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「それで、あなたは……」
今わたしの目の前には赤いメガネの若い女性がいる。黒髪のショートヘアで、物腰柔らかで、可愛いらしい印象のお姉さんだ。なんでまたこう、物騒な響きの海軍とやらに入ってるんだろう。彼女の腰には物々しい刀が差してあるが、あれで戦ったりするんだろうか。
ちなみに現在わたし、絶賛事情聴取中である。
わたしを助けたあの謎の男は、甲板に足を下ろすやいなや早速わたしに事情を問い詰めようとしてきたのだが、このお姉さんがそれはもうびっしょびしょの濡れねずみのようなわたしの姿を見て待ったをかけてくれたのだ。今わたしの頭の上にあるタオルや少しサイズの大きい服は、このお姉さんがご厚意で貸してくださったものである。袖も胸も多少余っているが、親切にしてもらえてありがたい限りだ。ほんと、捕虜とかにされなくてよかった。
そんなこんなで、今は船内の小部屋で机を挟み、彼女と顔を突き合わせている。
「ええと……いつのまにか溺れていて、あの海王類の頭に偶然乗ったために助かり、それで海軍の船が来たから助けを求めたんですね」
「はい」
「あの、いつのまにか溺れていたって、どういうことですか?」
「分かんないから困ってるんです」
「そっ、そうですよね」
メガネのお姉さんはふてぶてしく答えるわたしよりも数段困った顔をする。申し訳ないが事実なのだ。わたしには何もわからない。自分の身に降りかかった災難についてさえ、なにひとつ。
「でも、すごいですね。あの"
「カームベ……?」
「ご存知ないですか? "凪の帯"は"
「たしぎ!」
そう怒鳴りながら無遠慮にドアを開けたのは、この肺に悪そうな匂い……見なくともわかる、あの男だ。でかい十手を背負ったヤクザだ。わたしはうんざりしながら鼻呼吸に別れを告げた。
「はい!」と慌てたように返事をして、たしぎというらしい彼女は思い切り立ち上がる。その拍子に椅子がすてんとひっくり返った。お二人とも構う様子がないので、どうやらよくあることらしい。
「さっきの騒ぎで船に多少の被害が出てる。てめェも無関係じゃねェだろう。私物の回収を済ませておけと言ったはずだが?」
「ハッ! そうでした、ついうっかり……」
「そのドジ、いい加減何とか何とかしねェか」
「す、すみません」
彼女は慌てて部屋を飛び出……そうとして倒れた椅子の脚につまづいて顔面からすっ転び、ものすごい勢いで立ち上がって今度こそ部屋を出て行った。その様子を見送って、ヤクザは深々とため息をつく。
ため息をつきたいのはわたしだ。そんなふうに葉巻の煙を吐き出すのをやめてもらいたいものである。謎かつ無意味に二本も吸ってるし、間違いなくわたしへの被害も倍量だ。はっきり言って嫌がらせとしか思えない。
「……おい」
男は眉間を歪ませながらわたしに視線を寄越し、低い声で呼びかけてきた。歩く公害喫煙者のくせに随分横柄な態度だ。わたしは負けじと睨み返した。
「なんですか」
「……」
口元をタオルで抑えているので、わたしは間の抜けた鼻声である。露骨に嫌な顔をしている自覚はあるが、喫煙するならするでこういう人間がいることを考慮すべきだ。だいたい葉巻は紙巻の煙草より匂いがキツイ。ていうかこの人、胸元にも腕にも葉巻を常備しているのか。相当重度のニコチン中毒じゃないか。
男は先ほどたしぎお姉さんがひっくり返した椅子を起こして、そこにどさりと腰かけた。机を挟んだ、ちょうどわたしの正面の位置だ。じっとこちらを見据える鋭い視線。彼は少し逡巡してから、どこか慎重ともとれる様子で口を開いた。
「……おれァ、海軍本部大佐のスモーカーだ」
それは案外偉い役職なのでは、と認識する前に、いやこの人なんというそのまんまの名前なんだ。生まれた時からヘビースモーカーになることを強いられたようなお名前だ。少し同情する。
「お前は?」
「え、なんですか」
「お前の名前はなんだ」
少し苛立たしげに尋ねてくるスモーカーさん。いや、そこまで見事に名前と見た目が一致しているのが悪い。あまりの衝撃に聞き逃してしまったのだ。
「わたしはナマエです。スモーカーさん」
くぐもった声でもごもごと名乗った。ちゃんと聞き取れただろうか。尋ね返されたらファブリーズと名乗ることにしよう。
「そうか、ナマエ」
よし、ちゃんと聞き取ってもらえたようだ。しかし彼が口を開くたびに煙が部屋に満ちていくので、わたしの心身はとてもつらい。一体何が楽しくて副流煙なんかと相席しなきゃならんのだ。この人、さっさと用事済ませて出て行ってくんないかな。
「……お前、何がそんなに気に入らねェ」
「へ」
突然投げかけられた質問は、予想していたものとは随分違う。てっきりなんであそこにいたのか、とかお前は何者だ、とか聞かれるんだと思っていたんだけど。
「警戒してるわけじゃねェ、海軍嫌いでもねェ。恨みを持ってるようにも見えなけりゃ、"悪魔の実"の能力を見て怯えてるんでもねェらしい」
なんの話だ。というか悪魔の実ってなんだ。不吉な名前すぎる、きっと食べたら死ぬタイプの実だ。
いまいち話についていけないわたしに構うことなく、ぷかぷか紫煙を吐き出して、彼は実に恐ろしい形相で言葉を続けた。
「だが顔を合わせるたびに親の仇みてェに睨んできやがる。その理由がわからねェ」
ああ、なるほど。副流煙の害を知らないタイプの人か。自分が傍迷惑だと自覚していない喫煙者だ。ギルティ。
とはいえわたしもぼちぼち察している。わたしの常識がこの――わたしの見た幻覚でなければ、体が煙に変わるような――人外じみた海兵どのに通用するとは限らない。だが、それでもやっぱり煙草は有害だ。癌の元だ。非喫煙者の嫌な顔くらい認めて貰いたいところである。
「……どうしたって相容れないものは、あるじゃないですか。誰にだって何かしら、受け入れ難い存在は。その例に漏れずわたしにも、この世で一つだけ、どうしても嫌いなものがあるんです」
タオル越しのマヌケな声に似つかわしくない、緊迫した空気が漂う。スモーカーさんは押し黙ったまま、わたしの言葉の続きを待っている。
「それが、喫煙です」
「――……あ?」
予想外だったのか、スモーカーさんは目つきの悪い目を開いて呆気にとられたような声を上げた。なんだその態度は。こっちはマジだぞ。
「まあそれはいいです。わたしは人に禁煙を強いられるほど偉い人間じゃないし。言いたいことは、できたら喫煙者と関わりたくないってだけです。こっちにもこれ以上突っかかる気はないんで。そんなわけで用件を済ませたら早々に退室お願いします」
「てめェ……恩を売ったつもりはなかったが、命を救われておいて随分厚かましいな」
「あっ、その節はどうもありがとうございました。助けてくれたことについては、ほんと、心から感謝してます」
半ギレのスモーカーさんめがけて深々と頭を下げる。例え偉そうで怖くて憎たらしいヘビースモーカーであろうと、彼がわたしの恩人であることは間違いなく、命を救われたからにはきちんと礼を言っておきたかった。
「……どうも掴めねェな。……」
スモーカーさんは溜飲を下げざるを得なかったようで、そんなふうに低く唸る。
「分かった。ひとまずてめェのその態度については脇に置いておく。大体の事情はたしぎから聴取されただろうが、お前の処遇に関わっておれからもいくつか聞いておきたい」
右手で器用に二つの葉巻を支え、彼はふうと煙を吐いた。漂う白い靄を睨みつける。わたしの話を聞いてたんなら、もう少し遠慮してくれてもいいと思うんだけど。
「お前、出身はどの辺りの島だ?」
「島前提? 日本です、東の方の」
「初耳だな……念のため聞くが、お前まさか海賊じゃねェだろうな」
「海賊て……んなわけないでしょう」
「もう少し言葉にゃ気をつけろ。いつのまにか溺れていたと言ってたが、直前の記憶はあるのか?」
「それが、あんまり」
「知り合いの当ては?」
「無いです」
「……手に負えねェな」
スモーカーさんはやれやれと肩をすくめた。わたしも質問に答えつつなんともならないなと思ったけど、そんなふうに呆れられても困る。わたしだって望んでこんな状況に陥ってるわけじゃないんだから。
それに多分……巨大魚と遭遇した時点で薄々察していたが、海賊だの海軍だの煙男だのと立て続けに並ぶあまりにも非現実的な世界観。恐らくここは既に、わたしの知っている地球ではないのだろう。つまり、異世界だ。とんでもない結論だが――もしかしたらやたらリアルな悪夢って可能性も残ってるけど――とっとと受け入れるしかない。ここには日本も存在していなければ知り合いもいない、果ては常識も違う。そろそろ真剣に自分の身を心配しなくては。せっかく生き延びたのだし、みすみす命を捨てるような真似はしたくない。まあ頭がおかしいと思われる可能性が高いので、こんなばかみたいな推測はできるだけ伏せていこうと思うが。
「つまり、あんな場所で遭難した挙句、帰る場所も知り合いもねェ、更には軽い記憶喪失ってわけだな」
「そうですね。わたしも何が何だかさっぱりですけど、ひとまず安全な場所があるならほっといてくれていいですよ」
「そいつは難しいな」
難しい? どういうことだとスモーカーさんを見ると、彼は視線を壁の方に向けてため息をついた。大袈裟に煙を撒き散らすのはもうわざとやってんだろうか。
「この時代、安全な場所なんざそうそう見つからねェだろう。お前が今までどこに住んでいたのかは知らんが……知り合いもいねェんじゃな……」
なにやら真剣な口調で仰られる。ここ、相当危険な世界なのだろうか。いやまあ初っ端からでかい魚だの大砲だのに揉まれて死にかけたわけだけど。あれが序の口なのだとすると、わたし、事情聴取を終えて放り出されたら早々に生き絶えそうだ。かといって文字通り着の身着のままの現在、碌に交渉の手段もないので途方に暮れてしまう。スモーカーさんの渋い顔からして、住み込みの働き先とか、都合よく見つかるもんじゃなさそうだうし……。
「まァ、海軍に拾われて何よりだったな。今この船は海軍本部、マリンフォードに向かってる。向こうに行けばわかることもあるだろう。そこでなんとか方法を考えてやる」
「え、親切ですね。スモーカーさんにもいいとこあるじゃないですか」
「だからなんでそんなに馴れ馴れしいんだ……一度助けておいて放り出すんじゃ、寝覚めが悪ィだろう」
や、優しい。ヤクザなのは顔だけだったらしい。このスモーカーさん、心は清らかな海兵だ。見ず知らずのわたしに手を差し伸べてくれるなんてなんていい人なんだ。喫煙者なので好感度ポイントは未だマイナスだけど。一生相容れない。
「スモーカーさん、ありがとうございます」
とはいえそれはそれ、これはこれ。感謝を込めて素直に頭を下げると、また少し驚かれた。さっきも同じ反応だったぞ、この人もなかなかに失礼じゃないか。
「あァ。お前も混乱してるだろうし、あまり……」
「それで、いつまでこの部屋にいるんですか?」
おっと。思わず口が滑った。
しかも想定よりかなり失礼な声が出てしまった。いやだって、この部屋換気もしてないんだぞ。なにしろさっきから視界が白く煙ってきてる。ここまで耐えたわたしの辛抱強さを褒めてもらいたいくらいだ。一度たりとも口元からタオルを離したりはしてないので匂いのダメージは少ないけど、かなり前から煙が目にしみて泣きそうなのだ。
「……てめェは感謝の仕方も知らねェのか……!?」
ガタンと立ち上がり、青筋を立ててこちらに詰め寄るスモーカーさん。なんと言う悪人ヅラだ。怖すぎる。とてもか弱き一般人に向ける顔ではない。
「あー……いや、あの、その」
椅子ごと後ろに下がり、目を泳がせ、わたしは、
「感謝と副流煙、プラマイゼロです」
と叫んで、脱兎のごとく逃げ出した。背後で「おい待て!」とスモーカーさんが叫んでいるが、わりと本気で怖いので、たしぎお姉さんに泣きつくことにしたい。
はあ、陸地が恋しい。一刻も早く、あのヘビースモーカーから離れたい。
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