No Smoking


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「海に行きます」

 と、いつになくご機嫌なナマエちゃん。その口振りは実に弾んでおり、あっちこっちに飛び跳ねた癖毛も景気よく揺れている。
 さて、なにも彼女はだらけきったおれへの当て付けに外出の予定を主張し始めた訳ではない。先程執務室へ手伝いに訪れるなり明日休みにならないかと相談してきたので、理由を尋ねたところそんな回答をくれたのだ。

「海ってェと……どこの海だ?」
「マリンフォードの海岸です。東の方に小さいビーチがあるらしいって最近耳にしまして」
「ほォ……ビーチね。なんでまた」

 おれの頼れぬ日付感覚が狂っていなければ、海で遊ぶにはやや季節外れだ。無論マリンフォードは冬島というわけでもないから遊べないってことはないが、海水浴ってのはもっとうだるような日に堪え兼ねてやるもんだと思う。尤も、そんな自殺行為張りの衝動はとうに忘れて久しいわけだが。

「いやあ、せっかくこんな海が近いのに行ったことないなんて勿体無いじゃないですか。わたし泳げないんで、練習できたらいいなとも思いつつ」

 と、にこやかなナマエちゃん。そういえばこの子もカナヅチなんだったか。この海で泳げない奴なんてのが能力者以外にも居たんだな、などと当然のことを思い出す。しかし、はてさて。……海ね。

「ふゥん……ま、いいじゃないの。で、なんでまたいきなり明日なわけだ?」
「海兵となると皆さんお忙しいですから、なかなか予定の合う日がないんですよ。そしたら明日突然休日になったということでクザンさんにご相談をと。わたしの方も特に急務は……ないですよね? 昨日サボったのはクザンさんの方ですし」

 現在、実務机の向かいに立っているナマエちゃんは、机のへりから頭だけ出してじろりとこちらを睨め付けてくる。よく刺さる視線だ。昨日は午前中、チャリでふらふら散歩していたら良い昼寝場所に捕まったために、うっかり夕方まで爆睡してしまったわけだが……その間もナマエちゃんは書類整理を進めておいてくれたらしい。おかげで今は、彼女の目に触れさせられない重要書類の封筒だけがおれの机で山積みになっている。
 勿論、そんな感じで日頃から世話をかけている彼女の頼みを無下にする理由もない。しかしナマエちゃんからの珍しい相談(その上行き先は海である)となると、気になることは当然気になる。立場上、根掘り葉掘り聞いてもお節介にはならんだろう。我ながら実に厚かましい姿勢である。

「んで……誰と行くわけよ」

 念のためそこから聞いておく。正直、真っ先に浮かぶ選択肢は彼女の保護者ことスモーカーだが。

「たしぎ姉さんです」
「あァ、たしぎちゃんと……二人だけか?」
「いえ、二人は流石に不安なのでスモーカーさんも付いてきてくれるって言ってました。とはいえ、あの人も泳げませんけどね」

そら見ろ。最近スモーカーのやつ、これでもかってくらいナマエちゃんに甘いからな。こないだなんてあの社交嫌いが"赤い港"まで追っかけてきたくらいだ、海くらい喜んで付いてくるに決まっている。

「……なるほど。もう一つ、最も肝心なことを聞くぞ」
「ろくなことじゃないと思いますけどまあいいですよ。なんですか?」

 あらら。ナマエちゃんからの信用が低すぎて実に不甲斐ないぞ。何故こんなに信用されていないのか、全く心当たりがない。それに今からの質問は本当に大切なことだ。何より肝心だ。偉大なる航路グランドラインで例えるとリヴァース・マウンテンくらい重要だ。

 おれは執務机の上で組んだ手に顎を乗せ、なるだけ真剣な眼差しでナマエちゃんの方を見た。彼女はさすがに何事かとゴクリと息を飲み――

「ナマエちゃん……勿論ビキニは買ったんだろうな?」
「………………」

 彼女は一瞬、虫けらでも見るような絶対零度の目線をこちらに向けた。

 うーん……これが見たくてついやっちまうんだよな。この子、おれよりよっぽどヒエヒエの能力を使いこなせんじゃないかしら。どう見ても下から見上げられてるのに見下されてる気分だ。なかなかグッときた。
 一応最低限の礼儀は気にするナマエちゃんのことなので、わりかしすぐに先の軽蔑しきったような表情は引っ込められた。しかしいまの質問程度でここまで嫌がられるとは……この子はやや潔癖すぎるきらいがあるが、にしてもこれくらいの茶目っ気は許して欲しいもんだ。とか言うとこれもセクハラになるんだろうか。いやしかし、おれとしては冗談抜きで真面目に気になる話であって……。

「はあ……水着なら買いましたよ。流石にサイズなかったんでちょっと調節して合わせてもらいました。不本意ながら元は子供用ですけど」
「お……ならまじで水着自体は着るわけね」
「まあ、そうですが。一応言っておきますけどわたしラッシュガード着ますからね。大体あんまりこの季節外れの時期にはしゃぐのもなんなので、泳ぐ以外の予定はないですから。クザンさんの期待しているようなものは一切ありませんので」
「いやァでもたしぎちゃ……」
「たしぎ姉さんを不埒な目で見るのはやめて下さい」

 じろりと再び冷たい視線。やれやれ、と言っても不埒ってなあ。嫌らしい話を抜きにしても、若い女の子のピチピチした健康的な身体ってのはいいもんなのに。……今のは年寄り臭すぎたな、ナシだ。

「ともかく、そんなわけなんで。わたしは明日休みますけど、クザンさんはきちんと仕事してくださいよ。一日休んでんですから取り戻してもらわないと」
「いや……折角だからおれも行くぞ」

 念のためってやつだ。この頃、少々気にかかることが多い。スモーカーが付いてりゃ大丈夫だとは思うが、この機会にあいつに話しておきたいこともいくつかあるからな。
 おれの同伴の宣言を聞いて、今度ナマエちゃんから返されたのは例の冷たい視線ではなく鳩が豆鉄砲を食ったようなきょとんとした表情だ。はて、おれが付いて行きたがることがそれほど意外とは思えないが。

「……さっき遠回しに来てもいいことないですよとお伝えしたつもりだったんですけど……」
「なによ、そんなに来て欲しくねェのか?」
「そういうわけじゃないですよ。ただ、やっぱり能力者の方には退屈なんじゃないかと思いまして。まあわたしもスモーカーさんを一人ほっとくのも忍びなかったんで、あの人の話し相手になってくれるならそれはそれで助かります」

 彼女ははにかみつつそんなことを言う。なんつうか、あのスモーカーをまるで手のかかる子供が旦那か何かみたいに扱ってるよなナマエちゃんは。全くスモーカーめ、羨ましい限りだ。この歳と立場になってくると、甘やかされたくても甘やかしてもらえないというのに。「どうせクザンさんも一人じゃ仕事しないでしょうし……」とか呟かれてるが、これは甘やかしというより諦められてるだけだしな……。

「――まーまー、いいじゃないの。そんじゃ、明日に備えて今日は早めに……」
「そうですね。折角楽しみが待ってるんですから」

 ナマエちゃんはおれの台詞に被せつつ、問答無用でにこりと笑う。彼女にしては稀に見る、花の咲くようないい笑顔だ。そしてナマエちゃんは手にした大量の封筒の追加分をおれの執務机の上にどさりと叩きつけたかと思うと――

「これ、今日中に終わらせますよクザンさん」

 ……。

 あらら、こりゃ余計なこと言ったかもな……。

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