No Smoking


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 目前、テーブルの上には一枚の紙。

 その白い紙面にはびっしりと、大量に羅列された数字が狭苦しい表のマス目に押し込まれている。その解読難度の高さはさながらロゼッタストーンの如し。しかしよくよく確認してみれば、書かれているのは日付と謎のパーセンテージ、それから単価に合計金額。見覚えのある固有名詞はどうやら、わたしが命名した消臭剤の商品名に他ならない。わたしの少ない社会経験値を総動員して考えるに、つまりこれは、いわゆる明細書というやつだろう。
 わたしは顔を上げ、この紙を取り出してきたテーブル向かいのおつるさんに視線を向けた。真っ白の髪をきっちり結え、二対のイヤリングを揺らしながら優雅に足を組む老齢の女性。今日も今日とて隙のない我が師匠は、洗練された佇まいで上品な微笑みを浮かべていらっしゃる。

 ……さて。なにはともあれ、重要書類を知ったかぶりをするわけにはいかない。わたしはあんまり間抜けに見えないよう、極力真面目な顔を取り繕いながら、とうとう自分の無知を白状した。

「ええと……これは一体なんなんでしょう」
「あんたが作った商品の売り上げだよ」

 なるほど。その前提は分かる。……しかしだ。

「どこからどこまでがですか……?」
「上から下までさ」
「なんかすごい、桁がいっぱいなんですが」
「事業となったらこの程度、いって当然だよ」
「そ、そうなんですか。ふうむ」

 つまり、どういうことなのだろう。わたしはコテコテの文系なので、こういう数字の羅列を見せられるとつるつると目が滑ってしまうのだ。これが一般的に多いのか少ないのかもよくわからないし、このパーセンテージが何を意味してるのかもさっぱりである。とりあえず、赤字ではないってことでいいのだろうか。

「で、これがあんたの給料さね」

 つい、とテーブルに滑らされた紙切れ。コンサートのチケットくらいの大きさをした、いわゆる小切手というやつだろうか。そこにサラサラと書きつけられた数字を見る。なるほど……ゼロがいっぱいある。いや、待て待て。冷静になれ。まずは桁を数えるのだ。ひい、ふう、みい……。

「ひゃ……ひゃくまんえ……ベリー!?」

 ど、動揺のあまり声がひっくり返ってしまった。

 100万ベリー、つまり日本円にしておおよそ100万円の価値だ。ベリーと円の価値は大体等価なのだ。一般的なサラリーマンの月給は30万円程度、つまりこれは、すごく多いってことだ。いやいや、待ってほしい。こんなにもらっていいものなのか。わたしはただ片手間に消臭剤のアイデアを出して品質をチェックして名前をつけただけであって、実際に開発や経営をしてくれてるのは別の方々なのに。ど、どうしよう、なんか怖くなってきた。
 驚愕するわたしに対し、おつるさんの態度ときたら落ち着き払ったものだ。それがまるで取るに足らないことのように、彼女は淡白な眼差しをテーブルの紙切れにちらりと向ける。

「大した額じゃないが、まあ初任給にしちゃ上出来だろう? それだけありゃ、いつ独り立ちしても生活には困らないだろうし」
「これって、ええと、わたしの年収ですか?」
「当然、月給だよ。滑り出しは快調みたいだし、これからどんどん利益も伸びるだろうから、奮発してブランド物のひとつでも買ってみたらどうだい」
「ちょ、ちょっと理解が追っつかないんですが」

 大した額じゃないって、一体おつるさんの金銭感覚はどうなっておられるのだ。それともわたしの認識が小市民すぎるだけだろうか。実際、ポンと100万円渡されたところで、具体的に何がどれだけできる金額なのかもいまいちよくわからない。

「ええと参考までに聞きたいんですけど、100万ベリーって……どれほどのもんなんでしょう」
「あんただって知ってるだろう。さいじゃくの海で適当な海賊一人捕まえりゃ届く程度の金額さね。とはいえ、あたしたちは海兵だから懸賞金は出ないんだが」
「えっ、海兵って懸賞金出ないんですか?」
「そりゃそうさ。とはいえ、功績として褒賞は受けられるよ。上手くいけば昇級、で階級が上がれば給料も上がる。あんたの周りにいるのなんか大半そうやって成り上がった連中だろう」

 そういうものなのか。懸賞金が出ないなら賞金稼ぎになった方が儲かるんじゃ……などという罰当たりな考えがよぎったが、コンスタントに給金が出ることと武器や船などの備品や福利厚生を考えると、海賊を捕まえたい人にとっては安定した職ってとこなのだろう。ここの海軍は別に徴兵制ってわけでもないし。しかし、あんまり意識してなかったけど、階級が上ってことはわたしの周りの人たちってそれだけ高給取りだったんだなあ。海賊を値段換算する彼らからすると、確かに100万ベリーなんてはした金なのかもしれない。うん……。

「ま、なにはともあれ」

 おつるさんはぽん、と軽く手を打ち、わたしの顔を眺めながら目尻の皺を深くした。まるで百点を取った孫を褒めるときみたいににこやかな微笑みである。

「ここのところ、四六時中仕事させて悪かったね。こうして無事に結果も出たんだ、暫くはのんびりしたらいいさ。骨も大分くっついてきたんだろう?」
「あ、はい、わたしってどうも怪我の治りが早いみたいなので。まあなんというか、普段の家事がないので寧ろ安静に過ごせましたしね」
「やれやれ……知り合いの店に宣伝して回っておいて何言ってんだい。別に止めやしないが、少しは大人しくしておかないと、終いにゃあいつらに籠の中へ入れられちまうよ」
「あはは。わたしを閉じ込めるにはマリンフォードは広すぎたみたいですね。自分から飛び出したりしないので許して欲しいもんです」

 冗談めかしてそう返せば、おつるさんは肩を竦めながら苦笑した。


「――それじゃ、少し早いが今日はもう引き上げな。頼んでた仕事も一山越えたことだから、明日以降は普段通り来てくれたら構わないよ」

 労うようなトーンで口にしつつ、組んだ脚をするりと解くおつるさん。椅子から腰を浮かせ、その場にまっすぐ立ち上がるまでの一連の動作は、惚れ惚れするほど淀みなく流麗である。わたしならよいせ、とかどっこいしょ、とか言ってしまってるとこだ。心底見習いたい。

「了解しました。それじゃわたし、先に兵舎のほうに戻りますね」
「お疲れ様。そろそろ家が恋しくなってきた頃だろうし、帰り支度でも始めるのかい?」
「あー……」

 不意な問いかけについ、言い淀む。視線を藍色の窓辺へ泳がせながら否定する理由を探したものの、説得力のある言い訳は思い浮かばない。気乗りしないまま、わたしはのろのろと相槌を打った。

「えーと、そうですね。あんまり長々居てもご迷惑でしょうし、近いうちには……」
「……何があったのかは知らないが、あんたがそうしたいんならこっちの兵舎に残ってもいいんだよ。部屋は十分空いてるしね」
「いえ別に、いつまでも居座るつもりはないんです。ただその、まだ気持ちの整理がついてないと言いますか、一人になりたい時期と言いますか」
「ああ、分かってるとも。構やしないさ」

 ごにょごにょと煮え切らないわたしの発言にも、おつるさんはただ寛容に目を細めた。なんだか居心地が悪い。一体彼女はどこまで知ってるのだろう……

「いいかい、ナマエ。何においても、駆け引きってのは焦らしたもん勝ちなんだ」
「へ?」
「つまり、問題はないってことさ。あんたは上手くやってるよ」

 意味深にそれだけ言うと、おつるさんはくるりと背中を向け、ひらひら右手を振りながら部屋から立ち去ってしまった。部屋の中に取り残されたわたしは何がなんだか、躊躇いながらパタンと閉まったドアを眺める。わたしが何を上手くやってると言うのだろう。スモーカーさんとのことを見抜かれてるのだとしても、上手くいってるどころか今は――主にわたしが原因で――問題だらけだしなあ。ううん、彼女の言うことはいつも難解だ。
 まあとりあえず、おつるさんの言いつけを破るわけにはいかない。わたしはテーブルに置かれた給与明細と小切手を拾い集め、この仕事部屋から撤収することにしたのだった。



 ――キイ、と丸いドアノブを回す。

 淡い色をした木製の戸を開けて、小綺麗なワンルームへ足を踏み入れた。と、他人行儀な表現をしてしまったが、今のわたしにとっては帰宅と言うべきだろう。初めはよそよそしかったこの空間も、今では大分寛げるものになってきた。

 後ろ手にドアを閉じ、くるりと全体を見回してみる。西向きの窓、艶のあるフローリング。広さは凡そ八畳ほどだろうか。話によると、ここはもともと兵長だとか軍曹だとか、一般兵よりもやや階級の高い海兵にあてがわれるちょっといいお部屋なんだとか。そう聞くと確かに、スモーカーさんと相部屋だったあの船室を思い起こさせる内装である。
 因みにベッドやテーブルや椅子は据え置きのもので、自由に使ってもいいと言うことだった。掃除やレイアウトやベッドメイキングなんかは予め全部やっといてくれてたし、食堂に降りれば当然ながらご飯も出てくる。わたしといえばでっかい鞄に服を詰めて持ってきただけなので、体感は殆どホテルだった。至れりつくせりと言う感じだが、"保護対象"の扱いとしては寧ろ低いくらいなのだそう。改めて、保護対象とやらは一体なんなのだという疑問が芽生えたわたしである。

 上着から袖を抜きながら部屋の奥に向かい、バタンと窓を押し開けた。新鮮な風が吹き込んで、白いカーテンが軽やかに波打つ。心なしかマリンフォードも、最近は少し肌寒くなってきた。

「ふー……」

 窓際に立ち、目を閉じて息を吐く。前髪の隙間からおでこに触れる、冷えた外気が心地いい。確かに少し、疲れてるのかも。おつるさんの言う通り引き上げてよかった、今日は早めに休むとしよう。
 服を椅子の背もたれに放り投げ、ついでに靴も脱ぎ捨てながら、わたしはベッドの上に寝転がった。仰向けのまま、上下が反転した窓を眺める。足早に棚引く雲は鮮やかなピンクに見える。陽はとうに暮れて落ち、空は紫がかったくすみ色をしていた。

 遠くでかもめが鳴いている。港では船の修繕工事をしているらしく、金属音と工兵の掛け声とが微かに耳に届いてきた。ここはいつもより海が近い。

「100万円……」

 ぼそり、と呟いてみる。今日一番の驚きだったが、しかし改めて口にしてみるとなお冗談みたいな響きだ。指を折って桁を数えてみる。七本。これが毎月、しかもどんどん増えるらしい。
 大の字に両手を投げ出す。どうしよう、いきなりセレブ街道まっしぐらになってしまった。正直言って身に余る。だって一応わたし、生活面ではお金に困ってるわけじゃないのだ。ただでさえ、クザンさんのバイト代も多めに頂いてるわけだし、こうなるとそろそろ保護対象として頂いてる手当てを遠慮した方がいい気がしてきた。というかそれより先に、今まで生活面でお世話になった分、スモーカーさんへお返しするのが筋だろうか。しかしあの人お金には困ってなさそうだし、義理を通そうにも断られそうだ。いっそプレゼントとか……と思うけど、高価なものとかそれこそいらないだろうしなあ……。

『ぷるるる、ぷるるるる……』

 電伝虫の着信音だ。はて、と起き上がり、椅子にかけておいた上着のポケットから眠そうな顔のナマエツムリちゃんを引っ張り出す。最近は仕事の連絡に使う機会も多かったので、この子もややお疲れ気味だ。わたしはベッドの隅に腰を落ち着けつつ、小電伝虫を揃えた四本指の上に載せた。

「はあいもしもし、ナマエです」
『おれだ』

 ――スモーカーさん。

 瞬時にそう判断できてしまう自分の頭が憎い。やすやすとわたしの耳に侵入した低い声、久々に聞くはずのそれが、今近くにないことに強烈な違和感を覚えた。喉を潤す飲水のようなものだ。これがなくても日常を過ごせていた自分に驚いてしまう。

『調子は……良さそうだな』
「なんの用ですか」

 思わず声が固くなる。動揺と緊張と、ほんの僅かな歓喜を無理矢理押し殺したせいか、意図せず突き放すような響きになってしまった。いっそそんな機微に気づかない鈍い相手ならよかったのだが、残念なことにスモーカーさんは察しのいい男だった。

『……鬱陶しいのは分かるが露骨に態度を変えんな。お前の身柄は一応おれの管轄なんだ』
「それくらい、わかってますよ。別に態度を変えたつもりもありませんし。そっちの電伝虫が勝手にむくれてるだけじゃないですか」
『いちいち突っかかってくんじゃねェよ。それだけ元気なら安否確認の手間も省けるがな。それで、もう怪我は殆ど治ったって話だが』
「えーえー、おかげさまで。スモーカーさんの声聞いてたら肋が痛くなってきました」
『茶番はいい、もう医療棟からカルテは渡されてる。しかし毎度ながら治りが早ェな。お前、新陳代謝だけは本物のガキなんじゃねェのか』
「な、なにをう」

 失礼な、怪我の治りは早いに越したことないだろうに何故そこでばかにされなきゃなんないんだ。とはいえ、思いの外彼が遠慮のない応酬をしてくれることに安心する。少し言葉の棘が多い気はするが。

『……それより』

 気怠げに口火を切るスモーカーさん。小電伝虫は虚無を煮詰めたような顔をしている。

『お前、いつまでそっちにいる気だ?』
「いつまでって、そんなに経ちましたか?」
『もう10日間、お前の顔を見てねェ』

 あれ、そんなに経ってたのか。せいぜい5日くらいかと……ここんところあまりにも消臭剤関係の仕事が忙しかったせいで時間の感覚が狂ってたらしい。
 待てよ。というか、冷蔵庫のお肉って使い切ってたっけ? よく考えたら資源ごみの回収日も過ぎてしまってるし、暫く観葉植物にお水あげてないし、スモーカーさんがなんとかするにせよ洗剤も無くなりかけだったような……。

「言われてみればだんだん心配になってきました。スモーカーさん、ちゃんとご飯食べてますか?」
『オイ……自惚れんじゃねェぞ。おれァお前が来る前は一人でどうにかしてたんだ。んなこたァどうでもいい。それで、予定はどうなってんだ』
「ああ、うーん、……まだわかんないです」
『……もう戻らねェつもりなのか?』
「そんなまさか。あ、勝手にわたしの部屋のものとか捨てないでくださいよ。てかそれ以前に、わたしの部屋入っちゃだめですからね」
『……』

 了承の返事はない。聞いてるのだろうか。

 さっきからやたら皮肉っぽいくせ、スモーカーさんの語調ときたらやけにのっぺりとしていて平坦だった。要するにめっちゃテンションが低いのだ。第一声からこうだったのでわたしの態度が原因というわけではないだろうが、受話器越しの声は普段よりいくらか無機質に聞こえて掴みづらい。わたし、何か見落としたりしてないといいんだけど。

『お前、』
「はい?」
『……夜は眠れてんのか』

 あ、……心配されてる。咄嗟に緩みかけた口元を慌てて引き結んだ。危ない危ない、ただの音声通話と違って電伝虫は表情がばれてしまうのだ。

「はい、ここんとこはグッスリです」
『そうか』

 ほっとしたような、しかしどこか投げやりにも聞こえる微妙な声色だった。その響きを耳の奥で噛み締める。恐らくスモーカーさんは、自分がついていないとわたしが魘されると考えていたはずだ。その予想は的を射ている。勿論、情けないので言わないけど。

「スモーカーさんは、元気ないですね」
『……かもな』
「ははあん、わたしがいなくて寂しいんですか?」
『抜かせ』

 は、と鼻で笑われた。

 短い沈黙が降りる。電伝虫越しの無言というのはわりかし気まずいものだ。スモーカーさんって用事が済んだらさっさと切るタイプだと思ってたので若干戸惑ってしまう。わたしから切り上げたほうがいいのだろうか。念のため頭を巡らせてみるが、多分もう言い残したことはない、はず――

「スモーカーさん」
『あ?』
「ええと……」
『なんだ』

 ……。

「いえ。……また落ち着いたら連絡します」

 不可解そうな顔をした電伝虫からふいと目を背ける。ばかじゃないのか、わたし。なに誘導しようとしてるんだ。思わず気恥ずかしくなって、わたしは返事を待たずに通話を切った。


「――……ふー」

 眠たげに目を瞑うナマエツムリを枕の脇に置いて、わたしは再び上半身をベッドに沈めた。シミひとつない綺麗な天井を見上げながら、スモーカーさんの平坦な声を反芻する。
 最後、通話越しに名前を呼んでくれるのを期待した。残念ながら今回は口にしてくれなかったけど。いつもはもっと、隙あらばナマエナマエ呼ばれてる気がしてたのに、意識すると案外そうでもないらしい。スモーカーさんの口から出るわたしの名前はわたしの命綱だ。かといってかなりのあまのじゃくなわたしが素直に強請れるわけがないのだし、察してくれなきゃ困る。わたしが忘れないよう名前を呼んでくれると言ってたくせに……などと甘えた考えが浮かぶこと自体がちょっとアレなんだけど。

 くるりと寝返りを打つ。掛け布団をめくり、紛れていた分厚い布地を引っ張り出した。でかでか書かれた正義の二文字が目に入る。この部屋にはそぐわない、見慣れた男物の上着。

 多分スモーカーさんは気づいていないのだが、わたしは一着、彼の葉巻くさいジャケットをパクってきている。我ながら本当にこれはかなり危ないラインだと理解しているのだが、スモーカーさんの気配がないとどうしても不安になるのだ。
 恥ずかしい真似をしていることは常々承知している。これじゃまるで、飼い主の匂いに安心する犬だ。ていうかそもそも、男の人の服を抱き枕にして寝てるってどうなんだって話だし。ただでさえ絶賛スモーカーさんの顔をまともに見れないキャンペーン中なので、余計に羞恥心を覚える。正直今はスモーカーさんと言う存在自体を日常から遮断したいのに、これがないと碌に眠れもしない。スモーカーさんと会えないと主に体調面でしんどいのだが、会ったら会ったで精神面でつらい。もうどうしろというんだ。

「はあ……」

 分かってる、いつまでも逃げ続けているわけにはいかない。この頃は少し気持ちも落ち着いてきた。

 あの日、病室での会話。あれ以来、彼はわたしの個人的な領域に踏み込もうとしない。スモーカーさんがわたしと距離を置くようになったきっかけ――今ではその理由におおよその見当はついている。
 わたしがあまりに動揺しすぎていたのもあって意識を向ける余裕がなかったのだが、あの時のスモーカーさんは、わたしの「触らないで」という発言をやたら大袈裟に捉えていたように思う。そしてよくよく考えてみれば。あの海で、スモーカーさんははじめ、わたしに振り払われるのを恐れていたのではなかっただろうか。そうだ。あのお医者さんの反応も妙だった。わたしが治療のお礼を言うと、驚いたように何か言いかけて、見張りのスモーカーさんの余計な真似をするなといわんばかりの睨みに黙らされていた。

 分かることは……もしかしてわたしは既に一度、スモーカーさんを拒絶したのではなかろうか。

 心当たりはある。あの満月に目を覚ますまで、繰り返し見ていた悪夢のことだ。あの男はわたしを犯そうとしていた。だから触られたくなくて叫んだ。そうしたら呆気なく殺された。本当は生きている女がいいと言っていたあの男が、わたしの死体がどう扱ったかなんて分かりきったことだ。少なくとも今のわたしは生きているし、自覚もない死後のことを今更問題にする気はないが、とにかく――スモーカーさんがわたしを気遣っているのは、多分この点なんじゃないだろうか。
 たしぎ姉さん曰く、わたしは一度目を覚まして重度のパニックに陥ったはずだ。彼女は何も言わなかったけど、冷静に考えてその場にスモーカーさんが居なかったはずがない。きっとその時だ。スモーカーさんがわたしに触れることを躊躇するくらいには酷い有様だったのだろう。実際、今でもあんな風に――男の人に触られたらと思うと、気持ち悪すぎて怖気が走る。とはいえスモーカーさんに不純な動機があるはずないのだから、あそこまで気を使わなくても、と思ってしまう。あの病室での一連は、ただわたしを心配してるだけだったってことくらい、分かってたのに。

「はああ…………」

 長々とため息を吐き出す。結局、あの人はいつだってそうだ。彼はわたしのためを思ってこうしている。あれでいて優しいのだ、スモーカーさんは。
 それに比べて、わたしときたらほんとばかみたいじゃないか。救命行為なんかでぐだぐだ文句を言って、そのうえ変に意識して。不純なのはむしろわたしの方だ。二度とあんな妄想をするものか。


 ――明日こそは、スモーカーさんに会おう。

 昨日も一昨日もその前も、毎晩思っている決意を今日も誓う。意気地のないわたしは多分、明日も明後日もその先も、同じことを考える。
 スモーカーさんのジャケットに頬を埋めた。黒い正義の字を睫毛の先でなぞりながら、ゆっくりと目を閉じる。胸を満たす幸福な香り。少なくともこの瞬間、一人きりのあの家で、スモーカーさんはわたしを必要としているのだろうと考える。

 今夜も、よく眠れそうだ。

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