No Smoking


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 喧騒の中を潜り抜け、薄汚れた廊下を突き進む。突き立ててられた剣尖を霞の体で摺り抜けて、後ろ手に十手の柄で殴りつけた。手応えもなく昏倒した相手を確かめもせず、ひたすらに奥へと歩みを進める。

 ひどく気が急いていた。出来うる限りの最速を心掛けたとはいえ、それでも巧妙に隠されたこの拠点を発見するのに随分と時間を要してしまった。ナマエの無事に確信が持てない。脳裏をよぎる最悪の事態を無理やり思考の外に追いやって、目の前の状況に意識を向ける。とにかく早々にこの連中を掻い潜って、あの小さく脆い面影を探し出さなくては――。
 屋内の敵は疎らであるが、いちいち相手にする手間は惜しい。反撃は最小限に、残党の片付けは部下たちに任せて歩みを進める。既に表に出てきた賊どもは、たしぎを筆頭とする部下達により掃討されたらしい。背後では一等兵達が残りの賊を片付けているようで、鋼のぶつかる音が騒々しく耳に届いてきた。しかし、まるで蟻のように次々と這い出してくるこんな連中が、天下のマリンフォードに潜んでいたとは、海軍もまた大した失態をしたものだ。内通者も未だ不明――ともかく油断はできまい。

 そうしているうち、廊下の突き当たりが見えた。半開きになった、最奥の部屋の扉が視界に映る。おれの足音に気づいて出てきたらしく、ドアの向こうで血相を変えた痩身の男が情けなく目を剥いていた。

「は、速すぎる、何故ここが……!」

「邪魔だ」

舌打ちとともに蹴りつけた。案の定、くの字に折れた男の体は反対方向に吹き飛び、そのまま腐った木製の壁に呆気なくめり込む。ドアを潜り抜けて室内に足を踏み入れると、酒瓶の散らばった床がガシャリと耳障りな音を立てた。素早く視線を走らせる。先程まで酒盛りでもしていたのだろう、随分と汚い部屋だ。それに……妙に焦げ臭い。


「――……ナマエ」


 一瞬、見逃しかけた。部屋の中央、椅子の座面に頭を預けるようにして気を失っているのは、確かにあの、小さなナマエだった。だが擦り切れたぼろ布のような少女の姿は、見慣れたあの底抜けに明るい振る舞いと、胸を打つような穏やかさとはひどくかけ離れていて、たったそれだけのことで、おれは得体の知れない恐怖に身が竦むような心地がした。
 十手を背に担ぎ、逸る気持ちで彼女の元へ歩み寄る。暗がりに投げ出された四肢はまるで人形のように無機質で、ぴくりとも動かない。辺りの床には灰皿とともにこの焦げ臭さの元凶であろう十数の吸い殻が散らばってるが、奇妙なことに、先に火をつけたきり殆ど燃えてない、真新しいものばかりである。周辺のテーブル上ではガラスコップがひっくり返っており、そのせいか水を吸った服がナマエの肌に張り付いていた。服の袖からわずかに覗く指先は見るからに白く、直に確認するまでもなく冷え切っている。柔らかな髪が頬に散らばっていて表情は窺い知れなかったが、恐らくその瞼は固く閉ざされているのだろう。……。

 冷静な思考を意図して、床に膝をつき、革手袋を抜き取って、剥き出しの細い首に触れた。幼さを感じさせる少し高めの体温と、とくとくと脈打つ血流が指を通して伝わってくる。なだらかな胸は小さく上下していて、口元にかかる髪も呼吸に合わせて揺れていた。


 ――生きている。


 深く、安堵の息を吐き出したその瞬間、ぬるり、と指先を伝う嫌な感触に気がついた。腕を持ち上げ、視線をやる。べとりと、美しいほど鮮烈な赤が、手のひらを濡らしていた。

「――」

 ナマエの頭から首筋にかけて、一筋の血が滴っていた。真新しい鮮血だ。おそらくは海兵達が突入したことに焦った賊どもに突き飛ばされるかして打ち付けたのだろう。見たところ、かつての怪我ほど大した出血ではなかった。そんなことは分かっている。ナマエは無事だ、生きていると理解してはいる――が。

 その生々しい感触に、おれは一瞬、言い訳出来ぬほど激しく動揺していた。胸に押し留めていた、暗く、恐怖に満ちた予感が、脳の平静を侵していく。
 一刻も早く、手当を急がねばと考えた。そしてまた、体の隅々まで触れれば壊れてしまいそうな脆さを持ったこの少女に対して、これほどまで横暴な振る舞いが許されるものかと、筋違いな怒りを覚えていた。刹那、焦燥と憤慨とが綯い交ぜになって、喉を突き上げそうになる。こんな感覚は終ぞ失っていた――失ったと思い込んでいたものに相違なく、兼ねてから積み上げていた海兵としての自分というものすら根底から揺るがすような、そんな言い知れぬ何かであった。

 初めて、恐ろしいと思った。自分の中で、何が少しずつ変わっていっているのは、知っていた。知っていて尚、良しとしていた。心地いいとすら。だが、それは取り返しの付かない、不可逆的な変化だ。ここへきて今更、と自嘲する。もたらしたのはたかが数ヶ月、寝食を共にしただけの少女。それが、どうしてこれほどまで――

 口の中に苦味が広がる。噛み砕かれた葉巻が灰を撒きながらばらりと床に散る。それを見て漸く、軋むほどに食い縛られた奥歯に気付く。

「……、」

吸い殻を吐き捨て、自身を取り成すように息をついた。動揺している場合ではない。ナマエを見つけてからまだ一分と経過はしていないのだろうが、ともあれ、感情に飲まれていい状況でないのは火を見るより明らかだ。

 ――とにかく、ナマエをこんな場所に置いてはおけない。血に濡れた首の下と膝裏に手を通し、頭を揺らさぬよう慎重に抱え上げる。折れそうな肢体はどこまでも軽過ぎて、再び掻き乱すような感傷に駆られそうになって、瞼を塞ぐ。葉巻を失った歯と歯の隙間から、随分と口当たりのいい、少女の名前を口にしかけて、飲み込んでいた。無意味だと理解していて……安心したいなどと、馬鹿なことを。

 立ち上がり、廊下に戻ろうと歩き出す。が、部屋の中心を離れても、彼女の体に染み付いた、気味の悪い、肉の焦げるような匂いが、纏わり付くように離れない。妙だ、と眉を寄せると同時に、廊下の向こうから聞き慣れた部下の声が耳に届いてきた。

「スモーカーさん! ナマエ、さんは……ッ」

 たしぎと、その後ろに数人の海兵。刀は既に腰に納められている――海賊の掃討は済んだようだ。

「たしぎ、本部へ連絡しろ。医療棟だ、急げ」
「……! 分かりました、すぐに」

此方の姿を見ておおよその状況を把握したのだろう、たしぎは焦ったような素振りで身を翻した。海兵らも同様に、ナマエの救出を確認し、たしぎの後に続いていく。おれは両の腕に預けられた少女の朧げな重みを感じながら、絡みつく不穏を振り払うように、出口へと足を向けた。

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