No Smoking


▼ 21-4/4

 ――深夜。

 塞いでいた瞼を開く。カーテンの掛かったガラス戸を、街灯の朧げな輝きが照らしている。けれど部屋は深い夜色に沈んでいて、依然、朝の訪れは遠かった。

 どうにも寝付けなかった。その理由は不安だとか眠るのが怖いとかではなくて、やはり落ち着かない、というのが適当だろう。経験上、入眠速度に関しては自信があったのだが、やはり今晩は考えることが多いせいなのか……珍しいこともあるものだ。もちろん睡魔がやってこないというわけではないので、こうしていると眠いっちゃ眠いのだが、どうにも。
 目を瞑っていても眠れないのでは埒があかない。肩に引っ掛けてあったブランケットがずり落ちるのをそのままに、わたしはおもむろにソファに横たえていた上体を引き起こした。のろのろと首を巡らせ、空の灰皿が載ったテーブル、ソファの影に隠れたスリッパへと順繰りに視線を移す。部屋は真っ暗だが、目を凝らせばなんとか見えないこともない。ひんやりとした床に裸足を下ろし、爪先の感覚でスリッパを手繰り寄せた。

 水でも飲んでおこうかと、瞼をしばたたきながら足を引きずり、ソファを迂回してキッチンへ向かう。シンク脇に置いてあったコップに水を注ぎ入れ、喉に流し込むと、その心地よい冷たさに幾分か清々しい気分になった。余計目が冴えてしまったので逆効果だったような気はしなくもないが。
 ま、どうせはじめから寝不足なのだ、眠れなくてもなんのことはない。今日はもう徹夜覚悟で、横になるだけなっていよう。正直、悪夢を見るよりは眠れない方がメンタル的にはましだ。今はおそらく緊張しているから目が冴えてしまっているだけだろうし――


「――、ん?」


 ふと。

 玄関の方から、物音が聞こえたような気がした。具体的になんの音とも知れない、いつもなら意識に引っかからないほどにかすかで、そもそも本当に音がしたのかも判然としないほど些細なもの。なにせこんな真夜中だ、やはり空耳かもしれない。いや、真夜中だからこそ、そんな小さなことにも違和感を覚えたのだろうけど。

 まあ気のせいにしろ、確認くらいはしておいても良いだろう。鍵をかけた記憶はあるのだが、念を入れるに越したことはない。

 自然とダイニングの出口へ足が向く。仕切りのドアを開き、常夜灯が薄ぼんやりと照らす玄関前の廊下へ。多少明るいので先ほどより視界は明瞭だが、やはり特におかしなところはない。
 戻っても良かった……のだけど、わたしはどうしてだか、そのまま引き寄せられるように歩みを進めていた。そっとドアの方へ向かい、玄関マットを跨ぎ、部屋履きスリッパのまま玄関の段差を降りる。立ち止まってふり仰いでも、玄関ドアは素知らぬ顔でわたしを見下ろすばかり。部屋は相変わらず静かなままだ。

 ともすれば、物音は外からしたのかもしれない。どうしてここまで気にかかるのかは分からないが、一応確認だけでもしておこう、と。わたしはさらに一歩足を進め、鍵がかかっているはずのノブに手を伸ばし、そして指先で金属の冷たい温度に触れ――


「――え」


 ガチャ、と、鍵を差し込むときの硬質な音が、ドアの向こうで鳴り響いた。反射的に手を引っ込めるが、今の音はどう考えてもわたしの動作とは無関係だ。間髪入れずに続く金属の摩擦音、カチリと錠が外れた音、そして鍵を抜き取る音。

 ――まさか、そんな。

 衝撃に打たれた頭が麻痺している。瞬きすら忘れて目を凝らす。心臓が早鐘を打っている。

 ゆっくりと、ひとりでにドアノブが動く様子に息を飲んだ。扉が薄く開いて、嗅ぎ慣れない外気が吹き込んでくる。咄嗟に半歩、後ろに下がっていた。
 警戒心は既に消え失せてしまっている。だって、普通に考えて、この家を訪れる人物の心当たりなど一人しかいない。そう、だからつまり、ここにいるのは。


「……スモーカー、さん?」


 不本意ながら馴染みのある、白煙の香りがした。

 暗闇の中に浮かび上がる背の高い人影を見上げていた。以前も、こんなふうに玄関で鉢合わせたことがあるのを悠長にも思い出す。ドアの隙間に垣間見えた空は相変わらず天気が悪いのか、月明かりも伺えず塗り潰されたように黒い。そんな中浮かび上がる彼の白い輪郭はどうにも不確かで、一瞬夢か幻かと、ばかげた錯覚をしてしまいそうになる。

「ナマエ、お前」

 低く掠れた、聞き慣れた声がわたしの名前を呼ぶ。

 入り口をくぐり、玄関に足を踏み入れたスモーカーさんが、薄暗がりの中ですらわかりやすいほどの驚きを貼り付けた表情でわたしを見ていた。何故、とでも言いたげに。だが、それを問いたいのはわたしの方だ。だって、こんな、信じられない。なんでこのタイミングで、スモーカーさんが今、ここに?

 玄関の扉がゆっくりと閉まる。スモーカーさんは釘で打ち付けられたかのような視線でわたしを見据えている。
 彼はわたし――のクザンさん曰く酷い顔――を凝視しながら、告げる言葉を探しているように見えた。わたしとのこんな形での遭遇は、多分この人の予想外だったのだろう。おそらくスモーカーさんは、わたしに会うつもりはなかったのだ。そうでなくてはこんな時間を帰宅に選ぶはずがない。

「……こんな夜中に、どこに行くつもりだ?」

 苦々しげに、ようやく綴られた一言。言葉の端々に非難の色が浮いている。それはまるで娘の夜遊びを咎める親さながらの口ぶりだった。

 ふつり、と呆れと苛立ちがこみ上げる。

 ――なんなんだこの人は。わたしを散々放置しといて、まだ鬱陶しくお節介を焼くつもりなのか。なんという面の皮の厚さ、一体何がしたいんだかますますもって分からない。
 大体なんでわたしが責められなくちゃならないのだ。わたしは戸締り確認に来ただけであって、どっかに出かけるつもりなんざなかったのに。しかしそれを弁明するのも癪に触る。だってわたしが本当に出かけようとしていたとして、なんでいちいちスモーカーさんの許可を取らなきゃならないんだ。まるで反抗期の中学生みたいなことを言っている自覚はあるが、この人は親でもないし、現在はネグレスト気味だし、そのくせ過干渉だ。ため息を飲み込んで口にしたわたしの声は、想定より幾分か刺々しいものになっていた。

「わたしがどこに行こうとしてようと、スモーカーさんに関係ありますか」
「んなことは問題じゃねェ。……無鉄砲にも程がある、せっかく助かった命を早々に捨てる気か」
「夜に出歩くくらいで大げさすぎです」
「本気で言ってんのか。拉致されてから日も浅いお前に、よくそんな事が言えるな」
「それは状況が状況でしたし、……いえ、今はそんな話がしたいわけじゃないんです。とにかく」

 今無駄な口論をしたところで意味がない。わたしが聞きたいのは、そんなに心配ならどうして突き放したのかということで、だから、つまり――

「なんで今まで帰ってこなかったんですか」

 そうだ、一番聞きたいのはそこである。覚悟はできている。たとえわたしに非があって突き放されていたとしても、受け入れる覚悟は。思い切りよく尋ねると、スモーカーさんはどこか忌々しげな表情を浮かべ、異論を許さぬ強い口調で薄く煙を吐き出した。

「部屋に戻れ、ナマエ」
「なんで今になって戻ってきたんですか」
「ナマエ」
「わたしのせいですか」

苛立たしげにわたしを見るスモーカーさんに、応えようとする素振りはない。聞く耳持たず、だ。だがわたしも引く気は無かった。

「……これはおれの問題だ。お前には関係ねェ」
「そんなわけないじゃないですか」
「出直してくる。お前はもう戻れ」
「いやです」

踵を返そうとするスモーカーさんの服の裾を、じくりとした痛みを無視して左手で掴む。小狡い手段だと理解していた。こうしてしまえば、彼が無理に振り払えないということを知っていてそうした。わたしの包帯の巻きついた腕を確認して、スモーカーさんが表情を歪める。その眼差しの奥に、悲愴に似た色が浮く。

「その手を離せ、ナマエ」
「そういわれて離すわたしだと思いますか」
「――傷が、痛むんだろうが」

 ……ああ、なんだ、と思った。確かな安堵が胸に広がる。気遣わしげな声と、眼差しと、表情とを見てようやくわたしは理解した。
 そうだ、スモーカーさんははじめからこうだった。相変わらずの、ただ優しいだけの心配性は、あの海の真ん中で拾われた時から変わらない。怪我する前に、スモーカーさんが少々どうかというくらい過保護になったせいで、そのまま根付いた反発心を引きずってきたけれど、それも多分同じ話だったのだろう。この人からわたしに向けられていた感情は……突き放そうとしている今も、きっと何も変わっちゃいなかった。

「わたしが心配なら、どうして何も説明してくれないんですか。なんなんですか、スモーカーさんは。言ってくれなきゃ分からないじゃないですか。わたしのせいならそう言ってくれたらいいでしょう。なんで……」

 また責めるような物言いをしてしまったけれど、それでもわたしの語調は先ほどまでの勢いを失っていた。ほんの少し声が震えるままに、告げたい言葉を選んでいく。

「なんで、急に突き放してしまうんですか。こんな風に宙ぶらりんにしなくても、理由を言ってもらえればわたしは潔くここを出て行きますよ。スモーカーさんは、一体わたしをどうしたいんですか」
「ここを出て行ってどうすんだ。お前を追い出す気はねェ、最後まで面倒は見る」
「な……なんですかそれ、意味分かんな……」
「何の文句がある? なんならこの部屋ごとやっても構わねェよ。てめェが欲しいのは"安全"だろう。生憎、おれの望みも同じなんでな」
「は――はあ?」

 本気の本気で意味がわからない。何を言っているんだ、スモーカーさんの望みって、一体どういう――。

「……分からねェか?」

スモーカーさんが一歩、足を踏み出した。彼のジャケットの裾を掴んでいた左腕が揺れる。反射的にわたしも一歩、身を引いて。

「――お、あ……っ?」
「な……ッ」

予想外、というか頭から完全に距離感が抜けていたようで、わたしは玄関の段差に思いっきりかかとを引っ掛け、ずるりと脱げたスリッパの裏切りも相まって、盛大に体のバランスを崩してしまった。スモーカーさんが支えようと手を伸ばすが、平衡感覚を崩した体は為すすべなく仰向けに傾いてしまい、わたしは重力への抵抗を諦めて、そのまま――。

「……!」

 したたかに背中と頭を打ち付けた。はずだった。多分、珍しくスモーカーさんも余裕がなかったのだろう。転ぶさなか、わたしを保護するのには間に合った彼ではあるが、わたしが彼の服の裾を引っ掴んでいたこともあり体勢を整えるのには失敗したらしい。何かというと、つまり、二人して一緒に倒れ込んだということである。

「……バカ野郎、何やってんだてめェは」

 間近にスモーカーさんの呆れ声が聞こえる。いや、わたしも驚いた。まさかこんな見事にひっくり返るとは思わなかったし、どこにも痛みがなかったのも予想外だった。それもこれも床に衝突する寸前にスモーカーさんがわたしの肩に腕を回して抱き寄せてくれたおかげなのだが、てか、そのせいですごく近い。密着した体越しに伝わる彼の鼓動はわたしの記憶にあるものよりいくらか早く脈打っていて、らしくなくスモーカーさんが焦っていたのだと気付いて、えもいわれぬ感情が込み上げそうになる。
 スモーカーさんに腕の中から素早く引き剥がされ、浮いていた腰をとん、と段差の上に下ろされた。無傷のわたしと違い、彼の方は凄い勢いで膝から行ったと思うのだが、さすがに海軍本部大佐……というか煙男、なんのダメージもないらしい。いやそれはいい、とにかく、スモーカーさんがわたしを助けてくれたのは確かで、加えてわたしの左手はまだ、しっかりと彼の服の裾を握り込んだままだった。

「……ナマエ、いい加減に離せ」

 立ち上がろうとしたところで、引き止めるように撓んだわたしの腕に気づいたらしい。相変わらず無理に振り払おうとはせず、彼は苦虫を噛み潰したような声でそう口にした。

「離しません。ちゃんと教えてくれるまで」
「……聞いてどうする? おれもお前も、互いに必要としてるわけじゃねェ。願ったり叶ったりじゃねェのか、お前にとっちゃ……おれが居ねェほうがよっぽど暮らしやすいだろう」
「そんなこと、わたしが知りたい理由とは関係ないです。いきなりわけもわからず距離を置かれて、そんなふうに思えるわけないじゃないですか。それに、スモーカーさんがどうか知りませんけど、わたしは……」

 確かに、スモーカーさんがわたしを必要としていないのは、その通りだと思う。けど、そこで引く必要はないのだと、クザンさんはわたしに言っていたのだろう。この人がどうあれ、わたしはどうか。スモーカーさんにとってわたしは必須ではないけれど、でも、わたしには――

「スモーカーさんがいないと、駄目なんです」

 掻き消えそうなほど小さな声で呟いた。それでもちゃんと耳に届いたようで、スモーカーさんは意表を突かれたように息を飲む。

「きっとみんな、勘違いしてるんです。わたしはここを離れて生きていけるほど強くない。わたしは、誰かに居場所をもらえないと生きていけない、この海の異物です。だからこそ、居場所をくれたスモーカーさんが、わたしには必要です。怪我する前にも言ったじゃないですか、スモーカーさんのこと、誰より信頼してるって」

 誰かの重荷になるのが嫌だった。スモーカーさんに依存していることを認めるのも嫌だった。無様に縋る自分の言葉も嫌だった。でも、それよりも何よりも、こんな形でスモーカーさんに置いていかれるのが嫌だった。そんなことならいっそ、包み隠さず言ってしまうのが一番いい。素直になるのは思いの外気楽で、今ならなんの柵もなく、自分の望みが言える気がした。

「あなたがわたしを本当に嫌っていないのなら、わがままを言わせてください」
「なにを……」
「わたし、スモーカーさんと一緒にいたいです」
「っ、なんで今、そういうことを……!」

わたしを見下ろすスモーカーさんが、取り乱したように語気を荒げる。 その動揺は一瞬ではあったものの、しかし彼は、わたしを拒絶はしなかった。

「わたしを厭ってるんですか」
「違う」
「わたしと、居るのは嫌ですか」
「違う、おれは」

彼は落ち着かない様子で短くため息を吐き出した。常夜灯のおぼろげな灯りでも、スモーカーさんの謂れのしれない苦渋の表情ははっきりと見て取れる。彼は呻くように呟いた。

「あまり困らせないでくれねェか、ナマエ」
「スモーカーさん……?」
「お前の信頼を裏切るような真似をしなきゃならなくなる。どうして素直におれを嫌ってくれねェんだ」
「……そういうところが優しすぎるんですよ」
「そう易々と信用するな。本当に情があるなら、お前はこんな目にゃ合ってねェ」

 視線が合った。憐れむような、そしてやはり苦々しい眼差しでわたしを見据え、スモーカーさんは先ほどまでとは違う、恐ろしく冷えた声を口にする。

「おれがお前を振り払えないのはお前を慮ってのことじゃねェ、ただの負い目だ。だから、おれが……お前にだけは手を上げないと、思い込まねェ方がいい」


「――な、」

 突然肩を掴まれて、背中から床に押し付けられた。打ち付けた痛みはなかったが、スモーカーさんの手に強く顔を掴まれて、思わず呻き声を上げてしまう。いきなりのことに頭が付いていかない。が、スモーカーさんはわたしに状況を確認するいとまを与える気は無いらしかった。

「ぁ、ぐっ……!、?」

 スモーカーさんがわたしの口の中に親指を突っ込んで、舌の根を押さえ込んでくる。革手袋の硬い異物感にえずきそうになった途端、こじ開けられた唇の隙間から煙を吸い込んでしまったのか、噎せ返りかけた喉がひくついて痙攣する。なんとか空気を取り入れようとした、のだが。おかしい、なんだこれ、どうなってるんだ。

 ――息が、できない。

「うあ……、ッ……は……、!」

 口の中に滑り込んだのは葉巻の煙なんかじゃない。これは、この触れられるほどに濃い煙は、スモーカーさんそのものだ。空気に融解しそうな彼の輪郭で、やっと能力を使われていることを理解する。呼吸器官を侵して、わたしの中に入ってくる。これは、スモーカーさんのゆびだった。
 濃色の白が喉を塞ぐ。ぬるりと体の内側に触れる煙の感触が伝わる。酸素の回らない身体は熱を持ち、ぶわりと汗が吹き出した。扇情的なまでにねっとりと、肺腑を撫でられている感覚に、ぞわぞわと怖気が走る。わたしの体の中に、スモーカーさんがいる。

「っあ、スモ、か、さ、……っ」
「ナマエ――」
「……!」

 スモーカーさんの声に、目に、手つきに、一瞬嗜虐的な色が浮かんだのにぞっとした。けれど、わたしが怯えたのに気付いたのか、すぐにその興奮はなりを潜め、彼は自嘲気味に目を伏せる。

「――悪い」

 そう言って労わるようにわたしの頬に触れた彼の手つきは、今度は壊れ物に向けるような柔らかさで。そのままスモーカーさんはわたしの額にかかる髪を慎重に払い、頭部に指を巡らせる。酷く優しげにわたしの額の汗をぬぐいながら、苦渋の滲む声で、彼は小さく呟いた。

「おれを意気地無しだと、そう詰ってくれていい」

スモーカーさんらしからぬ、自虐的な言葉だ。大きく響く脈拍の中、彼の声はずいぶんと遠くに聞こえる。

「お前の存在で、自分が変わっていくのが分かる。たったの数ヶ月で、何もかも覆されるような……」
「なに、を……言って……っ」
「……もう眠れ。どうせまた、朝になりゃ全部忘れられるだろう」
「ふ……く、うあ……っ、は、」

酸素を求めて喘いでも、肺まで空気が届かない。口に指を入れられているせいで、みっともなく唾液が頬を垂れ落ち、耳を伝っていくのがわかる。呼吸がままならずにがくがくと膝が震えだす。
 意識が飛びそうになって、必死でスモーカーさんの腕に縋り付いた。不思議と、やめて欲しいとは思わなかった。ただ、どこにもいかないでくれたら、それでいいと、思った。

「一緒に、いてください」

声にならない叫びを、肺がひっくり返りそうなくらい必死で張り上げた。けど、喘ぎに消えた叫びは一文字だって音にならない。きっとスモーカーさんには届かない。泣きたくなった。けどここで泣いてしまえばきっと、余計スモーカーさんの罪悪感を募らせることは分かっていたから、わたしは、……――。

 思考が遠のき、現実が遠くなる。白んだ視界に浮かぶのは、鮮烈なデジャヴだ。こんな光景、こんな感情、こんな言葉には覚えがある。あれは――一体いつの記憶だったろう。
 ちかちかと視界が明滅する。スモーカーさんの顔が、ゆらゆらとぼやけては霞の隙間に消えていく。ざあざあと波打つ潮の幻聴。喉に流れ込む煙が息を塞ぐ。

「すまねェ……」

 ああ、前も、こんな風にだれかを見上げていた気がする。かつても、死にたくないと思うより先に、引き止めなくてはと腕を伸ばしていた。

「すまねェ、ナマエ」

あのときも、こんな風に何度も、うわ言のように謝罪を繰り返していた。あの人は、一体誰だっただろう。

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