出口へ向かう彼の背中。

 私はスモーカーさんには全く敵わないし、彼についていけないことも多いし、我が道を往くこの人には割と振り回されてる方だと思う。けれど、それでも部下としてうまくやっていけているのは……怒りのツボだけは幾分か、この人と似通っているからだ。

「私も行きます!」

 呆然としていた身体を奮い立たせ、私は慌てて彼の背中を追う。青キジさんに何か言ってやらないと気が済まない、と不躾承知で覚悟を固め、私は腰に携えた愛刀"時雨"を握りしめるのだった。

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