No Smoking


▼ 39-1/3

 窓越しに水平線へ沈んでいく夕陽が見える。私はひとり、軋む木目の廊下を歩いていた。橙色の空間にはどこか馴染み深い埃の匂いが漂っている。受付にいた年配の看護婦さんが、私を見るなり患者は奥の病室ですと通してくれたので、方向はこっちで合っているだろう。
 あれから言い渡された指示を終えたあと、スモーカーさんとナマエさんの居所を見つけ出すにはそれほど苦労しなかった。なにせ島にたった一軒しかない診療所だ。道すがら遭遇した島民に尋ねれば、すぐにここと教えられた。寂れたこの診療所は、海に面した高台にぽつんと小さく居を構えていた。

 突き当たりが見え、あっと声を上げる。スモーカーさんは落陽が差す古びた廊下の奥で、待合用の長椅子に腰を据えていた。小さな窓が並ぶ西側の壁を向き、正方形に切り取られた黒い影を背負っている。脇の灰皿スタンドには山のような燃え滓が積まれており、この小窓が開いてなければ酷い匂いになっていただろうと容易に想像がついた。

「スモーカーさん、こちらでしたか」

 駆け寄ると、スモーカーさんは少し訝るような表情で振り返った。あ、そうかと思い至る。この建物からなら海岸に着けていた海軍船が出発するのが見えたはずなので、私が一人残っていることに疑問を抱いておられるのだろう。

「ええと、引き渡しの件は無事に完了しました。本部に応援を要請する必要はないかと思って一旦帰投させたんですけど大丈夫でしたか? 明日の朝には迎えに戻るようにと伝えたんですが」
「あァ、構わんが……お前は残ってよかったのか?」
「す、すみません。ナマエさんのことが心配で……それと実を言いますと、部下も数人残ると進言してきたので、そのう……」
「おい、……野宿する気か、その馬鹿共は」
「えっ! わ、私もそのつもりだったんですが」

 スモーカーさんは呆れ顔でため息をつく。吐き出された白い煙が、丸く広がって斜陽に溶けた。

「……所有者の許可は取ってある。患者はいねェから部屋は好きに使っていいそうだ」

 軽く左手で宙を仰ぎ、スモーカーさんは窓の外に視線を戻す。その横顔は金色に染め上げられており、細めた瞼は実に眩しそうだ。何故わざわざ夕陽を眺めているのか疑問だったが、私はひとまずありがとうございますと言って頭を下げた。なんだかんだで想定通りとは、細かいところまで気を回してくれる上司である。このあと、残った部下の方にも伝えておかなくては。

「それで、ナマエさんはまだ?」

 顔を上げつつ尋ねると、スモーカーさんは――右手側の閉め切られた引き戸をちらと見てから――静かに相槌を打った。彼が廊下に出ているということは、まだ医者が診察を続けているのだろうか。部下たちに知らせに行くにせよ、ナマエさんの顔を見てからでも遅くはないだろう。
 私は長椅子の脇に並んで立ち、壁に凭れながら所在なく自分の足元を眺めた。窓は床全体を照らすほど大きくはないため、膝下は黒い影に飲まれている。その代わりに熱源がぶつかる部分は煌々として暖かく、それでついつい夕陽を直視してしまい、退屈を持て余して網膜を拷問するスモーカーさんの気持ちを理解した。横目で見ると、彼は相変わらず外を眺めたまま、深く煙を吐いている。ナマエさんが居たら、怪我人の来るところで葉巻なんか、と怒るんだろうな。最近はあまり、彼女がスモーカーさんと口論している様子は見かけないけれど。

「なんだか、思い出しますね」
「……?」
「ナマエさんと会ったばかりの頃に、似たようなことがありませんでしたか? 彼女が、海賊に絡まれたときに頭を怪我して……私はすごく落ち込んでいて、こんな風に目が覚めるのを待っていました」
「あァ、……あれは、よく覚えてる」

 呟き、スモーカーさんが軽く口角を歪める。それはどちらかというと苦笑に近かったが、その割に穏やかな眼差しと口振りだった。

「今でも、うっすら傷が残ってんだ」
「え、そう、なんですか」
「あァ、右耳の上辺りに……屈んでるときなら見える。触っても分からねェくらいだし、あいつも多分気づいてねェがな」
「……知りませんでした。よく、見てるんですね」
「まァ、……そりゃァな」

 スモーカーさんはぼんやりと言った。

 唐突に、機材をひっくり返したような騒音が背中の壁越しに響き渡った。次の話題を探していた私はぎょっと肩を竦め、スモーカーさんは弾かれたように立ち上がる。騒音に紛れて聞こえた小さな金切り声は気のせいではないだろう。スモーカーさんが引き戸に手を掛けるよりも速く、バンと勢いよく叩き開けられる。泡を食って飛び出してきたのは、白衣を着た初老の男性だった。彼がここの所長だろうか。

「た、大佐どの!」

 医者は目の前に立つ海兵の姿にぎくりと慄いた。ぶつかるまいとしていきなり足を止めたせいで、よろよろとたたらを踏んでいる。スモーカーさんは愛想なく彼の肩を押し退けると、引き止める言葉には耳も貸さず、そのまま部屋へ踏み込んでいった。

「ど、どうされたんですか?」

 私もスモーカーさんを追って医者の方へ駆けつける。彼は説明を求める私を見てすぐに海兵の手合いだと察しづいたらしい。先ほどスモーカーさんに押しのけられた肩をこれ見よがしに摩りながら、彼は白髪混じりの頭髪を頼りなく振った。

「どうしたもこうしたも、困りました。あれでは手が付けられません」
「手が付けられない?」
「はあ、どうもパニックを起こしているようでして……碌にものを話せる状態じゃありません。こちらを見るなり怯え出して」

 ――ナマエさんが?

 思わず眉を寄せる。だって、そんなの有り得ない。彼には知る由もないことだけれど、彼女は海賊に拉致されて拷問されたときだって、少なくとも表面上は気丈に振る舞っていたのだ。勿論船の上であの内部犯が何をしたのかは分からない。失礼だけどこの医者の措置が悪かったんじゃないか、とも思う。でも、よりによってあのナマエさんが、強かでどこか誇り高い彼女が、見ず知らずの相手に怯えるだなんて――。
 自分の目で見るまでは信じられない。私はスモーカーさんに倣って医者の肩を押し退け、部屋の真ん中へ足を進めた。私の後ろに付き従う医者はぶつぶつ小言を溢しているが、今は構っていられない。

 スモーカーさんが払いのけたらしい、半開きになった仕切りのカーテンを引くと、床に散乱した医療器具が真っ先に目に飛び込んできた。倒れた器具台、割れた消毒液の瓶、湿ったいくつかの脱脂綿に解けた包帯の束。金属製の膿盆やピンセットは、ぎらぎらと冷えきった温度を照り返している。楕円形に広がっていくアルコール液を踏みかけ、私は慌てて足を引いた。
 ナマエさんは、と床から視線を引き剥がす。ベッドの上に姿はない。その奥、スモーカーさんが向かい側に立っているのが目に入る。はっとして視線を移す。彼の正面の部屋の隅、小さく、小さく蹲って震えている塊。それがナマエさんだと気付くのに、私は暫しの時間を要した。


「……ナマエ?」

 スモーカーさんが床に膝を突く。彼が名前を呼んだのに、ナマエさんは全く気づいていないようだった。膝の間に顔を埋め、固く耳を閉ざしている。奇妙な鳴き声のようなものが聞こえ、何かと耳を澄ませてみて初めて、彼女がか細い声で呻いているのだと理解する。それは泣き声のように聞こえた。今の彼女は、まるで迷子の子供に見えた。

「ナマエ、どうした……」

 スモーカーさんが淀みなく、ナマエの肩へ手を伸ばす。彼の指が触れる。その瞬間、ぱしん、と乾いた音が響く。スモーカーさんの手が、あまりに容易く居場所を失うのを、私は息を呑んで見つめていた。

 ナマエさんが、彼の手を跳ね除けたのだ。

「ひ、――」

 彼女は顔を上げていた。殴られたのか、片側の頬が僅かに腫れていた。泣いているのかと思っていたけれど、そうではない。ナマエさんの表情はひび割れて乾燥していた。砕け散りそうなほど渇いた恐慌が、彼女の全身を支配していた。

「な……」

 スモーカーさんの表情が驚愕に彩られる。焦燥を滲ませて、もう一度手を伸ばす。ナマエさんが慄いて身を引いた。逃げ出そうとしているのが分かった。背中は壁だから、それ以上後ろには行けないのに。

「ナマエ、おれは」
「ぁ、う、来ないで、来ないでくださ、やだっ、いやだ、殺さないで、やだあっ、離せ、触るな!」

 それはあまりに、激しい拒絶だった。

 時が止まる。冷や水を浴びせられたように痛々しい沈黙が、異様な空間を支配する。彼女の拒絶は、ある意味において――自分たちならナマエさんを救うことができると――自惚れていた私たちを、完膚なきまでに叩き折った。

 取り残されたスモーカーさんの手が、永遠のような隔たりを彷徨い、やがて虚しく地に落ちる。ナマエさんの目はまるでこちらを見ていなかった。合わない歯の根をガチガチ鳴らしながら、瞬きもせずに自らの両手で首を覆っていた。光の一点すら吸い込んでしまいそうな、不吉に黒々とした瞳は、スモーカーさんの姿すら映していない。あんな目をしたナマエさんを、私は知らない。

「――す、もか、さ」

 はっとする。スモーカーさんが目を見開いたのが見える。俯いたナマエさんの、揺れる髪の隙間から、絞り出すような声がしたからだった。

「はやく、きてください、スモーカーさん」
「……っ」
「う、うー……助けてください、スモーカーさん、スモーカーさん、どこにも、行かないで……」
「……」

 スモーカーさんが反射的に口を開き、しかし何も言葉にできないまま、強く歯を噛み締める。ナマエさんと私たちの間には分厚い透明な壁があり、それは彼女の目に映る全てを歪に屈折させてしまう。どうしたらいいのか分からない。ナマエさんを脅かすものの正体が、私には見当もつかなかった。
 ただ、彼女の姿はあまりに痛ましく、とても放ってはおけなかった。私はどこか放心したようなスモーカーさんの脇をすり抜けて、ナマエさんの真正面に身を屈める。もしかしたら、何か上手く声をかけたら、彼女は私たちに気付いてくれるかもしれない。小さく震え続けているナマエさんの肩に触れるのは躊躇われ、私は暫く迷ってから、ようやく彼女の名前を呼んだ。

「ナマエさん」

 ふ、と前髪の隙間からまっくろの瞳が覗く。目が合った。彼女はじっと私を見つめ、何か悪いことをした子供みたいな顔で、途切れとぎれの返事をした。

「……たしぎ、姉さ、?」
「は、はい、私たしぎです。顔が分かりますか?」

 あまりにあっさりと反応されたことに驚いた。どういう条件を満たしたのかは分からないが、どうやらナマエさんは私を認識できるらしい。もしかして、さっきはただ過剰に驚いただけで、少し間を置いたから落ち着いたのだろうか。だとしたらスモーカーさんのことも……。
 そんな希望を抱くなり、ナマエさんの体がぐらりと斜めに傾く。どうやら立ち上がろうとしたらしかったが、萎縮した手足は言うことを聞かないようだった。よろめいた細い肩を抱き止めると、彼女は支えを拒むように私の腕を掴んだ。ひどく弱々しい抵抗だった。

「あ、あまり動かないで。傷に障りますよ」
「スモーカー、さんは……?」
「それは、」

 ちら、と背後を振り返る。スモーカーさんは感情の読めない眼差しを、じっとナマエさんに向けていた。彼女はやはり、その視線には気づかない。

「安心してください、ナマエさん。スモーカーさんならすぐそこに居ます。もう脅威はありません、大丈夫なんです、だから落ち着いて……」
「あの人を、呼ばないで、ください」

 青褪めた表情で、ナマエさんが告げる。思わず思考が停止した。呼ばないで、って誰を? 混乱した私の頭には全く意味が入ってこない。スモーカーさんのこと? そんなの、言っていることがめちゃくちゃだ。だってさっきはあんな風に、スモーカーさんに助けを呼んでいたのに――。

「お願いです、わたしは、どうしたら、……これは全部、まちがいで、許されない、散々、引っ掻きまわしておいて、こんな……もう、頼れない、」
「え、な、ナマエさ」
「ごめんなさ、ごめんなさい、わたしは、ごめんなさい、わたしなんかが、こんなところにいちゃいけないのに、ごめ、ごめんなさ」
「お、落ち着いてください、一体何が」
「は、わたし、はあっ、はッ、は、あ――」

 見開いた目ががくがくとぶれて定まらない。腕の中のナマエさんが、痙攣する両手で首を覆う。ぐしゃ、と髪ごと握りつぶして、引きつった呼吸を繰り返す。ぶわりと浮き出した汗が彼女の顎を伝っていく。過呼吸を起こしているのか、咽び声は見る間に短く、激しくなっていく。これは、いけない、――。
 私の頭に警報が鳴り響く。慌てて彼女の両手首を掴む。引き剥がせない。洪水のように溢れ出るそれを止める術がない。ナマエさんの表情が、ガラスのようにひび割れていく。彼女はひゅ、と細く息を吸う。刹那、静寂が張り詰められ。ついに――張り裂けた。

「――!」

 形容したがたい絶叫が耳をつんざく。喉が千切れ飛ぶような悲鳴だった。絶望的な声だ。まるで屠畜の断末魔だった。耳を塞ぐ代わりに顔を歪め、ナマエさんの肩を揺さぶる。駄目だ、反応がない。素早く伸ばされたスモーカーさんの手が、首に食い込んでいたナマエさんの指をほとんど無理やりに引き剥がした。視界の隅に、必死の横顔が見える。

「おい! 鎮静剤を寄越せ、早く!」

 鞭を打つような怒号が飛ぶ。呆けたままカーテンの向こうに突っ立っていた医者は、スモーカーさんの指示を聞いてようやく自分の仕事を思い出したらしかった。それから注射針が用意されるまで、ナマエさんの悲鳴は止まなかった。



 ナマエさんは、またも目を塞いでしまった。

 日が暮れてきたため部屋に灯りを入れた。ナマエさんの頬が白く照らされている。私はベッドの脇の椅子に腰を据え、横たえられた彼女の姿を眺めていた。静かな寝息だ。あまりに落ち着いた寝顔なので、先程の騒動は私が見た悪い幻なんじゃないか、という気さえする。勿論それは淡い妄想に過ぎない。散らばっていたガラスの破片を片付けたのはまだ記憶に新しかった。
 スモーカーさんと医者は、やや遠巻きに立って幾つか言葉を交わしていた。はじめ、ナマエさんの容態――朗報、どの怪我も軽症だったらしい――について話していたのだが、問題の核心はそこではない。会話が尽きたあと、医者はどこか無神経にナマエさんの方を見て、怪訝そうに口を開いたのだった。

「あの、その子供は元からああなんですか? 失礼ですが、とっくに気が触れているのでは……」
「なんだと?」

 いやに鼻につく物言いだ。青筋を立てたスモーカーさんが、襟首を掴みかねない剣幕で医者に詰め寄る。海兵が一般人を相手に何をする訳もないのだが、とはいえ彼の威圧に気圧されたらしい。医者は怯えたように身を縮めた。

「ヒィっ、い、いえ。すいません。私もね、憐れに思うんですがね。しかしどう見てもまともじゃないですよ。私は門外漢なので詳しいことは分かりませんが、あれはどうも……」
「いいか。あいつはたった今目が覚めるまで、海に落ちる瞬間ですら冷静だった。これで答えになったか? てめェは何が言いてェんだ」
「で、ですから、だとしたら妙でしょう。あの子供の外傷は唇の裂傷と肋骨の骨折のみです。それを、怪我したわけでもない首ばかり庇って、男が寄ると過剰に怯えるなんて。あれはどう見たって、過去に――」
「もういい、黙れ」

 スモーカーさんはぴしゃりと言い捨て、苛立たしげに顔を背けた。言われるまでもなく分かっている、と言いたげな顔つきだった。
 彼はそれから、暫く黙り込んでいた。こういう時、私はスモーカーさんが何を考えているのかよく分からない。ただ知っているのは、彼は私と違ってこの状況に不安を抱いているわけでも、途方に暮れているわけでもなく、ひたすらに俯瞰して打開策を探しているのだろうということだ。そしてこういう場合、スモーカーさんは大抵いきなり、脈絡のない――少なくとも傍目にはそう見える――結論に至るのだ。

 スモーカーさんはゆっくりと目を閉じる。それから酷く不本意そうに、薄い溜め息を吐き出した。

「――そこの医者」
「は、はい。如何しましたか」
「至急、電伝虫を貸せ。今すぐに」
「は、はあ。分かりました。少々お待ちを」

 なにがなにやら、と言いたげな顔をしたものの、これ以上彼の神経を逆撫でするのを避けたかったのだろう。医者は疑問を口にするでもなく、そそくさと病室を後にした。案の定、私にも彼の意図がさっぱり汲めない。彼は医者を追ってドアをくぐり、それから僅かに振り返り、私とナマエさんの方を見た。

「少しの間席を外す。お前はナマエを看てろ」
「な……何か分かったんですか?」
「いや、勘だ」

 端的にそう言い、スモーカーさんは気が進まない様子で頭を掻いた。それから軽く舌打ちをする。

「こんな形で知るのは避けたかったんだが……やむを得ねェ。選り好みしてる場合じゃねェんでな」
「なにを……? というか、一体どなたに連絡を」
「――元帥、センゴクだ。あのジジイに、聞いておかなきゃならねェことがある」

 やはり、分からない。なぜ元帥が出てくるのか、それがナマエさんを助ける手立てになるのか、そもそも彼が何を知りたがっているのかすら。私は結局……何も知らないのかもしれない。
 宙ぶらりんになった疑問符への慈悲はなく、スモーカーさんはそれ以上何も語らずに、ドアの死角へ姿を消した。

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