No Smoking


▼ 22-2/2

 灰色の水平線が見える。もったりと水分を含んだ空気は冷えていて、ときたま空から降り注ぐ小さな雫が頬を濡らしては垂れ落ちていく。船上を吹き荒ぶ潮の香りの風が、わたしの服を膨らませては通り過ぎていった。
 懐かしい心地だ。こんなふうに船のへりに立っていると、いつかの船旅を思い出す。"凪の帯"は、もっと静かな海ではあったけれど。


 到着を知らせる汽笛が聞こえる。

 眼前に広がるのは、たしぎ姉さんから聞いた通り、マリンフォードを出てから三つ目の小さな島。目印の石碑はここからでも見て取れる大きさで、吹きさらされた表面は朽ちて苔生している。かつてクザンさんと訪れた島よりもずいぶんと小さく見えるのは、あの青々とした森と比べて殺風景な物寂しさを湛えているからだろうか。台座のような形をした平らな島からは、わずかな生き物の気配も感じ取れなかった。
 ぽつぽつと降り出した雨がわたしの肩を湿らせてくる。たしぎ姉さんに借りた傘を開いて頭上にかざし、手すりを離れて船を降りる桟橋へ歩みを進めた。小さな定期船の乗客は少なく、せいぜい田舎のバス程度の人数しかいない。この島で降りるのもどうやらわたしだけのようだ。木製のタラップを軋ませ、小さな波止場に足を下ろすと、そこには見送りの船員が立っていた。

 ――お嬢さん、最終便までにはお帰りになりますよう。お気をつけて。

 傘に翳されていて、彼の顔は見えない。傘を持ち上げる気は進まなかったから、ありがとうございますと短く告げて、わたしはそのまま歩き出した。

 海面の高さに備え付けられた波止場は、島の地面よりも低い位置にあるようだ。波止場を抜けたところにある石を積んだだけの簡素な段差を登り、堤防の上に立ち、振り返ってもう一度だけ船を見た。遠くて顔は見えないが、どうやら先ほどの船員が桟橋を畳んでいるらしい。するとこちらに気づいたのか、一瞬目があったような気がしたあと、彼は帽子を脱いで軽く頭を下げてくれた。ずいぶん、慇懃な人だ。

 出発の汽笛が聞こえた。船から意識を逸らし、傘の上でぱたぱたと弾ける雨音を聞きながら、わたしは再び歩き出す。……とにかく、スモーカーさんを探さなくては。




 激しさを増す雨の中、ひとり、墓地を進んでいく。

 大きく区分けされた真っ平らな芝生の上に、ところどころ植えられた小さな木と、気味が悪いくらい整然と立ち並ぶ大量の暮石。ざあざあと傘を叩く強い雨音が、周囲の音を断絶してわたしを小さな世界に押し込める。霧のかかった風景が、より一層わたしの視界を狭めて閉ざそうとする。畦道に似た仕切り代わりの通路を抜けて人影を探すが、行けども行けども、あるのはしとどに濡れる墓ばかり。
 気分が悪くなりそうだ。別に、以前はお墓なんて苦手でもなんでもなかったはずなのだが、この地面の下に大勢の死者が埋まっているのだと思うと、どうにもやりきれない気分になる。錯覚だと分かってはいても、ぬかるみに足を取られるたびにそのまま引きずり込まれてしまいそうな、そんな恐怖に襲われる。雨のせいか左手の火傷も疼いて痛い。怖気付いて振り向かないよう、強くたしぎ姉さんの傘を握りしめた。

「……?」

 どれくらい歩いただろうか。ふと顔を上げると、今までとは少し、感じの違う墓が目に入った。暮石……ではなくて、ぼろぼろのサーベルを地面に突き立てただけの、こんなところに無ければ墓だとも気づけなさそうな、誰のものと知れない質素な墓標。並んだ暮石の終点であることと、朽ちた花束が供えられていることだけが、唯一この剣の意味を証していた。
 はたと顔を上げ、目を凝らして白靄の中を辿る。どうやらその一つを皮切りにして、向こうの窪地にずらりと続いているのは紋切り型の暮石ではないらしい。霧の中、亡霊のように揺らぐ、種々雑多のおぼろげなシルエット、それは――大量の、突き立てられた武具であるようだった。

「なん、だろう、これ……」

 ぽつりと溢れた独り言が雨足にかき消される。

 刃の欠けた両手剣、木目が腐りかけている長身の銃器、柄の折れた長槍、朽ちかけの大砲、砕かれた巨斧、錆びついた兜、ひびの入った盾、――どれだけ目で追おうときりがない。延々と見渡す限りに続く、かつて使われていたであろう、主を失った武器の山――。
 ここがおそらく、死にゆく海兵たちが流れ着く終点なのだろう。死体も残らず、海に消えていった海兵たちが、ここに弔われている。無数に弔われたそのどれもがおしなべて、降り注ぐ雨にまみれてぬらぬらと光っていた。

 それは異様な光景だった。わたしは魅せられたかのように立ち竦んでいた。

 しばし上の空になっていたものの、肌を刺す冷たさに身震いしてわれに返る。傘を差していようとお構いなく、吹き付ける雨風はすでに膝から下をぐっしょりと濡らしていて、肌に張り付いた衣服は容赦なくわたしの体温を奪っていく。
 ああ、そうだ、ぼうっとしている場合じゃない。歩み出そうとして水たまりにぱしゃりと足を突き入れる……と、地面で揺らいだ波紋越しに、この風景の中では目新しい、血の通った色が映っているのが見えた。

「――……、あ」

 息を飲んで、顔を上げる。知らず、目的地に辿り着いていたのか。視線の先、窪地へ降りる階段下すぐの、ひとつの墓の正面に、見慣れた背中が傘もささずに立っている。長柄の十手と、滲んで見える正義の文字を背負った、背の高い、白髪の偉丈夫――わたしの探しびとがそこにいた。

「スモーカー、さん」

咄嗟に名前を呼んでいた。けれど、雨音に隠れるわたしの声は雨傘の内側で木霊するだけで、彼に届いてはくれない。逸る気持ちを堪えて、階段を一段、そしてまた一段と、踏みしめて降りていく。スモーカーさんの背中から目を離さずに、足の感覚で高めの段差を測りながら、更に一段。

「スモーカーさん」

スモーカーさんに、わたしの声は届かない。ふやけて重い靴で泥を跳ね上げ、先走ろうとするつま先で急勾配の階段を突き進む。足早に踏み込んだ段差の残りは三段、二段、そして――

「……っ、スモーカーさん!」

あと一段、のところで、そう叫んだわたしの声に、ピクリと彼の肩が揺れた気がした。

 わたしが足を止めたのはほとんどスモーカーさんの真後ろ、階段を下りきっていないとはいえ、彼の頭を見上げなくてはならないほどの至近距離。たぶん声は届いている。けれど、スモーカーさんは振り向かなかった。ただ、耳に届いた低い声だけが彼の応答だった。

「ナマエ、か」

雨の音に紛れることなく、彼の声ははっきりと空気を揺らしてわたしの鼓膜まで伝わってくる。静かに凪いだ、聞き覚えのある声色だった。

「……はい」
「……。まさか、ここまで……」

濡れそぼった彼の首筋を、雨の雫が滴り落ちていく。こちらを振り向かずにいるスモーカーさんの表情は、その広い背姿に隠れて伺い知ることができない。

「帰れ……、と言っても、聞かねェんだろうな」
「ここまできて、手ぶらでは戻れませんから」
「……懲りねェ奴だ」

スモーカーさんはやはり顔を背けたまま、そこで言葉を切り、逡巡するように黙り込んだ。会話が途切れて沈黙が降りる、……と言っても降り止まぬ雨音は煩わしいくらいであるのだが。わたしたちは探り合うように、長い長い数秒間、そのまま口を閉ざしていた。


「それ……」

 重たい口火を切ったのはわたしの方だった。

「誰の、お墓ですか」

返事を期待せぬままにそんなことを問う。そんな話をしに来たわけじゃないだろう、と一蹴されてもおかしくなかったけれど、スモーカーさんは意外にもあっさりと、わたしの問いへの返答を口にした。

「……部下だ。この列は全部。その後列は同期だった奴らの墓……他に先達も、後輩も居たはずだが、今となっちゃァ、顔もはっきりとは思い出せねェ」

わずかにかしいだスモーカーさんの首の動きで、手前の墓を見やったのがわかる。案の定、そこにあるのは比較的新しいもののように見える、破損した一本の片手剣だった。

「こいつは、おれの指示の甘さが原因で死んだ」
「……!」
「だが……」

 彼は起伏のない淡々とした声で言葉を続ける。無理にそうしている様子はなく、それはまるで太陽が東から昇ることを話しているような、ひどく公然とした語り口だった。

「おれは自分の行動を後悔しちゃいねェ。確かにおれに抜かりはあったが、かつての最善手は間違いなくこれで、こいつ自身にも覚悟があった。名誉のある死だなんだとは言えねェが、少なくともこの死を理不尽だとはおれは考えなかったし、それはこれからも変わらない」

どこか冷静すぎる、情の薄い言葉ではあったけれど、おそらくこれはスモーカーさんの本心だ。確かに、この人ならそういうふうに受け止めるのだろうな、と納得する自分がいた。らしくもなく饒舌に、珍しくつらつらと言葉を紡ぐスモーカーさんは、一体なにを思っているのだろう。

「死を、恐れたことはねェ」

 息を吐くように、続く言葉が紡がれる。

「何度かあった死を覚悟する瞬間でさえ、おれはてめェの命を惜しいとは思わなかった。それはいつか当然訪れるべきもんで、あるのはせいぜい早いか遅いかの違いだけだ。生き抜く方が難しいこの時代、命ひとつなんて大した重さじゃねェ。その量は他人であれ自分であれ、等しく同じ目盛りだ。誰が命を落とそうと、悼みはしても恐れることなんざあるはずもない……」

雫が、はらはらと伝い落ちていく。


「そのはず、だった」

 スモーカーさんが振り返って、初めてしっかりとわたしを捉えた。雨の中で透けて見える、その眼差しには苦渋の色が浮いている。濡れて消えかけた葉巻の火口が、湿気った煙を吐き出した。

「お前が、……唯一の例外だった。反抗的で、不遜で、馬鹿なくせして、人一倍弱いお前が。なにもかも小せェうえ、吹けば飛ぶように脆く、目を離した瞬間死にかけるような……それなのにどうしてお前の命を、他人と平等に測れねェ」
「……。スモーカーさんの言うほど、わたしは弱くはないですよ」
「お前の言い分なんざアテになるか。口では死にたくないだのと宣っちゃいるが、お前は肝心なところで自己犠牲に走るきらいがある。真っ先に命を取るなら、なんで昨夜、おれから逃げようとしなかった?」

咄嗟に反論しかけて、しかし上手い言い分も思いつかなくて口を噤む。だって、スモーカーさんがわたしを本気で手にかけるわけがないじゃないか――と言いたくても、悉く反論されるのは目に見えていたし、言い争ったところで意味がないのも明らかだ。
 しかし本題に立ち返ってみても、スモーカーさんの唯一、という言い方を、どう受け止めたらいいのかわからなかった。手放しに自惚れるのは簡単だ。少なくともスモーカーさんの中にわたしという存在が落とし込められているというのは錯覚ではなかったのだと。けれど、それはたまたま偶然、わたしを拾ったせいで芽生えた庇護欲とか、責任感とかいった、要は刷り込みなんじゃないだろうか。だとしたら、それを素直に捉えてしまうのは軽率であるようにも思える。


「……おれを責める気はねェのか、ナマエ」

 わたしが問いに答えないでいると、ふとスモーカーさんが口を開いた。一体なんでそんなことを聞くんだろう。瞬きをして睫毛に乗った雫を払い、じっと彼の目を見つめ返しても、その意図は分からなかった。

「……、責める理由がないでしょう」
「理由ならある」
「あったとしても、そんなことする意味はないです」
「……お前はいつも、甘すぎるんだ」

そんなことを口にしながら、雨で流れ落ちた葉巻の灰を踏みつけて、スモーカーさんはこちらへ歩み寄る。今日はわたしも退くことはせず、ぬかるんだ地面を踏みしめたまま、近づいてくる彼の顔の高さに合わせて段々と傘を持ち上げていく。やがて真正面に向かい合うかたちに、傘の露先が触れてしまいそうな距離で、スモーカーさんは足を止めた。

「……お前が攫われたのも」

 間近に声が聞こえる。傘をくぐり、伸ばされたスモーカーさんの右手。水の滴るずぶ濡れの革手袋が、わたしの首に掛けられたチェーンに触れる。水滴が鎖骨を濡らし、そのまま服の内側に流れ落ちていった。

「この、傷も……」

流れるように肩から腕に落ちてゆき、そのままスモーカーさんの手がそっとわたしの腕を取る。少し湿った包帯の上をつつ、と指の腹で撫でやって、彼はどことなく苦しげに息をついた。

「元を辿れば、おれのせいだろう」
「……どうして、そうなるんですか」
「おれはお前を海軍本部に連れてきたことを、悔いている。こうなる前に手放すことだってできたはずだ。何が最善なのか決断できないまま、おれは妙な執着でお前を縛り付けた」

そんなばかなこと。だってここに残りたいと言い出したのはわたしの方だ。スモーカーさんが引き止めたことなんて――。いや、スモーカーさんが後悔しているのはわたしを無理矢理にでも追い出さなかったことなのかもしれないけど、だとしても、とにかく、責任が誰にあるかなんて言い出すこと自体がお門違いだ。責任ならわたし本人にも、わたしを保護対象にしたセンゴクさんにも、理由はぱっと出ないが多分クザンさんにも、他の人にだってあるはずだろう。それをどうして、行き過ぎた義務感で背負い込んでしまうのか。

「だが、もう潮時だ。それも、とうに遅すぎるが」

 そんなふうに、わたしになんの断りもなく、勝手に自己完結されては困るのだ。反射的に彼を睨み付け、わたしは反論にわななく唇を開いていた。

「なんでですか。何も遅くなんてないし、拉致の件も片付いたいま、変えなくちゃいけないことなんて何もないじゃないですか。わたしはまだここで、こうして生きてるんですよ」
「ナマエ」
「突き放したところで、今更海軍との関係は断ち切れないし、わたしがいろんな面で危なっかしいのは変わりません。スモーカーさんの目が届かないどこかで勝手にのたれ死んでもいいんですか」
「そんなことにはならねェ、お前を放り出す気は無いと言っただろうが」
「それがおかしいんですよ、そんなん今までと危険性変わらないどころか上がるじゃないですか! スモーカーさんが帰ってこないから、本気でわたしを見限ったのかもしれないと思ったんです。そのときは、わがままを言わずにどっかに行ってしまおうと思ってました」

感情に突き動かされているみたいに、言葉が溢れ出していた。スモーカーさんが眉を歪める。わたしを非難できないと自覚しているらしくても、隠しきれない不満がその表情に滲んでいた。

「でも、おかしいですよ。わたしのことが相変わらず心配なくせに、離れてこうとするなんて」
「……、」
「それならいくらだって重荷になってやりますとも。大体、わたしが一人になると眠れなくなるの知ってるでしょう。ここ数日ほとんど眠れてないの、誰のせいか分からないとは言わせないですよ。不安になるんです、スモーカーさんがどう思おうと、あなたがわたしを見放した瞬間に、わたし……」

声が震えた。瞼を伏せて目を逸らし、行き場のない視線はスモーカーさんの手のひらに収まったわたしの腕へ泳いでいく。口にしたくない、縋るような言葉が喉で痞えていた。

 雨音が鈍く反響して、くぐもった音を耳元で鳴らしている。唇を噛み締め、わたしはぽつりと呟いた。

「――昨日と同じことを、また言わせるつもりですか」

 スモーカーさんの、短く息を吐く音が聞こえた。



「え――」


 傘が、わたしの手を離れて宙を舞う。

 雨の温度が髪を濡らし、けれど、冷たさは感じなかった。それはすでに全身冷え切っていたからかもしれないし、あまりにいきなりのことに混乱していたからかもしれないし、触れた彼の体が思いのほか暖かかったからかもしれなかったが、そんなことを言ってる間に背に回ったスモーカーさんの手のひらの感触は間違いなく確かである。背後で傘が地面に落ちる音がする。スモーカーさんは縋るようにわたしの肩に顔を埋め、強く、わたしを抱きすくめていた。

「もういい。……自分の言い分が、矛盾していることは分かってる。おれはただ――怖いだけだ」

濡れた生地越しに、肩へスモーカーさんの息がかかる。高めの段差の分だけ、いつもより彼との距離が近い。

「あのときも、お前が……生きていると分かっていた。それでも、あのときに喪っていた可能性を思うと……肝が冷える」
「あ、え……あ、の」
「お前を喪うのが怖い、ナマエ。お前を失ったとき、自分がどうなるのかが分からねェ。今までこんな風に思ったことは無かった、なのにたったの数ヶ月、過ごしただけのお前が、どうしてここまで――」

顔に当たる雨のせいで、上手く目が開けられない。腰に回ったスモーカーさんの手が、わたしの体を強く引き寄せる。どくどくと鳴り止まぬ心臓がうるさい。血の昇った頭で、いつかもこんな風に、抱きしめられたことがあるのを思い出した。確かあれは……あの、喧嘩した日の夜、だったろうか。

「おれが希うのはただ、お前が毎日を平穏に過ごすことだけなのに、どうしてそんな簡単なことすらも叶わねェんだ」

 背中を這う彼の指に、くつと力が入る。スモーカーさんの声はわずかに揺らいでいた。

「おれの手に負えねェほどに、お前を縛る枷は多く、堅牢だ。もし、お前をそんな状況に追い込んだ責任が海軍と関わりを持たせたおれにあるとしたら、お前と距離を置く以外の方法で、おれは……一体、どう報いればいい?」

溜め込んできた何かを吐露するように、スモーカーさんはらしくもなく揺れた声で言葉を連ねていく。それも、わたしが認識していた以上に、実直な良心で。

「どうしてお前にここまで執着しているのか、分からない。突き放してしまえばごちゃごちゃと悩まずに済む。それなのにおれは、……」

吐き捨てるような語調と裏腹に、まるで離すまいとするかのようにいっそう強く、スモーカーさんはわたしの体をかき抱く。


「初めて手にした何かに、今まで培ってきたものを覆されるような、そんな予感がしてやまねェのに――」


 ――このひと、は……。

 その言葉で、その声で、ようやっと、スモーカーさんの内心に触れられた気がした。

「……スモーカーさん、わたし」

おずおずと彼の背に手を回した。恥とか、体裁とか、そういうものをすべて追いやって、わたしはこの人に応えなくてはならないのだと頭のどこかで理解していた。

「それってきっと、すごく……普通のことなんじゃないかなあ、と思うんですよ」

雨に濡れた分厚いジャケット越しに、スモーカーさんの硬い背中の感触が伝わってくる。

「だから、怖がらないでください。無理に突き放そうとしないでください。わたしの無事を希ってくれるなら、責任持って傍に置いてください」

そんなことを口にしながら、こうして自分の意思でスモーカーさんを受け入れたのは、初めてだということにふと気がついた。もしかすると……今まで散々この人を拒絶してきたのは、わたしの方だったのかもしれない。その原因には葉巻の弊害が大半を占めているとはいえ、単純にそれだけの話ではなかったような気もする。
 頭を傾けると、耳がスモーカーさんの首筋に触れた。彼は黙ったまま、けれどわたしを抱き寄せて放そうとはしない。慣れない空気感が気恥ずかしくて、わたしは誤魔化すようにほんの少しだけ悪態をついた。

「大体、変わるのが不安だなんて、それこそスモーカーさんらしくもないですよ。意気地が無いって、今詰ってさしあげたほうがいいですか?」
「……うるせェよ」
「あはは」

まるで子供みたいな言い方で、そんな言葉を返したスモーカーさんがおかしくて笑えてしまった。そんなことで、自分の体から緊張が解けていくのがわかる。結局……わたしが思うに、簡単なことだったのだろう。ジャケットに触れる手に力が篭る。

「スモーカーさんが過去に、どんな生き方をされてきたのかはわかりません。けど、大事な人を亡くしてしまうのが怖いって、本当はもっと当たり前に、誰しもが持ってる感覚なんじゃないかと思います」

 子供のころの、一人で留守番をする夜だとか、人が死ぬ映画を見たときだとか。そういうとき、身近な人の死を想像して、怯えて泣いた記憶があった。誰だって、きっと、大切な誰かが死ぬのは怖いのだろう。

「それって、きっと……上手く言えませんけど、親愛とか、家族とか、共存とか、そういったものなんじゃないですか? スモーカーさんは多分、離れがたいくらい密接な人間関係というものに、今まで触れてこなかっただけなんでしょう」

その相手が多分、わたしなのは……どうしてなのか、いまいちわからないけれど。





「――あァ、そうか」


 痞えていた何かがすとんと腑に落ちたような、複雑にこんがらがった糸がするりと解けたかのような……そんな声で、スモーカーさんはぽつりと呟いた。

「……?」

 なにが「そうか」なのか、よくわからなくて首をひねる。わたしの発言に対して、というのとはまたちょっと違う気はするが、その納得がどこに向いていたのかはどうにも不明瞭だった。

「なにが、ですか」
「……いや」

 スモーカーさんは短く断ってから、ゆっくりと身を起こした。人肌の熱が離れてようやく、彼の体温の名残惜しさと、雨に濡れる服の冷たさを思い出して身震いする。降り注ぐ雨粒が目に入らないようにそうっと見上げて、やっとスモーカーさんと視線を通わせた。
 スモーカーさんは、まるで初めて見るもののようにしげしげとわたしを眺めていたかと思うと、やがて何か得心が入ったかのようにふつと視線を和らげる。彼は火の消えた葉巻を咥えたまま、胸のつかえが取れたような、妙に清々しい表情で、軽く口角を上げてみせた。

「おれも、たしぎにばかり鈍いたァ言えねェらしいと思っただけだ。その点、お前も大概だがな」
「え……、え?」
「家族だのなんだの言いやがって、もっと上手い言い方があんだろうが」

いきなりけろりと話し出したスモーカーさんは、唖然としてしまうほど飄々とした調子である。……しかしちょっと理解が追いつかない。これは一体、どういうことなんだろう。だってさっきまでスモーカーさん、今にも吐きそうなくらいいっぱいいっぱいだったように思うんだけど。それに一番引っかかっている、さっきのそうか、とやらは一体なんだったんだ。
 その疑問が思いっきり顔に出ていたのか、スモーカーさんは呆れたようにわたしを見て、ほんの少しだけため息を零した。

「お前は……肝心なところを分かっちゃいねェな」
「な、なんなんですかその言い方」
「そんなぬるいもんじゃねェってことだ。おれの人間性の解釈は一理あるが」
「そのいやみな言い回しやめてくださいよ……」

何一人で勝手に納得しちゃってるんだ、この人。わたしの今までの必死な説得は一体なんだったというのだろう。せめて、少しくらいは意味があって欲しいものだけど。そして何より癪に障るのは、彼の声が常になく、こっちが照れてしまうくらい柔らかなものであることだ。なにか大事な無くし物を取り戻したみたいに。
 かつてなくわたしをおちょくってくれたスモーカーさんは、これまた素知らぬ顔でわたしを見て、愉快そうに、かつひどく優しげに笑みを深めてみせた。

「おれと一緒に居たいつったろう、ナマエ」
「……そんなこと言ったような言わなかったような」
「ハッキリしねェか」

 確認するまでもないくせに。それなのに、わたしがさっき言い渋ったことを改めて尋ねてくるあたり、スモーカーさんの性格の悪さが伺える。

「……そりゃまあ、言いましたけど。深い意味はないですよ、ほんとに。で、それがなんなんです?」

またからかわれるのを覚悟して認めると、意外にもスモーカーさんは鷹揚に「そうか」と口にして、そのまま穏やかに眦を下げた。

「なら、今は……それでいい」
「なんですかそれ、ハッキリしてくださいよ」
「そりゃおれの台詞だろう」
「わたしはちゃんとハッキリさせたじゃないですか」
「お前がもう少し大人になったら話してやる」
「それ思っきし子供扱いですよね、わざとですか」

やっぱりスモーカーさん、この段になって適当に言いくるめて煙に巻こうとしてるらしい。相変わらずずるい人だ。不満あらわに噛み付くと、彼は悪戯っぽくにまりと笑って、いきなり水浸しの腕をわたしの腰に回してきた。

「わ、……!」

 ふわりと軽い浮遊感がした途端、高々と体を抱え上げられていた。彼の頭を抱き込むような形で慌ててしがみつくと、スモーカーさんはわたしの胸元に顔を寄せてかすかに笑い声を上げる。そのまどかな横顔になんというか、妙にどきりとしてしまったのだが、……きっと気の迷いだろう。あるいは気の緩みとかそんなんだ。

「これで分かっただろう?」
「なにがですか」
「てめェをガキ扱いすんのはわざとってことをだ」
「……わたしをいじめるのはそんなに楽しいですか」
「違ェよ、お前のためにやってんだ」
「なに言ってんのか全然わかりません」
「だろうな」

だめだ、スモーカーさん、何にも説明してくれる気はないらしい。脱力してため息を吐き出しつつ、ことりと頭を傾けて、わたしは彼の濡れて柔らかな髪に頬を埋める。なんだかんだ言っても安心できる、男の人の匂いがした。

「やっぱりスモーカーさんはわけわかんないですね」
「そう言うお前も相変わらずだがな、ナマエ。……だが、悪くはねェ」
「それってつまるとこ、今までと同じで良い……ってことですか?」

 頭を上げ、珍しく見下ろす形で彼の頬に手を添えて、自然と視線を交わらせた。流れ落ちる雨粒が下へ下へと風景を攫っていってしまうから、視界の中で確かなのはスモーカーさんの姿だけだ。この人ときたら頭からバケツを被ったんじゃないかと思うくらいにぐしょ濡れで、彫りの深い目元には雫も溜まってきているし、額には鮮やかな白髪が幾筋か張り付いてしまってるけど、恐らくはわたしの方も人のことは言えないざまなんだろう。

「それなら、一緒に帰りましょう。スモーカーさん」

 返事は聞かなくてもわかっていた。……詳しいことはわからないけど、きっとスモーカーさんの中で、なにかしらの決着はついたのだろう。

 濡れて張り付いた衣服越しに触れる肌が、いつにも増して熱い彼の体温を伝えている。雨の雫を瞼で遮るように、こちらを仰ぐ彼は柔らかに目をすがめた。

「……敵わねェな」
「よく言われます。流石のスモーカーさんもお手上げですか」
「さァ、どうだろうな」

曖昧に笑えども、わたしを抱えたまま歩調を伝えて揺れた彼の体が、返事の代わりに他ならない。

 頬を打つ雨はますます激しさを増す。滝のように降り注ぐ雨の中、お互いの姿を手繰るように、わたしたちは身を寄せていた。階段を歩むスモーカーさんが、そっとたしぎ姉さんの傘を拾い上げる。今更頭上にかざされた雨傘の布地を叩く雨音が、今は、耳に心地よく響いて聞こえていた。

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