No Smoking


▼ 21-2/4

 わたしは今、ドアの前に立っている。どこの扉かと言うと、スモーカーさんたちがいつも仕事をしている、あの大部屋の扉である。

 この周辺の廊下は人通りが少ない。いわゆる角部屋というやつで、どうにも追いやられている感の否めない位置にある。スモーカーさんが上層部に嫌われているというのはあながち間違いでもなさそうだ、と察せられる感じだ。とはいえ突き当たりでないのはありがたい。いざとなれば直角に曲がった廊下の奥、ちょうど死角へ逃げられる。いや、逃げる必要は、あんまりないと思うけど。
 ドアの向こうからは大量の人の気配がする。大半はあの船旅でお世話になった海兵さん達だろう。病室に殺到するのは避けてくれたので彼らとはまだ顔を合わせていないし、あの見舞い品のお礼くらいは直接言っておきたい。事件当時、わたしの救出にも参加してくれたそうだし……うーん、そう思うと海兵さんたちには頭が下がるよなあ。消臭グッズのお裾分け、今後も積極的にしていこう。


 しかし、ここまで来たのはいいが、なんとはなしに気が向かなかった。ドアノブに触れては引っ込め、ドアの前をあっちへ行きこっちへ行き。――本当にわたし、なにやってんだろう。悲しくなってきた。

 別になにかここへ来るきっかけがあったわけでもないのだ。早めに海軍本部に来たのはいいものの、医療棟でことのほかスムーズに手当てが済んでしまったため、盛大に時間を持て余したわたし。妙な気を遣わせるのも悪くてクザンさんやおつるさんのところに行く気にはならず、いろいろ悩んだ挙句、ここ数日避けていたこの部屋に勇気を出して訪れてしまったというだけの話だ。食堂で時間を潰すつもりだったのだが、まあどうせ、通り道だったし。
 昨日も、一昨日も、ここに来なくてはと思ってはいた。現状を解決する一番手っ取り早い方法がこれってことも、初めから知っていた。居場所は分かっていたんだし、会えないわけでもない。スモーカーさんだって露骨に追い出したりはしないはずだ。それにきっと、たしぎ姉さんも気を揉んでいることだろう。わたしとスモーカーさんのことを、随分と心配してくれていた。彼女と話すだけでもしておきたい、と思う。のだが。

 いや、考えたけどさ。最悪ここに入ったところで、スモーカーさんと話ができずに終わる可能性だってある。おそらく歓迎してくれるであろう海兵さん達に揉まれているうちに、どっか行ってしまうかも。そもそもスモーカーさんには一応執務室もあるはずだから、この大部屋にいるとも限らないんじゃなかろうか。というか海兵さん達は同居の件を知らないわけだし、ここで思いっきり「どうして帰ってきてくれないんですか」なんて言うのもよくない気がする。どうにか入らなくていい理由その他もろもろエトセトラ。

「……はあ」

 煮え切らない思考にうんざりする。いつまでもこのまま停滞してはいたくない、とは思っているんだけど。結局のところ、わたしは多分、スモーカーさんと直接顔を合わせてしまうのが怖いのだ。もし直接拒絶されてしまったらと思うと、足がすくんでしまう。

 わたしのこういう反応も見越していたのだとしたら、スモーカーさんも相当な策士だ。だが、避けられているとはいえ、この件はスモーカーさんのやることにしては随分詰めが甘い。だとすると、わたしの自覚すらしていなかったこの臆病風すら、あの人にとっては織り込み済みということなのだろう。だって、スモーカーさんが、まさかわたしをどう扱うのか悩んでいる、なんて――だからこその半端さだなんて――……そんなことは、きっと有り得ないはずだ。あの誰よりも自分を持ったスモーカーさんが決断しかねているなんて、そんなこと。
 だが、そんな有り得ない可能性に縋りたくなるのもまた、事実だ。スモーカーさんがまだわたしの処遇を決め兼ねているのだとしたら、話し合いにも意味がある。そうだ、結局のところ、話をしなきゃ始まらないのだ。この石のように重い扉をこじ開けて。

 いっそ誰かがバン、と飛び出してきたら、引き返せなくなるのに。いい方向にせよ悪い方向にせよ、とりあえず話は進むだろう。はあ、こんなことすら他力本願、わたしはここまで謙虚な性格をしていたっけか。
 情けなさにうなだれて、ドアに額を押し付けた。今日は髪を結んでいないせいで、だらりと垂れる横髪がヴェールのように視界を覆ってくる。思うようにいかない、なにもかも。

「……あ」

 今、たしぎ姉さんの声が聞こえた、気がする。ここからでも聞こえるのか。となれば、スモーカーさんの所在も分かるやもしれない。海軍内で盗み聞きって大犯罪なのではと半ば悩ましく思いつつ、わたしは好奇心に負けてそっとドアに耳を寄せた。

「…….を、……のですが、……」
「はい、……は…………お伝えしておきます」
「すみません、……も、たしぎ曹長……」
「いえ、……このくらい、お構いなく……」

はっきりとは聞き取れないが、ドア越しに聞こえるのは確かにたしぎ姉さんの声だった。いつもと同じ、穏やかで人の良さそうな口ぶりに、なんとなく安心する。……よかった、元気そうだ。
 会話が途切れたかと思うと、続いて席を立つ音、床を進む足音が聞こえてきた。出口に近づいて来る様子はないので、そのまま大人しく耳を澄ませておく。と、再びたしぎ姉さんの声が発せられた。

「……さん……少し、いいですか」

 聞き取れなかった。今、彼女は、誰の名前を呼んだのだろうか。不思議と焦燥感を覚えていた。なんでだろう、理屈は分からない。どうしてだか、咄嗟に逃げ出したくなったその瞬間――

「……あァ」

耳に馴染む低い声がした。……スモーカーさん、だ。

「…….が、この件、頼みたいそうなのですが……」
「それか……分かった、済ませておく」
「お手伝いしましょうか?……」
「……いや、必要ねェ。すぐに片付く……」

 隔てた戸の向こうに、スモーカーさんがいる。

 そのうえ、聞くぶんには、ものすごく普通だ。普段通りだ。まるで、悪いことなんて何にも無かったかのように、穏やかな日常のさなかみたいに、いつもの声だ。ここのドアを開いて、わたしを見たとしても、「どうした、ナマエ?」なんて当たり前のように返してくれるのではと、期待してしまうくらい。そして彼にとって、わたしのことなんかは……取るに足らない些細なことなのかもしれないと、落胆してしまうくらい。
 落胆? 変だな、……なんでまた。たしぎ姉さんから聞いた話で、スモーカーさんの様子に変わりはないのは知っていたし、大体初めから、まさかあの人が悩んでいるなんて、思っていたわけでもあるまいに。

 突如、ガタン、と再び席を立つを音を耳にした。迫る足音にぎょっとして身を起こす。おそらくはスモーカーさんが――部屋を出る気だ。まずい、どうしよう、このままじゃ見つかってしまう。今更怖気付いて、足音を立てぬよう後ずさる。だめなんだ、今はとても、顔なんて合わせられない。逃げないと。きっとわたしは、ひどい顔をしている。
 慄く身体を叱咤する。足がもつれそうになったそのとき、ドアの向こうからスモーカーさんを呼び止めつつ駆け寄って来たたしぎ姉さんの声がしたのは、ここんとこ縁のない僥倖だった。

「あのっ……スモーカーさん」
「……なんだ」
「その……いえ、なんでもありません。すみません」

……たしぎ姉さんは、なにを言いかけたのだろう。

 気に掛かりつつも、とにかく今は、この場を離れたかった。ドアに背を向けて廊下を曲がり、死角になる壁を背にして座り込む。膝が震える。足音が響いてしまうから、そんなに遠くへは行かないほうがいいだろう。それでもし、廊下の反対側ではなく、こちらへスモーカーさんが来てしまったら、そのときは諦めよう。ああ、その方がいい。結局逃げ出した自分が、嫌で嫌で仕方がない。

 ガチャリとドアの開く音がした。息を殺して目を瞑る。こちらへ来て欲しくもあり、同時に来て欲しくもなかった。……矛盾し過ぎている。手を合わせたところで、なにを祈ればいいのかもわからない。

「――……」

スモーカーさんが足を止める気配がした。煩い心臓がひときわ喧しい音を鳴らす。

「スモーカーさん?」

たしぎ姉さんが訝しむように、スモーカーさんの名前を呼んだ。


「……いや」


 スモーカーさんは短くそう切り上げて、ドアを閉め、歩き出した。足音は、遠のいていく。ゆっくりと遠のいて、遠のいて――永遠のような刹那、廊下の奥に消えて、聞こえなくなった。

 数分、そのままでいた。完全に空間が元の静けさを取り戻してようやく、彫像のように固まっていた体の緊張を解く。
 ……焦った。勘のいい人だから、立ち止まった一瞬気づかれたのかと。多少の違和感を与えたにせよ、結局は見つからなかったらしい。だけど、よかったとは思えなかった。安堵にも、失意にも、自責にも似た感情が渦巻いて、気分が悪い。微かに漂う葉巻の匂いが鼻に付く。壁際に蹲り、膝に頭を埋めながら、わたしは詰めていた息を吐き出した。



「――ナマエちゃん?」
「……ッ!」

 ふと間近で聞こえたその声に大袈裟なほど驚いて、飛び上がりそうな勢いで俯けていた顔を跳ね上げる。強張った視界の先にいるのは、天井に頭を擦りそうなほどの長身、見慣れた気怠そうな立ち姿、遠くにある怪訝そうな眼差し……クザンさん、だった。

「なにしてんのよ、こんなとこで……?」
「あ、な、んでも」
「流石になんでもないようにゃあ見えねェよ……お前さん、ずいぶん酷い顔色だぞ。大丈夫か?」

疑わしい点は他にいくらでもあるだろうに、真っ先にわたしの体調を心配してくれるあたり、クザンさんもずいぶんと人がいい。予想外の展開に仰天してしまったが、しかし緩慢な彼の声色は、わたしにとっても安心のできるものだった。

「平気です。クザンさんこそ、なんでここに」
「おれァスモーカーに野暮用だ」
「あ、ええと……スモーカーさんなら奥に向かわれましたよ。廊下をまっすぐ行けば、追いつけるかと」
「……」

クザンさんは険しい表情でわたしの顔を注視している。偽証を責められているような気分だった。けど、なにもなかったのは、事実だ。
 わたしがスモーカーさんの行き先を教えたにも関わらず、クザンさんは廊下の向こうを気にかける様子もなくひょいとしゃがみこんでわたしと視線を合わせてくる。いいのだろうか、スモーカーさんへの用事の方は。

「お前さん、この頃寝てねェのか?」
「……寝てます。しっかり眠れてないだけで」
「…………ナマエちゃん」
「はい」
「あー……とりあえず、どっかで休んだ方がいいんじゃないの。話も聞いてやりてェとこだし……ここじゃなんだ、おれの執務室来るか」
「え、あ、その、大丈夫なので」

頭を掻きつつ、けろりとわたしを連行しようとするクザンさん。困る、いや別にクザンさんの執務室に行きたくないわけではないけど、今はあまりにもメンタルが不安定だし、いつも通りに振舞える自信だってない。慌てて首を横に振るも、クザンさんに聞き入れる気は欠片も無いらしかった。

「意地でも連れてくぞ。泣きそうな女の子そっとしてやれるほど、おれァ紳士にゃなれねェのよ」
「な……、全然泣きそうじゃないです」
「目ェ腫れてるぞ、そう強がんな」
「強がってないです、それは寝不足の……う、おわ」

クザンさんは強引にわたしの脇に腕を通し、手早い動きでいつかのようにひょいと抱え上げてくる。ふわりと浮遊感を覚えた途端、彼は逆らう間も無く歩き出した。ふらふらと宙をさまよう自分の足に、ようやく現状を察知する。子供のように抱え上げられるとはなんたる痴態、なにせあのときの森と違って海軍本部には知り合いもたくさんいるのだ。

「クザンさん、お、下ろしてください」
「ここんとこどうも空元気で気になってたが……ナマエちゃんがここまで弱るたァ珍しいじゃねェの。おれじゃなくても放っとかねェぞ」
「分かりましたから、あの、歩いてくくらいできます。下ろしてください」
「照れんなって。この時間帯なら大抵の海兵は仕事中だ……そうそう会わねェよ」
「そういう問題じゃあ――」
「ナマエちゃんの言う問題ってのはそれでしょ。お前さん、少しは人に甘えるってことを……あァいや、それがあれか……お前さんにとってのスモーカーだったな」

なんだか色々見透かされている気がする。言葉を失ったわたしの背をとんとんと軽く叩きながら、クザンさんは小さく笑みを浮かべてみせた。

「あのな、ナマエちゃん。頼りねェかもしれねえが、こっちからすりゃ……話してくれねェってのも寂しいもんなのよ」

 ――違うのだ、別に、クザンさんたちが頼りないわけじゃない。ただ、わたしの悩み事は下らないことだから、余計な心配をかけたくないから、彼らが心を砕いてくれる必要はないから、話せないのはわたしの弱さだから――だから、放っておいてくれてよかったのに。
 結局クザンさんにこうして気を遣わせてしまっていることが心苦しい。だけど久々に触れた他人の温度が、クザンさんの少し低い体温が、今は驚くほど暖かくて、わたしは喉元に込み上げそうになる嗚咽を飲み込んだ。

prev / next

[ back to title ]