No Smoking


▼ 20-4/4

 突然、トントンと部屋に響いたノックの音に意表を突かれ、わたしたちは顔を上げた。二人で話していたせいか、近づいて来る足音に気づかなかったようだ。

「どなたでしょう」

 たしぎ姉さんが器をテーブルに置いて、首を傾げつつ入り口に向かう。リンゴを取るために伸ばされたわたしの手が行き場を無くして空中をさまよった。くそう、さっきからいつ食べていいのかとそわそわしていたというのに、まだお預けとは。

 しかし、本当に誰だろう。二回分のノックをしたきり、ドアの向こうの人物は大人しく沈黙を保ったままだ。わたしの知り合いの海兵さんたちは襖を叩き開ける癖があるせいかなんなのか、声掛けくらいはするにしてもどんどん遠慮なく入ってくる人が大半である。そう考えれば声掛けもせず、律儀にノックをして待つような知り合いはそう多くない。例えば自宅では、同居人に口を酸っぱくして言い含めてあるので、わたしが寝室に篭ってるときとか、結構気を使ってくれてる、けど……。

 ――もしかして。

 思い当たった発想に、自然と、体が緊張する。強張った拳がいつの間にかシーツの裾を握りこんでいた。いや、何やってんだ、わたしは。別に、ドアの向こうにいるのが誰だろうと、わたしの頭をよぎった名前が正しかろうと、なかろうと、身構える必要なんてない、のに――。


「あ、あなたは……!」

「……そこの娘に用がある」


 予想外の声に、わたしは俯きがちになっていた顔を跳ねあげた。入り口を見やれば、たしぎ姉さんの向こうに立っているのは赤スーツに身を包んだ長身のシルエット。わたしを示すように顎をしゃくったのは、顔面の恐ろしさでは他の追随を許さない、さながら極道のおやじさま――ことサカズキさん、である。
 え、こ、この人なんでこんなところにいるんだ。クザンさん曰く海賊退治が趣味の、ほとんど海に出払って海軍本部にいないはずのこの人が、どうしてまた親しくもないわたしの見舞いなんかに。いや、お見舞いされるのは煮えたぎった拳とかかもしれない。なにしろその目つきの険しさときたらいつにも増して吊り上がった恐ろ……ん? いつもこんなもんだっけ、サカズキさんの顔って。

「ま、待ってください、ナマエさんはまだ本調子ではなくて……!」
「二度は言わん、貴様は席を外せ。一兵卒に構っちょる暇は無いけぇのォ……」
「し、しかし……!」

 泣く子も黙る凄みっぷりであるが、震える膝に反して食い下がるたしぎ姉さん。なんともはや、わたしならとっくにひれ伏して道を譲っているところだ。物凄い根性ではあるが、しかしこのままでは彼女、冗談抜きでサカズキさんの逆鱗に触れかねない。それはいけない。生唾を飲み、わたしはなるだけ落ち着いたトーンで口を挟んだ。

「大丈夫ですよ、たしぎ姉さん。わたしもちょうど、サカズキさんにお話ししたいことがあったんです」

 嘘ではない。実際、そう遠くないうちにこの人と顔を合わせるんじゃないかと思っていたのだ。入り口から向けられた、サカズキさんの訝るような目がわたしを射抜く。……どう考えても穏やかな話にはならないだろうなあ、これ。

 そのあと、たしぎ姉さんはなおもわたしとサカズキさんを二人にするのを渋っていたが、わたしが大丈夫だともう一度伝えると「ナマエさんがそう言うなら」と心配そうに部屋を後にした。というよりサカズキさんが締め出したというのが適当だろうか。しかし、たしぎ姉さんに席を外させないとできないような話って、それもう、つまりそういうことだろう。ああ本当に、今日がわたしの命日とかにならないといいんだけど。
 サカズキさんはたしぎ姉さんを追い出したあともドアの前から動かなかった。腕を組んで仁王立ちしたまま、ただただ恐ろしい形相でわたしを睨みつけている。実のところ、わたしはこの方の表情というものがてんで読めないのだが、この張り詰めた空気、どうしたって穏やかな対話なんてものは臨めそうにない。そして永遠のような一瞬、部屋を満たした恐怖の静寂。

「……」
「…………」
「……貴様、今回のけ――」
「まずは言い訳させてください」

 彼が話し出したタイミングでの一大決心、図々しくも気弱な頼みをかますわたし。サカズキさんのお叱りのセリフを遮るという大罪を犯してしまったが、とにかくわたしは助かったばかりの命が惜しいのだ。サカズキさんの眉間のシワがまだ浅いうちに畳み掛けなければ。

「何を……」
「いえ、言わずともわかります。サカズキさんのお怒りは最もです。わたし、先日になってセンゴクさんから今回のことで海軍本部を相当騒がせてしまったとお聞きしまして。今も医療棟でお世話になってますし、スモーカーさんの隊の方々を筆頭に、おつるさんやクザンさん、他にも情報管理の方や尋問官の方など、とにかく多くの方にご迷惑をおかけしたようです」

 そう、昨日センゴクさんの話を聞いた時からこうなる予想はついていた。彼が昨日話してくれたのは主にわたしが受けた被害の補償についてと、今後の保護強化の話と、その他諸々……という感じだったのだが、それに伴って今回の事件の全貌と詳細を(おそらくわたしに聴かせられる範囲だけ)教えてくだすったのだ。そしてわたしは気づいてしまった。件の騒動が、たかが誘拐事件と片付けてしまうには思いの外大きかったことを。わたしは「海軍を裏切らなかったからサカズキさんもお怒りにはならないだろう」とタカをくくっていたのだが、センゴクさんの話を聞いてようやく、自分がそこそこにやらかしていたということに気づいたのである。

「サカズキさん、わたしが弱いから足手まといになると危惧されていたじゃないですか。それで今回、実際その通りになったわけですし。加えて、わたしが保護対象だのと特殊な立場を冠しているせいで海軍を騒がせて、海賊の動きも誘発しました」

サカズキさんのかつての言い分を思い起こすに、わたしが騒ぎを起こした時点でアウトな気もするが、とはいえそんなので制裁されるのでは納得がいかない。わたしが彼に命を差し出すのは彼らの正義を疑ったときであって、一ミリも疑っちゃいない今は、足掻く余地があるはずだ。

「でも、わたしは自分では精一杯やったつもりです。腕を焼かれても海軍を裏切ることだけはしないと決めていました」
「待て、貴様……」
「聞いてください。確かに今回の件、サカズキさんとの約束に抵触したかもしれません。けど、わたしは死にたくないんです」
「おい、だから」
「今後もわたしは弱いなりに、海軍の後ろ盾を最小限利用して生きていく腹づもりです。だからこそ、わたしは絶対にあなたたちを裏切ったりは――」

「――じゃかアしいッ!」

 突如吹っ飛んできた怒号に、思わず引きつるわたしの喉。そのドスの効いた声ときたら、うっかり瞼の裏にお花畑が見えちゃうレベルである。ああ、待機中のたしぎ姉さんごめんなさい、思いのほか全然大丈夫じゃありませんでした。

「ええけェ待て言うとるんじゃ。貴様の認識にゃ齟齬がある、黙って話を聞かんか!」

 彼の言葉に従って、ぴたりと引き篭もった二枚貝さながらに押し黙る。ええと、認識の齟齬。つまり勘違いである。なんだ、あれか、「何か期待しとるようじゃが言い訳など聞かん、問答無用!」ということなのか。それでもちゃんと解説してくれる律儀さがいかにもサカズキさんである。しかしそこに甘さはない。

「……何を怯えちょるのか知らんが、一旦落ち着いて楽にせえ。そう長い話にゃならん」

遠回しにすぐ楽にしてやるよと言っているのかこの人は。そんな、いくらなんでもひどい、わたしになんの恨みがあるんだ。昨今の試合でカープが負けでもしたのだろうか。なんたる理不尽だ。

「言いたいこたァひとつじゃ」

はなむけのセリフなんぞくれるわけではないのだろうな……なんて思いつつ、わたしは駆け巡る走馬灯に乾いた笑みを漏らし、骨まで溶かすマグマの熱気を覚悟して目をつむり、そして。



「わしは……些か、貴様のことを侮っておった」


「……へ」


 思わず口から声が出た。先走った脳が死の瀬戸際にいたので意味がどうにも頭に入ってこないが、サカズキさんの声色は予想外に角のないもので、ただただ拍子抜けしてしまう。そろりと上げた視界に映る彼のしかめ面は、どうやら苛立ちよりも呆れの表情が色濃いように見えた。
 そうして、数秒遅れてようやく意味を咀嚼し、飲み込んで理解する。だが真意がわからない。侮っていた、とは、一体どういう意味を持つのだろう。再び静まり返った部屋で、言葉を選ぶように彼は口を開いた。

「わしは貴様と顔を合わせた日から、遠からず、今回のように……"保護対象"に狙いをつける悪党が現れるじゃろうと思うちょった。そして、そのときこそ、貴様を裁くに足るのじゃと」
「……それは、どうして」
「聞かなくとも分かっちょろう。自分の生存を秤にかけたとき、貴様はおそらく命を選ぶに違いなかった。それは海軍を裏切ってでも」

それはその通りだ、と思う。事実、今回の件も半分は自分の命惜しさの意地だった。それはサカズキさんに殺されたくはないという意味合いのものだが。

「……じゃが、予想に反して」

 彼は静かに言葉を切り出した。

「貴様は抗った。目先の保身へ走るほど、貴様は愚かでは無かったらしい。検挙した海賊どもの言はわしの予想しとらんものじゃった。貴様は海軍との関わりを否定し、愚直なまでに救助を信じ、弱いままに生き伸びたと」

思わず目を見開いていた。彼は相変わらずの仏頂面だったが、しかしほんの少しだけ、声のトーンが和らいだような気がしたからだった。

「よく耐えたもんじゃのオ。そこいらの雑兵どもにゃァこうはいかん。たかが小娘と侮っておったが、なかなかどうして硬い口をしちょる」

サカズキさんがわたしの左腕をちらりと見やり、つらつらと感心したように語る言葉は、これは、もしかして……ええと。

「成果もある。貴様は筋違いなことを宣っておったが、今回の件でマリンフォードに潜伏していた海賊どもの隠れ家が芋蔓式に割れちょるのは事実、海軍の利じゃ」

わたしの勘違いとか、妄想の産物とかでなければ……よもや、褒められている、のだろうか。まさかと思ったが、しかしサカズキさんが口にした次の言葉は、わたしの行き着いた結論を肯定するのに足りうるものだった。


「認識を改めよう――ナマエ。貴様は確かに骨のある娘じゃ」


 ――……。


 はっ、フリーズしてる場合じゃない。

 いや、しかし、一旦待ってほしい。思考が追っつかない。サカズキさんに殺意以外の感情を向けられたのは初めてな気がするし、よくわからないけど褒められてるっぽいし、ていうかこの人わたしの名前知ってたのかと、とにかく困惑する要素しかない。

「これもしや、ドッキリとかそういうアレですか」
「……何の話じゃ」

 焦って適当に口を滑らせたわたしに対し、サカズキさんは訝るように眉を寄せた。どうやら普通にマジな話らしい。
 何度か深呼吸をして気分を落ち着かせ、わたしはようやく肩の力が抜けるのを感じた。ああ、なにせとうとうサカズキさんは、わたしの意地を認めてくれたのだ。以前わたしの存在を否定したこの人に、肯定の言葉を貰えたという事実は素直に嬉しいことで、自然と頬が緩んでしまう。

「サカズキさんも、誉め殺しとかできるんですね」

おそらく笑みを堪えきれていないままにそう言えば、彼はフン、と息を吐き、心外そうに顔を顰めた。

「抜かせ、わしが言うちょるのは事実のみじゃ。例の口約束を反故にするつもりも無いけぇ、付け上がるな」
「分かってますよ。でも、認めてくださったのは事実なんでしょう」
「……貴様の意思の堅さについては、じゃが」
「それで十分です。前に、自分の意思で海軍を裏切らないことを認めてもらいたい、って言ったじゃないですかわたし。それが証明出来ただけで、この火傷にも意味があるってもんです」

サカズキさんは少し意外そうに眉を上げた。一瞬考えるような素振りを見せたあと、彼は真面目な低い声で問うてくる。

「貴様、海兵になるか?」
「あはは、冗談でしょう。実力とかはさておくにしても、わたしは自分の命で手一杯です。他人を背負う余裕はありませんよ」
「そうか。……ほいじゃァ、海兵でもない若い娘子が、傷なぞ増やすな。嫁の貰い手が無くなるけぇ」
「へ、? え、いや、そ……んなこと、気にしていただかなくても」

予想外のセリフに再び混乱してしまった。気を遣ってくれてる感じには見えないのだが、しかしこれはそういう風にしか取れなくないか。てかわたしの嫁の貰い手なんざ、この世界じゃ背が伸びるか相手がロリコンであるかしない限りかなり絶望的だし、今さら傷の一つや二つ……言ってて悲しくなってきた。やめよう。

「証明はそれで十二分に足るじゃろう。身を守る努力をせえ、その小さい火傷すら貴様にゃ致命傷じゃ」
「……気をつけます。けど努力してこれなんですよ、わたしは」

小さい火傷、ときた。まあ確かに、サカズキさんは火傷なんてものとはまるで縁がないんだろうな。クザンさんが一度、「サカズキは煮立った鍋を手掴みする」とか言ってた気がするし。

「……忘れるな、貴様の命を預かっとるのはわしじゃ。つまらんことで落とさんようにのオ」

 サカズキさんはそれだけ告げて、すっと身を翻した。いつかも聞いたその言葉は、しかし以前とはまるで異なった色合いを持って、脳裏に刻まれた気がした。
 わたしが返事をするより早く、入り口の扉が閉ざされる。まるで嵐が過ぎ去ったかのような倦怠感に、わたしはずるりとベットに凭れ込んだ。とはいえ、胸を満たすのは生き延びたことから来るものは違う、やけに柔らかな安心感だった。いやほんと、疲れたけど。

 そして、サカズキさんと入れ違いに泡を食って飛び込んできたたしぎ姉さん。わたしは間髪入れず、「だから、大丈夫って言ったじゃないですか」と笑いかけたのだった。




 爪楊枝に刺したリンゴを口に運ぶ。

 たしぎ姉さんはわたしの機嫌が上がり調子なのを不思議そうに見ていたが、とはいえ普通に安心したようだった。わたしの心にあるしこりは、一つを残して消えたのだし、とにかく相当なことがない限り、命の心配をしなくていいというのは気楽だ。そりゃそうだ。

 外はすでに暗かった。ここ数日天気は良かったのだが、夜に向かうにつれて暗澹とした雲が増えてきたのか、今は星も月も見当たらない。

「明日、……家に帰れますね」

 と、最後の一口を飲み込んだたしぎ姉さんが、複雑そうに微笑む。わたしのあとたった一つの心配事は、徐々に重い意味を持って、膨らみ、わたしの内心を覆いつつあった。


 その日も、結局、スモーカーさんは来なかった。

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