No Smoking


▼ 16-1/3

「――スモーカーと喧嘩?」

 驚いたように手を止めて、いつになく見開いた目でこちらを見るクザンさん。彼の執務机には山積みになっている手付かずの書類たち。そしてわたしの目の前には真っ赤ないちごが乗っかった可愛らしいショートケーキ。横には無糖の紅茶も添えてある。

「そうです」

人事みたいに頷いて、わたしはフォークに突き刺したひとかけらをぱくりと口に咥え込んだ。


 あの居酒屋連行事件から二日経つ。案の定、被害者であるわたしには、酒を呑んだ自覚もなければ、酔っていた間の記憶もほとんど残ってはいなかった。だというのに昨日、いつの間にか家に帰ってきていたわたしを襲ったのは、理不尽な吐き気と頭痛、いわゆる二日酔いというやつで。
 初体験の二日酔いに吐きそうになるわ、再び欠勤するわ、記憶はないけど奇行に走るわ、スモーカーさんとたしぎ姉さんにはわざわざ迎えに来させてしまうわ、ほんともうとにかく散々である。そんなわけで昨日は、二度と酒なんぞ呑まされてなるものか、と元凶であるクザンさんを呪い殺さんばかりの勢いでいた……のだが。

 そう、今朝――あの煙野郎ときたら。

 クザンさんへの恨みつらみも吹き飛ぶような、わたしのアイデンティティを全否定するような、そんなものすごい暴論を、悪びれもせずかましてきやがったのだ。

「そりゃなんとも、珍しいじゃないの……」

 頭をポリポリ掻きながら、クザンさんは上半身を椅子に凭せ掛ける。だるそうな彼の右手はペンを手放してしまっているが、このおっさん、仕事貯めてる自覚はあるんだろうか。口動かすんなら手を動かせってんだ、手を。

「今日はナマエちゃんに怒られる気満々だったんでなァ、矛先が逸れてて拍子抜けしちまったんだが……しかしお前さんたちが喧嘩たァ……」
「言っときますけどクザンさんにも腹は立ててるんですからね、反省してくださいよ」
「んん、まァ調子に乗りすぎたとは思ってんのよ……センゴクさんにもおつるさんにも久々に説教されちまったしな」

そうは言いながらも、クザンさんの声色、なんかやたら楽しげな気がする。はあ、本当に反省してんだろうか。してないんだろうなあ。

「しかし昨日は休んでたじゃないの、ナマエちゃん。あれから何かあったわけか?」
「いえ、別に昨日はなにもなかったんです。スモーカーさんの方はなんとなく口数少なでしたけど」
「ほォ……なんでまた」
「知りませんよ。わたしが酔っ払ってたときになんかあったのかもですが、サッパリ覚えてなくて」

 フォークを咥えたまま、わたしは肩をすくめてかぶりを振った。お酒とか諸々に関しては不本意ながら多少の小言を覚悟していたのだが、昨日のスモーカーさん、珍しく皮肉も悪態も言ってこなかったのだ。妙な質問はいくつかされたし、反応を伺うように触れられることもあったけど、基本そっとしといてくれたので悠々自適に過ごせた気がする。それに二日酔いとかどう対処したらいいか分かんなかったから、スモーカーさんに介抱してもらって助か……って違う、そうじゃない。わたしは今怒ってんだ。
 そんなわたしを眺めつつ、クザンさんは本当に覚えてねェんだな、と感心したように呟いている。そのまま彼は何かを思い出そうとするように斜め上へ視線を送ったかと思うと、面白がるみたいに口角を持ち上げた。余計なことを言おうとしてる気がする。

「まァ、酔ってるお前さん、かなり珍しいことになってたんで、スモーカーも……」
「あの、聞いたら絶対恥ずかしいので詳細は伏せたままにしといてくださいよ」
「そう言われると言っちまいたくなるが……」
「まじでやめてください」

 じろりとクザンさんをねめつけるわたし。同じことは昨日もスモーカーさんに散々言い含めておいたので、こんなところでうっかり耳にしたくはないのだ。どうせ酷い内容なのだし、恥ずかしいと分かってるなら知らない方がいいに決まってる。
 クザンさんは軽く笑いつつもそれ以上突っ込んでくる気はなかったようで、これ以上株を落としたくねェからな、と口にしてこの話題を切り上げてくれた。しかしこれ以上も何も、クザンさんの株はだいぶ前から取り返しのつかないことになってるので、今更感はどうにも否めない。残念すぎる。



「――で、喧嘩の原因はなんなのよ」

 クザンさんはぱくぱくとケーキを食べ進めるわたしに向かって、興味津々な視線を寄越してくる。見せもんじゃないんだぞこの野郎。と思いつつも愚痴りたい衝動を堪えきれず、わたしは行儀悪く天井に向けたフォークをくるりと回しながら口を開いていた。

「別に、大袈裟な話じゃないですよ。今日の朝、新しい消臭剤が作りたいってスモーカーさんに言ったんです。そのために素材を買いたいから、ちょっと遠出したいなーって感じで」
「ほォ……」
「そしたらあの人、なんて言ったと思います? だってわたしがどれだけ消臭に情熱を注いでいるか知らないわけでもないのに、というかそもそも自分が匂い源のくせに、いけしゃあしゃあと……」

 言葉を切り、紅茶のカップに口をつけて一息つくわたし。特有の渋味とともに暖かい温度が舌に沁みていくのだが、わたしの内心に吹き荒れるのは乾ききったブリザードである。
 ああそうともスモーカーさんめ、わたしの趣味生き甲斐命綱、その性能の良し悪しこそが最重要事項だというのに、まるで分かっちゃいないんだから。別にあの男に理解できるとは思ってないけど、でもそれなら、余計な口出しだけは止めて頂きたいものである。だって今朝のは、冗談めかしてとか、呆れたようにとか、そんな言い方ではなくて、割とガチな感じで――

「スモーカーさん、『消臭剤なんざ市販のでも大して変わらねェだろう』って言ったんです!」

 ティーカップを勢いよく受け皿に押しやって、わたしは自分の予想していた以上に刺々しい声を吐き出した。
 いやだってもう、は? としか言いようがないだろう、スモーカーさんのこの台詞。スモーカーさんが消臭剤の何を知ってんだって話じゃないか。本気で言ってるとしたらあれだ、葉巻ばっか吸ってるから鼻までばかになったんじゃなかろうか。ああもう、思い出して腹立ってきた。

 そんな感じのわたしをぽかんと見ていたクザンさん。彼はいきなりくッ、と呻き声を上げたかと思うと、そのまま口元を押さえて顔を背けた。見れば、その広い肩が何かを堪えるみたいに小刻みに震えている。
 なんだ一体。口内炎でも噛んだのか。流石の大将でもあれは痛いよなあ、分かる。とか言ってみるけど、もちろん彼が苦しんでるわけではないのは承知の上だ。なにしろクザンさんの口角、随分楽しそうな曲線を描いている。うーん、間違いなく笑ってやがるなこのおっさん……この野郎、こっちはマジでキレてんだぞ。

「笑うところじゃなくないですか」
「いや、……フ、思いの外理由がなァ……」
「あのですね、わたし消臭は自分のためにしてるだけだし、別にスモーカーさんに理解してほしいとか思ってるわけではないんですよ。でもやっぱり、言い方ってもんがあるじゃないですか。しかもスモーカーさんが言ったのってそれだけじゃないんですよ。余計なことにこだわりすぎだとか、自分が葉巻を吸う限り無意味だとか」
「……まァ、ナマエちゃんが怒るのは分かるが……スモーカーも深い意味で言ったわけじゃねェんでしょ」

笑いを堪えたような震え声のまま、クザンさんはスモーカーさんのフォローに入る。しかしわりと本気で笑いどころが分かんないんだけど、もしかして煽られてんだろうかわたし。

 とはいえもちろん、分かっちゃいるのだ。ほんとのところを言えば、わたしも初めの一言の時点で腹を立ててたわけではなくて、会話が段々エスカレートして、そのあと続いた口論の余韻で苛ついているだけってことは。拗ねた子供のような声を自覚しながら、わたしはもそもそと口籠もった。

「……わたしだって市販のでも質がいいならそれでいいんです。だいたいわたしが一から消臭剤作ってるのだって、他にいいやつがないからって理由ですし。きっとスモーカーさんは市販のとか買ったことないでしょうから、わたしの徹底消臭が基準になっちゃってて違いが分からないのは仕方ないのかもしれません」
「そもそも興味ねェしなァ、普通……」
「……そうですね、まあ押し付ける気もないです」

わたしは気分を落ち着けるようにふうと息を吐き出した。怒っていても疲れるばかりで、クザンさんに八つ当たりをしても仕方のないことなのも存じあげている。それに話してるうちに食べ進めてしまったショートケーキも最後の一口、ここは気持ちを落ち着けて大切に味わうことにしよう。
 遅ればせながらこのケーキ、クザンさん曰く先日調子に乗ってわたしを居酒屋に連行したお詫びの品らしい。なにからなにまでふわっふわな、おそらくわたしが今まで食べてきたあらゆるショートケーキの中で一、二を争う旨さを誇るこのブツは、なにやら政府御用達パティシエによる逸品だとかなんとか。おかげでここ数日色々あって荒んでいた心も癒されるというものである。うう、美味しい。勿体無い食べ方をしてしまったこと、悔やんでも悔やみきれない。


 よし、ポジティブに捉えよう。そもそもスモーカーさんが消臭剤の使用そのものを否定してこなかったのはわたしの努力の成果じゃないか。それに実際、あの人が市販のとわたしの消臭剤の違いが分かっていないとしたら、今朝のわたしの反撃もきっとよく効くことだろう。

「――実は、なんだかんだ言いましたけど、もう報復は済ませてあるんです」

 フォークをお皿の上に乗せて、わたしはどさりとソファに背中を預けた。クザンさんは片腕で頬杖をついたまま、だらけきった口ぶりで「へェ……」と意外そうに口を開く。

「そりゃ随分手早いが……あいつに効くのか?」
「効力は十二分です。丸一日反省してくださいってことで、きっと今頃めっちゃイライラしてますよ」
「あららら……何したのか知らねェが、大丈夫なのかそれ」
「さあ……帰ってきたらど叱られる予感はします。けど向こうが謝るまで許す気は無いです」
「おいおい、おれこのあとあいつと話があるってェのに……ほんと何したのよ、ナマエちゃん」

 クザンさんが嘆くがわたしの知ったことではない。ケーキも食べ尽くしてしまったので、渋い紅茶をごくごく飲み干しつつ、わたしは階下のスモーカーさんの現状に思いを巡らせた。今落ち着いて考えるとやりすぎたような気もするけど、しかし十分な報いだろう、きっと。たしぎ姉さんやその他の部下さん、色々ただならぬ状況で大変だろうけど頑張ってください。

「スモーカーさんに会ったらすぐわかると思いますよ」

にっこりと口角を上げ、わたしは満足して両手を合わせるのだった。


 さて、とふかふかのソファに沈んでいた腰を上げるわたし。こないだの騒動に引き続き昨日も休んでしまったし、今日は早めにおつるさんのところへ向かうとしよう。最近どうにもなまってる気もするので、気合を入れなくては。

「クザンさん、ご馳走様でした。反省の証に書類ちゃんと進めといてくださいね」
「…………。できるだけな」

 なんだその間は。おそらくこれはやらないやつだ。とはいえ追求も面倒だと、わたしはクザンさんに背を向けて、やれやれと出口に向かう。ソファの横を通り過ぎ、畳の上を進んで、わたしは襖に手を掛けた。



「――……ナマエちゃん」

 背後から、ふとクザンさんの呼び声がかかる。

「はい?」

 そのやたら真剣な――まるであの日のような――声色を不思議に思って、わたしはクザンさんの方を振り返った。執務机には、視線を落としたまま、珍しく顔を顰めているクザンさんの姿。彼はわたしから目を逸らしたまま、何事か口にしようとして言い淀み、そして再び口を塞ぐ。
 だらけきっているとはいえ、この人はなんだかんだ確信を持って行動しているし、普段から優柔不断ってわけじゃない。だからこそどうにもクザンさんらしくない様子だ、と思うが……一体何だと言うのだろう。

「どうかしましたか」

 黙りこくったクザンさんにもう一度声を掛ける。それに呼応するように顔を上げた彼は、どこか違和感のある、誤魔化すような笑みを浮かべていた。

「……いや、なんでもねェのよ。気をつけてな」
「? ありがとうございます」

 いつも通りの体裁を整えて、クザンさんは何事もなかったかのようにふらふらと片手を振る。その様子はどうにも、言及されるのを避けているように見えた。
 クザンさん、また悩み事ができたのだろうか。サカズキさんのときは変な勘違いだったけど、しかし今回は、輪をかけて深刻な感じというか……。わたしに言えないってことは、仕事の――海軍の話かもしれない。もちろん、本当のところは分からないけど。

「……それじゃ、失礼します」

後ろ髪が引かれるような気もしつついとまを告げ、わたしはクザンさんの執務室の敷居を跨ぐ。そうして閉じ掛けた襖の隙間から、クザンさんの重々しいため息が聞こえてきたような気がした。

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