No Smoking


▼ 43-1/3

 翌朝。わたしが目を覚ました頃には、太陽はとうに東の空高くまで昇っていた。

 青ざめて飛び起きると、わたしを出迎えたのは陽の光に照らされたがらんどうの船室。完璧に寝過ごした。ほんの少し微睡むだけのつもりが、浜辺に打ち上げられたナマコの如き姿で一晩中ベッドを占領してしまっていたらしい。ヒナさんは既に甲板の方へ仕事に出ているとのことだったので――その旨を伝える置き手紙が枕元に残されていた――わたしは簡単に謝礼の言葉を書き添え、邪魔になる前にそそくさと船を退散した。通りがかった海兵さんには声をかけておいたし、このまま帰ってしまっても問題ないだろう。



 降り注ぐ午前の陽光に出迎えられ、瞼の上に手のひらを翳す。停泊したヒナさんの軍艦から降りた先、午前の港はいつになく活気に満ちていた。

「――ええ、今船が出せなくて……」
「困ります……そこをなんとか」
「改修作業は進めても――?」

 海兵、漁師、船大工。何やら揉めている人々の姿を尻目に、オリス広場の西海岸沿いをてくてく歩いて行く。渚に打ち寄せるのは隅々まで精彩を放つ穏やかな海だ。彼方に見えるくっきりした水平線、波間に燦々と輝く光の粒と、宝石のように透き通る碧色。ぐるりと視線を巡らせてみる。日差しを照り返す白い石畳に目が眩み、わたしはほんの少し顔を顰めた。うーん、ちょっとやりすぎってくらいの、いい天気だ。

 そのまま少し進むと、カモメのオブジェを乗せたオックス・ベルの足下にたどり着いた。頭上高くにある翼のレリーフをふり仰ぎつつ歩みを止める。さて、これからどうしたものだろうか。
 さしあたって、これからの目標はスモーカーさんとしっかり話をすることである。とはいえいきなり顔を突き合わせるのは少々気まずいものがあるというか、本部で出会い頭に「わたしのこと好きなんですか?」と尋ねるわけにもいかないので、きちんとシチュエーションを考慮せねばなるまい。ひとまずわたしに必要なのはお風呂と着替えだ。昨日はあんな感じに飛び出してきたのでナマエツムリちゃんなんかは手元にないが、運良く合鍵付きのドッグタグは首に提げたままである。一旦帰宅の途に着くとしよう。今ならスモーカーさんも出勤してるから鉢合わせずに済むだろうし。

「やれやれ、まったく――」

 顎に手を当てて考え事をしていると、先ほど海兵さんたちと揉めていた男性が頭を掻きかき歩いてきた。顎に立派なお髭を蓄えた、いかにも船大工って感じのおじさんだ。「あのう」と声をかけると(恐らく小さい子供だと思われたのだろう)、厳つい外見に見合わぬ優しげな笑顔を向けられた。

「どうしたんだい、お嬢ちゃん」
「さっき、海兵さんと揉めてたみたいですけど。何かあったんですか?」
「ああ、見てたのかい。実は今朝から停泊中の船に検閲の指示が入ったらしくてね」
「検閲? なんでまた」
「さてなァ……しかし待機中の海兵にもマリン・コードの照会を求めてるというから、こりゃ脱走兵でも出たのかもしれんなあ。こっちはウォーターセブンから出張だってのに困ったもんだよ、はは」

 ふうむ、それでヒナさんたちも朝からバタバタしてらしたのだろうか。しかし海軍内部のトラブルというなら、自分の立場としてはあまり笑えない話だ。わたしの知り合いのうちのほぼ9割を占める海兵の皆さま、業務に支障が出てないといいけど。

「ご苦労様です。それじゃ、わたしはこれで」
「おう、嬢ちゃんも気をつけてな」

 人当たりのいいおじさんにぱたぱた手を振りかえし、わたしはその場を後にした。



 ――はてさて。そんなわけで順調に町の方まで歩いてきたわたしは、折角なのでお店でも見て回ろうかとあちこち物色中である。ここまできて財布も持ってないことに気づいたが、まあ西町の端まで来ることって滅多にないし、見物するだけでもそれなりに楽しいからいいのだ。ウインドウ・ショッピングというやつだ。別に負け惜しみとかではない。
 あと念のため、非常に低い可能性だけど、うっかりスモーカーさんが寝坊してたり本部に行く時間遅らせたりしてまだ自宅にいる可能性が無きにしも非ず――なのでせめて、昼ごろまでは時間を潰したいという気持ちがあり。……一応、怖気付いてる自覚はある。

 大通りの脇道には、色とりどりのパラソルを掲げた露店がいくつも並んでいた。陳列されてるのは新鮮そうなお野菜、果物、焼きたてパン、他にも手作り感のあるアクセサリーや格安の古本や異国風の雑貨などなど。種々雑多な品々を一しきり眺めたところで、わたしは目についた店の前で立ち止まった。これはクマ……? かなあ。つるりとした陶製の工芸品だ。手に取ってみると、筆で描かれた絶妙に凶悪な顔立ちになんとなく心を惹かれた。また今度来たとき、残ってたら買おうかな。スモーカーさんに見られたらセンスを疑われそうだけど。
 ふう、とため息を吐きつつ、指の間で熊もどきを転がした。スモーカーさんのことを思い出すとたちまち落ち着かなくなってくる。こんなところでくだを巻いてないでとっとと会いに行ったらいいんだろうけど、だってスモーカーさんはわたしがその、気づいてることをまだ知らないわけで、それを踏まえると顔を合わせた時の態度を決めかねてしまうというか。変に気構えず、いつも通り振る舞うのが正解かなあ。いやでもそうなるとスモーカーさんのお気持ちは存じ上げてますって言いづらいし、話を切り出すタイミング見失いそうだし、一応あんなことがあった後だし、ううん……こういうのはやっぱしあの人の態度を見てから決めるのが――

「――どわあ?!」

 喉の奥から飛び出す声の塊。ものすごい勢いで肩を掴まれたのだ。空中に放り出されたクマ(?)を掴まえようとして二、三回空振り、地面に衝突するぎりぎりのところでなんとかキャッチする。あ、危なかった。
 ひとこと言ってやろうと振り返ると、そこにはぜいぜい肩で息をする海兵さんが一人。それも負傷兵だ。あちこち包帯に巻かれているが、ギプスで固定された右腕が際立って痛々しい。何事かと目を見張ると、ゆっくり持ち上がったマリンキャップの下にはなにやら覚えのある顔が……。

「あれ? 裏切りのお兄さんじゃないですか」

 なんでこんなとこに。満身創痍のその姿に気が削がれ、思わず間の抜けた声を出してしまう。思わぬ知り合いの顔に意表を突かれていると、彼は呼吸を整えながら疲労の滲む口角を持ち上げた。

「や、ナマエ、ほんっと……探したよ……」
「探してたって、どうしてまた」
「ちょっと、色々あってね。はは、ふう、……因みに君、これからどこ行く予定?」
「え? あー、まあそうですね。特に目的はないんですが、その辺うろうろしようかなあって……」

 と、目的地がスモーカーさん宅と言いづらくてお茶を濁したものの、そういえば同居のことはとっくにバレてるからもう隠さなくていいんだっけ。ついクセで誤魔化してしまった。しかし彼に追求してくる様子はなく、いつになく切羽詰まった様子で言い募ってくる。

「悪いんだけど今から本部に来てくれないかな。スモーカー大佐が君のことを探してる」
「スモーカーさんが? でもわたし、さっきまでヒナさんのとこに……」
「そう、だからヒナ大佐へ連絡は入れたんだよ。そうしたらナマエ、もう帰ったって聞いたから。まだ近くにいるだろうって慌てて探したんだ」
「ああ、それはすいません。忙しそうだったので勝手に出てきちゃったんです。一応声はかけたんですが」
「とにかく見つかってよかったよ。用事がないなら一緒に来てもらって構わないよね?」
「平気ですよ。なんか急用みたいですし」

 と素直に首肯する。ウインドウ・ショッピングの中断はちょっと残念――というか服くらい着替えておきたかったんだけど、わがままを通すわけにはいかないので予定変更だ。 わたしは暫定クマの置物に別れを告げ、「付いてきて」と手招きするお兄さんに大人しく従った。

 ……しかし、妙だなあ。歩きながら首を傾げる。スモーカーさんってば一体どういう用件なんだろう。わたしを探してるっていうのは分かるけど、そんなに急用なら部下の方を使ったりせず自分の足で迎えにきたらいいのに。まさか昨日の今日で気まずいってわけじゃあるまいし……なんでなんだ一体。まあお兄さんだって理由を聞かれても困るだろうから、後で当人に確認してみるとしよう。
 人の間を縫うように進みつつ、角を曲がって大通りへ出る。はぐれないように気を遣ってくれているのか、お兄さんは姫付きの護衛騎士の如くわたしの横にぴったり張り付いて歩いた。見上げた先の表情は心なしか固く強張っている気がする。傷が痛むのだろうか。

「お兄さん」

 出し抜けに呼びかける。と、彼は慌てたように振り返り、ぎこちない声色で「どうかした?」と応対した。口元には心なしか引き攣った笑顔。……やっぱり、無理してる気がする。

「大丈夫ですか、なんか調子悪そうですけど。その怪我はどうしたんです?」
「いやあ、ハハ、海賊と交戦したときにヘマしちゃってさ。大したことはないんだけどね」
「それはまた……お大事にしてください」

 お兄さんは強がってるけどこの姿、どう足掻いても大したことないようには見えない。医療棟のベッドの上とかのがお似合いだと思うのだが……。なんでこんな状態でわたしの送迎なんかさせられてんだろ。そもそも拉致事件以来、スモーカーさんの部下の方々にはめっきり顔見せしてなかったので、裏切りのお兄さんが怪我してたなんてわたしはすっかり知らなかった。

「今更ですけどお久しぶりですね。実はわたしも、こないだ賊に蹴っ飛ばされてちょこっと骨折したんですよ。即座に治りましたけど」
「らしいね、話に聞いてほんと心配したよ。僕も怪我したのは同じくらいの時期なんだけどなあ。ナマエ、前から思ってたけど治りが早いよね」
「フフン、見ての通りピチピチの若者ですからね」
「年齢だけなら僕もそんなに変わらないよ」

 それもそうか。裏切りのお兄さん、見たところたしぎ姉さんより少し上の25かそこらだろうし、世間的に見ればまだまだ若者だ。実際、わたしの治りが早いというより怪我がしょぼかったってだけの話だろう。

「というかお兄さん、わたしが内部犯に拉致された事件のことよくご存じでしたね。あの時軍艦で迎えにきてくれたスモーカーさんの部下の方の中にはいらっしゃらなかったような気がするんですが」
「ああ、そうなんだよね。僕治療中だったから行けなくてさ。だけど大体のことは聞いてるよ。君が溺れたのを大佐と曹長が助けたんだって?」
「うわ、お兄さんって昔から情報通ですよね」
「耳が速いのだけが取り柄だからね」

 気が紛れてきたらしい。いくらか饒舌になってきたお兄さんに安心しつつ、同時に嫌な予感もしてきた。なんせこの人は口を開かせると大抵碌でもないことしか言わないのだ。そら見ろ、今もまさになんか思いついたような顔を――

「それで聞きたかったんだけどさ」
「読めました。答える義理はありません」
「そう言わずに。けどその反応するってことは君の蘇生措置したのはやっぱり」
「だああ、もう! わたしが知るわけないじゃないですか。ていうかさすがに不謹慎ですよ」
「あはは、ごめんごめん。まあナマエも一安心なんじゃない? 拉致犯も片方は捕まったんだし」
「うーん、そうですねえ。スモーカーさんはまだわたしを出歩かせるのには抵抗あるみたいですけど」
「それはさ、愛ってやつだよ。ホラ……ね?」
「ぬぁにが、ね? なんですか」

 じとりと一瞥するも、お兄さんに堪えた様子はまるでない。わたしは色々と諦めてため息を吐いた。

 全く、お兄さんは相変わらずの恋愛脳なんだから。

 と脳内で文句を垂れてみたものの、よくよく考えてみればスモーカーさんがわたしのことを好きだというのは事実だった、可能性が高いのである。お兄さんが特別慧眼だったとは思いたくないけど、もしかして分かってなかったのはわたしだけだったりするのだろうか。そりゃスモーカーさんはあからさまにわたしが大好きだけど、それは保護者的な立場だから……、ってだけの理由じゃなかったみたいだしなあ。うぐぐ、お兄さんをはじめとする噂好きの方々の憶測通りになるのは、なんとなく悔しいものがある。

 わたしは隣を歩くお兄さんの横顔を盗み見た。それにしても彼、こんな大怪我でも情報収集に余念がないあたり、相当なミーハーであることは既に疑いようがない。心配して損した気分だ。
 あ、けどさっきの情報にも訂正事項がひとつあったな。お兄さんは捕まったと言ったけど、どうやらたしぎ姉さん曰く、拉致犯のおじさんはわたしを海へ突き落とした直後に自害したというのが事実らしい。諸々の事情で情報が伏せられているための誤解だろう。結局あの男は誰にも知られることなく消えたのだ。それを憐れむほど優しくはなれないが、とはいえ、虚しい男だった。思い返してみれば、あのとき……。……――


 ……あれ、


「ナマエ」

 横にいる海兵が不意に足を止め、わたしの名前を呼んだ。わたしは彼に倣って立ち止まり、油を差し忘れた機械人形みたいに軋む首で、声のした方を見上げる。まめを何度も潰したような皮の厚い手が翻り、右手の路地を指差した。

「こっちに行こう。近道になる」
「……でも、方向逸れてませんか?」
「途中で曲がり角があってね。入り組んでるけど道を間違えなければ早いんだ」

 薄暗い路地だ。いつか東町でも見かけた、厭な気配が漂う脇道を彷彿とさせる。

「大通りは混んでるし。構わないよね?」

 まずい。人目に触れないところで、二人きりになるのは。

 わたしは通りへ視線を泳がせ、筋の通った言い訳にふさわしい何かを探した。街を行く人々に見知った顔がないか。わたしが興味を持ちそうな店の看板がないか。道端に拾いたくなるようなごみが落ちてたりはしないか。何もない。不自然さを誤魔化し切れるような口実は何も。

「え、と」
「うん?」

 愚かにも言葉に詰まった。お兄さんの眉が訝しげに寄せられる。まずい、今、怪しまれた。もう猶予はない。生唾を飲む。恥を捨てろ。こうなったら選択肢は一つしかない。

「その、わたし、お手洗いに行きたいんですが」
「えっ?」
「もうほんと緊急なんです。乙女の危機です。ちょっとお店の借りてきていいですか? 何も聞かないでください、大丈夫です、すぐ戻るんで」

 我ながら苦しい言い訳を早口に畳み掛け、二歩、後退る。相手が腕を伸ばそうとも確実に届かない距離。お兄さんの顔に動揺が浮かぶ。刹那、素早く引いた三歩目の足で、わたしはいきおい身を翻した。

「!? ちょっと待――」

 わたしの背を追おうとする困惑と焦燥が入り混じった声。それに捕まえられるより早く、ひときわ大きな人波へ身を投じる。若い海兵の姿が雑踏の向こうに掻き消えると同時に、わたしは思い切り地面を蹴った。

 息が切れる。指先から血の気が引いている。

 眉をひそめる通行人を押し退ける。衆目の奇異の目が肌に突き刺さるが、構ってはいられなかった。風が頬を切る。噛み締めた奥歯が軋んでいる。


 ――おかしい。


 おかしい、おかしい、絶対におかしい。

『拉致犯も片方は捕まったんだし』

 なんでお兄さんが、わたしが攫われたとき二人いたことを知ってるんだ。わたしですら今の今まで忘れていた。あの時――思い返してみれば、意識が混濁していたのは頭を殴られたのが原因だろうが――悪夢を繰り返したせいで、どれが現実か分からなくなっていたのだ。そう。確かにあの時、海兵の格好をした男は二人いたヽヽヽヽ

 ――そして、それを確実に知れたのは、わたしと、もう一人の拉致犯自身のみのはずだ。

 眩暈がする。こんな推測を信じたくない。

 勿論、目撃者がいた可能性がある以上、確実にお兄さんが犯人だとは言い切れない。けど、思い返せば、それ以前にも違和感はあったのだ。
 どうして変だと思わなかったんだろう。一介の部下の海兵が灯りのついていないスモーカーさんの執務室に入ってきた時点で。不審に思うべきだった。それだけじゃない、スモーカーさんから『家の場所は部下には知られていない』と聞いたときもほんの少しだけ引っかかっていたのに。ドフラミンゴが乗り込んできたとき、お兄さんは間違いなくそこがスモーカーさんの自宅で、わたしがいることも知ってたはずだ。辻褄が合う。裏切りのお兄さんがあの内部犯の男、引いてはドフラミンゴに情報を流してたんだとしたら――

「っ、はあっ、くそ……っ」

 スモーカーさんはこのことを知ってるのか。わたしを探してるというのがお兄さんの嘘なら、今すぐ、なんとしても状況を伝えて、助けを求めなくては。ああくそ、何で連絡手段がない今に限ってこんな……!
 脇目も振らず、もつれる脚で転がるように走った。そこらの店に駆け込んで電伝虫を借りることも考えたが、お兄さんはあくまで海兵、周囲の人がわたしの味方をするとは思えない。負傷しているとはいえ追いつかれたら一巻の終わりだ。この場所からならヒナさんの船に引き返すより家に帰るほうが早い。それでも全力疾走するには遠すぎる距離だが。

 目にかかる前髪を無理やり払い除ける。背中を汗が伝っている。両脚の筋肉が千切れ飛びそうだ。繰り返し酸素を入れた喉からひりつくような鉄の味が滲む。息が苦しい。肺が痛い。

 それでも足だけは止めずに、わたしは走った。



 それから、道中の記憶は殆どない。わたしはいつの間にか、見慣れたドアの前に辿り着いていた。

「――……っ、……ふう……」

 胸を撫で下ろすと、向かい風に浮いていた前髪がはらはらと額に落ちた。だが安心するにはまだ早い。わたしは何度か酸素を詰め込むみたいに息継ぎしてから、たどたどしく首にかけたドッグタグのチェーンを外し、鍵を差し込んでドアノブを回した。

 ドアを押し開く。細い隙間から部屋はしんと静まり返っており、今となっては残念なことに、スモーカーさんの残り香さえ感じられない。……それほど都合よくいくはずもないか。
 わたしはそのままドアの隙間へ体を捩じ込んで玄関に入った。ドアを閉じるために振り向いて、胸元の高さにあるドアノブを掴んで奥へと押す。最悪、立て籠もれるように施錠しておかないと――

 がつん。

「……え」

 なんか、引っかかった。


 視線を下ろす。


 ――ドアの隙間に、男物の靴先が差し込まれている。


「……――ッ!」

 咄嗟に玄関脇の靴箱を引き倒した。轟音と衝撃に飾っておいた花瓶が砕け、丁寧にしまわれていた靴たちが濁流のように溢れ出して散乱する。ドアの向こうの人物が怯んだ気配。すぐには入って来られないはずだ。そう祈るしかない。まさかもう追いつかれたなんて。わたしは土足のまま段差を上がり、ダイニングに駆け込み、電伝虫を引っ掴んでダイヤルを回した。

『プルルルr』

 ガチャン、と震える手から受話器を取り落としてしまう。ワンコール。もう一度、かけ直さないと。

 玄関から板が――靴箱の材木だろう――ひしゃげた音がする。焦りと緊張と疲労と恐怖とで、うまく手が動かない。そういえば昨日の昼から何も食べてないんだった。そんな状態で全力疾走したんだから、当然貧血にもなるだろう。
 足を引き摺る。全身が鉛のように重い。視界が顕微鏡を除いた時みたいなノイズに侵食されていく。わんわん唸る耳鳴りの向こうから、廊下を渡ってくる足音がする。

 リビングテーブルに置きっぱなしにしていた小電伝虫を拾い上げた。背後から何者かが近づいてくる。振り返らずにダイアルの数字を探す。スモーカーさんの電伝虫の番号は容易に誦じられるが、震える指がいうことを聞いてくれない。

「はやく、」
「動くな」

 喉に、ひやりとした温度が押し当てられた。

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