No Smoking


▼ 08-3/3

 午後6時。

「ただいま帰りましたー」

 首に引っ掛けた合鍵を差し込み、無人の我が家へ帰宅する。スモーカーさんが帰ってくるのは8時前なので、それまでに夕飯を作っておかなくては。
 日が傾いて薄暗くなってきたので、部屋の明かりをつけておく。リビングに入った途端、ほんのりと葉巻の匂いがしたが、我ながらよく誤魔化せていると思う。いつか必ず、この残り香すらも完全に無くしてやるのだ。

 そしてベランダに出て洗濯物を取り込みつつ、本日の夕食に想いを馳せるわたし。

「……海王類、どうするのが一番美味しいのかなあ」

とりあえずステーキにするとして。柔らかさはどんなもんなのだろう、肉は念入りに叩くべきだろうか。個人的には塩コショウを……あとワインに漬け込んで……ああ、万能クックパッドがあったなら。

 取り込んだ洗濯物を畳みつつ、やはりまだ迷っているわたし。ステーキのソースはどうしようか。うーん、スモーカーさんの好みとかわからないしなあ。本当にどうでもいいんだけど、わたしはステーキソースは最低三種類用意したがるというコスパの悪い癖がある。理由は特に無い。でもせっかくワイン使うならソースもそれでいいような気がするし、やはり一種類に留めておこう。あと付け合わせの野菜も、色々買ってあるけど何にしようかな。

 そんな感じに思案しつつ、わたしは調理を開始した。



 午後8時過ぎ。

「おかえりなさい、スモーカーさん!」

 玄関のドアが開く音がしたので、わたしはキッチンから声を張り上げる。スモーカーさんはリビングに入ってくると、愛想無く「……あァ」と呟いた。まったくもう、ただいまと言え、ただいまと。

「タイミングばっちりですね。いい匂いするでしょう、丁度できたとこですよ」
「助かる。……しかしやたら豪勢だな」
「昨日は質素だったので奮発したんです」

スモーカーさんは十手を壁に引っ掛けて、行儀悪く手袋をソファに放り投げ、そのままダイニングの席に着いた。
 わたしは肉が高かったせいでやたら気合が入ってしまった本日の夕食を手際よくテーブルに並べていく。スモーカーさんの言の通り、確かにこれは浮かれた夕ご飯……というかディナーである。調子に乗ってお茶碗じゃなくお皿にご飯をよそってしまったし。いっそテーブルにお花でも飾っとくんだったな。

「メニュー的にお酒が欲しいですね」
「お前、まだ飲めねェだろ」
「否定できません」

 そんなこんなで準備を終えたわたしも席に着く。スモーカーさんにどうぞと言ってから、わたしもいただきますをしてナイフとフォークで肉を切り分けた。おお、めちゃくちゃ柔らかい。これはお肉のお味が気になるところ……。

「お、お、おぉ……美味しい」

 海王類やばい。なんだこれ。美味い。思わず言語を忘れるほどには美味い。じゅわりと滲み出る肉汁。高温で焼いた功績により表面はこんがりと焼きあがっているのに、中身はとろけるような舌触り。肉がいいからとは言えわたしは天才か。ていうかソースもかなり美味しいんじゃないか、これ。スモーカーさん褒めてください。

「――美味ェな」

 やった、聞く前に言ってくれた。もしかするとわたしの呟きを聞き届けたからかもしれないけど、でも言わせてやったぞわたし。これは地味に嬉しい。

「えへへ、ありがとうございます」
「……しかしこいつはなんの肉だ?」
「それがどうも海王類の肉だそうですよ。限定品だったので釣られて買いました」
「海王類たァ、また妙なもんを……」

そうは言いつつスモーカーさん、特に気にするでもなく料理を口に運んでいる。海王類だってなんだって美味しければいいのだろう。わたしもそう思う。
 ちなみに灰皿がリビングのテーブルの上なので、スモーカーさんは食前のタイミングで葉巻も向こうに置いてきてくれたらしい。多分気遣ってくれたとかではないと思うけど、そのおかげもあり実にストレスフリーだ。ご飯が美味しい。

 いやはや、時には奮発も必要なんだなあ、とか考えながらわたしはディナーを平らげた。



 午後9時。

「あー、今日も疲れた!」

 夕飯の片付けを終えたわたしは、勢いよくソファに身を投げ出した。深呼吸すると鼻孔に広がるは葉巻の匂い。今晩は珍しく手持ち無沙汰だったのか、スモーカーさんが食器を拭くのとしまうのを手伝ってくれたので、あれだけ豪勢だったにも関わらず、片付けは思いの外早く済ませられた。
 それにしてもやはり、一番念入りに掃除しているとはいえ、スモーカーさんの寝床であるソファには葉巻の匂いが染み付いてしまっているなあ。掃除を終えた今でこそ、よく嗅がないとわからない程度にはなってると思うけど。

「お疲れさん、ナマエ」

 ソファの上でうつ伏せになっているわたしに、頭上から声がかかる。体を捻って見上げると、ベッドの背もたれから乗り出したスモーカーさんの顔。もくもくと天井の方に立ち上っていく葉巻の煙が目に入る。彼が湯気の立つカップをひとつわたしに差し出したので、お礼を言って受け取った。

「ふふ、ありがとうございます」

スモーカーさんがかけてくれた労いの言葉がなんとなく可笑しくて、わたしは顔を緩ませる。体を起こしてソファの端に寄り、一人分のスペースを空けると、スモーカーさんは自分のカップをリビングテーブルに置いてから、吸い寄せられるみたいにわたしの隣に腰を下ろした。

「あ、わたし最後にバスルーム掃除しとくので、休んだら先にシャワー浴びちゃってください」
「ん、……仕事熱心だな」
「それ以外出来ることないですからね」

 今日はなんだか気持ちが浮ついているのだろうか、変に口角が上がってしまう日だ。暖かいホットココアを手にくすくす笑っているわたしの機嫌の良さを察してか、スモーカーさんは目を細めつつ、わたしの頬に落ちた髪を柔らかく耳に引っ掛けてくれた。どうやら労ってくれるらしいと、クッションを抱えてスモーカーさんとの距離を詰める。どうせすぐお風呂なのだし、多少の匂い移りは大目に見るとしよう。

「預かりが決まった当初にゃ、どうなることかと思ってたんだが。船旅の間からてめェの神経質っぷりは把握してたんでな、確実に面倒くせェことになるとばかり……だが、ここまで献身的なのは予想外だった」
「褒めてます?」
「あァ。正直なところ、助かってる」

耳に触れていたスモーカーさんの指がゆるゆるとわたしの髪を撫でる。スモーカーさんはあの寝落ちの晩から、わたしの髪を触るのが好きだ。毛質は柔らかいとはいえ、特筆するほど良いものでもないと思うんだけど、まあスモーカーさんが触りたいならと放っといている。ちなみにサービスは入浴前限定だ。

「いつでも殊勝なナマエちゃんですから」
「性格以外は否定できねェな」

言葉尻にからかうような色を浮かべて、スモーカーさんは口角を上げる。半分貶されているとはいえそんなに褒められると照れてしまう。

「――そういえば今日、目敏いクザンさんにこれのこと聞かれまして」

 細い鎖を片手で持ち上げながら、わたしは雑談に興じることにする。スモーカーさんは退屈そうにわたしの毛先をくるくると弄びつつ、話を聞いてくれる気はあるようだ。

「説明して見せたら、スモーカーさんの飼い犬みたいなもんだなと言われました」
「……。おれが着けさせてるわけじゃねェだろ」
「その点は説明しましたよ。でも絵面がまずいって」

タグの部分を引っ張り出して目を通し、わたしは首をひねる。やっぱり分からないなあ、そこまで言われるほどあからさまではないと思う。というか改めて見ると、ここに書かれてる電話番号ってわたしのじゃないな。この家のだろうか。

「しかし飼い犬とはまた失礼な話ですよ」
「まァ……お前は犬ってほど素直じゃねェしな」
「それは野犬のスモーカーさんも一緒でしょう」

ん、となると野犬の飼い犬のわたしってことだな。それは飼い犬というかもはや手下なのでは……。


「う、あ!?」

 突如訪れた感覚に、ぞぞっ、と背筋が総毛立ち、思わず小さく悲鳴をあげる。それと同時に、粗相を働いたスモーカーさんの手がピタリと停止した。
 いやいや、いきなり首を触られると驚くから一言言ってくれ。言われたところで許可はしないが。というか首筋をなぞられたら誰だって擽ったいに決まってるだろう。まったく危ないところだった、カップを落としかけたよ今。

「何つー声出すんだ、お前は」
「いやそれスモーカーさんが急に触るからですよ、危ないですね。まじでなんなんですか」
「いや……痕が付いてるんでな」

わたしの首の付け根辺りをスモーカーさんの指が撫でさする。あ、そういうことか、いやびっくりした。なんのつもりかと思った。スモーカーさんの方もちょっと困惑してたので、驚いたのはお互い様ってことにしとこう。まあ今のは全面的にスモーカーさんが悪いけど。

「あー、ちょっと痛いと思ってたんですけど、やっぱり痕付いてますか」
「目立つほどじゃねェが」
「うーん、となると毎日つけるのは良くないですかね。服の上は目立つし、手首か……いっそ足首にしとこうかな」
「…………」
「?」

 スモーカーさんはこちらの首元に手を添えたまま、チェーンのやり場に悩むわたしを無言で見つめている。その視線を察するや否や途端に気まずくなるわたし。なんなんだ、いきなり何か、面白いいたずらを思いついたみたいな顔をして。こういうスモーカーさんを見ると嫌な予感しかしない。
 と思った矢先、唐突にカップを掠め取られ、素早くテーブルに置かれる音がしたかと思うと――首筋を這い上がってきたのはスモーカーさんの手。ちょいちょいちょい、何してくれんだこの野郎!

「なるほどな。朝掠ったときから思っちゃいたが、お前首が弱ェのか」
「ぎゃあ! ちょ、スモーカーさん、わたし首触られんのはまじだめなんです、待っ」

必死で身を引いて訴えるが、ちくしょうスモーカーさん、わたしで遊ぶ気満々の顔をしている。なんてことだ、冗談じゃないぞ。首はダメ、本当にダメ。しかしソファから転がり落ちて逃げようとしたところを仰向けにひっくり返され、完膚なきまでに取っ捕まってしまった。流石の手際……って白猟根性をこんなとこで発揮されても困るのだが!

「ひ、」

両手で首をガードするも虚しく、首筋に触れるか触れないかのギリギリのところで指を滑らせてくるスモーカーさん。ぞくぞくと鳥肌が立つのが自分でも分かる。背中はソファの肘掛に当たっていて、これ以上後ろには逃げられない。どうしろってんだ。

「セ、セクハラです、訴えますよ!」
「言っとけ」
「う、なにすんですか、っの、とに、もー!」

 人をいじめて何が楽しいんだ。くすぐったがり屋を追いたくなる人間の心理というやつか。分からんでもないがわたしにするのはまじでやめてほしい。じゃれるのはいいが大概にしてくれ。てかこれ一歩間違えたら危険な絵面なの分かってんのかこの野郎。ああ、もはや命の危機を感じる。

 そんな感じでほとんど泣きそうになりながらマジギレするまで、スモーカーさんに遊ばれてしまったわたし。なんてかわいそうなんだ。



 午後11時。

 お風呂も済ませ、寝間着に着替え、歯磨きも済ませ、寝る準備は万端だ。お風呂に入った後は匂いが移る前にとっとと退散するに限る。

 洗面所を抜けてリビングを通ると、ソファで悠々と葉巻を烟らせるスモーカーさんに愉快そうな笑顔を向けられた。ちくしょう煙男め、この件に関してはいつか必ず仕返ししてやるんだからな。首を洗って待っておけ。

 そう思いつつ勢いの限りに睨みつけた、のだが。

「おやすみ、ナマエ」

珍しくちゃんと挨拶をくれたスモーカーさんに毒気を抜かれてしまった。というか、初めてじゃないか、スモーカーさんから言ってくれたのって。……まったく飴と鞭の使い分けの上手な男だ。これもわざとやってんだろうか。

「……おやすみなさい、スモーカーさん」

意地を張るのも虚しくて素直にそう告げると、スモーカーさんは葉巻を揺らし、柔らかく笑みを深めた。



 寝室に入ってドアを閉め、わたしはベッドに潜り込む。明日もまた一日、楽しく頑張ろうと考えつつ、わたしはゆっくりと目を閉じた。

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