▼ 24-1/2
雨降って地固まる、と言うのか。
あのゴタゴタからしばらく、わたしは何事もなく平和な日々を過ごしている。いろんな監視が外れ、一人でのお出かけも可能になり、ついでにあれだけ酷かったスモーカーさんの緊張も解れ、仕事させてもらえないこと以外は快適な今日この頃。火傷の治りは緩やかで、依然包帯は手放せないでいるのだが、とはいえそれもあとひと月ほどの我慢である。
ふと窓に視線を投げてみる。うーん、今日も白い雲が棚引く空は高く、広く、晴れ晴れとしたいい天気だ。遠くの方から朗らかな鳥の囀りが聞こえてくる。こんな穏やかな日には、窓を開け放ってすやすやお昼寝でもしたいものだ――。
「――これは一体なんなんだい、ナマエ」
なんて現実逃避している場合じゃない。
応接机を挟んだ向かい側、わたしの正面には白髪をすっきりと纏めた上品な老齢の女性。こと本日も麗しい我が師匠おつるさん。そして机の上には彼女が突きつけてきた小さなガラス瓶が一つ。直球で質問をぶつけてきたおつるさんの声色は、どことなくお叱りのような、お小言のような、そうでもないような。
「……ええと、ですね、それはそのー……」
果たしてどう言い訳したものか。頭に冷や水をぶっかけられたかのような気分で、しどろもどろに意味のない単語を口にする。ええいまったくわたしというやつは、ここに来るまで一体なにを浮かれてたんだ。あほじゃないのか。
というのもある日の午後、おつるさんに呼びだされて彼女の執務室を訪れたわたし。火傷が完治するまで修行は中止と言われて泣く泣く暇を持て余していた今日この頃、「仕事の話がある」と呼び出されては期待しないわけもなく。早くも再開のお達しかとワクワクしながらやってきた、のだが。
はてさて失礼しますと入室した矢先、いつになく真面目な表情のおつるさんに応接テーブルに案内されたかと思うと、彼女が取り出してきたのはこちら、見覚えのあるガラス瓶。中に入っている白い粉は半分ほどに減っていて、その効用が調べられていることはほぼ確実である。そんなこんなでわたしは今、おつるさんの追求に固唾を飲んでいるわけなのだ。
「あのー……なんと言いますか、おつるさんに言うほど大層なもんでもないんですが……」
「"消臭剤"だろう、これは。殺菌効果もある」
「ええ、まあ……」
うう、彼女から妙に圧を感じてしまうのはおそらくわたしの後ろめたさからくるものなのだが。ともあれこの瓶は明らかに、わたしがマリンフォードに来たばかりの頃に量産し、スモーカーさんとこの海兵さんたちに差し上げた例の消臭剤である。
「どうも歯切れが悪いね。あんたが作ったことは間違いないんだろう?」
「いえその、確かにそうなんですけど」
どうしよう、一体これはどういう感情で聞かれてるんだ。てかどうしてわたしが作ったことがバレてるんだ。色々とわからないことが多すぎる。
というかわたしがさっきからなぜこんなにビクビクしているのかというと、ひとつ大きな問題を抱えているからなのだ。なにかというとつまり、この瞬間消臭剤を作るにあたり、わたしは無断でおつるさんのウォシュウォシュの能力で発生した泡を持ち帰って解析なんかをしてしまったのである。なかなか興味深い成果が得られ、ついついその場のノリで開発してしまったこの消臭剤。一応別の材料で再現したので実際に使ったりはしてないが、しかしおつるさんなら自分がモデルにされたのもわかってしまうかもしれない。まじでどうしよう。いやほんと、自業自得なんだけど。
「……ナマエ?」
黙りこくっているわたしに痺れを切らしたのか、おつるさんが急かすように名前を呼んでくる。うう、怒ってらっしゃるのかやっぱり。
「ええと……」
無論、これはどう考えても断りを入れなかったわたしが悪いのだ。そりゃそうだ、おつるさんも勝手に調べられたりしたらいい気はしないだろう。深く反省して素直に謝罪するのが筋である。
そうしよう、全身全霊で誠心誠意謝ろう。わたしのしたことは見方によってはクザンさんもびっくりの変態じみた行いだ。処されて然るべきである。とにもかくにも謝罪だ。
そう覚悟を決めるやいなや、握り込んでいた拳の汗を服で拭う。そして両手を膝に揃え、決心が揺らがないうちにとわたしは深々と頭を下げた。
「――ほんっとに、申し訳ありませんでした!」
おでこを机に擦り付けんばかりに引きおろす。なんならジャパニーズ・土下座も辞さない所存。いっそのこと五体投地だ。
ここでおつるさんに破門なんてされてしまったが最後。二度と彼女を師事することは出来ず、あのヘビースモーカーさんと共存してきた心の支えも絶たれて日々のストレスは増大、最終的にわたしは日頃の空気汚染に耐えきれず家出して路頭に迷うことになってしまうだろう。間違いない。それだけは避けたい。どんな罰でも受けるのでどうか破門だけは――と口走ろうとしたところで。
「ナマエ、あんた何を謝ってるんだい?」
おつるさんの拍子抜けしたような問いかけが耳に届いた。え、と頭をあげると、そこには彼女の鳩が豆鉄砲を食ったような顔。その表情といい声色といい、とてもお怒りというふうには見えない。
……あれ、もしやわたし、なんか早とちりをしたのだろうか。それどころかこれ、むしろ墓穴を掘ったのでは。
「あのう……おつるさん、怒ってらっしゃるんじゃないんですか」
「おや、なにか怒られるようなことでもしたのかい」
「その、てっきり、これを作るのにおつるさんの能力を勝手に調べたのを咎められてるのかと」
と白状しつつおずおず瓶を指し示すと、おつるさんはあっさりした様子で軽く肩をすくめる。
「ああ、それくらい別に構いやしないよ、好きにしな」
「は、はあ。ありがとうございます。けどそれじゃ、なんだってこんなものに興味があるんです?」
「こんなものだなんてあんたが言うのかい? 海兵に配布するくらいだ、自信作なんだとばかり思ってたが」
「一応効果はそれなりに満足いくものにはなってますけど、まだ試作品なんですよそれ。なんか煙幕になっちゃったりしますし……というかおつるさん、それを一体どこで見つけたんです? 配ったと言ってもスモーカーさんとこの海兵さんにだけなのに」
「ああ、あんたは知らないだろうが、うちにはスモーカーんとこの隊に旦那を持ってる海兵もいるんだよ」
な……なるほど、それは完全に盲点だった。そりゃ奥さまなら旦那の持ってる怪しげな白い粉なんて取り上げるに決まってる。くっ、横流しされることはなかろうと高を括ってたのだが、よもやそんなところからバレるとは。
しかしますます分からなくなってきた。わたしの予想が杞憂だったとなると、なおのことおつるさんが消臭剤に興味を持った理由が分からなくなる。わたしがこれを作ったのはだいぶ前の話だし、新開発も進んできた今見るとずいぶん杜撰な作品だと思うのだが。結局これ、なんの話なのだろう。
「ところでナマエ、あたしは『仕事の話がある』と言ったろう。本題はそれでね」
と、ずいと身を乗り出したおつるさん。そう、仕事だ。先ほどの消臭剤が何だったのかよく分からないままではあるのだが、それを聞けば軽率にテンションが上がってしまう。
「もしかして修行再開ですか? わたしこの頃暇で暇で、日々に潤いを失っておりまして……雑用でも使いっ走りでも、させてもらえるだけめちゃくちゃ嬉しいですけど」
「真面目なのは良いことだが、残念ながらあんたの腕が治るまではお預けだよ」
「飴と鞭の応酬、ひどいですおつるさん」
「まあ待ちな、仕事ってのはあたしんとこでやってるのとは別の話なんだ」
心当たりの一つも見当たらずに頭をひねる。つまりどういうことなんだろう、おつるさんがわたしのためによその仕事を紹介してくれるってことだろうか。なぜだ、流石にわたしをクビにするついでの仕事紹介ってわけじゃないとは思うが。
そんなことを考えているわたしを尻目に、おつるさんは机の上にほったらかされていた小瓶を手に取った。視線を向けると、彼女は軽く口角を上げ、どこかいたずらっぽく目を細めている。先程から話題に上がるその消臭剤が一体、なんだというのやら――
「あんた、こいつを売る気はないかい」
「……え」
なんの冗談かとおつるさんの顔を二度見するが、彼女はいたって真面目なご様子。どうやら本気らしい。
「う、売るったって、一体なんでまたそんな話に」
だいたいわたしにはツテもコネもないし、量産できるほどの元手もないし、なにより技術が足りてないぞ。なんとも非現実的な話だが、一体どうしておつるさん、こんな提案に至ったのだろう。
「ああ、それがね。少し前に貴族相手に商売をやってる羽振りのいい男と話す機会があったんだが、その時にそいつがあんたの消臭剤をいたく気に入ってねえ」
「えっ、見せたんですかそれ」
「もちろんさ。勝手に交渉に使ったのは悪かったが、まあ……あたしも制作に関わってるようなものだしね」
麗しい微笑みだが有無を言わせぬご様子。お、おつるさん、やっぱし勝手に調べたことちょっと根に持ってるんじゃないか。
「そういう訳で、スポンサーになるから生産しないかって話を出されてるんだ。ほら、こないだまであんたの周りがきな臭かっただろう。中々話を進めづらくて延ばし延ばしになってしまってたんだが……今は暇してるみたいだし、丁度いいかと思ってね」
「いやいや、そんなうまい話があるもんですか。大体その消臭剤なんて、さっきも言いましたけど大したもんじゃないですし」
「そうでもないさ。その商人は普段香水や薫香を取り扱っているらしいんだが、ここまで徹底して匂いを消すタイプのものは画期的だと言ってたよ」
「ああ、そりゃわたしのは、匂いそのものというよりは匂い源の殺菌が主体ですから……」
まあたしかにわたしの知る範囲ではこの世界、消臭剤の文明ははっきり言って低レベルである。新たに進出する市場としてはかなりの穴場だろうし、目をつけた商人も慧眼だと言えるだろう。いやほんとわかってる、えらいぞ、なにせ現代日本では消臭剤は一つの市場として確立されているのだ。一発当てる可能性は十分にある、消臭を舐めてはいけない。
とはいえ、なんか持ち上げられてはいるがこの消臭剤、実際のところご存知リセッシュだとかファブリーズだとかには依然及ばないレベルなのである。いかんせん結構しょぼいのだ。わたし如きの技術が果たして役に立つのやら……。
そんなふうに頭を悩ませているわたしに、おつるさんは「そう難しく考えなくてもいいさ」と助け舟を出す。
「いい機会じゃないか。クザンのとこで働いてるとはいえ、もしものことを考えると自力で稼いでおきたいだろう? 海軍におんぶにだっこじゃ、あんたも不安なんじゃないかい」
「……まあ、それは」
その点は当然、以前から気にしていることではある。一応クザンさんの元で働いてるとはいえ、わたしの生活費の大半を賄っているのは保護対象としての手当てだ。センゴクさんのことは信用しているのでいきなりほっぽり出されることはないと思うが、海軍に特に貢献もしていないわたしが甘え続けるのはいいことではないだろう。それに加えてわたしの生活費の一部がスモーカーさん持ちなのもちょっとした負い目だ。今後のためにも、なんらかの手段で生活できるくらいのお金を稼がねばと思ってはいたが……。
「今回のことで思うこともあったろう。将来的に考えて、ずっとスモーカーのとこで世話になるわけにも行かないしね。あんたがあいつの所に嫁入りでもするなら話は別だが」
「冗談きついですよ、おつるさん」
「フ、それじゃあんたがそう思ってるうちは選択肢から外してりゃいいさ。……ま、どうだい。悪くない話だと思うけどね。あんたもそろそろこの生活にも馴染んできたところだろうし、たまには別のところで何かやってみるってのも」
おつるさんは訳知り顔でそんなふうに話の軌道を修正する。まあ、スモーカーさん云々はさておき彼女の言うことはおよそわたしの思うところであり、実際この話を断る理由もそう多くはなかった。
突拍子もないことで困惑はあったものの、だんだんと頭の整理もついてきた。どれだけ考えてもわたしには荷が勝ちすぎている話で、やはり実力は足りないと思うのだが……しかし結局のところ、だ。
ひとつだけ自信を持って言えるのは、わたしの消臭に対する情熱というのは人並み外れだということだ。趣味にせよライフワークにせよ、今後もずっと続けていくつもりはある。心の持ちようという点において、わたしは全く怖気付いてはいないのだ。見ようによっては今回の話、利益という副産物が付いてくる時点で美味しすぎるくらいである。いいんじゃないだろうか、どうせやること自体は今までとほとんど変わらないのだろうし。
「相手方を待たせてるとはいえ、急ぐ話じゃないんだ。ゆっくり考えてから――」
「いえ、ぜひやらせてください」
やや食い気味に言い切った。
結論を先延ばしにするこたない。結局、わたしの心は初めから決まっている。時間を置いたところであとはやるための言い訳を探すだけになるんだろうし、どうせなら勢いでいってしまおう。
「おや、即決だね。いいのかい」
「もちろんです、この頃どうも消臭に関しては滞ってきてますしね。元手があればやれることも増えますから、この話を逃す手はないですよ。おつるさんがこの話を持ってきてくれたってことは、海軍的にも問題はないんですよね?」
「そこまで行動を制限はしないよ。提案してきたのも黒いところのない奴だ、危険は無いはずだしね」
「ありがとうございます。不肖ナマエ、"無香の"を冠する者として誠心誠意頑張らせていただきます!」
うん、とにかく頑張ってみよう。失敗したらその時はそのとき、やれることを精一杯やれば後悔もないもんだ。ああだんだん楽しみになってきたぞ。
決意新たに拳を握る。自然と上がる口角をそのままに、わたしは新商品の開発に想いを馳せるのだった。
「それじゃ、今度の社交パーティーに出席してもらおう。例の商人も来ると言っていたし、色々関わりが持てて面白いだろうと思うよ」
「……はい?」
と浮かれていたわたしに対し、唐突に、当然と、飄々と、訳の分からない謎のお言葉をずらりと並べ立てたおつるさん。頭が追いつかずにまんまと混乱する。いや、なん……なんて仰ったのだ、いま。
「なんですかそのしゃこ……」
「社交パーティー。馴染みがないかい?」
社交ぱあてぃ。
ってあれか、あのシャンデリアの付いたキラキラした広場で優雅にお食事してハンサムな男とダンスを踊る感じの……。いやいやまじでなにを言ってるんだ、そんなもの少女漫画と海外ドラマとファンタジーでしか見たことないぞ。実在するのかそんなもの。
「わ……わたし、踊れませんけど」
「心配なさんな、パーティーと言ってもダンス主体じゃなくただの親睦会さね。まあ最低限の身嗜みは整えてもらうが」
「いやその」
「あんたはまだ未成年だが、飲酒については無理に勧めてくるような輩もいないだろうし問題無いかね」
「そうではなく」
「まあ紛れ込んだ子供だと思われないようにだけはさせてもらうよ。きっちり着飾ったらあんたそれなりに見えるんだから」
「おつるさ……」
「仕事相手と対面するんだ、舐められないようにしなくちゃねえ。あんた、マナーはしっかりしてるから心配してないが」
いやいやいやいや、少しは話を聞いて欲しい。わたしはシンデレラじゃないんだぞ、おつるさんはビビデバビデブの魔法使いか何かか。かぼちゃの馬車まで用意してくれそうな勢いだぞこれ。ってそんなつまらん冗談を言ってる場合ではない。
「ちょちょ、待ってください、なんですかそれ。聞いてないですよそんな、それにえーとそうだ、わたしまだ火傷が……」
「ああ、包帯が取れるまで大体一ヶ月くらいかね。ちょうどいい頃合いだ。安心しな、腕は隠せるデザインにするから。近いうちに早速ドレスの採寸をするとしようか、明日は空いてるね?」
「いや、だから、その……」
「あんたのそういう反応がわかってるから事前に言わなかったのさ。しかし相手方から招かれてるんだ、話を受けるからには行かないのも失礼だろう」
うぐぐ、そういう話なのかこれ。要するに向こうが顔合わせの場所をそのパーティ(なんともむず痒い響きだ)……とやらに指定していると。しかしどうしてそんなことになるのか。もしやとは思うがおつるさん、紹介の仕方を間違えたのじゃないのだろうか。礼儀正しいいい子ですよ、的な。
「嫌とは言わせないよ、やるからにはとことんやってもらうからね。大丈夫さ、今回はあたしも参加するし、世界政府に関わる重役や貴族も多いから、毎度のごとくクザンが警備も兼ねて引っ張り出されてくるはずだ」
先ほどに輪をかけて有無を言わせぬ笑み、どんどんわたしの逃げ場を潰していくおつるさん。てかクザンさんもくるのか、たしかにめちゃめちゃパーティー似合いそうだもんなあ。そんで帰り際に仲良くなった女の子を持ち帰るとこまで容易に想像がつく。まあたしかに、彼がいるならなんとも言えぬ安心感はあるけども、いやいや、にしたってパーティーって。スモーカーさんになんて説明したらいいんだ、どうせまた「身の丈に合わないことするんじゃねェ」とかばかにされるに決まってるのに。承知の上だ、嫌すぎる。
しかしこうなると断るにも断れないし、仕事は受けたいし、けど確実に場から浮くのは分かりきってるし、でも心象は悪くしたくないし……ああ。
結局、わたしに選択肢など初めからありゃしないのだ。もうどうとでもなるがいい。
「……ふりふりのやつだけはやめてくださいね」
観念してそれだけ告げた。
そんなこんなでまごついているわたしを丸め込み、結局おつるさんは翌日、どこぞの仕立て屋にドレスの採寸予定を取り付けたのであった。
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