No Smoking


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「ナマエちゃーん、旦那様がお見えよー!」

 例えるなら、砂の入った靴に裸足を突っ込んだときのあの感じ。或いは、森林浴中いきなり芋虫が降ってきたらこんな気分になるのかもしれない。
 現在本部上層部、女性海兵が集うおつるさんの執務室周辺、その通路に当たる縁側。間の悪さと単語のセレクトの酷さに全身の毛が逆立つのを感じつつ振り返る。見れば、おつるさん部隊所属のお姉さんが、廊下の曲がり角からひょこりと顔を覗かせて呼びかけてくれていた。どうやら茶化されてる……ってわけじゃなさそうだけど、どうしてそんな誤解を招く呼び名が定着してしまったのか、わたしには知る由もない。

「……了解しました」

 渋々口にしつつ、わたしは消臭剤のパッケージデザインの候補が並んだ資料を閉じる。つい先ほどまで、未来の顧客の意見を取り入れるべくアンケート調査を実施してたのだ。――そう、今わたしを取り囲んでおられる、休憩中のお姉様たちに。

「あら、旦那って誰のこと?」
「あんた知らないの? 大佐よ、スモーカー大佐。最近よくナマエちゃんのお迎えに来てるの」
「えーっ、あの有名な"野犬"が? 信じらんない。なに、それってどういうこと、ナマエちゃん」
「……スモーカーさんはお仕事でわたしの身柄を引き取ってくれてるんです」

 もはや同居を隠す気はない。下手に誤魔化すのは逆効果だとわたしもいい加減学んだのだ。かくいうお姉様がたは、わたしによる渋々の発言にもきゃらきゃら大変盛り上がっていらっしゃる。

「きゃあ知らなかった、何にも知らない子どもみたいな顔してやるじゃないナマエ」
「ばかね、そういうんじゃないわよ。相手はこのナマエよ? どっちかというと親子的な関係よね」
「ふうん、でもなんで"旦那様"?」
「旦那様というかご主人様というか」
「見たらわかるわよ。もう目に入れても痛くないって感じ。飼い犬扱いだって羨ましいわ、あたしちょっとスモーカー大佐に憧れてたのよね」
「私てっきりヒナ大佐とお似合いだしデキてるんだと思ってた。それで諦めてたんだもの」
「あら、それはヒナさん本人がずっと前から否定してたじゃないの。どうもスモーカー大佐はずっとフリーだったって話よ。昔は来る者拒まずだったとか」
「ふゥん。道理で彼、女なんか誰でもいいって感じ。その場限りならいいかもしれないけどさ」
「けど素敵よねえ、スモーカー大佐。男らしくて、顔も悪くないし……ちょっと亭主関白っぽいけど、そこも頼り甲斐があって良いっていうかあ……」
「でもナマエを可愛がってるってことは案外子煩悩なのかもしれないわよ。どお、ナマエ。こっそり紹介してくれない?」

「は、はあ……」

 あまりの勢いに気圧されてしまった。この感情をなんと形容したらいいのやら、わたしが漫画のキャラクターだったら頭に逆立った毛がひょこひょこ生えてることだろう。お姉さんたちもやっぱ婚期とか気になるお年頃なのかなあ……冗談めかした口振りながら、視線からは妙な切実さを感じる。
 しかしいろんな意味で取り次ぎなんぞできるはずもない。となれば三十六計逃げるに如かず。わたしはそろそろ後退り、ぎらついた目のお姉さんたちからゆっくり距離を取った。

「あ、あー、それじゃわたし行きますね」
「あっ、待ってよナマエ」
「あなたから取り上げようってわけじゃないのよ」
「ちょっと、あんたのせいで拗ねちゃったじゃない」
「いや、拗ねてないですから」

 と捨て台詞を置いて、引き留めようとする賑々しいお姉さんたちをひっぺがす。これ以上根掘り葉掘りされては敵わないと、そのまま振り返らずに歩き出した。

 はーあ全く、この頃誰も彼もゴシップに熱心だ。

 資料を鞄に詰め込みつつ、木目の床を蹴る。それにしてもなんだってあんなに人気なんだろ、スモーカーさん。あのお姉さんたちのことだ、将校クラスの海兵は全員チェック済みとかでもおかしくないけど……なんだろうなあ。別にスモーカーさんが人気だろうとモテててようと、喜ばしくこそあれわたしがもやもやする謂れはない。と思うんだけど、今のわたしは明らかにこう、不満だった。どうにもこうにもささくれ立った気分だ。
 一応、その理由に心当たりはないでもない。それは恐らく、先ほどのお姉さんがたが、わたしにとってある意味特別な……恩人に対してかなり赤裸々に品定めをしてたので、若干拒否反応が出てしまったというだけなのだ。自分の潔癖さがいやになる。お姉さんたちも悪い人たちじゃないし、スモーカーさんがそういうのを全然気にしない性質ってのも分かるから余計に。

 ――あ、スモーカーさん。

 曲がり角からしばらく進んだところで目に入った、庇の支柱に背を預けている見慣れた男性の姿。どうやら先ほど呼びに来てくれたお姉さんと何事か話していたらしい。彼は伏せていた瞼を上げ、お姉さんの肩越しに真っ直ぐこちらを見据えた。葉巻を咥えたままの口が動く――

「ナマエ」

 よく通る声だ。まだ距離があるのにはっきりと耳に届いた。……認めたくない、スモーカーさんがああしてわたしを呼ぶ声に、小さな優越感を感じたなんてことは。……わたしは存外いやなやつだ。
 かぶりを振って邪念を払い、わたしは極力機嫌良さげな足取りでスモーカーさんの元へ駆け寄った。お姉さんが彼に頭を下げて身を引いたので、ちょうど入れ違いの形になる。スモーカーさんの視線はお姉さんの背から離れ、わたしの顔の真ん中に収まった。

「よ……お疲れさん」
「すいません、お待たせしました」
「いや、寧ろこっちが早すぎただろう。まだ用事が残ってたんじゃねェのか?」
「野暮用だったので大丈夫ですよ。けど確かにスモーカーさん、今日はずいぶん早いですね」

 手すりの向こうに見える空は未だ青の色彩を残したまま、これからようやく日暮れを迎えるかというところだ。手元に時計がないので正確な時刻は分からないが、およそ6時か半かそこいらだろう。

「丁度仕事が片付いたんでな、早めに切り上げてきた。それより……」

 ちら、と彼の眼差しがわたしを通り過ぎる。

「やけに視線を感じるんだが」
「あ〜……気にせず行きましょう」

 苦笑しつつ、わたしが来たのと逆方向に彼の体をぐいっと押しやった。これ以上好奇の視線を背中に突き刺されては堪らない。当のスモーカーさんも大して興味はなかったらしく、そのまま素直に歩き出してくれた。わたしの意思を優先してくれたことに安堵して、彼の後ろをとことこついて行く。

「でも、早めに来ていただけて都合がよかったです。ちょうど買い物に行こうと思ってたんで」
「帰りがけにか? 珍しいな」
「そういやスモーカーさんと行くのは初めてですね。色々買い足したいものがありまして、まあ品揃えは悪いかもですが、無かったら無かったで……」

 言いつつ、鞄のポケットからごそごそ取り出したお買い物メモをスモーカーさんに突き出した。

「はいこれ、スモーカーさんは食材の買い出しをよろしくお願いします。先に済んだら近くの公園で待ってて下さい、あそこ灰皿スタンド置いてありますから。わたしは日用品とお花を買いに行ってきます」
「……花?」
「最近いいお花屋さんを見つけたのでまめに足を運んでるんです。部屋にも飾ってますよ」
「あァ……そういや食卓に置いてあったな」
「スモーカーさん何にも言わないから気付いてないのかと思ってました。で、買い出しは問題ないですか? まさか手分けするのもダメとか言わないですよね」
「お前から目を離すのは気が進まねェがな……仕方ねェ。できるだけ早く終わらせろよ」

 ため息混じりにそう言って、後ろ手にお買い物メモを受け取るスモーカーさん。素直にお礼を言うと、彼はメモをポケットに突っ込みながら「断らせる気もねェだろ」と小さく肩を竦めた。

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