No Smoking


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「どうだ、落ち着いたか?」
「……ありがとうございます」

 テーブルの上にはぬくぬくと湯気を立てる湯呑みが二つ。クザンさんが急須はどこだだのやかんがないだの言いながら用意してくれたものだ。ふわりと鼻腔をくすぐる馴染みあるほうじ茶の香りに、擦り切れた精神が幾分かましになったような気がする。我ながら調子がいいことだけど、なんだかんだクザンさんが連行してくれてよかったのかもしれない。

「――それで?」

 そんな彼はわたしの正面のテーブルの向かい側、畳敷きの床にどっかと腰を据えながら、改まって話を切り出した。

「結局何があったのよ、ナマエちゃん」
「なんもなかったです」
「スモーカーになんか言われたのか?」
「なにも言われてないです」

似たような返答を繰り返すわたしに対し、クザンさんは呆れたように眉間のしわを深くする。彼の肩越しに見える"だらけきった正義"の標語に似つかわしくない表情だ。……突き刺すような視線が痛い。

「あのな、話しにくいなら話したくねェって言ってくれりゃ、無理に聞き出したりはしねェからよ……意固地にならねえで答えてくれや」
「……でも事実、なんもなかったんですよ」

 拗ねたような言い方がこれまた子供臭さを演出してしまった気がして内心辟易する。だが、なにせスモーカーさんからのアクションはなにもしてくれない、の一つのみだ。むしろなにもないのが問題とも言える。もしなにかしらの反応があったなら、わたしだってもう少しマシな顔ができるはずだ。世に聞く無反応の恐ろしさ、儚くも身をもって理解してしまったわたしである。

「はァ……分かった、質問を変える」

 今どんな表情をしてるのが自分でもよくわからないわたしの顔をちらと見やりつつ、困ったようなため息を吐き出すクザンさん。ずず、と軽くお茶を啜り、考えるようにしばし間を置いてから、彼は悩ましげに三度目の質問を口にした。

「それならお前さん、何しにあそこに行ったんだ?」
「なにしにって、それは……」

 一瞬、言葉に詰まる。そう尋ねられても、いまいちよく分からなかった。わたし自身、明瞭な理屈があってあそこを訪れたわけではなかったのだし……だけどまあ一応、おそらくは。

「本当に、大した理由ではないんですけど……多分、スモーカーさんに会う、つもりでした」
「……? 急用だったのか? わざわざ会いに行かなくても、お前さんらならいっつも顔合わせてんでしょ」
「いえ、その」

クザンさんの当然のような言葉が少し刺さる。そういえば、そうだったろうか。もうずいぶん顔を合わせていないせいで、そんな日常も遠い昔のように思えてしまう。

「スモーカーさんとは、しばらく会ってないんです」
「会ってないたァ、どういう……」
「言葉通りの意味です。目が覚めてから今まで、スモーカーさんとは一回も会ってません」
「はァ……?」

 クザンさんが目を見開いて当惑の声を上げる。やはりというか、どうやらこの件は寝耳に水だったらしい。唖然とした表情は一瞬だけのもので、すぐさま気を取り直したクザンさんに説明を促すような視線を寄越され、わたしは渋々ながらに重い口を開くのだった。
 溢れた水蒸気が付着した湯呑みのふちを眺めつつ、クザンさんにこれまでのことをぽつぽつと話していく。はじめに、目覚めてから3日経っても医療棟にスモーカーさんが来なかったこと。次に、退院してからも彼が家に帰っていないこと。おそらく意図的に避けられているらしいこと、その理由がわからないこと、直接話をしようと考えたこと。けれど、ここまできてどうにも、顔を合わせるのが不安なこと――。

 そこまで話して事の顛末を締めくくる。塞いだ口の中が渇いているが、どうにもお茶に手をつける気にはならない。黙って正面を見やれば、クザンさんはテーブルの上で両手を組み、低く唸りながらその強面をしかめてみせた。

「んなことになってたのか……おれァせいぜい、軽い喧嘩程度だとばかり。しかしあいつは一体、なんでまた……」
「それがわかってたらこんなに悩んでませんよ」
「そりゃまァ……そうだな」

なにか言いあぐねているようなクザンさんは、否定とも肯定とも取れない声のトーンでそう告げて、考え込むように押し黙った。そんな彼の姿を眺めつつ、わたしはどこか霞がかったような思考を巡らせる。
 不安になる理由は、分かっていた。足踏みしてしまうわけも、わたしは知っている。先ほど現状を語った余韻もあって、わたしの意思とは無関係に、口は自然と動いてしまっていた。

「――今になって、考えてしまって」

クザンさんがはたと視線を上げてこちらを見る。

「スモーカーさんがわたしを避けているのはたぶん事実です。もし……スモーカーさんがわたしを突き放したくなったとき、わたしに拒否権はない。あの人がわたしを匿ってくれてるのは単なる性分で、わたしが必要なわけでも、確たる義務があるわけでもない。保護対象と言ったって、スモーカーさんなら上の指示は断れるはずです。わたしは都合がいいからと偶然、スモーカーさんちに置いてもらってるだけなんですから」

口にしてしまえば、言葉はすらすらとついて出た。クザンさんの眉が訝しげに寄せられるのにも構わず、自分でも意外なくらい起伏のない声で、ばかみたいな講釈を垂れ流す。なにを今更、と心底理解しつつも、今まで想像が及びもつかなかったのだから、わたしは相当な間抜けだろう。

「そう考えると、一緒に住んでるから勘違いしてしまうけど、別にわたしとスモーカーさんて、特別親しいわけでもないんだなあと思い始めて」

そうだ、間違えちゃいけない。スモーカーさんとの距離は近かったけれど、改めて考えれば、それは単に環境に誂えられただけのものだ。スモーカーさんは決してわたしに限って良くしてくれていたわけではないし、無論なにかしらの面で特別視しているわけでもない。それはお互いに、至極当然のことだろう。

「それなりにあの人のことは知ってます。スモーカーさんは感情論でこんなわけのわからないことをする性格じゃないはずです。……だから、スモーカーさんがわたしと顔を合わさるべきでないとしたんなら、無理に会う理由はないじゃないですか。こんな――」
「ナマエちゃん」

 クザンさんが素早く口を挟んだ。諌められるような気がして生唾を飲む。いつのまにか落ちていた視線を上げ、そっと正面を見据えると、そこに居るクザンさんは思いがけず穏やかな表情を浮かべていた。

「……なァ、一つ聞かせてくれるか」

 彼は少し身をかがめてわたしとまっすぐに視線を合わせ、柔らかな口ぶりで目を細めた。その眼差しに促されて首を縦に振れば、クザンさんは再び静かに口を開く。

「ナマエちゃんはどうしたいんだ。お前さんはどう思ってる?」
「……わたしは」

目を合わせると感情を悟られてしまいそうで、ずしりと重い瞼を伏せた。妙なことを口走らないように、慎重に言葉を紡いでいく。

「きっと、スモーカーさんに依存、してるんだと思います。一番はじめからわたしを助けてくれたから、変に懐いてしまってて。子供染みてて嫌になります。誰も居ない家が不安で、夜も眠れない」

ひとつ、息を吸い込んだ。一瞬、うまく声が出ずに、息が空回りそうになる気がした。

「だけど、……その、寂、しくても。スモーカーさんに会う理由は見つからなくて……だから」
「つまり、会いたいんだよな」
「それは……。ちゃんと話したいとは、思いますけど」

 ……わたしは、スモーカーさんに会いたいのだろうか。それは単に、一人が不安だからという理由で、なのだろうか。確かにマリンフォードに来てから薄らいでいたあの得体の知れない恐怖は、ここ数日わたしを苛むばかりである。でもそんなのは今に始まった事ではないし、 大体そんな子供じみた理由で――。

「…………ハァー……」
「……?」

 クザンさんがふとでかいため息をつき、やれやれとでも言いたげな様子で肩をすくめた。その仕草の示すところがよく分からなくてわたしの脳裏に疑問符が浮かぶ。なにか、呆れさせるようなことを言っただろうか、と思ったところで。

「おわ……!?」

 わたしの頭をぐわしと抑え込んだのは、頭部を覆い尽くすほどの巨大な手のひら。何かと思いきや、突如身を乗り出したクザンさんが、気遣いのかけらもない動作でわたしの頭を撫でてきている、らしい。
 いや、な、なんなんだ急に。頭がガッシガシと大げさに揺すられているのだけはわかるが、抑え付けられているので顔も上げられないし、脈略もないし、つまるところ状況がサッパリ掴めない。ついでに物凄くでかい手のせいか、首にかかる圧も半端ではない。

「ちょ、クザンさ……」
「お前さんはあーだこーだと難しく考えすぎてんじゃないの。そいつは状況的に仕方ねェことかもしれないが……とりあえずナマエちゃんは一晩グッスリ寝るべきだな」
「いたっ、ちょっと……聞いてます、ぐあっ!」

ああもう、今髪が目に刺さったぞ。哀れなわたしの眼球が悲鳴を上げているじゃないか、何をしてくれるんだ。クザンさんがなんか言ってるが、状況が状況なのでほとんど頭に入ってこないし、てかわたしの悲鳴も聞いてないし。そんな混乱の中、くしゃくしゃになった前髪の隙間で、クザンさんが悠長に「なんだかなァ」と溢すのが見えた。

「お前さんらは誰がどう見たって仲良いんだから、んな余所余所しくならなくたっていいじゃねェか……ったくスモーカーの奴はマジで何考えてんだ……?」
「あの、だから、……」
「ナマエちゃんも、せめてもうちょい素直になりゃいいのにな……依存とは言うが、あいつだって満更でもねェだろ、実際――」
「――ああもう、いい加減にしてください! クザンさんのせいでわたしの灰色の脳細胞が死滅しまったらどうするんですか!」

右手で彼の腕を押しのけつつ叫んだわたしの抗議がようやく耳に届いたらしい。こちらを見やり、ピタリと手を止め、目をぱちくりさせるクザンさん。

「……おォ? やっとらしくなってきたじゃないの」

フッと笑みを漏らし、そんなことを呟いたかと思うと、彼はやたら晴れ晴れした表情でこちらの頭から手を引いていく。暴れまわった前髪を片腕でなんとか撫でつけながら恨みがましく顔を上げると、彼はすまんすまん、と反省の色も無しに白々しく口にしてみせた。そのあまりの悪びれなさに、さすがのわたしも文句を並べる威勢すら失せてしまう。

「らしくなってきたじゃないのじゃないですよ……お願いだから人の話を聞いてください」
「あらら、そうカッカすんなってナマエちゃん……今日はホラ、別に髪型も崩れねェだろ」
「心配なら髪型より怪我治りたての頭皮に……じゃなくて、そんなことはどうでもいいんです。いきなりなんだったんですか、クザンさん」
「いやなに、景気付けにと思ってよ……真面目な話、お前さんちょっと気ィ遣い過ぎなんじゃねェの?」

 いきなり話を戻した彼の台詞に眉をひそめる。考えるまでもなく先ほどのスモーカーさんどうのこうのの話について言ってるのは確かだが、しかしわたしが気を遣っているって、そんなことはないだろう。わたしはただ思わしくない反応が怖くて腰が引けているだけであって、誰かのことを慮って足踏みしているわけではないのだから。

「あァホラ、また複雑そうな顔しちゃって……あのな、もっと単純に考えりゃいいんだ。いいか、おれがナマエちゃんに毎日ここに来てもらってる理由はなんだと思う?」
「は……? それは確か、保護対象であるわたしを普段から監視できるようにと……」
「ってのは建前だろ。あのな、おれァナマエちゃんと会いたくて、個人的にここに呼びつけんのよ」

 再び展開が読めなくなってきた。いきなりなんの話を始めたのだろうか、このおっさんは。わたしが訝しむ様子を見て、クザンさんは人差し指を立ててにまりと笑う。

「人間関係なんてそんなもんだ。会いたいから会う、会いたくないから会わない。その判断は相互的に委ねられてる。つまり向こうがどう思おうと、自分の行動を選択する自由はお前さんにもあるってことだ」
「そりゃ、そうでしょう。それくらい――」
「分かってるつもりだろ。けどな、お前さんさっきから自分じゃなくて、スモーカー本位の話しかしてねェのよ。自覚あるか?」
「……。そんなことは、……ある、かもしれませんけど、スモーカーさんには恩があるし、迷惑をかけたくないと思うのはおかしなことじゃないでしょう」
「だからって、拒否権がねェとか、置いてもらってるとか、んな風にお前さんが負い目に感じるこたァねェでしょ。実際、スモーカーがナマエちゃんと顔を合わせねえようにしてる理由もわからねェわけだし……」

お茶をぐっと飲み干して、クザンさんは皮肉げに口角を上げながら、ゆるく息を吐き出した。

「んなの、誰だって納得できねェさ……ナマエちゃんはもうちょい、わがままになったっていいと思うんだがな」
「……わたしは十分、わがままですよ。結局、人に嫌われるのが怖いだけですもん」
「おいおい、わがままってのはもっと難しいもんなのよナマエちゃん。"嫌われようと嫌われまいと意地でも自分を通す"ってのがわがままだ。少しはおれを見習え、誰でもできることじゃねェ」

面白めかして彼が口にするのはずいぶん乱暴な言い分だ。しかしまあ、確かにクザンさんはその極論通りにわがままな人ではある。彼の執務机の上に山積みにされている書類が、そのわがままっぷりを示すいい証拠だ。そう褒められることでもない……とはいえ、その言い分に半ば納得してしまったのも事実だった。
 ソファにどさりと背を預け、詰めていた息をゆっくりと吐き出した。クザンさんの飄々とした態度に、力が抜けたというか、肩透かしを食らったというか、体良く言えば気が晴れたというか。いずれにせよ、堂々巡りを続けていた思考が、この会話で良い方向へ進んだように思えたのは確かだ。相手があのスモーカーさんだから気負いすぎてしまうけど、わたしはいつまでもうじうじしている性分ではないのだし――うん、クザンさんの言う通り、もう少し前向きに考えてみよう。慣れない思い悩みにはそろそろ疲れてきたのだ、わたしも。

「――そうですね、少し……受け身になり過ぎてるのかもしれません。自分がどうしたいのか考えてみます。嫌われることばかりに怯えてても、話になりませんし」
「よしよし、そりゃいい。こういう言い方が励ましになんのかは分からねェが、ナマエちゃんが落ち込んでるのを見るのはこっちとしても辛いもんだ。その原因がスモーカーってとこが妬けちまうが……おれァ、お前らがいつも通りに戻るのを願うよ」

 からかうような調子ではあるが、その言葉には確かな気遣いが感じられて、クザンさんはやはり優しいひとだな、と思う。改めて考えればこの人だって海軍大将で、海軍の中でもサカズキさんやボルサリーノさんと並んで二番目に偉くて、多分たくさんの海賊団を殲滅してきた――恐れられるべき存在、なのだろうが。今わたしの目の前で頭を掻きながら空の湯呑みを傾けているこのおっさんからはそんな威厳は微塵も感じられず、どうにもだらしないが、ただわたしを思いやってくれる優しさだけは確かだった。
 妙におかしくて笑みが込み上げる。久々に笑ったような気がするとは、一体わたしはどんだけ参っていたのだろう。そんなわたしを見たクザンさんが片眉をひょいと上げて不思議そうな顔をするので、いえ、と一応弁明しておく。

「そんな変な意味じゃないんですけど、ただクザンさんも、色々考えてらっしゃるんだなあと」
「お、見直したか。まァさっき言ったのはだいたい口から出まかせだからな……普段から小難しいこと考えてるわけでもねェんだが」
「えっ? 出まかせなんですか。普段頼りないけどクザンさんはやっぱり大人だなあと感心してたところだったのに」
「くく、大人なら何かしら哲学を持ってるだろう……って考えが若ェのよ、お前さんは。そこんとこがまだまだ子供なのかもな」

軽く笑いながらクザンさんが口にしたのは、反論したいような、とはいえそんな余地はないような言葉だった。なんにしろ、わたしが自分で思っていた以上に青臭いということはこの数日痛感していることである。彼らから受けるあの子供扱いも、思えば意外と理に適ってたのかもしれない。

「しかしあれだなァ、こう聞いてりゃ……お前さんらがただの管轄と保護対象って仲には見えねェんだがな」

 お茶を口にするわたしを眺めつつ、頬杖をついてそう言うクザンさん。ようやく手を付けたお茶はやや冷めていて、ついでに少し渋い。どうも彼はお茶を淹れるのはそんなに得意ではないようだ。

「普段過ごしてる距離が近いからそう見えるだけですよ。スモーカーさんは誰にでも優しいですし、ああ見えて」
「確かにスモーカーは何だかんだ人の好い奴だが、にしたってこの海で生きてる海兵なのよ。無造作に馴れ合うようなこたァしねェだろ。ナマエちゃんがそう思ってたとしても、特にあいつの方はかなり……」

首をひねり、難しい顔をするクザンさん。

「んん……まさか、……いや、あいつに限って……」
「?」

なんなのだろう。クザンさん、意外とスモーカーさんが姿を見せない理由の予想がついているのだろうか。その辺の理由は正直、わたしにはサッパリなのだが……。尋ねようとすれば、その前に彼はさっさと話を切り上げてしまった。

「いや、まァそれはいい。とにかく、一度スモーカーとちゃんと話してみろ。あいつもあいつで悩んでんじゃねェのか」
「そう、なんですかね。とりあえずはそのつもりです」
「んじゃ、ナマエちゃんは今日はもう帰んなさい」
「えっ」

 壁に掛けられた時計を見上げる。この時刻が正しければまだ昼前、いつもならやっと本部に来たくらいの時間だ。おつるさんとこでの修行はお暇をいただいてるとはいえクザンさんの執務机には書類が山積みだし、それに今からだってスモーカーさんに突撃することはできるし、そんなに急いで退散することもないんじゃなかろうか。

「いやいやお前さん、自分がどんな顔してるか知らねェだろ。目の下の隈が濃すぎんのよ、とりあえず今日はさっさと帰って寝たほうがいいぞ」
「けど待ってください。クザンさん仕事はどうするんですか」
「ナマエちゃんがやれっつーなら今日くらいちゃんとやるさ……心配は無用だ」
「絶対嘘ですよね。というかわたし、帰っても多分、あんまり眠れないんじゃないかと……」
「ん? そういや寂しくて寝れねェとか言ってたか」
「違います。いや違くはないですけど寂しいから眠れないわけではなくて、夢見が悪いせいで寝れないんです」
「寂しいから夢見が悪いんだろ。同じじゃないの」

ううん、あの悪夢については多分本当にそういうんではないと思うのだが、この件を掘り下げるとまたスモーカーさん関連のことでからかわれるのが目に見えているので、なんとも言いづらいところである。まあ実際、スモーカーさんがいるときには滅多に夢を見ないのは事実だし、寂しいからというのもあながち間違いではないのかもしれないが……。
 などとうんうん悩んでいると急にクザンさんが身を起こし、謎に腕を組み、やたら大仰に相槌をひとつ。満更でもなさそうな呆れ顔、なんだその表情は。絶対ろくなこと言わないぞこの人。

「んん……そこまで言うなら仕方ねェか」
「わかってくれましたか」
「そうだな、ナマエちゃんがそこまでせがむんなら、おれが一晩中添い寝してやるのも吝かじゃ……」
「それではこのへんで失礼します! クザンさん、今日はありがとうございました」
「ちょっとちょっと、そりゃねェよナマエちゃん……」

彼の言葉を無視してさっと一礼、そのままそそくさと席を立つ。こんなだらけきった女たらしおっさんと一緒に一晩過ごすほどわたしの貞操観念は甘くない。しかし相変わらず締まらないなあ、クザンさん。ともあれ、元気が出てきたのは彼のおかげだし、感謝の気持ちは本当のところである。

「それじゃ仕事ちゃんとしてくださいね、さいなら!」

とりあえず、明日、ちゃんとスモーカーさんを言い包める方法を考えておかないと。クザンさんが何やら文句を言っているのは気にしないことにして、わたしは跨いだ敷居の向こうから、パシンと執務室の襖を閉じるのだった。

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