No Smoking


▼ 28-1/3

 西日を受けた波間がちらちらと光を反射している。水平線を覆う薄い雲と、海面に影を落とす鳥の影。ざん、と潮騒が舷側を叩くたび、真鍮仕立ての照明がほんの僅かに身じろぎしている。
 そんな感じの風情ある景色の中、わたしはと言えば落ち着きなく部屋を行ったり来たり。どうにもこうにも無粋な有様だ。とりあえず息を抜こうわたし、一旦ここらで足を止めて深呼吸をするのだ。よし。

「ふう……」

 もう一度吸って、吐いてを繰り返す。……うーん、ちょっと落ち着いたような気がしないでもない。
 やっぱり柄にもなく緊張してんだろか、わたし。なまじ一人きりのせいか、必要以上に浮き足立ってしまってるらしい。これからスポンサーとの顔合わせがあるってのにいけないいけない。なにせわたしの現在地はとある波止場の船の上――ご存知の通り、今日は待たずともきてしまった件のパーティ当日なのである。

 よいせと窓枠に手を掛けて身を乗り出すと、緩やかな潮の香りが鼻に抜けた。目下、広がるのは活気のある大きな港である。もうそろそろ日暮れが近い頃合いなのだろう、湾岸の街並みを縫うように射し込む斜陽は、徐々に彩度を増しながら地に落ちる影を引き伸ばしているのだった。

 ――"赤い港レッドポート"。それは"赤い土の大陸レッドライン"から突き出した巨大な船首(らしきもの)の左右を埋めながら、壁沿いを広がるようにして形成された巨大な港である。シャボンディ諸島の植生に似たこの"赤い港"には二対のヤルキマン・マングローブが聳えており、地面から浮かび上がる気泡は船窓越しにも伺うことができた。聞いた話によると、マリージョアの真下に位置するこの波止場はかねてより様々な面において交易の要とされてきた流通拠点なのだそうだ。

 まあ、そんな講釈はさておき。かくいうわたしは現在、その"赤い港"に停泊したおつるさんの軍艦の一船室にて、借りてきた猫さながらに大人しく待機中である。ご覧の通り、言うまでもなく暇だ。

 どうやら海兵の方々は配備の打ち合わせ中らしく、周囲に人の気配は感じられない。働くわけでもないわたしがこんなとこにいていいのやら……って感じだが、開場までにはもう暫く掛かるとのことなのでひとまず大人しくしているほかなかろう。当初は保護対象云々の話が絡むわけでもないため別便で行こうかとも考えてたのだけど、結局構わなくていいからとわざわざ客室まで与えてもらってしまったのだ。一応、甘やかされ過ぎの自覚はある。
 しかしこの港、ここから見える限りでもずいぶん人通りが多いのはやはり土地柄か。それに建築様式がなんとも独特というか、湾岸には重ねた箱の上に足の生えた逆向きのお椀が乗ってるような感じの妙ちきりんな建物がずらりと勢揃いしている。いや、真面目に考えるとあれは教会なんかの鐘塔に近いものがあるのだが、だとしてもこんなに大量にある理由はやはり謎だ。

「――さてと」

 外を眺めるのにも飽きてきたし、そろそろ時間だろうし、念のため身嗜みチェックでもしとこうかな。身支度についてはマリンフォードを出る前にもう済ませておいてある。まあこれはわたしが自分でやったわけじゃなく、おつるさんや手伝いのお姉さんたちによる仕事なのであるが。
 窓から離れ、服の裾を整えつつ鏡の方へ歩み寄った。部屋の隅にあるのはわたしの背丈以上はある大きめの姿見だ。おつるさんの部隊は女性のみで構成されているため、軍艦といえど鏡なんかの調度品も普通に置いてあったりする。

「……」

 一歩、二歩。やおら鏡の前に立つと、ちょうど能面のような顔をした女と目が合った。

 黒のワンピースドレスに肘まで覆うドレスグローブ、そして厚みとヒールで底上げしている同じく黒のパンプス。見慣れた愛想の悪い面差しながらどことなく馴染みのない顔。よく磨かれた鏡面に映りこむのは、どうにも見慣れない"いいとこのお嬢さん"といった風体のわたしだ。
 うーんしかしなんとも、柄じゃないというか……。鏡にぐいと顔を近づけると、耳につけた真珠のイヤリングが鈍くちらつく。いつもあっちこっち飛び跳ねてる髪は丁寧に整えられてるし、むやみやたらと血色がいいし、睫毛もここぞとばかりにくりくりしてるしで、なんというか微妙に気恥ずかしい。確かに綺麗にはしてもらってるのだが、逆に浮いてるというか、見合ってないというか、日本国民固有の童顔には無理してる感が……ううん、単に見慣れないせいってだけなのかもしれないけど。

 まあでも、仕立ててもらったこのドレスは頂戴してよいとのことなので、それに関しては大変嬉しい。おつるさんが用意してくれたのは、50年代風のレトロな雰囲気でありながらも品の良い黒のカクテルドレス(というらしい)で、フォーマル過ぎない素材感とかスカート丈とかが大変よろしい感じだ。背の低いわたしでもなんとなく縦に伸びて見えるシルエットは流石のおつるさんセレクトである。わたし自身、結婚式とかに――機会があるかは別として――お呼ばれしたときに着てけそうだし気に入ってはいるのだが、しかし襟ぐりが多少広過ぎてる気がしなくもない。とおつるさんに言えば、

「若い娘はある程度肌を露出したほうが映えるんだよ。特にあんたは腕を隠すんだから、このくらい出し惜しみしなさんな」

なんて言われてしまったのだった。わたしのお肌の価値、プライスレス。
 そういえば衣装のデザインに際して、火傷のことに気を使ってくれたのはなんだかんだ言ってもありがたい。なんせこれだけの根性焼き、うっかり見ちゃった方もあんまりいい気分にはならないだろうし。左腕を持ち上げてくるりと腕を返してみる。うん、擦れる痛みも無いし、問題なさそうだ。

「……」

 ぺら、とドレスグローブの裾を指で持ち上げてみる。裾から少し距離をおいて、肘のあたりに丸い痕が一つ。これだけ幅に余裕があればちょっとばかし捲れたとしても平気だろう。確認を終えて元に戻しておく。

 傷跡、近頃はだいぶ見慣れたもんだ。包帯が取れてからも、本部に通うときは一応袖で覆い隠しているのだが、スモーカーさんの意向あって自宅では特に気にせずそのままにしている。こうして大人しく従っているわけだから、結局わたし自身、なんやかんやスモーカーさんにあげた……という謎の事実を受け入れてしまってて参ってしまうのだが。
 それにあの男がやらかしてくれたおかげで、火傷を見るとトラウマより先に気恥ずかしさが出てくるようになったのはどうにもよろしくない。あのとき、スモーカーさんがわたしが覚えているうちは自分のものだ――と言った理屈が今更になって分かってきたというかなんというか。まったくもってあんまりだ。お陰で助かってる面もあるのであまり文句は言えないが……まあなんというか、スモーカーさんに懐柔されきってる自分に対しての不安はなくもないわたしである。



「――ナマエちゃん、ちょっといいか」

 うお、びっくりした。いきなり耳に飛び込んできたのは、軽いノックとドア越しのくぐもった声だ。部屋で一人鏡を見てたことがバレるのは少々気まずいので、それとなく距離を取りつつ「どうぞ」と返事を返す。ん? というか、今の声は……、

「よォ、寛いでるところ失敬……」
「あれクザンさん」

 窮屈そうにドアをくぐり抜けてきたのは、普段よりいい背広を着てるわりに相変わらずだらけきった仕草のおっさんである。ふうむ、しかし別の軍艦で来てたはずの彼がなぜ今ここにいらっしゃるのだろうか。まさかただの冷やかしってわけじゃあるまいし。

「どうしました、なにか用事でも?」
「それがよ……っと、おォ……っ」

 のそりとおもてを上げてわたしに視線を定めるなり、クザンさんは露骨に驚いた顔をしてみせた。本題のことは頭からすっぽ抜けたらしく、わたしの質問に答えもせずに目と口をそれぞれかっ開いたままわたしの姿を凝視してくる。

 そして数秒の無言。……無言。……まだ無言。

 いや、一体何の時間なんだこれ。

「……マナーがなってないですよ、クザンさん。粧し込んだレディに対して讃辞のひとつも無しですか」

 世辞にせよ本気にせよ何か言ってくれないとこっちとしても困るのだが。わたしの皮肉にようやく気づいてくれたのか、我を取り戻したクザンさんは「おっと」と神妙な表情でポリポリと頭を掻いた。流石にちょっと白々しすぎだと思う。

「あー……すまんすまん。いやァ見違えちまった……お前さん、あれだな……かなり化けたじゃないの」
「あんまりいい褒め言葉じゃないですね」
「あらら、コリャおれとしたことが……。しかしなんだ、そうしてるとまるでよく出来たお人形さんだぞナマエちゃん。あんまり綺麗なもんで、おれァまた誰かが置き忘れでもしたのかと。……お前さん、随分と別嬪だったんだなァ」

 うわすごいなクザンさん、結構恥ずかしいことをめちゃくちゃナチュラルに言ってくる。唆しといてなんだがちょっと驚いてしまった。なるほど、こうやってこのおっさんはあらゆる女の子を誑かしてきたに違いない。

「大袈裟ですねえ。でもなんというか、こういう上品なのあんまり柄じゃないんで、とりあえず痛々しいってほどじゃないなら何よりです」
「いんやいやお前さん……そりゃいつものナマエちゃんらしくはねェけどよ、それがむしろ良いっつーか、だからこそグッとくるもんがあるっつーか……。とにかくコリャ、気合い入れて警備しねェとだな」
「そんなおだてたってなんも出ませんからね」
「あらら、褒めろつったのはお前さんじゃないの」
「そりゃまあそうなんですけど」

クザンさんってちょっとオーバーというか、わたしがどんな格好してても喜ぶとこあるからなあ。なにせわたしに何かにつけてコスプレさせたがる彼のことだ、その褒め言葉の信憑性はきわめて低い。
 さて、そろそろ本題に入って欲しいところなのだが、クザンさんはまだわたしの格好が気になるようで顎に手を当てつつふぅんとかへェとか言っている。まじで何をしに来たんだろうかこのおっさん……。この様子を見るにわたしを呼びに来たってことではなさそうだし、これもしや本当に冷やかしなのではという気がしてきたぞ。鼻白んで見やるもしかし、クザンさんは構わず感じ入ったように深い相槌を打つばかりだ。

「ったく、おつるさんもやってくれるよなァ……。後生なんだがナマエちゃん、後でちょっと写真撮らして頂戴よ……折角だし1枚くらい構わねェでしょ」
「えー写真ですか……好きじゃないですけど、まあいいですよ。変なことに使わないでくださいね」
「大丈夫大丈夫、あとでスモーカー辺りに見せびらかすだけだからよ」
「それをやめてください。てか、他の人ならまだしもなんでスモーカーさんなんです? あの人のことだからどうせ似合わないだのなんだの言ってくるに決まってんのに」

 わたしは以前ヒナさんにヒラッヒラの服着せられてちょっとだけ化粧したときのスモーカーさんの反応を忘れてないからな。そうだ、確か色気付くなだのまだ早いだの言われたはずである。今の着飾りっぷりなんて見せてみろ、確実に無理すんじゃねェよみたいな感じでからかわれるに決まってるのだ。間違いない。

「お、なんだナマエちゃん……スモーカーに見せるのはやっぱり気恥ずかしいってか」

 てんで的外れなことを仰る。苦虫を噛み潰したような気持ちでじろりと睨めつけると、なぜか嬉しそうな顔をされた。妙な勘違いされてる気がする。

「別にそういうんじゃないですけど。ただ、わざわざ反応悪い相手に見せるこたないでしょって話です」
「素直じゃねェな。つぅか、スモーカーが反応悪い、……ねェ。おれからすりゃ、あいつも相当ナマエちゃんのファンだと思うんだがな」
「そりゃスモーカーさんはわたしに甘いですけど、外見のことに関しては別問題ですもん」
「くく、んな格好しててもそういうとこは相変わらずだな、お前さんは……」

眉を寄せたわたしの何が面白かったのか、クザンさんは可笑しそうに口角を上げる。なんとなくばかにされてる気はしたが、追求しても墓穴を掘るだけになりそうだったので反論は控えることにした。


「ナマエ、入るよ」
「え、あ、はい?」

 そんな感じにクザンさんとわちゃわちゃやっていると、またもいきなり現れたのはおつるさんだ。ドアから顔を覗かせた彼女も、やはり今日はいつものラフな服装ではなくきちんとした式服を着こなしている。勿論今日はお二方ともお仕事なので、肩に引っ掛けた正義のコートは健在だ。というかクザンさんの場合、コートを着てるところは久々に見たといった方が正しい。

「あ、打ち合わせ終わりました? そろそろ開場の時間ですかね」
「察しの通りさ。見たところ準備はできてるみたいだね」
「ふふ、おかげさまで完璧です。プレゼン用の資料類も鞄に詰めときました」
「よしよし、上出来だよ。最低限の礼儀は守って欲しいが、あまり畏まりすぎないようにね。あんたは自然体が魅力的なんだから」

こちら側へ歩み寄ってきたおつるさんは、そんなふうに軽く微笑みつつ、わたしの前髪の束を軽く整え直してくれる。やっぱりおつるさんもなんだかんだでわたしに甘いよなあ、と思いながら素直に「わかりました」と笑顔を返した。彼女はわたしに応えるように穏やかに眦を下げたあと、するりと視線を上げてクザンさんを見やる。

「クザン、あんたも自分の仕事は分かってるだろうね。あたしの目が届く範囲でサボったりしたら承知しないよ」
「分かってますよ……。ま、いいもん見せてもらったんでね、自然と身も入るってもんです」

 茶目っ気たっぷりにばちんとこちらへウインクをかましてくるクザンさん。だからウインクが似合いすぎるんだよなこのおっさんは……。

「てか、そういえばクザンさん、結局ここに来た理由はなんだったんですか?」

 先ほどおつるさんもクザンさんがここにいることを当然のように受け入れていたので、彼の独断でうろついていたというわけではなさそうなのだが。何か仕事を言いつけられたのだとしたら、この人は全く役目を果たしてないぞ。という告げ口も込めてそう尋ねたのだが、おつるさんはああ、と意に介さず頷いてみせた。

「こいつがいつまで経ってもやる気を出さないもんでね、ちと発破をかけてやったのさ。どうだいクザン、少しは気合が入ったろう」
「いやァまったく、おつるさんにゃ敵いませんよ」
「それじゃ、……つまり、ほんとにただわたしの晴れ姿を見にきただけってことですか」
「まァ、そういうことになるな」
「……はあ」

それでいいのかクザンさん。そんな下心なしに普通に仕事して欲しい。日頃から散々思っていることだが、まじでよく大将続けられてるなこの人……。というか、それをよしとするおつるさんもおつるさんである。

「可愛い弟子を出汁にするなんて酷いじゃないですか、おつるさん」
「おや、一応あんたのために許したことでもあるんだよ。出立前、固くなり過ぎてたから心配してたんだが……見たところ、だいぶ緊張は解れたみたいじゃないか」
「あ、……そういえば」

そうだった、さっきまでかなりガチガチになってたはずなのにクザンさんのせい――おかげでいつの間にか気が抜けていたらしい。クザンさんを寄越したのはこれを見越してのことだったのか。おつるさん、あまりに策士である。これは確かに敵わない。

「さ、ナマエ。そろそろ時間だよ」

 おつるさんが優しくわたしの肩を押す。歩き出すと、先に出口へ向かったクザンさんがドアを開いて待っていた。レディファーストということらしい。流石に様になるなあ、などと思いつつ前を通ると、こちらに優雅な一礼をくれた。素直に格好いい。

 なんだかロマンチックな非日常、どこぞのお姫様になったみたいな高揚感だ。緊張と期待が綯い交ぜになったような感情のまま、わたしは絢爛にさんざめく会場へと足を進めていった。

prev / next

[ back to title ]