No Smoking


▼ 01-2/3

「やばい」

 巨大な海洋生物らしきものに海上へのし上げられてから数分が経過した。見上げた空はそれはもう青々と澄み渡った、ため息が出るほどの快晴。わたしが現在裸足でしゃがみ込んでいるのはちょうどお魚の頭上あたりだ。びしょ濡れの靴はとうに大海原へ脱ぎ捨ててしまった。

 それにしてもでかい魚だ。わたしの心臓が少しでも貧弱だったらとっくの昔に卒倒していることだろう。そういうでかさだ。まあわたしを取り囲む今の状況は訳の分からぬものばかり、命を救ってくれたこの恩魚に感謝しこそすれ恐怖するなんてことは……いや、怖いもんは怖いんだけど。
 なにしろこの現状、目前に迫っていた死からはひとまず逃れたものの、相変わらず絶望的なことには変わりはない。濡れた服は肌にぴったり張り付いてめちゃくちゃ寒いし、見渡す限りの水平線で島の一つも見当たらないし、その前にこの魚が気まぐれに海に潜ったらあっという間にわたしはお陀仏、海の藻屑である。

「頼むからそのまま大人しく……いや島を探したいから適度にうろついてください、お魚さん」

 ペタペタ足の裏で叩きつつ、どうせこちらの言い分もわかるまいとそんな無茶振りをかましたが、やはり何が起こるでもない。魚と喋りたいなんてファンタジーを本気で望むことになるとは思ってもみなかった。せめてこのままじっとしててくれることを祈っておこう。

 とはいえ本気でどうしたものか。水の滴る髪をぎゅっとまとめて絞り出しつつため息を吐くと、不意に、水平線ギリギリにぽつりと小さな点が顔を出しているのが見えた。大慌てで立ち上がり、おでこに手を翳して目を凝らす。あれは……もしや船、だろうか。
 運が巡ってきたかもしれない。あの船に拾ってもらえるなら、苦しむこと必至の餓死と水死はひとまず避けられるはずだ。例えば相手が領海侵犯の外国船とかでない限……いや、フラグを立てるのはやめよう。

 辛抱強く待っていると、わたしの儚き祈りが通じたのか徐々に船が近づいてきた。しかしあれ、てっきりモーター式の漁船とかだろうと思ってたのに、まさかの帆船である。しかもその帆には『MARINE』の文字。海軍、このご時世に海軍が運航しているらしい。どういう趣味の人間が乗ってるのか色々と不安だが、今のわたしに縋る相手を選んでる余裕はないのだ。「助けてくださーい」と声を張り上げ、めいいっぱい手を振ってみる。この声量で聞こえるのだろうか。
 ところが、向こうから反応は返ってこない。やはり声が小さかったか。そもそもこの魚との比率を考えるとわたしの姿すら目に入ってない可能性もある。踏ん張りどころだぞわたし。もう一度、今度は少しやる気を出して――


 ――瞬間、響く轟音。揺れる魚体。浮遊感。


 ずるり、と足が滑り、魚の頭から落っこちかけたところで危うく巨大なヒレを引っ掴む。あ、危ない。今のはなんだ。なんか、火薬の匂いがするような……大砲?
 こちらに向けられた砲口から硝煙が上がっている。撃たれた――ということはまさか海軍、本物なのか。なんたることだ、わたしの存在に気づかないのは仕方ないとしてもわたしの恩魚に無差別攻撃とは。いや別にこの魚に思い入れは特にないからいいんだけど、そんなことをしたら潜ってしまうだろう。わたしをもう一度海の中に突き落とすつもりか。

「が、頑張れ魚、負けるな」

 わたしの弱々しい声援は相も変わらず届くことはなく、魚は身悶えして体を揺らす。落ちる。落ちるよ。死んじゃうよ。

「た、助け、――」

 しがみつくのに必死でまともに声も出せない。そんなことをすれば舌を噛んでしまう。うう海軍め、恨んでやる。祟ってやる。呪ってやる。ここまで近づいてるんだからいい加減見つけてくれたっていいのに。間接的にとはいえ一般人を殺すつもりか。そもそも初めから助ける気がないのか。ちくしょう。

「おい!誰かいるぞ、海王類の頭の上!」
「んな訳あるか!さっさと退けろ、反撃されるぞ!」
「待ってください、本当に人が……!」

 甲板にいる海兵さんらしき方々がわたしを指差して叫んでいる。どうやらわざと無視されてたわけではなかったらしいけど、とはいえ手を差し伸べるには、魚が暴れ出したあとではもう遅いんじゃなかろうか。
 のたうちまわる魚の尾びれが勢いよく軍艦の船首にぶつかり、バキバキとものすごい轟音が響いた。うわ、思っていたよりこの魚……強い。なるほど出会い頭に砲撃されるわけだ。海兵さんたちが動揺する様子が嫌でも目に付いた。これはまずい。このままじゃわたしは海兵さんに民間人を見捨てたというトラウマを植え付けて死んでしまう。

「おあ」

 唐突に。海へ逃げ込もうと魚が飛び跳ねた拍子、手がつるりと滑り、体が空中は放り投げられ、視界いっぱいに青空が広がった。身を切るような風が吹きすさび、飛び散る水飛沫はやけにゆっくり見える。今、わたしどうなってるんだろう。把握する間もなく、背中に迫るなにかの気配。叩きつけられる衝撃に備え、わたしは目をぎゅっと塞いだ――

 ……。

 …………。

 ……………………?


「――おい、大丈夫か」
「へ」

 いつまでたっても訪れない衝撃を不審に思い、そろそろと目を開ける。落ちて、ない。足元に広がる景色は船の甲板とメインマストと膨らんだ帆。こちらを見上げる海兵さんたちの米粒サイズの顔が見える。なぜだかまだ高い位置にぶら下がっているらしいわたし。しかも……なんだろう、柔らかいものに包まれている。見ればそこにはまっしろなふわふわの雲。

 わたし今雲に乗ってる。

「お前……」

 思わず手を伸ばしていた。掴むことも掬うこともできずにすり抜けるが、感触はなんとなくある。ものすごく柔らかい綿って感じだ。すごい、どうなってるんだろう。ちゃんと流動してるし。

「なんでこんなところで……」

 クセになりそうな柔らかさだ。ふわふわとかそんなレベルじゃない、もはやとろとろに近い。瓶に詰めて持って帰ってお気に入りのぬいぐるみに詰められないだろうか。雲がこんなに素敵素材なんて知らなかった。義務教育では水蒸気でできてるって教わったのに。

「いい加減にしろ、もう一回落とされてェか」
「そんな殺生な」

 魅惑の雲から視線を外し、先程から頭上で聞こえるドスの効いた謎の声に応えようとくるりと振り向いて、わたしは声を失った。

 その男の体が霞んで空気に溶けかけていることとか、わたし共々宙に浮かんでいることとか、インナーも着ずに上着を開け放っていることとか、海軍の人のはずなのにその顔がどう見たってヤクザってこととか、確かに色々と驚くべきことはあった。しかしそんなのは大したことじゃない。
 燻る香りに噎せそうになって、自分の顔が嫌悪を込めて歪むのがわかる。徐々に形になっていく白い雲がわたしの腹を支える腕に変形したのを見る限り、助けてくれたのは間違いなくこの人だ。もちろん感謝はするけど、でも、しかし、これだけは譲れない。

 そうとも、喫煙は有害。情状酌量の余地はない。

 というか、なんで葉巻を二本も咥えてるんだ!

prev / next

[ back to title ]