No Smoking


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「……だから、今日はまだ行かねェ方がいいと言っただろう」

 夕食後、ソファの上にうつぶせて死んでいるわたしと、その横で資料片手に葉巻を吹かせつつ呆れ顔をするスモーカーさん。プライベートにまで仕事を持ち込むこの人は海兵の鑑である。リビングテーブルの上には兄貴に貰った菓子折りの金平糖と、ボルサリーノさんに貰った、いわゆる図書カード10000ベリー分。こないだ本が欲しいと言っていたのを覚えていてくれていたらしいが、金額が地味に多い。というかこの世界にもこんなものがあるんだな……。

 今日も夕飯は作らなくてもいいとは言われたんだけど、昨日作れなかったのが大変申し訳なかったのでわたしは意地でもと用意した。のだが、本当のところは疲れたので一刻も早く休みたい。寝たい。スモーカーさんの大正論に反論することはもちろん出来ず、わたしはううと呻いて上半身を引き起こした。

「おっしゃる通りです……」
「メンタルは体調に引き摺られるんだ、今後は本調子になるまでは休むことを覚えろ。分かったな」
「あい……」

ケッ、スモーカーさんはわたしのお母さんか何かですか。と思いつつも言い返せない。実際彼の言う通りなのだ。心配してくれてるのも分かるし。
 スモーカーさんは資料から視線を外し、殊勝なわたしに向かって不気味なものを見るような眼差しを向けてくる。全くもって失敬な目線だ。

「素直すぎてこっちが怖ェな……」
「わたしはいつでも素直です。でも今回は過去最高に、マリアナ海溝より深く反省してます」
「どこの海溝だ、聞いたこともねェ」
「スモーカーさんが絶対知らないとこですよ」

 眉をひそめるスモーカーさんの隣に座り直し、わたしは彼の脇腹にぐたりと頭を押し付ける。すんとジャケットの匂いを嗅ぎやれば、葉巻の残り香と、ほっと落ち着くような正体不明の匂いがした。この人にくっつくのは匂い移り的な件でできれば避けたいのだが、今日は気落ちしているせいか、それともまだ二日目だからか、妙に人肌が恋しいのだ。かく言うスモーカーさんもそんなわたしを珍しく思ったようで、頬にかかった髪を耳へ引っ掛けてくれるいつもの所作にも、彼なりの気遣いがひしひしと滲んでいた。

「――どうした?」
「なんでも……。ただ、ちょっと疲れただけです」
「そりゃ、なんでもなくはねェだろう」
「でも、ほんとになんでもないんです」
「……。体調はましになったか?」
「腰痛が悪化しました」
「はァ……」

 白煙とともにため息を吐き出して、スモーカーさんは凭れかかっているわたしの髪をそっと撫でる。そのままするりと背中側に落ちていく彼の手を心地よく感じながら、わたしはふわりとあくびをした。

「腰、が楽です。摩っていただけるなら」
「……抵抗はねェのか」
「なにを今更……てかこないだスモーカーさん、一晩中掴んでたじゃないですか」
「そうか、……確かにな」

なにが確かに、なんだ。あれかな、流石のスモーカーさんも年齢騒動を経てセクハラに気をつけようとしてくれてるのかもしれない。わたしの感覚では今までと全く変わらないのだが、スモーカーさんからすると対応に困るのだろうか。そりゃセクハラはぜひ遠慮してもらいたいけど、それを除けば今まで通りで構わないんだけどな。

 スモーカーさんは肘掛けに一旦資料を置きやって、凭れかかっているわたしの二の腕を軽く引いた。仕事の邪魔をする気は無かったので、今更ながら申し訳ない気分になる。

「ナマエ、もう少しこっちに来い」
「ん、はい、……いいですか」
「こっちだ」
「へ、あ?」

 膝裏にいきなり腕を通されて、ぐいっと引きずり上げられるわたし。ぐるりと視界が回り、お次の瞬間にはなぜかスモーカーさんの膝の上だ。迅速に、かつ丁重に済まされた一連の流れに、わたしの思考は全く追いついていない。わたしは動揺したままスモーカーさんを見上げ、彼と距離を取ろうと慌てて身をよじった。

「な……な、なにすんですか一体」
「今日は"匂い移りは気にしない"日だろう。いい加減大人しくしておけ」
「ちょ、あの、おっふ!」

頭を引き寄せられて、わたしの頬がスモーカーさんの胸板へ、ジャケット越しに押し付けられる。確かに今は匂いとか葉巻とかの件に関してはそこまで気にしてないけど、しかし、せ、セクハラは遠慮してくれるんじゃないのか。この野郎、むしろ酷くなってる気がするぞ!
 もがくわたしを無視して、資料をぱらぱらと捲りだすスモーカーさん。うう、今回はおそらく、からかってるわけでもなさそうだし、スモーカーさんにセクハラのつもりはないんだろうけど……それにしてもやはり、子供扱いされてるよなあ、これ。まあもう、諦めてるけどさあ。

 スモーカーさんの大きい手が、わたしの背中をふわりと撫でる。ちくしょう……悔しいけどぶっちゃけ安心する。当たり前なんだけど、スモーカーさんはふわとろ煙と同じなのだ。感触とかそういうんじゃなくて、雰囲気とか、気配のようなものが。思っていたよりわたしの体が冷えているせいか、服越しに触れる彼の暖かい手のひらも、随分心地よく感じてしまう。ああ、やばい。いい加減察してきたけどこれ、寝落ちする流れだ。

「あのスモーカーさん」
「……なんだ」
「このままだと寝ちゃいそうなんですけど」
「お前は結局……、ガキだな」
「真面目に言ってるんです」
「寝れるなら寝ちまえ。風呂は朝でも構わねェよ」

 どうもスモーカーさんに離してくれる気は更々無いらしい。なんだろうなあ、一人にしたらまた無理をするとでも思われてんだろか。やはり過保護だ、と思う。理由はわからない。保護者ではない、と告げたヒナさんの言葉が脳裏をよぎる。今更ながら……わたしたちの関係はなんと形容するのだろう。スモーカーさんにとって、わたしは一体なんなんだろう。

 ――まあいいや、いい加減この人に寝かしつけられることにも慣れてきてしまったし、葉巻のせいで息苦しくはあるけど居心地は悪くない。わたしはスモーカーさんに身を預けて目を閉じる。彼が資料を捲る音だけがする静かな部屋で、低く響くような心音が、わたしの鼓膜に広がった。

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