No Smoking


▼ 20-3/4

 いい加減見飽きてきた四面を囲む白い壁が、窓から差し込む陽光に照らされて橙に染まっている。わたしが医療棟で目を覚ましてから三日目の夕方。相変わらず時間を持て余すなか、現在部屋にいるのは、わたしとたしぎ姉さんの二人きりだ。
 たしぎ姉さんは昨日クザンさんの座っていたのと同じ椅子に腰を下ろし、これまたクザンさんと同じようにリンゴをトントンと切り分けている。ちなみにこれは、昨日凍らしといてもらったのを常温で解凍しておいたリンゴだ。甘みが凝縮されてて美味しいやつだ。

 しかしたしぎ姉さん、見ているとそこはかとなくハラハラする。皮を剥く必要がないとはいえ、うっかり指とか切らないといいんだけど……。いや、そういうことを考えるのは剣士のたしぎ姉さんに向かって失礼すぎるな。反省しよう。

「あっ」

 たしぎ姉さんがナイフを押し込んだ瞬間に手を滑らせ、反動でごろんとテーブルから転がり落ちかけるリンゴ。慌ててベッドから身を乗り出してキャッチする。ううむ、危ないところだった。果物ナイフを手にしていても、やはり姉さんは姉さんのようだ。

「す、すみません! ナマエさん」
「大丈夫です、セーフでした」

リンゴを手渡すと、うう、と肩を落とすたしぎ姉さん。確かに今のは案の定……というところではあったけど、何度でも言うが、それが彼女の魅力だ。あと多分フラグを立てた責任はわたしにある。

「あのたしぎ姉さん、苦手ならわたしが……」
「いえ、大丈夫です! このたしぎ、海軍本部曹長の名に懸けてナマエさんの手は煩わせません!」
「え、そんなんに名前懸けちゃっていいんですか」
「いいんです。もしそんな肩書きがなかったとしても、友人としてこのくらいはさせて下さい」

たしぎ姉さんはふふ、と笑ってからリンゴの切断を再開した。なんか今めちゃくちゃときめくこと言われた気がする。耳をすませば心臓からフォーリンラヴの音がするようなしないような。いやはや、たしぎ姉さんは本日も可愛い。


 真剣な顔でナイフを動かすたしぎ姉さんを眺めながら、わたしは手元に置いた雑誌を閉じる。ヒナさんが初日に持ってきてくれたものだが、目を通すのはこれで三度目、そろそろ暇つぶしには物足りなくなってきた。まあ明日には帰宅できるそうだし、暇つぶしに関しては大した問題ではない。それは問題ない、のだが。
 そうか、明日には帰宅……か。いや、わたしも目覚めた初日は特に思うところもなく、さっさと住み慣れた我が家ことスモーカーさんちへ戻りたいと考えていたんだけど、しかし。

 ここんところ、なにか――おかしいのだ。

 そのおかしいというのは、まあもちろん思わず笑っちまうというような意味ではなく、つまり違和感がある、ということなのだが。目が覚めたときから感じていた、そして時間が経つにつれ大きくなるこの違和感。だって本来なら、……いや、いっそのことを言ってしまおう。違和感というのはつまり、目が覚めてから三日も経つのに、スモーカーさんからなんの音沙汰もない、ということだ。
 そう、スモーカーさんが来ないのだ。あのいかめしいしかめ面をお持ちのくせして、どうにも構いたがりで世話好きなスモーカーさんが、だ。わたしたちはこれまで、しょっちゅう(主に喫煙的な面で)文句を言い合いつつも、なんだかんだで付かず離れずの距離を保ってきたというのに。

「…………はあ……」

 リンゴを一口大に切り分けていくたしぎ姉さんに気づかれないよう、小さくため息をついていた。別に、スモーカーさんなら当たり前にわたしに会いにきてくれるなんて自惚れているわけではないんだけど、けれどもう三日だ。個人的な感情を抜きにしても、普段同居してるわけだし、一応わたしの管轄はスモーカーさんなんだし、いくら多忙とはいえ顔も出さないというのは何か――違和感がある。おかしい。

 そもそもわたしを助けてくれたのはスモーカーさんのはずだ。なんとなくたしぎ姉さんには聞けてないけど、多分寝ている三日の間も、スモーカーさんはここに出入りしていたはずなのだ。それなのに、なんでわたしが目覚めた途端、パッタリと足跡が途絶えてしまったのだろう。一体なにを考えてんだ、あの人は。
 ぶっちゃけ意味がわからない。予想がつかない。スモーカーさんが何を考えてるのか一ミリもわからない。そもそも今何をしているのかさえわからない。ここに来なくちゃいけない理由はあるのに、ここへ来れない理由もないはずなのに、スモーカーさんはまだ、来ない。

 まあどうせ明日、家に帰ったら分かることなんだけど、と思う。けれど、悠長に構えていてもいいのだろうか、とも思う。いや、これは多分わたしの考えすぎ、なのだが、もし――もしもスモーカーさんが、なにがしかの理由でわたしと顔を合わせないようにしているとして。その場合、わたしは……あの家に戻ってもいいのだろうか。もしそのなにがしかの理由がわたしを忌避するものであったなら、あの人に突き放されたとき、それを拒否する権利が、わたしには、ない。


 ――いや、さすがにそんなことはないと分かっている。ただ、今までこんなことはなかったから、よくないことばかりを考えてしまうのだ。最近は慣れない布団のせいか、腕の痛みに引きずられているせいか、あまりいい夢を見ないし……。

 うう、あー……もう、なんでわたしがこんなに必死で悩まなくちゃなんないんだ! ちくしょう、あの煙男め、いつもわかったような顔でわたしの名前を呼ぶくせに、こういうときに限って放置しやがって。別にそうあって欲しいわけじゃないし、これと言って会いたいわけでもないんだけど、でもわたしだって、不安なものは不安なのだ。せめて何か一つ、言伝でもあればそれで解決する話なのに。



「――あの、たしぎ姉さん」

 悶々とし続けるのも癪で、わたしは意を決して口を開いた。
 そうだ、そんなに気になるなら、直接たしぎ姉さんに聞いてしまえばいいのだ。彼女は毎日仕事に行っているんだからスモーカーさんとも会っているはずだし、彼の様子を聞くくらいなら問題ないだろう。多分。

 たしぎ姉さんは丁寧に切り分けたリンゴを器に盛り付けつつ顔を上げ、明るい声で「はい、どうしました?」と応答してくれる。リンゴ、うまく切れてたから嬉しいのかもしれない。ちょっと水を差すようで気が引けつつ、わたしは彼女に質問を投げかけた。

「その……スモーカーさんってこの頃、どうしてるのか知ってますか」
「え? スモーカーさんですか?」

 不意に飛び出した話題に、キョトンとした顔で首を傾げるたしぎ姉さん。彼女はむやみやたらと邪推するような性格ではないので、素直にわたしの問いを疑問に思っているのだろう。

「そうです。やっぱりいろいろ忙しいんですかね。わたし、寝てた日も含めるとそろそろ一週間顔を合わせてないんですけど」
「えっ……!? スモーカーさん、まだここに来てないんですか?」
「少なくとも、わたしは会ってないです」
「そんな、……知りませんでした、てっきり……」

 たしぎ姉さんは驚いたように目を見開いたあと、考え込むようにその瞼をつと伏せた。彼女にもなにか思うところがあるのか、その表情はどことなく不安げに映る。しかしそうか、たしぎ姉さんから見て、普段のスモーカーさんの振る舞いに変わったところは無かった、のか。

「スモーカーさん、書類仕事はいつもしてらっしゃいますよ。けど、この頃は……」

 言い淀むたしぎ姉さん。なんだろう、何か言いにくいことでもあるんだろうか。彼女は少し迷ったあと、濡れタオルで手を拭ってからわたしに顔を寄せ、内緒話をするみたいに声を潜めた。念入りなのはいいけどこの部屋には今二人きりだぞ姉さん。

「このこと、ナマエさんにお知らせするべきじゃないのかもしれないんですけど……その、私は知らなかったんですが、ナマエさんのことを含む情報を海賊に流していた内部犯が、海軍にいたのはご存知なんですよね」
「はい、それは聞きました」
「そうですよね。……その内部犯、捕獲した海賊たちを尋問した結果、ナマエさんを保護した晩に特定したそうなんですが、逃げられてしまったみたいなんです。それをスモーカーさん含む一部の海兵が"個人的に"追いかけているらしくて」
「え……」

な、なんだそれは……聞いてない。てか内部犯見つかってたのか。クザンさんあたり、教えてくれたらよかったのに。いや、たしぎ姉さんも伏せるくらいだ、あんまり部外者が聞いていい話ではないのかもしれない。秘密ですよ、と可愛らしく人差し指を立てる姉さんに、神妙な相槌を返しておく。
 しかしさすが白猟というかなんというか、狙った獲物は逃さない的なアレなのだろうか。あの人内部犯とか嫌いそうだし。それに個人的に、とはどういうことだろう……内部の裏切り者なんて、海軍としては必死で追わなきゃならないところじゃないのだろうか。うーん、そのへんは公にできない、大人の事情とかがあんのかな。

「でも、変ですね。会いに来れないほど忙しいわけではないはずなんですけど」
「そう、ですか……」

 そんな気はしてたけど、やっぱりスモーカーさん、ここへ来ないのは何かしらの意図があってのこと、なのか。しかしその理由を探ろうにもこれといって思い当たる原因はないし……。どことなく声の沈んだわたしを励ますように、たしぎ姉さんは明るく声をあげた。

「だ、大丈夫ですよ! 深く考えすぎなくても、スモーカーさん、ナマエさんのことすごく心配してましたから、お見舞いに来ていないのも悪い理由では無いはずです。ここのところ色々あったから、万に一つの可能性ですけれど、流石のスモーカーさんも顔が合わせづらいのかもしれませんし」
「あはは……ありがとうございます、たしぎ姉さん」

地味にひどいなたしぎ姉さん。しかしその言葉だけでもありがたい、と礼を告げると、彼女は照れと不安を誤魔化すように微笑んだ。かわいい。
 そうして、ふと思い出したようにリンゴが盛り付けられた器を手に取ったたしぎ姉さんが、

「さ、せっかく切ったし、食べてしまいましょう」

――と、口にしたときだった。

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