No Smoking


▼ 12-3/3

 深いところから、自分のものとは違う、ゆっくりとした心臓の音が聞こえてくる。葉巻の残り香に紛れて、懐かしいような、安心できるような、正体の掴めない匂いがする。そして謎に暖かい。むしろ少し暑い。

 瞼越しにも朝の日差しが眩しくて、目を閉じたまま意識だけが浮上した。どこか寝苦しかったせいか、いつもより早起きな気がする。

 しかしわたしの寝室にここまで強烈な朝日は入ってこないはずなのだが……と思って記憶を辿り、そういえばスモーカーさんが居ないからソファで寝たのだと思い出した。不甲斐なくも一人の夜というのはどことなく不安だったので、スモーカーさんが帰ってきたら確実に見つけてもらえる場所で寝ることにしよう、とこの寝床を選択したのだが、わたしが朝になってもソファにいるということは、スモーカーさんはどこで寝たんだろう。てっきり夜中に叩き起こされるもんだと思ってたんだけど。

 ところでわたしの頬に、ブランケット越しに当たってるこれはなんだ。ちくしょう、わたしの枕はこんなに硬くないはずだぞ。どくりどくりと心臓の鼓動が鼓膜に直接伝わるし、汗ばむほどにやたらと暑いし、葉巻臭いし。冷静になると腰のあたりにも圧迫感があることに気づいた。気づいてしまった。

 一体どうしてこうなったのか。だんだん察しがついてきて、あまりの羞恥に泣きそうなので目を開きたくないのだが、そうも言ってられない状況である。ああ、二度寝できたらどんなにか良かったか。

 覚悟を決めてそろそろと目を開ける。御察しの通り、わたしはスモーカーさんにベッタリくっつきながら眠っていたらしい。いや、スモーカーさんがわたしにくっついているというのが正解だろうか。貞操の危機である。なんでこんな狭っ苦しいソファで添い寝なんざしてやらねばならんのだ。体の前面がもうしっかりぺったり密着していて恥ずかしいどころの騒ぎじゃない。しかも腰をガッチリとホールドされていて動けない。匂い移りも只事じゃないし、ああもう、助けてほしい。わたしは抱き枕じゃないんだぞ!
 元はと言えばわたしがソファで寝ていたのが悪かったとはいえ、ここまで酷いセクハラが許されても良いものか。ええい、いっそセンゴクさん辺りにチクってやろうか。こういうことを平気な顔でしてくるのはおそらくわたしを子供扱いしてるが故だろうけど……そりゃ確かにスモーカーさんから見れば子供かもしれないけど、わたしはこれでも成人間近の云々。

 てかスモーカーさんも起きてんだろうに。半分くらい八つ当たりの怒りで顔を上げ、思いきりねめつける。わたしが恥ずかしがってんの見て満足したならいい加減に――


 ――寝てる。


 えっ、スモーカーさん寝てる? 実は起きてるとかそういうんじゃなくて、寝てる。あのスモーカーさんがわたしの前で寝てる。深々と寝ている。一度も寝ている気配すら見せてくれなかったスモーカーさんがここまで無防備に眠っている。今ならわたしスモーカーさんを暗殺できてしまう……ってそうじゃなくて。

「ス、……スモーカーさん?」

 返事がない。確定だ。寝ている。

 首を擡げてスモーカーさんを見上げた。瞼は伏せられているが、彼の寝息はほとんど聞こえてこない。サイレンサーでも付けてるんですか。
 てかスモーカーさんって、寝てるとそんなに顔怖くない気がする。やっぱり目付きの問題なのだろうか。眉が顰められることもないし、なんというかいい顔をしている。うーん、スモーカーさんの顔面って割と男前なのに、どうして今までちゃんと見てなかったのだろう……おそらく葉巻のせいだと思われる。

 それにしてもあのスモーカーさんが寝顔を晒すとはなあ。あれだろうか、わたしが煙で安眠するのと似たようなもので、ナマエちゃん抱き枕の寝心地が良かったとか……なんて贅沢な。お金取ってやらないと気が済まない。まあお酒飲んできたらしいし、そのせいもあるのかな。
 でもやっぱりこれって、結構気を許してくれてるってことなんだろうか。状況は笑えないが、信用してもらえるのは嬉しいことである。そういえばスモーカーさんが出てくる夢を見たような気がするんだけど、あんまり思い出せない。忘れてしまおう。


 さて、とスモーカーさんを起こさないように、腕の拘束から逃れようと身をよじる。できるだけ冷静な思考を努めてはいるけど、多分わたしの顔は耳まで真っ赤だ。その点は許していただきたいし、できればスモーカーさんが目を覚ますまでに逃げ出したい。からかわれたらまじでメンタルが耐えられない気がする。

 寝返りを打ったりウンウン唸ったり這い出そうとしたりする……のだが、ビクともしない。スモーカーさん力が強すぎる。この人の体格の良さは知っちゃいたけど、改めてどうなってんだろう、片腕だけでこの腕力とは。更にこれ、手のひらで腰を掴まれてる感じなんだよなあ。それこそ引き剥がすか何とかしないと……。
 一回殴って煙化させて逃げ出すという手も思いついたが、よく考えたら煙化させたとこで逃げられるはずもない。なにしろスモーカーさんの煙って拘束力高いし。あとそんなことすると起きる。



 もぞもぞしながらなんとか逃れようと四苦八苦していると、ふと頭上から、くつくつと耐えきれないような含み笑いが降ってきた。喉の振動が体に伝わる。腰にあった手が、いきなり背中の方へするりと回された。

 これは――やばい。

「……何してんだ、お前は」

 ほんの少し眠たげに掠れた声が呟かれる。

 し……しらばっくれやがって、この野郎。

 恨み節を唱えつつも、熱は物凄い勢いで顔に上っていく。冷や汗がだらだらと流れていく。羞恥によりガチガチに硬直した顔を無理やり上げる。すると、やはりそこには、やたら柔らかく微笑みつつ、目を覚ましたらしいスモーカーさんの顔が。こ、この人こんな表情できたのか。

「おはよう……ナマエ」

相手が相手なら勘違いしちゃうような声で、スモーカーさんはそう言った。寝起きだからか。この何とも言い難い居た堪れなさは、よくわからないけど恥ずかしくなりそうな色気は、この人が寝起きだからなのか。ちくしょう大人ってこれだから!

「な、はな、離してくださいスモーカーさん!」
「オイ暴れるな、落ちるぞ」
「いっそ落ちてしまいたいんです、わたしは」
「誰のために一晩中掴んでてやったと思ってんだ……にしても、笑えるくらい真っ赤だな」
「頼んでないし笑えません!」

頬が引きつるのを抑えつつスモーカーさんを突き放すように身悶えするが、しかし彼はそれを歯牙にも掛けず、わたしの背中を支えながらいつも通りの呆れ声を漏らす。

「大して騒ぐことでもねェだろう。なにを一丁前に恥ずかしがってんだか……」
「うら若き乙女のわたしと添い寝しておいて、言うことがそれですか!」
「今更だな。こっちはお前の寝顔なんざ船の上から見慣れてんだ。大体この絵面だって二度目だろう」
「あの日とは状況が全然違うじゃないすか」

 スモーカーさんを両腕で突っぱねつつ騒ぐわたし。多分スモーカーさんが言ってるのは、マリンフォードに着く直前の夜の話だろう。確かにあれはめっちゃ恥ずかしかったけど、でもあの晩はそもそもここまで密着してなかったし、これでお別れ的なノリがあったし、それにスモーカーさんが一睡もしてなかったのは知ってるから添い寝とは言わないし……。って論点を逸らさないでいただきたい。

「そんなことはいいんです。わたしが寝ているのをいいことに、スモーカーさんがこんなにくっついてたってのが大問題なんです」
「はァ……文句があるならてめェの部屋で寝ろ」
「そ、そりゃそうですけど。でも起こしてくれたっていいじゃないですか」
「起こしたがすぐに寝たんだ、お前は。まァ横抱きにされて部屋に運ばれるのが良かったなら、今度からはそうしてやるが……」
「な……ッ」

なんと言う残酷な二択だ。添い寝か、抱っこされた上でスモーカーさんに部屋に入られるか。そんなのどっちも嫌に決まってる。というか起こされたのになんで起きれなかったんだわたし。信じられん。

「……しかし、やっぱり覚えてねェのか」

 ひとりで泡を食っているわたしを無視して、スモーカーさんは溜め息まじりに呟いた。ちくしょう、まだなんかあるのか。一体なんの話だ。

「昨晩色々と口走ってたんだがな、お前は」
「は。そう言われるとそんな夢を見たような気も」
「だから、夢じゃねェんだろう」
「……。わたし、なんかまずいこと言いました?」
「さァな……知りたきゃ思い出せ」

 うっ、微妙に知りたいような知りたくないような。首をひねって唸っていると、スモーカーさんは全力で彼を押しやっていたわたしの両手首を軽々と掴んで、いきなり身を反転させた。謎に見下ろされる姿勢になって困惑する。なんなのさ。

「まァ……おかげでよく眠れたとは言っておく」
「ばかですね、きっとおそらく不本意です」
「てめェはまた人を馬鹿呼ばわりしやがって」

また……って昨晩のわたしは何を言ったんだ。スモーカーさんをばか呼ばわりするくらいには正常だったはずなのに思い出せないとは。

 混乱するわたしに向かってフン、と鼻で笑いながら、スモーカーさんは身を起こして、ようやくわたしを解放する。手首を離れていく腕から一瞬ふわりとアルコールの匂いがした。なにやら名残惜しさのようなものを感じたが、きっと気のせいだろう。

 葉巻を取り出して火をつけるスモーカーさんをやれやれと眺めていると、テーブルの上の紙切れが目に入った。わたしはあ、思い出して寝返りを打ち、一服するスモーカーさんを見上げつつ問いかける。

「そういやスモーカーさん、お味噌汁飲みました?」
「いや……まだだ。昨晩はお前を起こしたあと、そのまま寝たんでな」
「それじゃシャワーも浴びてないんですか? 仕方ない人ですね。今から朝ごはん用意するので、できるまでにさっさと入ってきてください。まったくもう、お酒の匂いが染み付いちゃいますよ」
「……所帯染みてるな、お前は」

 大きなお世話です、と一言文句を言って、わたしはスモーカーさんを押しやりつつソファから脱出する。なんとなく、スモーカーさんの心臓の音がまだ耳に残ってるような気がして、わたしは小さく頭を振った。

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