No Smoking


▼ 09-1/2

「おじゃまします」

 元気の良い声とともにドアが開かれる。差し入れらしきバスケットを抱え、普段私たちが事務仕事に使っている部屋を訪れたのは、柔らかそうな髪を揺らす小さな女の子だった。

「ナマエさん! お久しぶりです!」

そう言いながら駆け寄ると、彼女は私を見つけてぱっと明るい表情を浮かべた。最近会えてなかったせいもあり、ナマエさんの笑顔にほっと安堵してしまう。近頃バタバタしていたのもなおさらだろうか――私ときたら、声に疲れが滲まないように気をつけたのに、眉尻を下げたナマエさんに心配させてしまった。

「ごめんなさい、たしぎ姉さん。色々とバタバタしてて顔出すのが遅れちゃいまして。もしかして忙しかったですか?」
「いえ、今はちょうどひと段落ついたところです。まだ本部異動の手続きが遅れてしまっていて慌ただしいんですが、ナマエさんが来てくれたと知ったら皆さんも喜びますよ!」

 本部に戻り、ナマエさんが居ない日々を過ごして暫く経つ。部下の皆さんはかなり彼女と馴染んでいたようで、雑談にはしょっちゅう名前が上がったし、うっかり名前が呼ばれることなんかもあったりなかったり。実を言うと私も、次に会えるのを今か今かと楽しみにしていたので、人のことは言えないのだけど。

「この島に来てから結構経ったのに、まだ手続きが済んでいないってのはかなりの遅れですね」
「はい。この時期、世界中の海に散った名のある海軍将校たちが、経過報告なんかのためにばらばらと帰還してくるんです。そのせいで本部は今色々と混雑してまして……」
「ああ、それでセンゴクさんもお疲れだったんですね」

納得したように頷くナマエさんの口からは、当たり前のように元帥の名前が飛び出してくる。彼女の交友関係は今、どれほど広がってしまったのだろう。青キジさんと意気投合するのも一瞬だったし、もうセンゴク元帥とも親しいみたいだし、不安だなあ。放っておいたら海賊なんかにも気に入られてしまうんじゃないのかな。
 とか思っていると、ずいとナマエさんから大きめのバスケットを差し出された。なんだろう、蓋の隙間からは甘くて香ばしい匂いが漂ってくる。

「これ差し入れです。わたしの故郷で有名なカントリーマァムというお菓子に出来るだけ近づけようと努めて作ったので、よければどうぞ」
「わあ! ナマエさんの手料理はコーヒーゼリー以来ですね。わざわざありがとうございます!……ところでそちらの荷物は?」
「これですか」

手渡されたバスケットとは別に、ナマエさんの背後には巨大なスーツケースが鎮座している。これをわざわざ運んできてくれたのだろうか……。

「差し入れではないんですけど、そろそろ無香生活が恋しくなってきたであろう皆様へのプレゼントです。ようやく形になったので一番にお渡ししたくて」
「一体何が……?」
「あとでお見せしますんで楽しみにしててください」

 にっこりと笑う彼女が気になりつつも、立ち話もなんだと部屋に入るよう促した。広い部屋を資料を抱えた海兵たちが行ったり来たりしているので、ぶつからないよう注意を払う。そうしてスーツケースを引きずって歩いていくナマエさんを見かけるや否や、船旅をともにした海兵たちが次々と彼女に声をかけていった。

「ナマエ! よく来たな、元気にしてるか?」
「もちろん元気ですよ〜。あ、お見舞いに頂いたタオル重宝してます」
「そりゃ嬉しいな!」

「ナマエじゃないか。久々だな」
「お久しぶりです。陸酔い大丈夫ですか?」
「その話よく覚えてたな。もう平気だよ」

「たしぎ曹長と並ぶと貧相だなァ、ナマエ」
「失礼な! わたしは日本人の平均サイズですよ、たしぎ姉さんがナイスなバディ過ぎるだけです!」
「ちょっ、ナマエさん!」

「よう、お前はいつもでけェ荷物抱えてるな」
「あ、こんにちは。それはあれです、荷物がでかいというかわたしが小さいんです」
「どっちにしろ重いだろ、気ィつけろよ」

「ナマエ、最近君がいなくて華が足りないよ」
「あなたは裏切りのお兄さん。それは何よりです」
「冷たいなあ。そういえば君、今どこで暮……」
「あっ、差し入れあるので皆さんでどうぞ!」
「聞いてよ」

挨拶を交わしつつ奥に向かうナマエさん。それにしても大人気だなあ。めまぐるしいほど挨拶の波に揉まれている彼女の方も、たいそう機嫌が良さそうだ。彼女の明るい声に、ここ数日多忙だったため疲労していた兵士たちの活気もよくなるというもの。
 奥へ行くと、休憩スペースと化した空間に幾人かのくたびれた海兵が集まっている。ナマエさんが挨拶しつつ差し入れのバスケットごと渡すと、途端に彼らの顔が明るくなった。うーん、現金な人たちだ。


「そういやナマエ、昨日食堂で見かけたんだが、お前伝説世代の海軍将校とも交流あるのか?」

 海兵たちがナマエさんと私のためにわざわざ席を空けてくれたので、席に着いて雑談に花を咲かせていると、そんな話題が飛び出してきた。ナマエさんの差し入れを口にしつつ、他の海兵たちも口々と噂話に乗っかっていく。

「いや、おれは大将青キジの雑用と聞いたぞ」
「え、つる中将の元で洗濯してるんじゃないのか?」
「おお、皆さん耳が早いですね」

私は彼女がスモーカーさんの家に住んでいること以外は詳しく知らなかったのだけど、どうやらさっきの嫌な予感は微妙に当たってしまったらしい。おつるさん、ナマエさんを気に入っている様子ではあったけど、まさか一緒に洗濯ものをするほどの仲だとは。
 案の定、全部ほんとですよと告げた彼女に、海兵たちはそれなりに動揺したあと、「そうか、まァナマエだから仕方ないよなァ」と謎に納得していた。分からなくもないけれど、そんな感じで片付けていいのかな……。

「しかしナマエのおかげで最近匂いに敏感になっちまってなァ。次の船旅が憂鬱だよ」

 海兵のひとりが冗談交じりに笑った。のらりくらりとお茶をすすっていたナマエさんがピクリと反応を示す。

「分かる分かる。おれも最近ティーバッグ捨てられなくなってきたんだよな」
「ああ、そういやおれナマエが置きっ放しにしてった炭の入った小袋使い続けてるんだ」
「なんだ、お前らもか」
「えへへ、ありがとうございます」

そんな話題で話し合う海兵たちを眺めるナマエさんは、ほんの少し頬を赤くして照れたように笑っている。消臭に命を懸けている彼女としては、これほど嬉しい言葉もないのだろう。海兵たちの中では彼女は完全にお掃除係である上、"消臭のナマエ"だなんて通り名まで付けているのはどうかとも思うけど、ナマエさんが喜んでいるならなんとも言えない。それも今更な話ではあるけれど。

「しかし自分で試してみても市販のは匂いが甘ったるくてなァ、ナマエみたいにゃいかんよ」
「うちも家内が似たようなこと言ってたな」
「柑橘系やシトラスの香りは男性でも使い勝手は悪く無いと思いますけれど……」
「まァ上からいい匂いを重ねるのとはなんか違うよな、ナマエのは」
「匂いのねェ消臭剤とかありゃ欲しいよなァ」

 雑談の中でふと何気なく飛び出した一言。それに応えるように、視界の端でナマエさんの表情が変わる。見れば、彼女の顔に浮かんだのは、よし来た、とでも言いたげな笑み。

「――そんなあなたに御朗報です」

 彼女は滑舌良く宣言して立ち上がると、得意げにスーツケースを手前に押し出し、その中身を取り出してみせた。突拍子も無いナマエさんの行動に、場にいる全員が意識を奪われる。どうやら彼女の手に乗っているのは親指大の小瓶だ。その正体を見極めあぐねて首を傾げると、ナマエさんは頷きながら解説を始めてくれた。

「こちら、おつるさんの元で日々洗濯することでインスピレーションを得、新開発した革新的消臭剤の試作品です! なんと、これを使えばどんなしつこい匂いも一瞬で消え失せるという優れもの!」

生き生きとしたナマエさんの解説に、おお、と歓声が上がる。にしてもすごい話だ、本当ならそれってかなり画期的なんじゃないだろうか。

「ちなみにレシピは企業秘密です。その効果はもちろん、実際にお見せしましょう!」

 消臭剤? あのスーツケースの中全部がそうなのかな。だとしたらものすごい量になる。
 なんだなんだとどよめく周囲を物ともせず、集中する視線の中を歩き、部屋のとある一点へ進んでいくナマエさん。彼女の進行方向にあるのは、今朝スモーカーさんが座ったはずの座席だ。一体何をするのだろう。というか、なんで分かったのかな。まさか匂いとか……いやいや、そんなのどれだけ鼻が効くのかという話だ。

「たしぎ姉さん、確認してください。この椅子は葉巻の匂いが染み付いていますね」
「え、あ、はい! …….そうですね、葉巻臭いです」

突然話を振られて動揺しつつも、椅子の側に並んでその匂いを確認する。こびりついた匂いというわけでは無いけれど、確かに葉巻の匂いはする。ナマエさんはこれを消臭するつもりなのだろうか。……というかやっぱり匂いで席を判断していたらしい。近くでようやくわかるレベルなんだけどなあ、ナマエさんもそろそろ人間離れしてきている気がする。

「そんなときにはこの消臭剤」

 小瓶を掲げるナマエさん。近くで見ると、中身には分離した粉末と液体が入っているのが分かる。

「使い方は簡単。まずは瓶を振って中身を気化させます」

ナマエさんが軽く瓶を振ると、すぐに瓶の中が真っ白になる。一体どういう仕組みなんだろう、その点は企業秘密とのことだけど。

「それから瓶の蓋を素早く取って――暫定スモーカーさんの席へ、こう!」

間髪入れず、ナマエさんは小瓶を勢いよく椅子に叩きつけた。その瞬間――、

 突如、軽い爆発音とともに、白い靄が周囲を覆った。

 突然の出来事に部屋中に衝撃が走る。向こうからは私とナマエさんがいきなり白い靄に掻き消されたように見えているはずだ。白く埋め尽くされた視界の中に、瓶がカランと床に落ちる音が響く。私は情けなくも動揺してしまって、慌てて近くにいたナマエさんの腕を掴んだ。というかナマエさん、どうして消臭しようとしてこんな風になるんでしょうか。

「な、何してるんですか、ナマエさん!」
「うーん、どうしても派手になっちゃうんですよね。ここは改善点なんですが、まあ煙幕としても使用可能ということでして」
「そんな機能、消臭剤に付けてどうするんです!」

ですよね、と笑うナマエさん。うう、こうなると分かってたならせめて事前に一言欲しかった。心臓に悪い。そうしてパタパタと靄を払いつつ、彼女は椅子を指差して笑う。

「でもほら、匂いはきっちり取れてますよ。かなり広範囲に効きますし。まあ一回使い切りなんですけど」
「え? ……。あ、わあ、本当だ!」

嗅いでみると、本当に匂いがない。椅子もそうだけど、私の手に染み付いていたインクの匂いも、埃臭い部屋の匂いも、とにかく私の周囲の匂い全てが消えている。自分の嗅覚がなくなったのかと思うほど、完全に何の匂いもしないのだ。その辺りの状況を伝えると、海兵たちは効果の感嘆に湧き立った。

「これぞ瞬間無香空間です。ちなみに匂いと殺菌はできますが、汚れそのものは落ちないので使用は掃除の後がオススメですよ」

得意げに指を立てながらスーツケースのところまで戻っていくナマエさん。ん? なんだか海兵の人数が増えている気がする。というより全員いる。さっきの爆発のせいかもしれないけど、皆さんなにやら期待するような表情をしているので、きっと暇な人たちなのだろう。そしていつの間にか大集合した海兵全員に向き直ったナマエさんは、「というわけで」と前置きしてから、

「わたしからの船で世話になったお礼です。初給料で用意したので是非もらってください」

と言って笑った。勿論、言うまでもなく海兵たちは殺到し、あっという間にスーツケースは空になった。ナマエさんが「たしぎ姉さんは特別です」とほんの少し多くくれたのは、皆さんには秘密にしておこう。

 そしてこの日、ナマエさんの通り名は、"無香のナマエ"に変わったのだった。

prev / next

[ back to title ]