No Smoking


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 ――はっ、一瞬意識が飛んでいた。

 あの穏やかな数時間前の光景を思い出して現実逃避していたのだが、意識を戻せばやはり目の前には赤いおやじさま……こと、おそらくサカズキさん。鬱陶しいと告げた彼は、相も変わらず仁王立ちしてわたしを睨みつけている。

「……さっさと去ねェ」

 顎をしゃくり、出入り口を示される。これは見逃がしてくれるということだろうか。しかしここで逃げたらそれこそ不審者だと認めるようなものだ。ひとまずこれは全部クザンさんの仕業だと事情説明と言う名の責任押し付けだけでもしなくては……と萎縮する心を叱咤する。すると動かないわたしを見て、サカズキさんは痺れを切らしたように一歩足を進めた。
 ああ、お願いだから早まらないで頂きたい。クザンさんはこの埃が積もりに積もった部屋から荷物をひっきりなしに運び出していたのだが、つい先ほどわたしが新しいバケツの水を汲んで来るよう頼んでしまったので、おそらくすぐには戻らない。正直詰んだ。握りしめた雑巾をバケツに落として、わたしは慌てて後ろに下がる。

「ま、ま、待ってください。わたし怪しい者じゃないんです。えっと、センゴクさんとかに聞いていただければ分かると思うんですが、今海軍本部で――」
「保護対象の話ならとうに聞いちょるわい……」

彼はつまらなさげな調子で、唸るように呟いた。

 え。というか、わたしのことはすでに知っていたのかこの人。ちくしょう、制服を着ようが着まいが関係なかったんじゃないか。ああどうしよう、初対面からコスプレ趣味があるとか勘違いされたら泣いてしまう。如何ともし難くて心の中のクザンさんに八つ当たりをするわたし。

「わしは知った上で言うとるんじゃァ」

 彼は射抜くような目でわたしを見る。その視線に、わたしは何故だか、後ろ暗いところを見透かされているみたいな気持ちになった。悪いことしたわけでもないのにそう思ってしまうのは、この人の姿がブレようもなく真っ直ぐだからだろうか。にしては不安を掻き立てられる、むしろ目を逸らしたくなるような、そんな感覚を覚えていた。

「海軍本部にお前の居場所はありゃァせん……二度も言わせるな。さっさと去ねェ、目障りじゃ」

どこか含みのある強い拒絶の言葉が吐き捨てられた。


「…………そ、れは……」

 心臓にさくりと棘が刺さるような心地がする。きっと彼自身にはそんな意味を込めたつもりはないのだろう。ただ、わたしが目を背けていたことを自覚するには十分な言葉であったというだけの話だ。

 "わたしの居場所はここには無い"

 それはずいぶん前から分かりきっていたことではある。海軍本部に、ではない。この世界に、だ。わたしの居場所ははじめから、この世界のどこにも有りはしない。自分が異物であるということは、異世界にいると自覚したときから知っていたはずだ。わたしが危うくも存在を許されているのは、そもそもはあの人が、スモーカーさんがわたしを受け止めてくれたからであって……。
 でも、わたしの居場所がここでないのなら、わたしはどこに行けばいいんだろう。わたしを認知する人は海軍の中にしか居ないのに。存在すら不確かなわたしが、寄る辺もなく生きられるはずがない。サカズキさんは海軍本部に居場所は無いというけれど、外へ出れば尚のこと、わたしは存在を許されない。

 ならばどこへ行こうか。元の世界だろうか。

 でも元の世界に戻るなんて有り得ないことだ。そんなことは分かってる――いや、何故有り得ないんだろう。どうしてわたしはあの平和な故郷に帰りたくないんだろう。ああ、思い出せないし、きっと思い出したくもない。



「娘、聞いちょらんのか……!」

 口火を切ったサカズキさんの怒声に、わたしは恐怖の震源へ突っ込みかけた意識を引き戻された。

 ……危なかった。わたしを助けてくれるスモーカーさんはここには居ないというのに、もう少しでセンゴクさんのときの二の舞になるところだったのが自分でもわかる。冷や汗の流れる背に響くような、身がすくむほどの彼の低い声が、今はありがたいくらいだった。

「なぜ……」

 得体の知れない記憶に対する恐怖心は目の前の人物に向けてのものを凌駕してしまったらしく、わたしは乾いた舌を動かして、頭に浮かんだ疑問をそのまま口に出していた。

「なぜ、わたしの居場所は無いんですか」

わたしの口から溢れるのは、馬鹿みたいに掠れた声。突拍子の無い問いにも関わらず、サカズキさんは表情を変えないまま、激した、かつ淡々とした声色で口を開く。わたしの存在を拒絶しこそすれ、現時点では問答無用と言うわけではなさそうだった。

「――弱いからじゃ」

 帽子のつばを抑える彼の顔に、暗澹とした影が落ちる。

「腕が弱けりゃあ、この海では死ぬのみ。意志が弱けりゃ落ちる先は悪じゃ。そも、本部に入り浸りおるくせに、正義にも属さず、曖昧な立ち位置に甘んじちょるお前を信用できるはずもなかろう」

わたしの問いに応える義理はないだろうに、サカズキさんは至極真面目に言葉を続ける。内容はさておき、その様子は話に聞いていたほど傍若無人に見えるものではなかった。

「しかし貴様の人柄にじゃろうな、丸め込まれちょる輩が多いらしい。上手く取り入ったもんじゃが、正義も持たん、お前のような甘っちょろくてお優しい人間が海軍本部に居ったところで何の薬にもならん――全く、元帥ァ何を考えとるんじゃァ……」
「……だからと言って、わたしに、毒になるほどの重要性はないでしょう」
「そうでもないのォ」

つかつかとサカズキさんに歩み寄られて、わたしの足がすくむ。必死でじりじりと後ろに下がるが、すぐに背中が壁の限界に突き当たった。ああ、もはや逃げられない。

「問題は貴様が上層部の海兵を手懐けとる点じゃ」

 縮まった距離でサカズキさんの顔を見上げ、わたしは思わず唖然とする。手懐けてる……って、手懐けられてるならまだしも、逆じゃないのか。そんな大それたことをした覚えも、特技を持っている覚えも全くないのだが。

「自覚がないたァ尚のことタチが悪いのう」

 わたしの顔を見て内心を察したのか、サカズキさんの顔が険しくなる。しかし事実、多少可愛がってはもらってるとはいえ、この状況においてはわたしの性質とか関係なく周囲に物珍しく思われて当然だと思うし。そりゃ確かにスモーカーさんとかとはやたら仲良しだと言われるけど、それはずいぶん前にあの人が子供(だと認めるわけではないけど)に弱いからとかなんとか言ってたからだろうし、彼らの対応はわたしに限った話ではないはずだ。

「何にしろ、弱い奴ァ死ぬんじゃ。貴様が死んだとして、その事実に心的外傷を得る輩はそう少なくはなかろう。それほど今のお前と言う甘っちょろい根は執拗に張り巡らされちょる……」

 過大評価だ。わたしが死んだところで影響を受けるほどあの人たちはやわではないし、自分にそこまでの価値はない。
 否定の言葉とともに口を開きかけたとき、サカズキさんにスカーフの裾を強く引かれた。軽く咳き込むわたしを労わる気は、やはり無いようだ。

「加えて、曖昧な立ち位置に甘んじちょる貴様が、いずれ情に流され、海軍の正義を疑い、悪すらも庇い出す可能性は高い。海軍は悪を許さん……が、お前に骨を抜かれた連中にゃあ断罪もできんじゃろう」

 サカズキさんの語気が荒くなるにつれ、部屋の温度が上がった気がした。見れば、サカズキさんの拳がボコボコとやばい音を立てつつ真っ赤になって溶け始めている。これはおそらく――悪魔の実、だろう。ということは、見た目からして溶岩か何かだろうし、触れた瞬間大火傷では済まなかろうし、つまり、わたしを殺す気満々だということだ。

「お前という存在は海兵らの心に隙を生む。これを毒と言わずとして何と言うんじゃ。奴らが心に傷を負おうが負うまいがわしにゃあ関係のない話じゃが、悪の芽となった貴様が生き残ることだけは許さん……!」

 彼の拳が沸騰する。目が醒めるような紅蓮。皮膚がそのまま溶け落ちそうなほどの高熱。わたしは死ぬのだろうか。
 しかしどうにもわたしの分析は冷静で、あまりの熱量に汗が滝のように流れ落ちても、彼の拳が真っ赤なスカーフを炭に変えているのを見ても、それ自体に恐怖を感じている訳ではないのはわかっていた。というよりむしろ、わたしの頭のネジは飛んだらしかった。だってだんだん心外に思えてきたぞ。だって仮にサカズキさんの言い分が正しいとして、どう考えても――



「……だがわしゃァ、それだけの理由で貴様を討つことは出来ん」

 睨み上げて言い返そうとするやいなや、え、と思う間も無く熱が引いていく。無残な姿になったスカーフがぱさりと胸に落ちたので、一瞬服に燃え移るのではないかと焦ったが、すでにあの温度は冷えているらしい。暗がりで目に痛かった赤い焔も、すでに黒々としたサカズキさんのシルエットに戻っていた。

「今の貴様には悪の片鱗も無かろうし、わしにゃあ立場もある。元帥も保護対象とは厄介な口実を与えてくれたもんじゃ……。だから忠告しちょる、弱いが故に死ぬか、悪に傾いたが故にわしに始末されるかする前に、さっさと出て行けとのォ」

 わたしからすれば、どれを選ぶにしろ死の一択。なるほど、先ほどのはおそらく、譲歩を促す恐喝に違いない。それが正義の海軍のやることかという話だが、それも今更である。しかしサカズキさんはどうあってもわたしを追い出したいようだし、わたしを殺すと思えば殺すだろう。今のところ、生き延びたのはセンゴクさんが与えてくれた名目のおかげらしいので、またお礼を言っておかなくては。

 しかしそうだ、彼は今自分の口で、わたしが生き残るすべを語ったのだ。


「つまり、サカズキさんはわたしが間違わない限りは……わたしを裁けないということですか」
「……あァ……!?」

 サカズキさんの顔に怪訝な色が浮かぶ。即座に否定しなかった点に交渉の余地を見て、わたしは咄嗟に畳み掛けた。

「取引しましょうサカズキさん。あなたはわたしを甘いと言いました。否定できないのは事実です。でも、確かにわたしは正義を掲げてはいないけど、通すべき筋ならいくらだってあるんです」

 そうだ。この人はわたしを舐めている。

 サカズキさんの言いたいことは分かっている。わたしだってただぬくぬくと海軍に入り浸っていたわけじゃない。知っている、ときおり海兵は海賊を――人間を殺すことを厭わないことくらい。もちろんその人の掲げる正義にもよるだろうけど、しかし大衆の命を天秤にかけたとき、彼らは悪の命を摘むことを厭ってはならない。幸せな国で育ってきたわたしは、わたしの知る人たちが海賊であれ人間を殺すのを、受け入れることができるのだろうか。分からない、だからこそ確かにわたしは、ここにいるには相応しくないのかもしれない、けど。

 そりゃもちろん、いつかどうなるかなんて不確かだ。けれど、わたしはスモーカーさんに拾われて、センゴクさんに保護の名義をもらい、クザンさんに雇われ、おつるさんに弟子にしてもらった。それは全部もらっただけの恩で、わたしは未だそれを、何一つとして返せていない。その事実をわたしが認識している限りは、絶対、揺らぐことはあってはならないはずなのだ。

「わたしは命を賭けます。海軍の正義に倣う限り、わたしの存在を許してください。その代わり、もしわたしが海軍の正義に反したら、裁くなり殺すなり好きにしてくれて構わない――あなたが告げてくれたなら、きっと抵抗はしませんよ。それは正義に対する裏切りでしょうから」

サカズキさんが驚いたように目を開く。

「だからそのときには、サカズキさんが責任を持ってわたしを断罪してください。しかし少なくともわたしの意思で、あなた方を裏切るなんてことは絶対にないと……分かってもらえるように努めます」

自分でも驚くほどきっぱりとした声が出た。薄暗くて埃っぽい執務室に、耳鳴りがするほどの静寂が満ちる。サカズキさんはしばらくじっとしていたが、しばらくしてようやく少し屈めていた身を引いて腕を組み直し、相変わらず恐ろしい形相でわたしを見やった。

「……死ぬ覚悟なぞ無かろうに、自分が絶対に罪を犯さん自信があるんか、貴様」
「まあ、先のことなんてわかりませんけど、でも少なくとも今のわたしには自信があります」

そう言って笑顔を向ければ、いつも通りかと思われたサカズキさんの顔には、困惑したような表情が浮かぶ。お、意外な反応だ。

「どうしてそこまで海軍に拘るんじゃ」
「ここ以外に居場所がないからです」
「居場所ちゅうんは作るものじゃ。生きたくて仕方のないお前が、命を賭けてまで固執する必要はどこにある?」
「わたしはこの海の常識を知りませんから、おそらく外に出た方がわたしにとって危険なんです。ついでにトラブルメーカーの自覚もあるんで、守ってもらえる海軍に居るのが一番安全だと思いまして」
「正直で図々しい娘じゃのう……」
「あはは、よく言われます」

まあ、自分でも馬鹿みたいだと思う。なんで今日はこんなに必死になってしまってるんだろう。サカズキさんには言わなかったけど、わたしがこの場所に依存している部分は確かにある。だって、自分の過去はわたしの記憶の中にしかないなんて、あまりにも不確かじゃないか。それこそ、わたしを作り上げてきた思い出すべて、いやこの現実こそが幻かもしれないのだから。


「通すべき筋……か。一丁前に言いよる」

 ふと、サカズキさんがどこか呆れたように、しかし感嘆したように、小さな声で呟いた。俯きがちになっていた顔を上げると、彼が再びキャップを抑えながらわたしから猛りの失せた顔を背けるのが見えた。

「良いじゃろう。存分に気張っちょれ。くれぐれも海賊に傾倒なんぞせんことじゃ。貴様を裁くのがわしじゃと言うのなら、賭けた命、つまらんことで落とさんようにのオ……」
「……命は惜しいですからね、当前です」

わたしに背中を向けて、フンと息を吐く恐ろしいおやじさま。ピンと伸びた背中はとにかく真っ直ぐで恐ろしく、背負った正義の文字がこれほど似合う方もいるまいと思った。
 しかし、どうやら命からがら生き延びたらしい。本当によかった。割愛したけど死にたくないって多分500回くらい叫んだ気がする。わたしは緊張しっぱなしだった体の力を抜いて息を深く吸った。

「――それで一つ聞きたいんじゃが」
「うおわ、ハイなんでしょう」

 いきなり声をかけられてビクリと大袈裟に飛び跳ねてしまった。申し訳なく思いつつ応答すると、むちゃくちゃ不機嫌そうなサカズキさんの声。ああ、どうやらまだわたしの試練は終わっていないらしい。

「この部屋の惨状、説明してもらおうかのォ……」

 それもこれも全部、クザンさんのせいです。

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