No Smoking


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「……」
「…………」
「………………」

 『だらけきった正義』の標語が掲げられた執務室に沈黙が降りる。人を呼びつけておいてこの態度。おそらく入室した瞬間から、この男はまだ一度もおれの方を見ていない。

「…………青キジ」
「フッ……」
「……。……要件は」
「……ッく……」

 こうして口を開くたび、何が面白いというのか、利き手で顔を覆った青キジの口元から漏れ出してくる含み笑い。いい加減にしろと怒鳴ってやりたいのは山々とはいえ、火に油を注ぐ事にもなり兼ねないと何とか自分を律して口を閉ざす。この男、連日人を憤慨させて一体何がしたいのか。

「……いや、……す、すまん」
「要件は」
「フッ、いやァお前、そりゃ……ゲホッ」

全く話にならない。……ナマエの奴、面倒なことをしやがって。噎せ返る青キジを睨みつつ、襖の前で待ち惚けを食らっているおれは、葉巻の煙と共にうんざりしたような溜息を吐き出した。



「マジでふざけてる場合じゃねェんだがなァ……おれも真剣に悩んでたってのに、そりゃもう反則だわスモーカー……フフ」
「いつまで笑ってんだ、アンタは」

 青キジが立て直すのを待つだけの数分は、ここ数週間のうちで最も無駄な時間だったと断言出来る。そしてようやくまともにおれの方を見た青キジの口元には、相変わらず今にも噴き出しそうな笑みが浮いていた。本題に入る気配もなく、青キジはくつくつと笑いながら不躾にこちらを睨め回してくる。

「それにしてもやたら……あれだな、似合わねェな」
「大きなお世話だ」
「しっかしなるほどなァ、ナマエちゃん……女は怒らせると怖ェっつーのか」
「……」
「その……随分と、いい匂いじゃない」

青キジの震え声の指摘に、自分のこめかみに青筋立つのがよく分かった。

 わざわざ言われなくとも今日一日、しつこい程理解させられている。今朝、ナマエが感情を露わに怒っているのがどうにも珍しく、正直少し面白くてやりすぎたのが運の尽きだった。だが、まさかここまで悪質な報復を受けるとは予想外であろう。家を出る直前、玄関に飛び出してきたナマエに蓋を開けた霧吹きをそのままブチ撒けられ、香り立つ液体を被ったまま唖然としているうちに、そのまま締め出されたため反撃の余地もなく――このざまだ。
 全身に染み付いたこの甘ったるい匂いはこびりついたまま全く薄まることがなく、後ろ指をさされるのは慣れているとはいえ、しかし今日は流石に部下からの視線が鬱陶しい。なにせあのトロいたしぎなどにも「ナマエさんと喧嘩したんですか?」と見抜かれる始末。自業自得だとはいえ、余りにも厄日だ。

「何の匂いなのよ、それ……花?」
「おれが知るわけねェだろうが」
「まァ、な。しかしなんとも、フローラルな……」

揶揄するような青キジの声に舌打ちを返す。「そんなに市販のがいいなら好きなだけどうぞってんですよスモーカーさんのアホ!」と滑らかな罵倒を飛ばしてきたナマエの言からして、どうやらこれが市販品らしいのは確かだ。しかしナマエがこんなものを仕舞い込んでいたとは……こういった香りの強い類は毛嫌いしていると思っていたのだが。まさか嫌がらせのために残してあったとは思いたくない。



「まァ一旦掛けてくれや、スモーカー……」
「いや、立ち話で構わねェ。そろそろ本題に入れ」

 それに、座れとは言うが執務机の前のテーブルには空になった皿とティーカップがそのまま置きっ放しにされている。怠惰を極めたこの男が自ら片付けるわけもないのだろうが、これでは人を持て成す体も取れやしない。青キジはおれの視線を辿ってテーブルを見ると、何を思ったか、あァと頷いてみせた。

「そりゃナマエちゃんのだ。いやァ……今回のケーキはだいぶ気に入ってくれたみてェでな、奮発した甲斐も有ったってもんだ」
「……アンタ、餌付けも程々にしろよ」
「おいおい妬くなって、スモーカー」

どうしてそうなる。そしていつまで経っても本題に入ろうとしない青キジに堪忍袋の緒が限界を訴えている。いっそ帰ってしまおうか。
 おれの顔つきを察して、青キジは引き止めるように謝罪の言葉を口にする。全く、謝るくらいなら初めから真面目にやれという話だ。

「すまんすまん……どうも気が滅入っててな、笑える話題だったんでつい、な」
「アンタが滅入るたァ、また相当じゃねェか」
「まァな……」

 青キジはこちらの皮肉を受け流し、ふとその表情に影を落とした。

「今回の事案はちょっと、つーかかなり対処に困ってんのよ。不明瞭なことも多くてな……」

にわかに表情を緊張させて、自らの組み合わせた手を睨んだ青キジの声の調子はらしくなく硬い。彼の普段のおちゃらけた態度はなりを潜め、そういえばこの男は海軍本部大将であったのだ、と納得させられるような空気に、皮膚がひりつくような心地がした。

「……一体何が?」
「ン……あのよ、ここ暫く本部に海兵の出入りが多かったじゃない。それで戦力がマリンフォードに偏りがちになってただろ。……その動きがどうやら、一部の海賊に知れてるみてェでな」

 ようやく切り出された本題に、どうやらかなり重要な話らしいと、私情を押さえ込んで耳を傾ける。わざわざ呼びつけられたくらいだ、自分も関係のある話には違いないだろう。大将の顔をした青キジは、眉間の皺を深めつつ重々しく口を開いた。

「そんで昨日、だな。海賊の動きが怪しかったんで、上層部でも予想しちゃいたんだが……黒電伝虫が拾った通話で、海軍本部内の情報が漏洩しているのが確定した」
「……! 犯人は割れてんのか」
「いや……だが会話の内容から推察するに、おそらく内部犯だ。あまり穏やかな話じゃねェが」

 内部犯による情報漏洩とは、思いの外深刻な事態になってきた。つまりは海兵の――仲間内に、海賊に情報を横流ししている裏切り者が居る、ということだろう。しかし話は分かるとはいえ、妙だ。この情報が事実なのであれば、今の青キジの行動はどうにも不可解だった。

「本部内にスパイが居ると分かってんならおれに話すのは悪手じゃねェのか。てめェで言いたかねェが、おれが内部犯の可能性も無くはねェ。そう言う類は一部の上層部のみで共有しておくのが定石だろう」
「……普段ならそうだな。だが今回は、お前らにも関係のある話なのよ」

 お前ら、とはおれを含む誰のことだろうか。普通に考えるなら部下のたしぎだが、それならあれもここに呼ばれていなければおかしい。不穏な気配を感じたように、天井に立ち上る葉巻の煙が微かに揺らいだ。

「確かにお前に話すのを渋る声も有るにゃァ有ったんだが、おれァお前を信用してんのよ、スモーカー。だからこそ今回の件はお前に知らせて、残りの判断を委ねるのが堅実だと思った。元帥の同意も得てるしな」
「要領を得ねェな……つまり、何が言いてェ」
「そうだな、……」

額の上にあるアイマスクの裾を、指で摘む青キジの目元に濃い影が落ちる。躊躇いがちに、慎重に、彼は瞼を伏せたまま、唸るように口を開いた。


「掻い摘んで言やァ、盗聴した会話の中で『保護対象』の言葉と……ナマエちゃんの名前が出た」




 ――……ナマエ?

 予想していなかった名前に一瞬思考が停止する。この話の流れで、海軍本部内で耳にする海賊絡みのいざこざと、おれの家で穏やかに笑う少女の姿とが噛み合わずに、ただ違和感だけを覚えていた。無法者どもが海軍の情報をすっぱ抜く意味は理解できる。だがナマエが取り沙汰にされる道理が分からない。それを知ったところで奴らに何の得がある? どうして――海軍の意思に、ナマエは全く無関係だというのに。

「……覚悟してなかった訳じゃねェだろ」

 溜息を吐くように、青キジは呟いた。どこか遠いところで紡がれる彼の台詞が、意味を持たないまま脳内を反芻する。

「当たり前みてェに受け入れちまってて、あの子は違和感なくここに居て、おれたちはナマエちゃんの人格そのものに価値を置いてる、が……そりゃ、そうだよなァ。ナマエちゃんは海軍本部元帥が認めた『保護対象』、なんだもんな。きっと異例の特例だろ……んなの、聞いたこともねェよ」

青キジは力無く笑った。

「……元帥はどうして、あの子を保護対象にしたんだろうな。単に境遇が特殊だから、ってわけじゃァなさそうだが……悪党の興味を引いてまで、ナマエちゃんを海軍に置く意味があんのかね」
「……」
「まァ……おれたちがこんだけあの子に肩入れしちまってること自体が……十分過ぎるくらいの付加価値なんだろうが」

 ――予感は、あった。海軍本部の庇護下に置くことで、ナマエをいっそう危険に晒しているのではないか、という予感。彼女が恐ろしいくらい自然に、海軍上層部の連中に順応することへの不穏。赤犬がナマエの存在を危惧していると知った時も、そうだ、こうなる予想はついていた。そして、ナマエがこんな状況に落とし込まれているのは、自分の所為だということも、きっとおれは分かっていた。
 ナマエが実際、どんな価値を持っていようと、おれはどうだってよかったのだ。マリンフォードに連れてきたのは、弱っちいくせにトラブルに巻き込まれに行くあの少女を放っておけなかったから、ただそれだけの理由に過ぎない。おれはそもそも、ナマエの安全が保障されたなら、それで終わり、のつもりでいたのだから。だが元帥がナマエの保護を決めたとき、余計なことをと思ったのは、あの時からこんな予感を抱いていたからなのかもしれない。結局、言い訳だ。あいつのためを思えば、突き放すことはいつだってできたはずなのだから。

 歯を食いしばったまま黙り込むおれの方を見やりつつ、青キジは丸めていた背筋を伸ばして、疲れたように頭を掻いた。

「話はこんだけだ。ナマエちゃんの処置は管轄のお前さんが決めてくれ。だが一応極秘事項だ、事情は伏せたままにすることと……あと、本部からの帰路はおつるさんとこの部下が秘密裏に護衛するらしいんで安心してくれていいが、昼間の外出は控えるようにとだけ言っといたほうがいいかもな」
「……あァ」
「分かってるとは思うが――今回の件、ナマエちゃんが危険に晒されるようであれば、一番手っ取り早いのは海軍本部から引き離して隠しちまうことだ。お前がその気になりゃ、押し通して済む話でもあんのよ、スモーカー」
「…………分かってる」

 いい加減、潮時なのかもしれない。無論乗りかかった船だ、今後もナマエの面倒を見ていく覚悟はある。だが、このままあの少女を手元に置いていては、きっとそう遠くないうちに、本当に離れがたくなるような、そんな気はずっとしていた。それとも、すでに手遅れなのだろうか。果たしておれは、ナマエが居ない家に帰ることができるだろうか――?



「……まァ個人的な感情を言えば……おれァナマエちゃんには海軍本部にいて欲しいけどな」

 沈んだ空気を切り替えるように、そう言った青キジの声は少し明るい。

「それに、目の届かないところにやっちまうのが裏目に出る可能性もある。今更どうこう言ったところで、あの子が保護対象になっちまったことは変えられねェし……もしお前がこのまま守り抜くと決めたんなら、協力は惜しまねェつもりだ」
「あァ……助かる」

気にすんな、と青キジは言う。

「他でもねェナマエちゃんの為だしな」
「今に始まったことじゃねェが……アンタは随分、あいつに入れ込むんだな」
「フフ、なァに……慰めてくれる女の子っていいじゃないの。ああいうタイプの子って見たことねェんだよな……おれァ身を固めるのは勘弁してェ方だが、ナマエちゃんなら嫁にしてもいい」

何を馬鹿なことを言い出すんだ、と思うが、青キジのこういった台詞は大抵が信用ならない。この男、どうせ冗談で言っているのだ。

「可愛いし、仕事もできるし、噂じゃ料理も美味ェらしいし。それにナマエちゃんはあれだ……見た目の割に柔らかくていいよな」

どうせ、冗談で言って……、

「ほら、おれは元々ムチムチしたねーちゃんが好きなんだが、この前ナマエちゃんに抱きしめてもらった時のあのふわふわした感触に射抜かれたっつーか」

……。

「……アンタ、あいつに手ェ出したのか」
「あららら、とうとう妬いたかスモーカー。おれからはなんもしてねェのよ、ナマエちゃんがギュってしてくれたんだ。てかお前澄ました顔しちゃいるが、やっぱナマエちゃんが関わると……」
「黙れ青キジ。こっちは真剣に悩んでるってのに、アンタはほんの数分しか真面目に会話できねェのか……!?」

もともとギリギリで繋がっていた堪忍袋の緒がブツリと切れた。おれが十手を携えて一歩前に出ると、青キジは珍しく慌てた様子で椅子ごと背後に下がる。

「ちょ……ちょっと待ちなさいってスモーカーお前、そこを動くな!」
「……!?」

稀に見る青キジの焦りように思わず足を止める。訝しく思って目の前の男に視線をやると、彼はうろうろと視線を彷徨わせ、頬を引き攣らせつつ顔を背け――、


「動かれると……ホラ、その……やたらフローラルな匂いが、コッチまで……フ、くるんだわ……フフ」


 あァ――全くもって話にならねェ。

 ここ数日、溜まりに溜まったストレスが限界値を迎えるのが分かる。何かがブチブチと千切れていく音を聞きながら、葉巻の灰が舞い散るのにも構わず、おれは問答無用で執務机正面に踏み込んだ。

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