No Smoking


▼ 26-1/2

 うーん。……ちょっと小腹が空いてきた。

 そんなことを思いつつ、ソファに座ったまま執務室の壁に掛けられた時計を見る。短針はピッタリ3時の方向、まさしくおやつの時間だ。つまり、この場においてはみんな大好き休憩時間とイコールの意味である。……普段ならば。
 しかしわたしの目の前には、時計なんぞへは一瞥もくれず、机に齧り付いてペンを取る大男。――もとい、海軍大将クザンさん。

 かれこれ数時間、紙面に釘で打ち付けたかのごとく視線を注ぎ続けているこの人は、今も尋常じゃない速度で書類を書き上げ、判を押し、一息置く間も無くまた次の書類に手を伸ばしていく。せせこましく手を動かす彼の執務机の左右には目を通し済みの書類が山になって積んであり、はっきり言って1日でやる仕事量はとっくに超えていた。

 言うまでもなく、どう考えても様子がおかしい。


「あの、クザンさん」

大丈夫だろうか。邪魔をするのは憚られつつも、流石に心配なので名前を呼んでみる。
 なにせやる気というものにとんと縁がないだらけきったこのおっさん、普段なら真っ先に三時だ休憩だのと言い出すのは彼の役回りのはずなのだ。わたしのテンプレの宥め方だって「せめておやつの時間までは我慢してください」などという食べ盛りの子供を持つお母さんのごとき台詞……だというのに、一体これはどうしたことやら。

「んん……?」

 反応は鈍かったが一応耳には届いたらしい。わたしが呼びかけてようやく、彼は書類に向かいっぱなしだった面をのそりと上げた。

「どうしたよ、ナマエちゃん」
「おやつの時間ですよ」
「あァ……腹空いてんのね。これ食っていいぞ」

クザンさんは引き出しからお菓子の包みを取り出し机に置くと、再び作業に戻る。心外な、わたしは腹を空かせた野良犬か何かか。おかげで上司におやつをせびるがめつい奴みたいになったじゃないか。まあ口寂しかったのは事実なので、貰えるものは貰うけどさ。
 礼を言いつつ手を伸ばす。粛々と包みを開くと、中に入っているのはクリームサンドビスケットである。いただきますと言って一口食べた。ああ、疲れた脳に糖分が染み渡る……。

 なんてしてる間にもクザンさんは相変わらず仕事熱心だ。わたしがさくさくとビスケットを噛み砕く音と、彼がカリカリペンを走らせる音がしんとした部屋に響いている。

 ……。

 ううむ……居た堪れない。

「あの、わたし何かお手伝いしましょうか」
「んー……まァ今は大丈夫だ。ゆっくりしててくれ」
「そう言われましても……」

 なにせわたしのやっていることといえば、執務机の向かいでお茶受けをつまみつつ彼を見守るのみだ。休憩時間になる前から手持ち無沙汰だったし、雇われている身としてはお言葉に甘えてばかりいるわけにもいかない。なんでもいいからやることないだろうか。

「あそうだ、確かまた棚の……クザンさんがよく使う上の方が散らかってきてましたよね。その片付けでもしときましょうか」
「いや、高ェところは危ねェでしょ……まだ手だって治ってねェのに怪我でもしたらことだしな。今度おれがやっとくから大丈夫だ」
「ほんとですかそれ。やるってんならお任せしますけど、後回しにして忘れないでくださいね。それじゃあ、ええと……軽く部屋の掃除でも」
「部屋の掃除は昨日もしてたじゃねえの。綺麗好きなのは知ってるが……普段はそこまで神経質じゃねェだろ、お前さん」

ううん、悉く真っ当な駄目出しだ。贅沢な悩みなのはわかってるが、にしたってそこまでわたしに仕事をさせたくないのだろうか、このおっさんは。

「だって、やることがないんです」
「やることがねェってより、ナマエちゃんはもう全部終わらせたんでしょ。堂々とゆっくりしてりゃいいじゃないの」

 うーん、そう言われるとその通りなのであるが。

 しかしこんな会話をしている間もクザンさんときたら手は動かしたままなのだ。普段だらけきった人がこうカリカリ仕事をしているのを前にすると、こちらもなにかすべきなのではという気にもなるのである。なにせここ数日のこの人ときたら、何かに憑かれたのではないかというほどの真面目な仕事ぶりでわたしもそろそろ不安なのだ。溜まっていた書類の山も昨日には片付いてしまったし……ってあれ。

「ていうかクザンさんこそ、もう溜まってた仕事は終えましたよね。今やってるの、もしかしてまだまだ提出が先のやつじゃないんですか」
「あー……一応、早めに片付けておこうと思ってな」
「うっわ、ほんとに大丈夫ですか? そんな真面目に仕事して体調崩したりしないんですか、てかよく見たら顔色が優れないような」
「バレたか……実はちょっと調子が悪ィのよ」
「やっぱり。無理してるなら流石にやめときましょうよ、このままじゃ明日空から氷塊が降りそうです」
「ナマエちゃんが看病してくれるなら……っと」

 言葉を切り、はたとクザンさんが顔を上げた。どうかしたのか、と思いきやわたしの背後から聞こえてきたのはすらりと襖を引く音。
 誰かやってきたらしい。確認すべく振り返ると、そこには意外な人物がいた。

「クザンいるかァい〜? お、ナマエも居るじゃねェのォ、ちょうど良かったねェ〜」

 規格外の長身、縦ストライプの黄色いスーツ、サングラスをかけた伊達男。まだ食べてる途中でしょうがってな風貌のこのおじさんは、クザンさんと並ぶ海軍最高戦力の一人であるボルサリーノさんだ。本日も腹の底が見えない素敵な微笑みが絶好調である。
 しかし滅多にないこともあるもんだ。敷居を跨ぎつつ間延びした口調で手を振る彼に、わたしは思わず目を瞬かせる。彼は普段から忙しくしているので、海軍本部に居てもしょっちゅう見かけるって顔ではないのだが。

「珍しいですね。どうされました?」
「いよいよ例のあれが仕上がったんでねェ〜、忘れねェうちにクザンに伝えに来ようとォ〜……」
「例のあれ?」

なんなんだその怪しげな響きは。警察に聞かれちゃいけないヤクザな取引でもしなさるつもりか。要領を得ないでいると、彼は怪しげなアタッシュケース……ではなく、なにやら既視感のある紙袋をひょいと持ち上げてみせた。

「ほらこれだよォ〜、クザンお待ちかねの」
「……来たか!」

 ボルサリーノさんが言うなり、クザンさんは食い気味に叫んで椅子から勢いよく腰を上げる。うわ、なんだいきなり。さっきまでの微妙に低かったテンションはどこへいったのだ。困惑するわたしに対し、クザンさんはなぜかドヤ顔でガッツポーズをキメてくる。

「よっしゃ……良いタイミングじゃねェの……! ホラナマエちゃん、お前さんに仕事ができたぞ」
「やな予感しかしないんですが」
「ナマエの制服第二弾ができたんだよォ〜今回はわっしも協力したんだァ」

 制服。

 あまり予想してなかった答えに反応が遅れてしまった。なるほど制服か、そういえばそういえばそんな話もあった。
 色々立て込んでいたのですっかり忘れていたが、確か前回のセーラー服事件を経て、ボルサリーノさんを巻き込んで二人で作ってもらうことになってたんだったっけ。そういやあの紙袋、以前のセーラー服のときも同じやつだった気がする。それで見覚えがあったらしい。

 ……しかし、なんだかなあ。

 今回こそちゃんとした制服を用意してもらえると思ってたものの、今のクザンさんのテンション爆上げ具合からして悪い意味で予想を裏切られる気がしてきたんだけど。不安だ。

「制服ってほんとにちゃんと制服なんでしょうね。これでアホなの出てきたらマジでキレますから」
「大丈夫、ちゃんとした制服だ……今回は前回に増してこだわり抜いた会心の出来なのよ」
「まるで期待できない……」

 彼の発言にますます胡乱な気分になる。大丈夫なのかな。前回のこともあり、この件に関してクザンさんへの信用はゼロなのだが。

「まァまァ、とりあえず見てみなさいよォ〜」

訝しむわたしに焦れたのか、こちらへ進み出てきたボルサリーノさんに紙袋を手渡された。受け取ると、結構重い。
 うーん……不安だけど、せっかく作ってくれたものだ。あまり渋るのも失礼だし、ひとまずはありがたく拝見するとしよう。一応ボルサリーノさんも一緒にやってくれたんだし、そんなに酷いってこたないだろう。多分。

 そんなこんなで覚悟を決め、わたしは中年のおっさん二人の視線を受けつつ紙袋の中に手を突っ込んだ。そして思い切り引っ掴んだそれを、腕を突き出して目前に掲げ、ばさりと勢いよく布を広げ――

 ひろげ……、

 広げた、はいいのだが。


「……」

 気が遠くなった。

 ――いや、わたしの目がおかしいのかもしれない。二度見する。ダメだ。いやいや、……なんで? いやいやいや、だってさっき、クザンさんあんなに自信満々だったじゃないか。

「…………」

 冷静に見てみよう。目に入るのは清廉な真っ白の生地、そしてソフトな詰め襟とダブルブレストのボタン。袖はふんわりしたパフスリーブでどことなく可愛らしい印象である。丈はどう考えてもワンピースには短いが、他にボトムスがないことからしてこれ単体で着るのだろう。頭のおかしいミニスカート丈だ。サイドには追い討ちとばかりにスリットが入っている。

「………………」

紙袋の中身に残されている付属品は三つ。ロング丈の手袋。妙に派手な柄のサイハイブーツ。そして極め付けの小さな帽子。一枚の布を折りたたんだような形状のこれは、わたしの知っている限りではつまり、ナースキャップという名のそれである。

 そう、明言するのを避けていたが、現実を受け入れたくはないが、つまるところこれは。

「あの」


――ナース服、である。


「……ふざけてるんですか?」

 手の中で思っ切り白い布を握り潰した。

「まさか、おれァいつだって真剣よ」
「だとしたらアホです。これ、どっからどう見てもナース服じゃないですか! これのどこが……ちゃんとした"制服"なんですか!」

制服を作るという話でどうしてこの発想が出てくるのか。ナース服を握りしめたまま抗議するが、彼は当然のように相槌を打つ。

「そりゃナースにとっての制服つったら……」
「わたしは看護婦さんではありません!」

クザンさんの執務机に詰め寄って両手とナース服を叩きつけると、彼の書き上げた書類がばさりと宙を舞った。しかしあとで書類整理をするのはわたしである。その上クザンさんときたらまったくもって悪びれた素振りがない。ちくしょう。

「一体何がなんだってこうなるんですか、わたしの制服作りはコスプレ大会じゃないって何度言ったらご理解いただけるんです!」
「ここだけの話だが、どこぞの大物海賊がミニスカナースを侍らせていると風の噂で聞いたんでな……あまりに羨ましくてつい」
「大将が海賊を羨ましがってどうすんですか。てかなんで止めてくれなかったんですボルサリーノさん!」
「わっしはちゃんとアドバイスしたよォ〜? ほらやっぱりナースは清楚な白が鉄板、ピンクとかは邪道だよねェ〜って。ほらわっしは清純派が好みで……」
「もういいです聞いてません」

もうだめだこのおじさん達。なんでこの人たちに任せて大丈夫だと思ったんだ過去のわたし。

「大体なんですかこのブーツは……なんでこんな派手なゼブラ模様なんですか」

 紙袋をひっくり返して執務机に中身を撒け、突っ込みどころ満載のそれらに思わずため息を吐く。しかしクザンさんときたら相変わらずのドヤ顔だ。張り倒すぞ。

「例の海賊んとこのナースはヒョウ柄らしいんで対抗してみたのよ。ボルサリーノが白が良いってんで統一感も意識した」
「しょーもない理由ってことですね」
「あららら、酷いじゃないの……絶対領域もスリットの深さも慎重に計算したし、絶対に捲れないスカートの構造だって真剣に編み出したってのに。そんでもってナマエちゃんの火傷も考慮して手袋は肘丈の長めのやつだ。包帯の上からでも違和感のないように伸縮性を重視してある。……結構色々考えてんのよ?」
「別のところで頑張って欲しかったですわたし」

頭痛のする頭を抱えた。これはひどい、本当にひどい。ため息がとどまることを知らない。そこまでしてわたしにこんなものを着せたいのか。一体どういう嗜好なのだ、わからん。
 怒る気力も失せて脱力したわたしに対し、クザンさんは相変わらずの能天気さで嬉しげな笑みを浮かべてくる。そんな彼が次に口にした言葉は。

「まァ勿論、着てくれるよな?」

 ……そんな期待するような目でなにを言ってらっしゃるのか。このど変態セクハラ親父のあだ名にコスプレ好きの称号を冠し始めた手遅れのおっさんは。

「着るわけないでしょう」

隠す気ゼロで全力の嫌そうな声を出した。しかしその程度の抵抗で引き下がるクザンさんではない。

「そんなつれないこと言わねェでくれ……本気で頑張ったんだ、一回でいいから着てくれ」
「今回は何があろうと絆されません」
「着てくれなきゃおれァ泣くぞ。お前さんもおっさんの泣き顔なんざ見たくねェでしょ」
「そんな情けない脅しをしないでください」
「頼む……ここ数日仕事を真面目にこなしてたのは知ってんだろ……あわよくば慣れないことをしたせいでそのまま体調を崩してナマエちゃんナースに看病してもらおうと……」
「悲しいくらい下心に塗れてますね」

やっぱりそういう思惑あってのことだったのか。どうせわたしにコスプレさせてる間、仕事が終わってるからと言ってなんやかやと構ってくるつもりだったのだろう。まったく、クザンさんが自主的に仕事するなんておかしいと思ってたんだ。案の定である。

「――とにかく」

 人差し指を突きつける。ハッキリと断っておこう。何が何でも断固・拒否の姿勢は崩さんぞというアピールをせねば。

「悪いですけど、なんと言われようとこの服は」
「本気で着ねェつもりか?」

突如、組んだ手に顎を乗せ、真剣な表情でこちらを見てきたクザンさん。その海賊を屠らんばかりの強者の眼差しに、流石のわたしも思わずタジタジである。いや負けてたまるか、ここはビシリと言っておかねば。

「ぜったいいやです。これ以上恥を上塗りする気はありません! なので今回は諦めてもらって、次こそわたしが制服のデザインを……」
「まァそう来ると思ったんで助っ人を呼んである」
「は?」

誰、と考える間もなく、クザンさんがやけに芝居掛かった仕草でパチンと指を鳴らした。

 その合図から間髪入れず、執務室横の襖がすらりと開き、予め控えていたらしいひとりの人物が姿を現す。慌てて視線を向け、またまた予想外の人物にわたしは目を見開いた。そう、この人は。

「あ、あなたは入院してたときからわたしの包帯を代えてくれてる医療棟のお姉さん……!?」
「うふふ解説ありがとう。大将青キジから、ナマエちゃんが医療棟のお手伝いしてくれるって聞いて駆けつけたのよ。興味を持ってもらえて嬉しいわ。1日体験の名札も用意したの」
「ほォらナマエ、世話になったんだよねェ〜?」
「な、なんつー根回しの周到さ……!」

 絶対ボルサリーノさんの仕業だ。クザンさん一人ならここまで嫌らしいやり方はしない。大将の職権乱用だ。いつのまにか医療棟のお手伝いをすることになってるし、もはや手違いですとも言い出しづらい雰囲気。くそう、わたしの性格込みで上手く嵌めてきたもんである。腹黒ボルサリーノさんめ、よくもやってくれたな!
 こちらで揉めている様子を見て、ナース服のお姉さんは困り顔で物腰柔らかに髪を掻き上げる。あ、もしかして嫌がってると思われただろうか。

「まあ、もしかして話がまだついてなかったの? ごめんなさいね、少し早とちりしてしまって……」
「い、いえ! お手伝いすることにはなんの抵抗もないんですが……てか別にあれですよね、わざわざナースの格好する必要ないですよね」
「あら、けれど白衣は身につけてもらわなくちゃ。でも予備にナマエちゃんに合うサイズはないわよ? 困ったわ、大将方からはこちらで用意するから構わないと言われていて……」
「う、ぐぐ……」

話ができすぎている。おかげでなんか段々、わたしが駄々こねてるだけみたいになってきたのはなぜだ。
 思えば、前もこんな感じの空気になって押し負けたような気がするし、そして多分今回も、すでに気圧されているわたしはおそらく同じ道を辿る羽目になる。嫌だ。嫌すぎる。

 けどナマエ、見るがいいこのお姉さんの姿を。大将の無茶振りに付き合わされ、海兵でもないわたしに医療棟の手伝いを任せなくてはならない彼女の立場を考えるのだ。なんか楽しんでるように見えなくもないが、こんな提案を通すことにまったく問題がなかったわけがないだろう。その手間をわたしの我儘で無為にしてもよいものなのか。

 ああ、もう、全部こんなヘンタイ親父たちに無駄に権力があるからこんなことになるのだ。くそう!

「大丈夫よ、そんなに難しい仕事はないから。医療棟も忙しくてね、猫の手も借りたいくらいなの」

 うう、お姉さんの善意が痛い。

 ようやく気づいた。あれだ、意外とわたしは押しに弱いのかもしれない。特に服に関してはまったく断り切れたことがないような気がする。悲しい。わたし、ノーと言える日本人になりたかった。

「さァ……ナマエちゃん」
「ほォら、ナマエ〜?」

 ――もうだめだ。

 有無を言わさぬ笑顔を浮かべた二人のおっさんのシルエットに、哀れわたしは抵抗を諦め、重苦しくため息を吐き出した。

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