No Smoking


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 若草色の香りが鼻腔を這い上がる。

 甘いというには飾り気無く、苦いというには未熟過ぎる花の芳香。野草を噛んだような青臭さ、湿気た土の鉄っぽい匂い。鼻につくそれらを掻き消そうとして、おれは無理やり煙を嚥下した。

 野暮ったい臭いに反して、日当たりの良い店内は艶やかな花に彩られてやけに明るかった。しかしそれにしては、どうにも窮屈な感じを受ける。棚に所狭しと並べられた植木鉢やバケツ、天井にぶら下がった色味の無いドライフラワー、そして我こそはと主張しながら雪崩のように覆い被さる花々。まるで街路を埋める群衆に似たそれらが、狭い店内をよりいっそう息苦しく飾り立てている気がした。

 ……馬鹿馬鹿しい、らしくもない品評など。

 目に映り込む雑音を無視し、奥へ向かって足を進めた。折り重なる草の根を掻き分けて進んだ先、小ぢんまりとしたカウンターの奥に若い男が立っている。器用に動く手先に形作られるのは、否応なしに見慣れてしまった純白の――目が眩むほどに清廉な――花束。結び付けられたリボンの隅々まで、徹底して白で染め上げる神経質さに内心鼻白んでいると、青年はようやくおれの存在に気づいたらしい。人の好い、無警戒な笑顔を向けられて、どこかきまりが悪くなった。
 ああ、結局のところ、気に食わないのは安穏とした青臭さのせいでも、窮屈なこの空間のせいでもない。おれはただ単純に――

「いらっしゃいませ、何をお探しですか?」

身の丈に合わない自分を思い知らされるのが、心底耐え難いだけなのだ。




 エプロンの紐を後ろ腰に結えた小さな背中。

 パチン、パチン、と茎を断つ鋏の音。

 台所の水場に立ち並ぶのは、大小様々な陶製の花瓶だ。調理台に広げられたラッピングペーパーの上には、解かれたリボンや保水用のアルミホイルなどがばらばらと散乱している。パチン、と鋏の刃が重なると同時に、シンクに落ちた茎の切れ端がゴロリと鈍い音を立てた。

「――また増えたな」

 おれの声に反応したナマエが、はたと円い眼を瞬いて振り返った。シンクのへりに腕を置き、背の低い頭越しにその手元を覗き込む。彼女の手に握られているのは、背伸びするかのように花弁を広げた白いバラだ。切り落とされたばかりの断面は、いまだ潤いを湛えて瑞々しい。
 ここのところナマエは、花屋に行くたび白い花束を抱えて戻ってくる。次第に大きく、派手になっていくそれは、ナマエに言わせると「ブーケ作りの練習に作ったものを、日頃贔屓にしている謝礼として」受け取ったものであるらしい。しかしそれが毎度続くので、自宅の机や棚や凡ゆる天板は、すっかり式場さながらの純白に覆われてしまっていた。

「んー……ちょっと困り物なんですよね」

 手元へ視線を戻して、眉尻を下げるナマエ。その割には満更でもなさげな口振りだ。思いがけず、冷えた声が唇を突いて出た。

「……断りゃ済む話だろう」
「そりゃあそうですけど。でもせっかく用意して下さるのに突き返すのも悪いじゃないですか」
「それでてめェの手間増やしてちゃァ世話ねェな」
「それは好きでやってるから別にいいんですよ。花束を貰えるのも、なんだかんだ嬉しいですし」

 はにかみながら口にして、ナマエはバラを花瓶の隙間に挿し入れる。連ねられた花瓶のいずれを見ても、生けられているのは真白の色彩のみだ。スズラン、ユリ、ガーベラにカスミソウ、他にもやたら大きいのや細々したのやら。植物の種類には明るくないが、それでも元の花束が手間暇掛けて作られていたものだったことは一目で分かる。前々から淡い執着を感じてはいたものの、この頃は輪をかけて露骨だ。果たしてただの常連客に、礼だなんだと取り繕って御大層な花束を渡したりするものだろうか。

「贈り主はどんな奴なんだ」

 ナマエのつむじを見下ろしながら、世間話を装って探りを入れる。生けた花の出来を確認してるのか、彼女はくるくる花瓶を回しながら、「そうですねえ」と能天気に呟いた。

「すごい良い人ですよ。お花のこと聞いたら親身に相談に乗ってくれますし、匂いへのこだわりトークも盛り上がりますし。若いのにしっかりされてて、清潔感もあって……それとさわやか系のイケメンです」
「……男?」
「そうです、これ言ってませんでしたっけ? まあ、だからなんだってこともないんですけど……」

 ないわけがあるか。薄々予感はしていたものの相手が男となれば……感情の種類までは測れないが、多少なりとも下心があるのは間違いないだろう。しかしナマエもナマエである。日頃は特段察しの悪い奴でもないくせ、なぜ自分に向けられた剥き出しの好意にはまるで気付かないんだ?

「――ともかく、無理やり押しつけられてるわけじゃないので心配しないでください」

 鋏を置き、濡れた手のひらをエプロンで拭って、ナマエは再びひょこりと顔を上げた。柔らかげな髪の隙間から舞い上がる日向の匂いが、一瞬鼻腔を撫でて通り過ぎる。

「元々花束を下さったのも、わたしが貰えるものはなんでも貰いますとお伝えしたせいですし。それで余計に断るのが忍びないと言いますか……せっかく仲良くなったのに、迷惑だったなんて思わせたくないですから。それに――」

 軽く口元を抑え、ふ、とおかしそうに笑う。それがいやに不愉快だった。ナマエが見せる穏やかな微笑みにはいつだって心地良さを感じてきた筈なのに、おれは今に限って疼くような苛立ちを覚えていた。

「彼、なんとなくシンパシーを感じるんですよね。スモーカーさんは興味ないでしょうけど、わたしこの前新しい霧吹き買ったんです。ちょっと値が張るやつで、わざわざ雑貨屋さんで取り寄せてもらったんですけど……花屋さんでもお手入れに同じの使ってたので、もーびっくりして暫く盛り上がっちゃいました。普通なくないですか、霧吹きで盛り上がるって」
「……」

 何と返しても上滑りする気がして口を噤んだ。さもなければ水を差すようなことすら言い兼ねない。ナマエはそんなおれに気が付くと、どこか恥じ入るような顔をして、「あー……すいません、つまんない話でしたね」などと謝罪した。それで余計に気が滅入った。どうにもやり難い。おれの本心なぞ知る由もなく、彼女は気を取り直すように居住まいを正した。

「それはさておき、スモーカーさんがよければなんですが、ちょっと頼みたいことがあるんです」
「……なにをだ?」

 極力普段通りに返事をしてやると、ナマエはあからさまに安堵の表情を浮かべる。おれとシンクに挟まれて窮屈そうに身じろぎしながら、彼女は戯れに前髪を撫でつけた。

「えっとですね。まあつまり、店員さんと話すのは楽しいんですけど、結局花束は断りきれないし、わたしが顔を出すと催促するみたいで悪いので……」

 上目遣いに見上げる、ナマエの口から飛び出した提案は、案外おれの意表を突いたのだった。

「次の買い出し、スモーカーさんが代わりにお花屋さんに行ってくれませんか?」




 ――何をお探しですか?

 頭上から垂れ下がるドライフラワーを掻き分け、物陰から抜け出すと、向けられたのは意外そうな眼差しだった。その理由は色々と思い至るものの、特段追求すべきことでもない。カウンターに歩み寄るまでの数秒の間に、若い店員はあの白い花束を手際良くカウンター奥の棚に仕舞い込み、何食わぬ顔でおれの返事を待った。

「花を」

 カウンターを挟んで、一度拝んでやろうと思っていたその面を無遠慮に眺めやる。おれより頭一つ分低い背丈、細身だが痩せてはいない中肉中背の体格。歳の頃は恐らく20代前半だろう。おれの視線を受けても萎縮しないあたり、肝が小さいわけではないらしい。その眼差しには若者らしい快活さと無謀さとが相応に見受けられた。
 コンマ数秒の観察。それから違和感を抱かせる前に目を伏せ、おれは薄く口を開いた。

「……部屋に飾る花を探してる」
「ご自宅用ですか?」
「あァ。出来れば控えめなのを」

 『セレクトはスモーカーさんにお任せします。折角なんで、色は白以外がいいですね』、との言い付けを脳裏に浮かべながら、軽く相槌を打つ。それを受けた男の返答は早かった。

「でしたら、丁度先日冬島から仕入れた椿がございますので、そちらはいかがでしょうか。花木なので少し扱い難さはあるんですが……」

 その場で身を乗り出し、男はシェルフの二段目に置かれていた植木鉢をカウンター上に持ち込んだ。背の高い若木には、艶のある深緑の葉が互い違いにくっ付いている。右と左でそれぞれ紅と白、黄金色のおしべを庇って身を丸めた花弁が、己の魅せ方を熟知しているかのような態度で寛いでいた。

「元々はワノ国原産の花だそうです。ちょっと珍しいので、多分、置いてる花屋はうちくらいなんじゃないかな。紅白で縁起もいいですし、一輪挿しでも見栄えするのでお勧めですよ」

 見繕う花については一任されているし、元より時間を割いてまで物色するつもりはない。理由の程は知らないが、ナマエは時折ワノ国に興味を示すし、きっと気に入らんこともないだろう。それぞれ一輪ずつ、と即決すると、青年は「かしこまりました」と和かに口にして、剪定の準備に取り掛かった。カウンターに剪定鋏や包装用の諸々が並んでいくのを眺めながら、半分とはいえまた白い花を選んでしまったことに今更気付いたが、しかし紅一色では婀娜っぽくなり過ぎただろう。と思い直し、ナマエに言われるであろういくつかの苦言にどう返そうかと退屈紛れに考えた。

「花、お好きなんですか?」

 太い枝をざくりと落としながら、徐ろに雑談を振ってくる。気乗りはしなかったが、邪険にするほどでもない。察するに、海兵相手に沈黙が続くのも苦痛なのだろう。

「さほど興味はねェ。こいつは頼まれ物だ」
「ご自宅用とのことでしたよね。所望されたのは奥様……でしょうか」
「……いや、ただの同居人だ」
「相手は女性の方ですか?」
「ずいぶん食い下がるんだな」
「あ……不躾でしたらすみません。お客さん、見慣れない方だから気になってしまって。将校の方がいらっしゃることなんて滅多にないですし」

 狼狽する様子もなく、ごく穏やかに受け流す。侮れない野郎だと頭の隅で考えていると、男はふと思い立ったように鋏を置き、先程花束を仕舞い込んだ棚から小ぶりのバスケットを取り出した。黄色を中心に満遍なく、彩り豊かな花々が飾られている。

「初来店の記念に、どうぞ。よければ同居相手の方に差し上げて下さい。女性ならきっと喜んでくださると思いますよ」
「……初回の客には全員、これを渡してんのか」
「ええ、その日ある分だけですけどね。2回目以降は基本は有料なんですが、余りそうな日は常連の方にも同じものを差し上げてます。経営的にはちょっとあれなんですけど、これがきっかけに気に入ってくださる方も多くて……内容は季節によって変えてるんですよ」

 その声を聞きながら、確信めいた予感の証拠を掴んでしまった気がして、おれは重苦しい煙を吐いた。ナマエが持ち帰ってくる花束は、やはり贔屓の礼などではないではないか。大体、色からして違う。あれはナマエの為の花束だ。椿の処理を再開した薄い肩を見下ろしながら、おれは答えの分かりきった問いを、それでもなお口にした。

「さっきあんたが作ってた、白い花束は?」
「ああ、あれは……」
「売りもんじゃねェんだろう」

 畳み掛けるように問う。我ながら白々しいものだ。男は歯切れ悪く口籠もってから、ちらりとおれを横目に見上げ、照れ臭そうに頬を掻いた。

「ええと、その……恥ずかしながら、お渡ししたい方が居たんです。てっきり今日いらっしゃるかと思って作ってしまったんですが、じきに店終いなので……はは、空回りしてしまいました」
「……ひた向きだな」
「おれの一方通行なんですけどね。それにしても鋭いなあ、お客さん。さすが、海兵さんですね」

 言うまでもなく、おれが海兵であることと、こいつの片恋慕に気付いたことにはなんの因果もない。単におれがナマエの近くに居て、そして不本意にも同じ穴の狢だから気付いた、というだけの話だ。無論、この男には知る由もないことだが。
 男は植木鉢を押し除け、ざらついた薄い包装紙に、二対の枝を並べた。墨で引いたような一本線に整えられた椿の枝、紅と白のそれぞれ一輪ずつ。

「……惚れた腫れたってんなら、普通、赤い花なんかのが伝わりやすいんじゃねェのか」

 紅白の椿を注視しながら、頭の片隅に引っかかっていた興味を投げた。男はぎこちない様子で、赤子をくるむかの如く包装紙を重ね合わせている。

「ええと、はい、確かに赤いバラとかが定番なんでしょうけど」
「なんで白なのか聞いても?」
「ずいぶんと食い下がりますね、お客さんも」
「……あんたほどじゃねェさ」
「あはは、参りました。けど、深い意味はないんですよ。ただ彼女には……白が似合うと思ったんです」

 あかぎれの痕を残した長い指が、包装紙の絞り目に麻の紐を結わえていく。

「彩りを入れようかとも思うんですが、駄目ですね。どことなく押し付けがましくなってしまって……いや、もしかするとまっさらでいて欲しいというのもおれの願望かもしれないんですけど、って、初対面のお客さんに何言ってんだろう……」
「……」
「ええと、だからつまり、その相手にはこれしか渡せない、という色がおれにはあるんです。そうだ、試しに一度お客さんも身近な方に差し上げてみたらどうでしょう。あっ、別に販促ではないんですが」

 慌ただしい言い訳を聞きながら、この男はナマエをどこまで知っているのだろう、と思った。いくら常連といえど、顔を合わせた回数すら数えられる程度の筈だ。しかしきっと――おれがナマエに色を添えるとしても、同じものを選ぶだろう。先を越された、手垢を付けられたような気分だった。子供じみた嫉みだと自覚していても、もうおれからナマエに白い花束を渡すことはすまい。

「ま、まあ、なんと言いますか……」

 沈黙が降りた空間に、気まずそうな咳払いが一つ。

「確かに、自分の気持ちを伝えるための花というのはあります。けどおれ、あんまり花に言葉を借りたくないんですよ。花は相手のために選んで、伝えたいことは自分の口で言いたいんです。こんな仕事をしてるくせして、つまらない拘りなんですけど」
「いや、……つまらなくはねェよ」
「ふふ、ありがとうございます。お客さんは優しいですね」

 ナマエが意気投合した理由がわかる気がした。というより、この男はどこかナマエに似ているのだ。よっぽど馬が合うのだろうと僻んだ気分になり、そんな感情がまた不愉快で苛立ちが募る。ああくそ、柄じゃない。この男本人に、鼻に付くところは何一つないというのに。

「お待たせしました、お客さん」

 差し出された花束(といって差し支えないものか)を受け取ると、紙越しの感触は予想を裏切らずに節張っていて硬かった。こちらもお忘れなく、と先程のバスケットが詰められた紙袋を、椿の代金と引き換えに手渡される。二つ併せても、ナマエの持ち帰る花束よりは幾分軽い。おれは悟られぬ程度に嘆息した。

「……また来る」

 短く告げ、踵を返した。おれの来店が意味するところはつまり、この男にとっての不都合である。が、それはおれとナマエしか知らないことだ。

「是非! お待ちしております」

 心底嬉しそうな様子で告げた男に対し、微かに抱いた感情が優越感であるのか、罪悪感であるのか、おれには判別が付かなかった。

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