No Smoking


▼ 19-2/2

 病室はしんと静まり返っていた。足を踏み入れた瞬間、いっそう増した消毒液の匂いが強く鼻をさす。前を行く二人の影から室内を覗けば、シミひとつない清潔な壁床に、真っ白のベッドがひとつのみ設置されているのが目に入った。わざわざ個室を用意したのは、おそらくヒナさんによる計らいなのだろう。

 ナマエさんは、純白の掛け布団に埋もれるようにその身を横たえていた。彼女の背丈には大きすぎるベッドの中央で、なだらかな膨らみが規則正しく上下している。胸元まで引き上げられた布団の端からは清潔な患者服の襟合わせが覗いており、小さな頭は枕に預けられて浅く沈み込んでいた。抜けるように白い肌、はらはらと散る柔らかな髪、幼さの残る穏やかな面差し……それは見慣れた、ナマエさんの姿だった。

 ひどく、安心する。なんだか、ずいぶん長いことナマエさんに会っていなかったような気がした。まだ顔色は悪いようだったけれど、それでもこの少女の瑞々しい生命力は少しも擦り切れてはいなくて、その寝姿は――それこそまるで何もなかったと思い込んでしまえるほどに――平穏そのものだった。

「鎮痛剤が効いてるから、ずいぶん落ち着いているでしょう。広範囲の火傷のせいで体温が上がってきているから、また魘されるかもしれないけれど……」
「……火傷か」
「ええ」

 火傷……? 首を傾げる私に対して、やはりといった風のスモーカーさんは、一瞬瞼を伏せて瞑目した。この人が一体何を思っているのか、私には読み取ることはできなかった。

「……こっち、左腕よ」

 ヒナさんはちらとスモーカーさんを見やったあと、ベッドの反対側へ回り、掛け布団の隅をほんの少しめくり上げる。清楚な白い袖から覗くナマエさんの細腕には、肘から指先にかけて濡れタオルがいくつか巻いてあった。

「とりあえず、冷却と保湿で対応してるわ。それでも腫れてきているけれど。……見て」

ヒナさんが折り重なる布をほどいていく。一枚、二枚とタオルを広げた先で、ナマエさんの腕があらわになった。それを目にしたスモーカーさんが、息を飲むのが分かる。私の唇から滲む血の味も、胃が迫り上がるほどに明瞭だった。

「……っ」

 ――思わず目を背けたくなるほどに、グロテスクな様相だった。左腕に散る、白や赤の無数の斑点。見るからに痛々しい、小指の爪ほどの小さな円状の火傷。手首の一部には、成人男性ほどの手のひらに強く握り込まれた跡が残っている。腕全体が腫れ上がり、既に水疱も出来始めていた。……これは。

「煙草の先端を押し付けられた傷よ。いわゆる……根性焼きね。左腕の甲に集中して21箇所……深度は見たところまちまちだけれど、治るのにかなりの時間がかかるわ。対処が遅れたのも一因して、適切な治療をしても物によっては……」

ナマエさんの腕をタオルで覆い隠しながら、ヒナさんは躊躇いがちに息を吐き出した。

「……多分、痕が残るでしょうね」



 返す言葉が見当たらなかった。ただ、受け入れがたい事実だけが眼前で浮遊していた。どうしてナマエさんが、この人だけがこんな目に合わなくてはならなかったのか、分からなかった。どうして私たちは、彼女を守ることができなかったのかと、後悔が胸を満たす。なにもかもが理不尽だ。
 スモーカーさんも言葉を失ったように、黙り込んでいた。彼の顔が見れない……否、この人の顔を見てはいけない気がした。だってスモーカーさんや……おそらく青キジさんも、知っていたのだ。私が愚直に平和を信じている間も、彼らはナマエさんの身が危険に晒されてることを知っていて、対策を講じ、警戒網を張っていてなお、失敗したのだ。その胸中は、私にはとうてい計り知れない。


「何も、言わなかったらしいわ」

ヒナさんがぽつりと呟く。

「尋問の際、ナマエを問い詰めていた主犯格の男が……ひどく憤慨していたそうよ。ここまでしてなお、何を聞いても答やしなかったと、この子は海軍との関わりすら、認めなかったと……」

 ――そんな、まさか。

 なんで。だって、ナマエさんには、理由がない。そこまでして、こんな目にあってまで、私たちの、海軍の味方をする義理がない。要領のいい子だ、この人ならもっと上手くやれたはずだ。どうして真っ向から逆らったりしたのだろう。痛い目に合うと想定できなかったわけがないのに。なんで、どうして。

 いや、違う。私は認めたくないだけだ。

 分かってる――きっと、ナマエさんは信じていたのだ。私たちの助けを、確信していたのだ。だけど私たちは間に合わなかった。彼女の腕に押し付けられた火種の分だけ、私たちはある意味で、彼女の信頼を裏切ったのだ。


「…………馬ッ鹿じゃ、ねェか……」

 それは誰に向けた台詞だろう。私たちを信じたナマエさんに対してか、それとも応えられなかった自身にか、その両方か。片手で目元を抑え、スモーカーさんは苦渋の声色で、小さくそうこぼした。

 ……思えば、そもそも彼女の信頼は、「助けて」の嘆きは、真っ先にスモーカーさんの方を向いていた。当然だ、ナマエさんが過ごす時間の大半は、スモーカーさんと共有しているのだから。私はこの二人の関係を、入り込む余地がないの悔しく思うと同時に、常に好ましくも思っていた。
 スモーカーさんが彼女の前でだけ、ほんの少し態度を和らげる様子が好きだった。この無欠の上司にも人間らしい穏やかさがあることに、私は安堵していた。ナマエさんもそうだ。彼女は誰にでも朗らかだけれど、けして私たちの前では見せない弱い部分を、スモーカーさんにだけ見せていた。彼らは私の目で見ても、そういう、安易な言葉では言い表せないような、代え難く、自然な関係だったのだ。

 だからこそ痛い。スモーカーさんの内心など、私が汲み取るには余りある。私の胸のうちにある罪悪感や、後悔や、自責の数倍のものが、恐らく彼に向けられているのだろう。けれど、スモーカーさんは生来、そういった過去のものに囚われる質ではないのだ。彼の目は常に先を見ている。それは海兵としてはひどく、頼もしいことではある、けれど。
 だから、なお、怖い。この件を経て、スモーカーさんがどうするかなんて、分かりきったことだ。――二人の関係が崩れてしまうことが、私は恐ろしい。


 スモーカーさんがゆっくりと、顔を抑えていた左手を下ろした。眉を歪め、そっとナマエさんの枕元へ歩み寄る。たじろぐように身を引いて道を譲ったヒナさんに「悪い」と短く告げ、スモーカーさんは俯くように、小さな少女に手を伸ばした。

「スモーカーく、……」

 ヒナさんが目を見張って、制止の言葉を飲み込んだ。一体何を見たのかは分からなかったけれど、すぐさま彼女は、耐え難いように、スモーカーさんから視線を逸らした。

 彼は、ヒナさんも、私も、意に介さない。それ以外何も視界に入らないかのように、じっとナマエさんを見つめていた。どこまでも慎重な所作で、前髪を優しく払い、額をなぞり、仄かに赤らんだ耳に触れる。……ナマエさんは、動かない。


「……ナマエ」


 スモーカーさんが掠れた声で、ナマエさんの名前を呼ぶ。白い頬に、壊れ物にするように触れ、そうっと、少女のやわな髪を揺らす。

「…………」

縋るように、嘆くように、問いかけるように。そして、いつもしているかのごとく、そうすれば叶うはずだと、彼女の目覚めを期待するように。


「……ナマエ……――」


 呻くように、ほとんど聞き取れない声でもう一度呟いて、スモーカーさんは、ぎり、と奥歯を噛み締めた。ナマエさんは、動かない。瞼を起こさない。まるで永遠に目覚めることはないような静けさで、深く意識を塞いでいる。

 どうか、目を覚まして欲しかった。こんな沈んだ空気を、あの飄々とした明るさで、笑い飛ばしてくれるのは彼女しかいないのに。彼女が「スモーカーさん」と呼び返すだけで、それだけで、いいのに。



「……っ、スモーカーさ、……」
「たしぎ」

 分不相応だと分かっていても、呼び止めずにはいられなかった。このままじゃいけないと、引き止めかけた――ところで、ヒナさんにパッと腕を取られた。驚いて顔を上げるも、するりと背中に触れた彼女の手に身を反転させられ、知らぬ間に私の体は出口を向いていた。
 動揺する私を尻目に、彼女はスモーカーさんへ視線を投げる。その背にかけられたのは、どこか不自然に硬い声だった。

「ナマエに付いていてあげて。わたくしは所用があるから外すわ。たしぎを借りるわね」
「え……っ、ヒナさ……」
「……あァ」

スモーカーさんはこちらを見ずに、低く応答してから、少し間をおいて、もう一度だけ言葉を紡いだ。

「ヒナ。…………すまねェ」

 刹那、ヒナさんは驚いたように目を見開いた。その驚愕を一瞬のうちに取り繕い、彼女は少し苛立たしげな表情で、流暢に返事を返すのだ。

「……ナマエに免じて、ツケにしといてあげるわ」

 その会話の意図はわからない、はっきりしたところはわからない。けれどヒナさんはきっと……スモーカーさんを気遣っているのだろう。でも私は、そうするのが正しいと、そう思うと同時に、このままだとスモーカーさんが彼女から離れていってしまうような、あの安穏を失ってしまうような、そんな予感で無性に心を苛まれるのだ。けれどとっくに限界を迎えている私には、ここに残る理由も、根拠もなく二の足を踏みしめる気力も、もはや残ってはいなかった。

 ヒナさんに腕を引かれ、病室を後にする。遠のいていくスモーカーさんの背に、私は獣の咆哮に似た、声にならない嗚咽を見た。

prev / next

[ back to title ]