No Smoking


▼ 12-2/3

 街灯に照らされた帰路を進む。昼間に比べて潮気の少ない夜風は多少冷えるが、酒に火照った体には丁度いい。日付が変わる前とはいえ、こんな時間に出歩くのは随分と久しかった。

 人家の明かりはぽつりぽつりと残る程度で、朝は賑わう通りにも人影は見当たらず、生き物の気配はほとんど残っていない。石畳に響くのはせいぜい自分の足音くらいで、周囲は不気味なほどしんと静まり返っている。まるで非現実的な、この奇妙な感覚に怯えていたのは一体どれほど昔の話だったか。歳を重ねれば重ねるほどに、人の感性は鈍くなっていく。
 以前、この街に住んでいた頃、この静けさはもはや日常的なものだった。日中騒がしい部下たちと過ごすのと対称的に、本部を出、自宅に戻れば、そこにあるのは滔々とした寂寥のみであったのだ。それは心地よい空虚さであったし、それ以上の何かを求める空間でもなかった。物足りなければ街へ出たらいい。割り切ってしまえば、大抵の欲はそれで埋められるのだから。

 しかし変化があった。唐突に放り込まれた、ほとんど災難と言っても遜色ないそれ。人を毛嫌いするかと思えば煙を貸せと訳の分からないことを言い出し、能天気に図々しく居座るかと思えば切迫しながらも不安を吐露しない、妙な少女。問答無用で元帥に押し付けられたこの災厄は、自分自身が拾ったのは事実、責任を持つことに異論はないとはいえ、やはり面倒事には変わりなかった。同居となると船旅の最中とは訳が違ったし、おそらく妥協しなくてはならない点は多いだろうと辟易していた、のだが。
 予想外にも、ナマエは瞬時におれの生活に馴染んだ。取り入ろうとしている訳でないのは見れば分かるが、しかしこちらの気が引けるほど、彼女は献身的に働いた。本人は自分のためだと言って憚らないが、役立っているのは事実である。部屋は恐ろしく清潔に保たれ、生活用品は勝手に補充されていき、朝晩はキッチリ食事を出してくる。そこまでしなくてもと言ったところで、冗談か本気か「このくらい、大したことじゃないですから」と当たり前のように口にする。一体あの歳で、どういう育ち方をしたらああなるのか。多くの点で、なんだかんだと謎の多い少女ではある。

 思考を巡らせつつ、薄暗い路地を進む。自宅まではまだ少し掛かる。周囲の景色を確認すると、視界の隅で、葉巻の煙が闇夜に溶けていった。

 思えば……深夜の街を染める静けさがこれほどに久しいのは、おそらく、あの家から既に寂寥感が消え失せたが故なのだろう。おれが家に帰るとき、そこには常にナマエが居る。存外騒がしいわけではないとはいえ、一晩中他人の気配が付いて回るのは確かだ。部屋中を埋め尽くしていた心地よい静寂とは程遠い現状。だが、決して不愉快というわけではなかった。
 家の扉を開けたとき、部屋の灯りに目を細めるのも、夕飯の匂いが漂っているのも、おかえりなさいと声が掛かるのも、未だに慣れない。不快ではない、が、どうにも居心地悪くさせられる。帰宅したときには大抵夕食が出来上がっているのだが、以前一度、予定より早く帰った晩があった。玄関の音に気づかなかったらしいナマエの、野菜を切る小さな背中を見たときに込み上げた、あの妙な感傷には、触れたくないような予感がした。

「!」

 足元を横切る影に不意を突かれ、勢い込んだ歩を止める。地面に視線を走らせると、暗がりに浮かび上がる小さな眼とかち合った。

 ……猫だ。小柄なトラ猫が首を傾げている。穴が空きそうなほど、じっとこちらを見据える二つの目は、透き通るような鶯色をしている。気を取られていると、猫はにゃあ、と鳴いてから、暗がりに身を隠して路地の隅に消えて行った。
 ようやく我に帰る。たかが猫一匹、常ならさほど動揺を誘うような代物ではないはずが、相当気が抜けていたらしい。しかし妙に足止めを食ってしまった。早く帰らなくては……。

 どうにも落ち着かない気分のまま歩き出す。思えばずっと、どこか急き立てられるような不自然さを感じていた。今更、常にもなく足早な歩調を自覚して、一人眉を寄せる。妙だ。

 ――おれは何を焦ってる?

 遅くなる、とは伝えてある。今晩は夕食が要らないとも。青キジに以前からしつこく呑みに誘われている、と言えば、ナマエはたまにはいいんじゃないですか、と笑って返した。特段気にかかる点はない。やはり、先ほどの青キジのぼやきが尾を引いているのだろうか。そんな神経質になった覚えは無いのだが……やはり酔いでも回ったか。

 しかし改めて考えてみれば、ナマエがやって来てから、おれはまだ夜に出掛けたことが無かったはずだ。となると、そもそも海で拾ってから一度として、彼女は一人で夜を過ごしていないということになる。いくらなんでも、夜の留守番を心配だと思うほど過保護ではないし、あれもそこまで幼くはないはずだ。ただ、夢見の悪いあの少女が、静まり返った部屋でたった一人、らしくもないあの悲痛な悲鳴を上げているとすれば、それはどうにも落ち着かないというだけで――。

 "保護者"も板に付いてきたかもしれない、と自嘲しつつ、見えてきたアパートのシルエットを、おれは不確かな感覚のままに振り仰いでいた。




 鍵のかかった玄関のドアを開ける。

 室内は静まり返っているものの、リビングから漏れる仄かな明かりが人の気配を彷彿とさせていた。おそらく、ナマエがおれの帰宅を見越して照明を消さずに置いたのだろう。
 しかしやはり杞憂であったらしい。悲鳴も呻きも聞こえることはなく、部屋の空気はきわめて穏やかなものだった。この時間だ、ナマエは既に眠っている可能性が高い。となると寝室は閉め切られているはずだろうし、わざわざ確認するまでも無いだろう。しかし自分らしくもない心配性、笑えない話だ。ここまで毒されてるとは……。

 精神的な疲労を感じつつ、リビングのドアを開く。ダイニングの明かりは消されていて、ソファの辺りだけがぼんやりと明るかった。やはりナマエは居ない。起きていたとして、また酒臭いだのなんだのと口煩いのだろうが。

 キッチンに入ってコップに一杯の水を汲んだ。シンクの脇には一人分の食器が積まれている。食器棚は商品の如く整然と並べられており、また変なところで拘る性格だと呆れ返りたくもなる。あちこちに配備された見慣れない道具類は、やはりナマエが揃えたものに違いなかった。
 ふとダイニングを見遣ると、机の上に小さな紙の切れ端が置かれている。まず間違いなく自分宛てだろう。コップ片手に近寄ってメモを手に取ると、やはり繊細な字体で書きつけた文面が確認できた。照明の付いたリビングの方へ向かいつつ、紙を照らして目を通す。

 ――おそらく真っ先に水を飲みにきたスモーカーさんへ。

 ……。外れたらどうするつもりだったのだろう。

 ――スモーカーさんは二日酔いとかしないタイプかもしれませんが、やはり健康には気をつかうべきかと思いまして、しじみのみそ汁作っておきました。二日酔いに効くらしいですよ、どんなもんか知りませんけど。美味しいのでおなかに余裕があれば食べてみてくださいね。しかしわたし、やっぱりウコンの力も開発するべきなのでしょうか。

 ……最後の一文は何が言いたいのかまるで分からないが、要は気を使っているらしい。やたら親切な対応に、思わずふ、と笑みが漏れていた。全く、変に愛嬌のある奴だ、あれは。


 一緒に暮らしていると、ナマエはいつも、呆れ返るほど楽しげに見える。こんなメモを見るだけで、青キジがするような心配が現実的なものとは到底思えなくなる。その上での心配、なのだろうが。
 勿論知らないわけではない。あいつは口にしないが、おそらく多くの不安と、恐怖と、秘密を抱えている。だがそれはあいつの一側面であって、馬鹿みたいな笑顔で毎日を楽しんでいる現在のナマエも、間違いなく本物であるに違いないのだ。だからこそ、本人が口にしない、過去や未来へ言及することに気が引けるのかもしれないが。

 以前、珍しくナマエが自分から故郷の話をしたことがあった。おれはてっきり、彼女にとって過去とは恐怖の対象でしかなく、魘されている様を見ても、おそらく思い出したくない記憶であるのだろうと思い込んでいたのだが……しかしそのとき、初めて聞くほど穏やかな声で、ナマエは故郷の風景を語ったのだ。
 ナマエはこれからどうしたいのだろう。帰りたいのか、帰りたくないのか、それとも帰れないのか。あれほど懐かしげに語っていた故郷に、帰りたくないはずもないだろう。しかし赤犬には命を賭けてまで残りたいと言ったという。なにか帰れない事情があるのだろうか。一体ナマエは何処から来て、何処へ行こうとしているのだろう。


 ……いつまでも考えていたところで仕方がない。伝言に従うべく、リビングのテーブルにメモを置こうとして、ソファの横を通り過ぎる。コップの水を飲み干しながら、低いテーブルに手を伸ばして身を屈めた。その瞬間――

 小さな寝息が耳に入った。

「……!」

 ぎょっとして見下ろしたソファの上には、ブランケットに包まった小さな体がちょこんと乗っかっている。今までソファの背に隠れて見えていなかったらしい。規則正しく上下する肩と、柔らかな髪の隙間から覗く白い耳……ナマエだ。

 ――しかし驚いた。まさかここにいるとは予想外で、猫と遭遇した時の数倍は心臓に悪い。普段からこのソファに関しては、葉巻の匂いがどうのこうのと文句を絶やさないというのに、何故わざわざ。ブランケットも枕も寝室から持ってきたものだろうし、寝落ちしたようには見えなかった。やはり、一人で寝るのはいくらか不安だったのだろうか。

 傍迷惑な奴だと溜め息を吐き出して、メモとコップを机の上に置き、灰皿に葉巻を押し付けてから、ナマエの寝顔を覗き込んだ。小さな頭は枕にうずもれていて、白い布地にはらはらと毛先を散らしている。顔にかかる髪のせいで表情は伺えなかったが、穏やかな寝息からして、気持ちよさげに眠っているのは明白だった。

 頬にかかった彼女の髪を掬い上げれば、あどけない横顔が露わになる。出来るだけ肌に触れないよう、一本一本丁寧に耳に掛けていくこの動作は、もはや身に馴染んだものであった。
 しかし改めて見ると、ナマエの顔立ち自体は整ったものである。形のいい下がり眉、肌に影を落とす長い睫毛。色白の肌の中、頬には血色のいい桃色が浮かんでいる。青キジの肩を持つわけではないが、あと数年もすれば確かにいい女になるだろう、と思う。まあ、この青臭い初々しさがナマエから失われるとなると、どうにも想像がつかないが……。

 ただ、どこか物足りないのは、あの澄んだ円らな瞳が、こちらを見つめ返していないからだろうか。



「――ナマエ」


 ほとんど無意識に名前を囁いていた。そして口にしたと気づいた瞬間、後悔した。不確かな感覚に頭痛がする。きっと、悪酔いでもしたに違いない。
 目覚めさせようとしたわけでは無かった。聞こえないつもりで口にした。実際、自分の耳にも届かないほど、微かな声量しか発せられなかったはずだ。しかし、それでもなお、ナマエはおれの声を聞き逃してはくれなかった。
 睫毛を小さく震わせて、薄らと瞼が持ち上げられる様にぎくりとした。瞼の隙間から僅かに覗く、潤んだ彼女の黒い瞳が、おれの姿を映しこんで揺れている。何故耳に届いてしまったのか――あれほど深く眠っていたはずなのに。

 視線が合ったナマエの、たどたどしい唇が、おれの名前を象った。

「……スモー……カ、さん?」

掠れた声が鼓膜を叩く。背筋にぞくりと悪寒が走り、後ろめたい罪悪感が胸に広がった。酷く独善的な行為をしたような気分になる。不可解だ。

「なぁに、変な顔してんですか……」

 ふわふわとくぐもった声で呟く、柔らかな声。くしゃりと眉尻を落として、ナマエは夢の中にいるみたいに儚く笑う。返事を返さないおれを眺める、焦点の定まらない視線に、どうにも居た堪れない気分にさせられた。

「……悪ィな」

目を逸らして身を引こうとした。本来なら悪態の一つも返してやるところだが、これ以上余計なことはしたくなかった。理由の分からない内心の騒めきは、全て酒のせいにしてしまえばいい。そういう小狡い手を、自分はとうの昔から知っている。

「どうしたんですか……?」

 見透かされたような気がした。不思議そうな、探るような目でおれを見つめながら、ナマエの小さな手が伸ばされる。視界の端を通り抜けたそれに、思わず呼吸を止めていた。ソファに映るおれの影を、彼女の腕が縫い止める。まるで魅せられたように凍りつく体は、ただただ接する瞬間だけを待ち侘びるだけの木偶だった。微かな衣擦れの音、近づく人肌の気配、そして――


 ナマエの指先が、ゆっくりとおれの頬に触れた。


 ――触れられるのは、初めてだった。こいつは普段からおれの手を拒絶はしないし、引き止めるように裾を掴んでくることもままあった。しかしこの少女が自ずから、直に触れてきたことは、これまで一度もなかったはずだ。匂い移りがどうのこうのと口にしてはいるものの、その踏み込んでこない境界が、まだ警戒が残っている証だと思っていた、のに。

「疲れてるように……見えます」

 ナマエが労わるように呟いた。やわい指が皮膚の上を滑り、頬を手のひらで覆い込む。寝起きのせいか熱を持った体温に触れられて、皮膚が焼けてしまいそうな、妙な錯覚を覚えていた。

「スモーカーさんは、気を、はりすぎなんです……。わたしが居るせいで……落ち着かないのかも、しれないですけど」
「…………。そいつは……、関係ねェよ」
「ふふ、それじゃあ……もとからそうなんですか?」

うとうとと今にも眠りに落ちそうな様子で、ナマエはふわりと目を細める。呂律の回らない口振りを聞き落とさないように、そっと耳を澄ませていた。

「そんなのって、たいへんじゃないですか……」
「……お前が能天気過ぎるだけだろう」
「あは、は、スモーカーさんってばかですねぇ」

何が可笑しいのか、ナマエは揶揄するように喉を鳴らす。眠気のせいで頭が回っていないのだろう、いつにも増して支離滅裂な言い草である。馬鹿呼ばわりされる覚えはないのだが、しかしどうにも言い返す気にはならなかった。眉を寄せるおれを宥めるように、一通り笑い終えたナマエが、遠慮がちに頬を撫でた。
 ……全く、調子が狂う。まるで普段と立場が逆転したかのようだ。舌ったらずで赤ん坊のように頼りないのに、今日のナマエはやたらと大人びて見える。それはまるで母親じみた表情で、なんとも奇妙な矛盾だと内心ひとりごちるばかりだった。



「ねえ……スモーカーさん」

 二度目の呼び声がかかる。なんだ、と返すと、彼女は心底嬉しそうに頬を緩ませた。

「家にいるときくらい、肩の力をぬいたって……いいんですよ」

再び睡魔が襲ってきたらしい。半分閉じかけた眼を瞬きながら、ナマエは吐息を含んだ声で囁いた。

「遠慮とか……しないでください……ね……」

 瞼が落ち、濡れたように黒い瞳が覆い隠される。頬に触れていた手から力が抜けて、するりと落ちてしまうその前に、おれは自らの手を重ねて、もう一度頬に押し当てていた。

「……ナマエ」
「ん…………は、い……」
「そいつは、おれの台詞だ」

もう殆ど寝ているくせに、ナマエはふ、と呆れたような笑い声を漏らす。その反応を最後に意識を手放したらしいナマエの、すう、と再び眠りに落ちる寝息が耳に届いた。


「…………ナマエ」

 重ねた少女の手は、想像していたよりも恐ろしく柔らかで頼りない。それは妙に庇護欲をそそられるかたちをしている気がした。そっと指を絡ませて、その小さな手のひらに口付ける。どうせ明日になれば、何も覚えちゃいないのだろう。

「……おやすみ」

 微睡みの淵から、もう返事はなかった。



 いずれ――ナマエが故郷に帰るにしろ、独り立ちするにしろ、きっと離れるときはくるだろう。同居しているとは言えど、ナマエとおれは、所詮保護対象と、たかが管轄の関係だ。
 しかし、拾ったからと言う義務感を抜きにしても、おれ個人として、この少女を最後まで、きっちり面倒を見てやりたいと思っている。仮にもし、彼女が大人になって、それでもなおここに居続けると言うのなら――そのときは責任を持ってやることも吝かでは無いと、そう思う。

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