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ここは
「こーんちは」
船旅には縁遠い、よく通るソプラノボイスと共に、トントンと自室のドアが叩かれる音。同室の友人たちは見張り台に上がっているので、今返事ができるのは僕だけのようだ。
よっ、と立ち上がり、ドアを開ける。その向こうには寝癖の残る柔らかげな髪の毛を揺らす女の子。相変わらずぶかぶかのシャツを着て、首にはなぜかスカーフを巻いている。彼女は僕と目を合わせると、愛想のない顔から一転して笑顔を見せてくれた。
「おはよう、ナマエ。これ、よろしくね」
「はい。ありがとうございます、お兄さん」
まったく女の子というのは存在そのものが目の保養だ。かつてこの船はたしぎ曹長派の独壇場だったが、このたび突然舞い降りた少女ナマエを応援するナマエ雑用派が新興勢力として台頭しつつある。僕もそのひとりだ。
そんな事情はさておき、彼女に部屋全員分の寝間着が詰まったバスケットを渡そうとして、おや、と思う。ナマエの後ろには既に3個もバスケットが置いてある。
「4つも持てるの?」
と尋ねると、彼女は一瞬きょとんとして、ああと相槌を打った。
「ひとつは背負います。残りのふたつは右手と左手、それでお兄さんのは……抱えます」
「ちょっと大変なんじゃない? 僕、今は手が空いてるから手伝おうか」
「そんな、悪いですよ。とか言いませんけどいいですか? それならあと数部屋回るのでお兄さんもみっつ持ってください」
問答無用にどさり、と僕の腕にバスケットが乗せられた。彼女のこういうふてぶてしいところには毎回唖然とさせられるけど、悪くはない。というか、こういう子だからこの船で気丈にやってられるんだろうなと思う。なにしろ一般海兵の畏怖と羨望の的、スモーカー大佐が指揮する軍艦なんだから、みんな気を張っているのだ。
ナマエと廊下を歩いていると、向こうから先輩がやってくる。彼は僕とナマエを見かけると、片手を上げて挨拶してくれた。
「よォ、朝から大荷物だなお前ら」
「こんちは。確かに多いですけど、お兄さんが手伝ってくれてるおかげでわたしの肩もまだ安全圏です」
「ナマエ、もうちょい少しずつやったらどうだ」
「そんなことしてたら夕飯時になっても終わりませんよ。わたしのためを思うんだったらもう少し洗濯物を減らす努力をお願い申し上げます」
「はっはっは、了解了解」
不遜なことを言いながらも機嫌良さげに笑うナマエの頭を撫でやってから、先輩は彼女にひょいと何かを差し出した。
「ほら、いつものお礼だ」
「え、お菓子ですか!」
先輩の手に乗せられた飴玉に目を輝かせるナマエ。甘いものが好きなのかな。というか先輩、そういった嗜好品は船旅では結構貴重のはず……ナマエ、甘やかされてるなあ。
カラコロと飴を転がすナマエと一緒に、さらに廊下を進む。
「お〜ナマエ! おはよう!」
「こんにちはー」
「おつかれさん、ナマエ」
「ありがとうございます」
「ナマエ、これやるよ」
「おお、これはポテチでは!」
「おーい、いいものあげようか?」
「これはお煎餅!いいんですか」
「その……余り物でよければ」
「わたしスルメだいすきです」
……せわしなく話しかけられるナマエ。後半からはただの餌付けだ。
まったく、みんなも彼女が拾われた当初は「海王類を使役する少女」だの「凪の帯を調査するスパイ」だの「人魚」だの「宇宙人」だの「異世界人」だのと言いたい放題だったのに、この手のひら返しときたら。まあ、これも彼女の頑張りあってこその成果だから、僕は何にも言えないけど。
みんなは彼女が成し遂げた偉業……そう、この船の一斉消臭事件以来、ナマエに頭が上がらない。僕らに快適な生活を提供してくれたこの少女を、みんなは親しみをこめて"消臭のナマエ"と呼ぶ。それを耳に入れたたしぎ曹長が、「そんな海賊みたいな呼び方を!」と立腹していたと風の噂で聞いた。
……まあ、それを差し引いても、この不遜でふてぶてしく献身的な少女本人に魅力を感じてる海兵が多いのは否定できないけど。
「お兄さん、手伝ってくれてありがとうございました」
やたら機嫌のいいナマエにそう声をかけられて、目的地に到着したことに気づく。彼女はまたひとつ大きなバスケットに大量の洗濯物を移し替えてから、「お礼」の山を空になったバスケットにしまい込んだ。いつの間にそんなに……。
「お役に立てて何より。……あ、ところでナマエ。君、今日ずいぶん調子よさそうだけど、なにかいいことでもあったの?」
そろそろ僕もお役御免なので、出会い頭から気になっていたことを訪ねてみる。普段から元気な子ではあるけど、今日はなんだか笑顔も明るいし、普段よりも溌剌とした印象だった。
「あ、分かりますか」
ナマエはニコニコ顔で、自分のバスケットを抱え直す。
「えへへ、最近、寝不足だったんですけど、昨晩久しぶりにすっきり眠れたんです。普段はアレだけど、あのふわとろに免じて全てを許せちゃいそうです」
ふわとろってなんのことだろう。というか、このふてぶてしいナマエが寝不足だなんて意外だ。
「君でも慣れない場所で寝不足になったりするんだね」
「全くです。わたしも自分がそんな繊細だとは驚きましてございます」
「なにそれ。寝不足になったことないとか?」
「流石のわたしでもそこまで図太い神経は……してるんですよね」
「してるんだ……。それにしても、ナマエが眠れてなかったなんて知らなかったよ」
「はい、わたしも知りませんでした」
「ええ?」
「そうです、だってスモーカーさ……」
言いかけて、ナマエは「あ」と口を塞いだ。訝しがる僕から目をそらし、彼女はそのまま沈黙を保つ。
……待って、今なんて言ったんだろう。僕の耳が確かならスモーカーさん、と言いかけてなかっただろうか。彼女はうろうろと目を泳がせて……ん?なんか、これ、照れてる……?
「待って待ってナマエ? どういうこと? スモーカー大佐と君ってどういう関係なの?」
「邪推しないでください、ただの知り合いです」
「ま、まさか」
「お兄さん。変に照れてしまったけど勘違いはよしてください。スモーカーさんに寝言を聞かれていたことが発覚したのを思い出して居たたまれなくなっただけなので」
寝言を……って。
「まさかとは思うけどナマエ、君、スモーカー大佐と同じ部屋で」
「ぎゃあ!だから勘違いはよしてくださいって、ほんと!」
その動揺が逆に真実だと伝えてくる。だってこの娘、滅多なことじゃ焦らないんだから。
「スモーカー大佐が、まさか、そんな……」
「待って下さい、わたしとスモーカーさんの名誉にかけて断じて否定させてもらいます。やましいことは全くないです、ってなんでわたしはこんな必死に言い訳をしなくちゃならないんだ」
「あ、わかってる、大丈夫。おおよそたしぎ曹長の部屋が半壊してるから仕方なくスモーカー大佐の部屋でとかそういう感じだって分かってるよ、僕は」
絶望的な目のナマエを宥めるように慌てて弁明する。すると彼女は感動に目を見開いて、「完璧な推理、お兄さん正直舐めてました」と僕を仰ぎ見た。救世主を見るような眼差しに、ああ、申し訳ない。と心の中で謝っておいて。
「でも、その状況自体が大スキャンダルだよね!」
「は」
呆気にとられる彼女に向けて親指を立てて突き出し、僕はその場を走り去った。
後ろから悲痛な叫びが聞こえてくるけど、許せナマエ。僕は君が大好きなんだ。同じ部屋だなんてスモーカー大佐羨ましい。たしぎ曹長を顎で使いながらナマエとも同室なんて……。
この気持ち、誰かと共有せずにはいられまい。うん。
「大々的にはしないから……密かに噂するから、許して……!」
「お、お、お兄さんの裏切り者!」
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