No Smoking


▼ 08-1/3

 午前6時。

 スモーカーさんが支度する音で目を覚ます。船旅の時から、わたしはあの人が寝ているところを見たことは一度もない。何しろスモーカーさんときたら、わたしより遅く寝て、わたしより早く起きるのだ。そんなんで睡眠時間は足りるんだろうか。

 のそりとベッドから這い出して、わたしはまだ薄暗い寝室をぼんやりと見上げた。そしてタバコの残り香チェック。うーん、微妙。備え付けておいた霧吹きをひと吹きする。
 基本ベッドを使わないスモーカーさんは、管理がめんどくさいからと言った理由もあり以前から寝室は完全に放置していたらしい。そんなわけでわたしのものとなったこの部屋は、葉巻の匂いが薄い、この家唯一のサンクチュアリとなっていた。またの名を絶対不可侵領域と言う。
 センゴクさんと話した日から――初めて悪夢を自覚したのもあってか――わたしはあまり魘されなくなり、内容は断片的にしか思い出せないとはいえ、夢を見たということ自体は記憶できるようになった。それがいいのか悪いのかはさておき、ふわとろを名残惜しく思いつつもようやくスモーカーさん離れができるのは成長だ。とはいえ、下手に悪夢を記憶してしまったせいで寝付けない日があるので、ときどきわたしは入眠剤代わりにスモーカーさんに煙を借りている。

 そろそろ起きて朝ごはんの準備をしないと。立ち上がったわたしは手早く着替えを済ませて部屋を出る。リビングではスモーカーさんが新聞紙を広げつつ、案の定葉巻をくゆらせていた。

「おはようございます、スモーカーさん」
「あァ……」

 スモーカーさんが新聞紙から顔も上げずに気の無い返事をする。まあいつものことだ。わたしはスモーカーさんを素通りしてキッチンに向かった。
 トーストを二人ぶん焼いて、野菜を切り、卵を茹で、ハムやらチーズやらを用意してテーブルに置いていく。どう考えても合わないけど昨晩の残りの味噌汁もよそっておこう。最後にコーヒー豆を挽いてフィルターに突っ込みお湯を注ぐ。うん、これを淹れるのもずいぶん得意になってきた。

「スモーカーさぁん、朝ごはん用意できたんで食べちゃってください」
「あァ……すまねェな」
「いーえ、お気になさらず」

定型文と化してきたやりとりを交わしつつ、スモーカーさんはダイニングへやってきて椅子に腰を下ろした。わたしも彼の正面へ座って、皿を手繰り、トーストの上に野菜を敷いていく。

「今日も海に出るんですか?」
「いや、本部で会議だ。夜には帰る」
「了解です。ならお昼は本部の食堂ですね。あ、夕飯なにがいいですか?」
「なんでもいい」
「じゃあアジの干物にします」
「お前……昨日もそれだっただろう」
「なんでもいいって言ったじゃないですか。ニーズには合ってますよ、焼くだけだし、安いし」
「…………。肉にしろ」

 スモーカーさんは仕方なさげに呟いた。全く、初めからそう言えばいいのに。あとできれば料理名を上げて欲しい。にしても、夕飯なにがいい?の問いになんでもいい、で応えるのはまじで御法度なので二度としないでいただきたいものである。

 朝ごはんを食べ終えたスモーカーさんは自分の食器を流し台に運び、支度のためか彼の私室である奥の部屋に引っ込んでいった。わたしも食事を済ませてからテーブルの片付けと洗い物を開始する。それも丁度終わりがけになったところで、いつの間にか戻ってきたスモーカーさんにおい、と呼び声をかけられた。

「ナマエ、受け取れ」
「ん? なんです、これ」

スモーカーさんに渡されたのは両手サイズの紙袋だ。タオルで濡れた手を拭って受け取ると、中にいくつか物が入っているのが分かった。

「あ、子電伝虫!」
「島内でならどこにいても連絡が取れるはずだ。いい加減持たせろとお前の雇い主がうるさくてな」
「やった、ありがとうございます! 相変わらず不細工だなこのこの〜」
「殺すなよ」
「殺しませんよ。名前なににしようかな……」
「付けるな」

スモーカーさんの呆れ声を無視してわたしは子電伝虫を突っついた。物凄く不愛想なのに偉そうな子だ。親近感が湧くのでナマエツムリちゃんとかそんな感じで呼ぶことにしよう。

「あとは合鍵と身分証代わりのドッグタグだ。持ちたきゃ持て」
「ドッグタグ?」

 冷ややかな楕円形の金属板には、2枚ともわたしの名前とか性別とか誕生日とかが同じように書かれている。それから海軍本部保護対象、スモーカー大佐管轄、の文字。

「海兵の識別用タグだ。二枚一組。まァ基本将校以下の兵士しか持ち歩かねェが……お前にやるにゃ不謹慎とはいえ、念のためだな」
「なんで不謹慎なんですか?」
「顔の分からねェ死体の識別用に使うもんだからだ」
「ひえ」

 思いの外グロテスクなアイテムだった。スモーカーさん曰く、わりと単なる身元証明のためだけに使われることなんかもあるらしいので、別にわたしが死んだ時対策というわけではないらしいけど。まあ複雑な気分はするが個人情報とか気にする世界ではないし、合って困るもんでもなし、というわけで鍵を通して首に引っ掛けておく。まあこれでまず失くさないだろう。

「一応大事にします」
「別に肌身離さず持っておかなくても構わねェぞ」
「いやあこうしないとすぐ失くしちゃいそうなので」
「お前がいいならそれで良いが……おれァ昔からこいつが嫌いだったよ」

正面に立っていたスモーカーさんは眉間にしわを寄せつつ、わたしのうなじに引っかかったチェーンを人差し指で掬い上げた。するりと顔の横側に触れる腕が一瞬こそばゆい。なんとなく、スモーカーさんと同居を始めてから、こういう微妙なボディタッチが増えた気がする。別に距離が近づいたかなあという程度で、お互いそのことを意識するわけでもないのだけど。

「あー、スモーカーさん嫌いそうです。"野犬"とか言われてますしね」
「そりゃ関係ねェだろ……だが確かにお前には似合いかもしれねェ。首輪でもつけなきゃすぐ何処か行きやがるしな」
「スモーカーさん、その発言は怪しいですよ」
「うるせェよ」

鼻で笑いながらそう言って、スモーカーさんの手が離れていく。チャリ、と軽い音を立ててチェーンが首に落ちた。
 とにかく、これらの物をわざわざ用意してくれたのは大変嬉しかったので、頬が緩むのも構わず、わたしはありがとうございますと礼を告げる。スモーカーさんは口角を上げると、返事の代わりとばかりにわたしの頭をぐしゃぐしゃとかき混ぜた。ああもう、また匂いが移る。



 午前7時半。

 スモーカーさんはすでに本部へ行ってしまったので、わたしは日課の掃除に取り掛かる。この島に来てから数週間が経ち、ずいぶんこの生活も身に馴染んできた。葉巻の匂いに慣れてきてしまったのは否定しようのない事実だが、しかし負けじと本日のわたしも消臭に勤しむ。
 とりあえず午前中しなくちゃならないのは掃除と洗濯と夕飯の準備だ。それを終えて余った時間がわたしの休憩タイムとなる。つまり家事をどれくらいスムーズに済ませられるかが鍵だ。

 そんなわけで、早速わたしは洗濯かごを抱え上げた。



 午前9時。

 ランチはいつもは作ったり店に行ったりとまちまちだが、今日はスモーカーさんも本部にいると言うし、昼前には海軍本部へ行って食堂で食べることにしよう。

 とかなんとか考えつつ、わたしはスーパーの棚の前首をひねっている。肉、肉料理か……。料理は苦手じゃないけど得意でもない。せいぜい和洋中無難に作れる程度の腕だ。
 無難に肉じゃがとかでも良いのだが、こういうのはご家庭の味の違いとかで軋轢になりやすいしなあ。まあスモーカーさんはわたしの作るものに不満を漏らしたことはないし、美味しいですか?って聞くと美味いって言うけど。でもなあ、なんというか肉じゃがってお袋の味代表って感じだからわたしが作るのってどうなんだろう。

 ていうか薄々察しているが、わたしのこの立ち位置は完全に主婦ではないのか。いや、断じて違う。誰がなんと言おうと住み込みの家政婦みたいなものだとわたしは言い続けるのだ。わたしまだ一応、ギリ未成年なわけだし、さすがに主婦はちょっと。そもそもスモーカーさんが喫煙者って時点で論外だ。

 まあそれはさておき、夕飯はやっぱり別のにしよう。そう思った矢先、肉の並ぶ商品棚を見回したわたしの目に飛び込んできたのは、

「か……海王類の肉……だと」

 恩魚のことを思い出して切ない気持ちになった。多分別の個体だろうけど。ていうか海王類って魚ではないのだろうか。
 しかし海王類の肉とはなかなかレアな感じではないか。値段も高いし、限定品とか書いてあるし、すごいぞ。これは買うしかない。どうせスモーカーさんのお給料だし、多少高価だとか構やしない。わたしは好奇心のままに財布を取り出し、今日はステーキにでもしようかと考えつつ、無事買い物を済ませた。



 午前11時。

 自室で消臭剤の錬成を行なっていると、突然わたしの子電伝虫ことナマエツムリちゃんが着信音を鳴らし始めた。この家には一応備え付けの電伝虫もあるので、これはわたし個人への連絡となる。誰からだろう、と思いつつ返答してみた。

「もしもし」
『あ、ナマエちゃんだよな? おれだ、おれ』
「おれおれ詐欺ですか?」
『違うに決まってんでしょ……クザンだ』

 なるほどクザンさんか。おおかたスモーカーさんに電話番号を聞いたんだろう。にしてもだらけきってるクザンさんにしては行動が早い。

「どうもこんにちは」
『どうも。スモーカーに電伝虫用意してもらったみたいでよかったじゃない』
「あ、クザンさんからも言ってもらったみたいで。ありがとうございます」
『気にしなさんなって』

ナマエツムリはニコニコしている。クザンさんは本日もご機嫌よろしいようだ。

「それで何かご用でしたか?」
『あァ、それなんだが。良いニュースがあんのよ……ナマエちゃん、なんと今日は書類がねえんだ』
「なるほど! じゃあ今日はお休みでいいですね」
『待ちなさい、ちょっと待ちなさい。折角なんだし遊びに来てちょうだいよ』
「それいつもと変わんないですよ」
『お前さんがそうでもおれは違うでしょうが』
「はあ。ていうかそれ連絡の必要ありました?」
『……酷ェな、ナマエちゃんは……』

目に見えて落ち込んだナマエツムリ。こいつはまあブサカワイイけどクザンさんがこの顔と思うと全然可愛くない。

「何がですか。まあとりあえず今から本部に向かうので。食堂でお昼食べたら一旦クザンさんの部屋に向かいます」
『あいよ』
「美味しいお菓子を用意しておいてくださいね」

そう告げて通話を切ると、途端にぶすっとした表情になるナマエツムリちゃん。うん、電伝虫のこういうところが面白くて好きだ。長いお付き合いになりそうだし大切にしよう。

 そろそろお腹もすいてくる時間だ。わたしは自室を出て玄関に向かい、スリッパからスニーカーに履き替えて家を出る。さて、海軍本部はすぐそこだ。

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