No Smoking


▼ 23-1/3

「――……のは……か――」

 遠くで、誰かの話し声が聞こえる……。

『はい――……に、は――くださ――』

 誰、だろう。こっちは多分、電伝虫越しの音声。……通話を、しているようだ。

 汗は止めどなく流れ出してくるというのに、体は凍えそうなくらいにどうにも寒くて仕方がない。整わない息をぜいぜいと吐き出して、ベッドに横たわったまま、わたしは白く霞んだ視界で音のする方に目を向けた。薄暗い部屋に漏れた光が半開きのドアから差し込んでいて、その向こうから聞き慣れた二つの声が聞こえてくる――。


「――……悪ィな、たしぎ」

 寝室を出てすぐの木棚の上には、固定用の電伝虫が置かれている。受話器を口に当ててそう告げると、我が部下の顔を彷彿とさせる間抜けな顔の電伝虫は、普段よりも幾分か神妙な顔つきで首を横に振ってみせた。

『いえ、そんな、気にしないでください』
「成り行きで連日の休暇になっちまったが……」
『それは仕方がないですよ。ナマエさんが体調を崩してしまったとあっては』

たしぎの発言を受け、半開きにしておいた戸に自然と視線をやっていた。今は眠っているはずだが、耳を澄ませばナマエの寝苦しそうな呼吸音が僅かに聞こえてくる。

 昨日、ずぶ濡れになって散々体を冷やしたせいか、帰宅した夜のうちに悪寒を訴えてきたナマエ。朝になっても起きてくる気配が無いため、よもやと思ってみれば案の定、どうやら本格的に体調を崩してしまったらしかった。林檎のように赤く逆上せた頬を見て、どんなものかと体温を測らせてみたところ、叩き出したのは39度の高熱である。風邪にしては高すぎねェか、と尋ねるも、

「わたし、平熱高いので、たぶん……人並みにすると、38度くらいの症状だと……思います」

ナマエは気怠そうに言って、そのままベッドに潜り込んでしまった。珍しく遠慮も言い訳も口にする元気はないらしく、おれに対する応答も妙に従順で大人しい。それにしても、いつもやたらと暖かいとは思っていたが……実際に体温まで子供のそれなのかと、内心呆れ入らんばかりである。
 おれはといえばそのまま放ってもおけず、結局その後も一日医者やら看病やらに付き添うことと相成っていた。そのままナマエにかかずらっているうちにあれよあれよと時間は過ぎ、改めて本部に連絡を入れた現在、時刻は午後六時を回っている。そもそも今回ナマエに風邪を引かせた責任は多分におれにあるため、不平不満を言う気は更々無いが。


『それで――ナマエさんの体調はどうですか?』

 ふと投げかけられたたしぎの問いに、ぼんやりと記憶を思い起こしていた意識を引き戻す。そう言えば今朝、ナマエの体調が優れない旨だけを簡単に告げたきり、夕方になるまで連絡をしなかったのだ。たしぎも一日気掛かりだったのだろう。

「医者曰くただの風邪だ。熱が高いせいで朦朧としちゃいるが、そのうち下がりだすだろうと」
『そうですか……それなら良かったです』

おれの言葉を聞き、たしぎは安心したようにほっと息をついた。こいつもおれも、ナマエが関わると心配性なのは同じらしい。部下は上司に似るというが、果たして……。

『あの、ちゃんとついててあげてくださいね。ナマエさん、事件の傷も癒えないうちに色々心労も絶えなかったでしょうし、心細いと思うので』

 ぴくりと眉間に力が入る。意外にも鋭い指摘だった。たしぎは基本的に巡りの悪い頭をしているが、こういった場合、時折妙に鼻が効いたことを口にすることがある。あいつにとっては不本意だろうが、所謂女の勘――というやつだろうか。実際男と女では脳の作りが異なるのだ、ヒナにも似たようなところがあるため、強ち偏見でもないように思う。他方、ナマエともなると肝心なところで勘が鈍いのだが。

「確かに、そうらしいな」

薄く煙を吐く。たしぎの言い分は正しい、と思える心当たりは幾らでもあった。つまり、今日のナマエの様子についてだ。案の定、電伝虫は不思議そうに首を捻る。

『と、言いますと……?』
「いや。ただ……かつてなく、殊勝なんでな……」

 弱っているせいだろう、今日のナマエはいつもの子供っぽい羞恥心を忘れてしまったかのようで、その姿は以前酒に酔っていたときの様子に――あれほど酷くはないが――どこか似ていると思う。今まで悪態と虚勢で必死に固めてきた壁は剥がれ落ち、覆い隠してきた儚くおぼろげな少女の像を曝け出して、彼女は蕩けそうなほどの甘さでおれに追い縋っていた。有り体に言えば、いつになく隙だらけなのだ。あれは、なんというか、ひどく……。

『……。だ、だめですよ! ナマエさんがいくら素直で可愛らしくても、変なことをしては!』
「オイ、誰もんなこたァ言ってねェだろうが」
『はッ! し、失礼しました』
「……相手はあのナマエだぜ、誰が手ェ出すか」

自分の口では白々しく嘯いたものの、当たらずも遠からずなたしぎの問いに内心冷や汗をかく。……やはりどうにも勘がいい。自分が、そんなに分かりやすい反応をしている筈はないのだが。

『けれど、本当に良かったです。昨日は、ナマエさんとちゃんとお話しできたんですね』
「……あァ。ナマエを墓地に寄越したのはてめェだろう、たしぎ」
『お叱りにならないんですか?』
「思うところはなくもねェが……このザマで人のことをどうこう言えるほど、おれの神経は太くないんでね。だが……お前には色々と世話をかけたな」
『ふふ、ナマエさんのためですから。でも、傘はあまり役に立たなかったみたいですね』

一丁前の口を利く生意気な部下に、おれは思わず乾いた苦笑を漏らした。

 ……たぶん、スモーカーさんと、たしぎ姉さんが話している、のだろうか。くぐもった耳には、その会話が随分遠くで響いているみたいに聞こえる。不安になった。夢の中の記憶みたいにぼんやりとしたその音が、幻聴でないと言う確信が持てなかった。
 上手く声が出せなくて、水分を失った口からはどうにも掠れた息しか発せられない。わたしの声が届かなかったらどうしようかと、まるで世界の終わりみたいに怯えながら、わたしは乾いた喉を震わせた。

「――……スモーカー、さ、ん……」

 ドアの向こうから、弱々しくおれを呼ぶ声がした。さっきまで眠っていたはずだが、通話の声で眼を覚ましたのだろうか。

「……お呼びなんでな、そろそろ切るぞ」
『今の、ナマエさんですか?』
「あァ、朝からずっとあの調子だ。眼を覚ますたび、確認するみてェにおれを呼ぶ」
『……きっと、不安なんですよ。私が言うことではありませんけど、スモーカーさん、放ったらかしにしてたの反省してくださいね』
「確かにお前に言われる筋合いはねェが、まァ……安心しろ、そのつもりだ」

電話口で、たしぎはほんの少し嬉しそうに笑った。ナマエの影響あってか、こいつもいい意味で図太くなってきたように思う。そのくらいの気概がなくては、上司としても張り合いがないというものだ。

『それでは、失礼します』
「あァ、じゃあな」

 簡単にいとまを告げたあと、通話を切って受話器を置いた。木棚の上に置いておいた灰皿に吸いかけの葉巻を二本押し付け、電伝虫がいつもの無愛想な表情を取り戻したのを尻目に、その場を離れて寝室のドアに歩み寄る。ドアの隙間からは薄暗い部屋と、ベッドの上で小さく膨らんだシーツが垣間見えている。ドア横の壁をトントンと軽くノックすると、身動きした布団の端から、ナマエのうっすらとした視線が投げかけられた。

 リビングの明かりを遮る、背の高い人影が見えた。ああ……スモーカーさん、が、ちゃんとここにいてくれている。わたしがさっき絞り出した声が届いたのだ。胸を焦がすような安堵が広がった。やっと取り戻した日常、当たり前のようにそこにいてくれる、スモーカーさんの姿。

「入るぞ」

掠れた微かな声が、どうぞ、とおれを招き入れた。

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