No Smoking


▼ 06-4/4

 わたしの目の前には丸メガネのおじいさま。重要そうな書類を食べまくっている子ヤギを従えて、机にカモメが乗った帽子を置いている。何故かアフロの、豊かなあごひげを丁寧に三つ編みしているこの人こそが、海軍本部元帥のセンゴクさんである。らしい。
 彼の後ろに掲げられているのは『君臨する正義』の標語だ。なるほど、真面目そうな顔つきがいかにも元帥といった感じの人である。今まで見た中で一番ヤクザ感の少ないお偉いさんだ。色々とツッコミどころはあるけど、ちょっと安心した。

「君が凪の帯で保護されたと言う少女か。ナマエと言ったな……噂には聞いている」
「こんにちは、おじいさま」

 わたしはペコリと頭を下げた。

 ちなみにスモーカーさんは現在部屋の外で待機中である。たしぎ姉さんの方は、日暮れから既に見回りがあるというので先に戻ったそうだ。ひとまずは元帥と二人で話そうと言うことらしいが、わたしの話せる内容となるとものすごく限られているんだけどいいのだろうか。

「……立ち話もなんだ、茶でも出そう。おかきは好きか?」

なんだろう、今日のわたしは餌付けばかりされている気がする。




「――つまり、ふと目が覚めたら溺れていて、かと思えば海王類に運良く乗り上げられて、さらに運良く海軍の護送船に遭遇したのか」
「はい。冗談みたいな話ですよね」

 おかきってあんまり好んでは食べないけどこれめっちゃ美味しいな。どうなってんだろ。あとわたしはやはり日本人なので、畳の部屋で米菓をかじりお茶を啜ると言うのはなんだか落ち着くような心地がする。おばあちゃんの家に来た時みたいな懐かしさだ。

「クザンさんには上に聞かないとなんともできないとか言われましたけど、正直誰に聞いてもわけのわからん話だと思います。わたしも良くわかりませんし」
「しかし何とも……妙だな。話を聞く限りでは、本当に突然、海の中にワープしたのだとしか思えん」
「案外、そうだったりして」

はー、いいお茶だ。

「お嬢さんは、自分の経歴の記憶はあるのか? まだ若いようだが、身内も知り合いの一人もいないというのは……」
「記憶はあるにはあります。でも出身地は誰も知らない島でして、行けないし連絡も取れません。更に言ってみれば身内も知り合いも全員そこの住人なんです」
「待ってくれ、話が掴めない。まず誰も知らないとはどう言うわけだ」

慌てたようなセンゴクさんの声に話を遮られ、わたしはあ、と息を飲んだ。
 ああ、そうだ。この件を聞かれてしまう気はしてたけどそろそろ言うべき時なのだろうか。センゴクさんは真面目そうな人だし、笑い飛ばさないでくれるとは思うけど、信じてくれるかと言われると疑わしい話である。なにしろわたし、スモーカーさんたちにすらこの件は匂わせたこともないのだ。

「えーと、笑わないでくれるなら言いますけど」
「この流れで笑うような性格じゃないぞ、私は」
「そうですよね。あの……多分、なんですけど……誰にも言わないでくださいね、その……わたし」

嫌だな、自分で言うとなるとものすごくアホみたいだ。しかしセンゴクさんは安心しろ、と力強く頷いている。この人、最初は厳しい人かと思ったがそうでもないらしい。こういうおじいさまはきっと若い女の子には甘いのだろう。この世界でわたしが何歳くらいだと思われてるのかどうかはさておき。
 突拍子の無いことを言っても、きっとそれなりにカッコいい返答をしてくれるはずだ。意を決してわたしは口を開いた。

「……異世界から来たんじゃないかと思うんですが」

「? ……? …………異世界か? …………?」

 いや、全然だめじゃないか。ちょっともう少し頼りがいのある反応が良かったぞわたしは! かなり勇気を出して言ったのにその反応は酷い。酷いぞ。がっかりだよ。この元帥おじいさまのセンゴクさんめ、恥をかかせてくれやがって。許せない。

「はい。はいはい、はい。もう二度と言わないので忘れてください、ぜひとも」
「ま、待て。そうヤケになるな。異世界だな、なるほど、そういうこともあるだろう。確かに現状、一番納得のいく説ではある」
「いいですよ無理しなくて」
「いや大丈夫だ、キッチリ話を聞く心づもりはある。君がそう思う根拠を教えてくれ」

ほんとだろうか。さっきのクエスチョンマーク連打でわたしのセンゴクさん信頼指数は激減したぞ。まあ乗りかかった船だ、もう話せることは話してしまうつもりだけど。

「ここへ来る直前の記憶は曖昧なんですけど、向こうのこと自体はしっかり覚えてます。まず地形も常識も大違いなので。あれだったら地図も書きますし歴史も常識も仔細にお話ししますよ。わたしが頭のおかしい夢想家とかでない限りは、本当のことだと思っていただけるんじゃないかと思います」
「む…………分かった、話を聞こう」

センゴクさんはわたしの落ち着き払った様子を見て動揺を鎮めると、きらりとレンズの奥の目を光らせて傍聴の姿勢に入った。さて、信じていただけるかどうか。




 話した。話しまくったぞ。あのあと結局紙と筆をお借りしてうろ覚えの世界地図を書き、江戸時代とか世界大戦の話とかをぼんやり語り、義務教育がどうのこうのと説明し、車の話とかテレビの話とかファブリーズのCMの話とか、海賊も海軍も居りませんというお話までキッチリさせていただいた。もはやわたしに悔いはない。さあ、ドン引きたきゃドン引いてください。

「……なるほど」

 センゴクさんは張り詰めていた息を吐き出し、窓の外を遠い目をしながら眺めた。なんだその反応は。

「もういいですよ、わたしも信じていただけると思ってたわけじゃないので」

諦めたようにそう言うと、センゴクさんは眉を上げてわたしに視線を戻した。その表情はあのいかにも困惑したものとはかけ離れており、元帥の名に相応しい威厳に溢れている。そうだった、この人は海軍のトップ。忘れかけていたがすごい人なのだ。

「いや……もう真実か虚偽かはどちらでも構わない。今後どう周囲に説明するかはさておき、私個人としては君を信じてみるつもりだ」

 おお、なんて懐の広いおじいさまだ。今まで心の中でものすごく罵倒してしまって申し訳ない。本当に尊敬する。正直わたしが日本にいたら、ある日突然「異世界から来ました」って人が現れても信じないと思うし。あ、いや信じるだろうか。信じるかも。

「しかし、君も君で落ち着き過ぎではないかと思うんだが。異世界にきてしまったと認識してるなら、もっと焦りや恐れがあるものだろう」
「……そうは言いましても、もうこの世界に来てからしばらく経ちましたし。まあ確かに異世界だなと分かっても、そこまでは動揺しませんでしたけど、なってしまったものは仕方ないじゃないですか」
「ううむ……その度胸、海兵たちにも見習わせたいものだ」

 髭を撫でながら、悩ましげに背凭れに体重をかけるセンゴクさん。なんというかこの人、日々のストレスとか立場による重圧とか凄そうだな。振る舞いから苦労人の匂いがする。

「しかし困ったことだ。君とて、元の世界に戻りたいだろう」

 ――あれ。そう、だろうか。

 頭の歯車がカツリと引っかかる。初めて気付いた。確かに違和感がある。なんで今までそんな肝心なことを、一回も考えなかったんだろう。おかしい。そうだ、帰りたがるのが普通のはずだ。この世界で不安になることはいくらでもあったのに、なんでわたしは戻りたいと思わなかったんだろう。何かおかしい。だってむしろ、わたしは――

「だが肝心の、なぜこの世界に来てしまったのか……君にはその記憶がないのだな」

 そうだ。わたしにはそのあたりの記憶がスッポリと抜けている。でもそれは帰りたがらなかった理由にはならない。それとも、何か関係しているのだろうか。

「そうです、ね……」
「何も思い出せることはないのか? 断片的にでも構わない。そこだけを忘れているとなると、人為的なものだとも考えられるが」
「……」

 思い出せること。例えば、きらきら光る水面と、液体が肺に満ちる感覚と、虚ろになる意識。

 でもそれは、こちらに来てからの記憶のはずだ。ならあの感覚はなんだろう。死にたくないと、助けてくれと泣いた記憶はいつのものだろう。あのときの肌を撫でる冷たい温度と、ツンと痛む鼻の奥と、ままならない呼吸と、それと、それから……。

 首にかけられた、枷。

「――う、あ?」

 当然振り下ろされた、ガツン、と頭を殴られるような衝撃に、ぐらりと平衡感覚が狂う。目の前の景色が歪んで、まともに視覚情報が届かない。体を支えていられなくなって、わたしの体はずるりと椅子から落ちていく。滑り落ちた湯のみが、ガシャン、と畳張りの床に落ちて砕け散った。

「どうした!」

センゴクさんの声が鼓膜を叩いて脳を揺らす。全身が慄いていうことを聞かない。こみ上げる塊が器官を塞ぐ。息が出来ない。吐きそうだ。畳に手をつき、なんとか上半身を支えようとして、陶器の破片で指を切る。痛みは感じない。沈み込むのをただ恐れて、わたしは必死に縋り付いていた。

「あ、あ」

声が掠れる。締め付ける圧力はわたしを離してくれない。首に残る感触は消えない。滴り落ちる汗が気持ち悪い。明滅する視界に恐怖が込み上げた。
 センゴクさんが何かを叫んでるのに、一文字だって聞き取れない。何かが開く音がする。空気が変わったような感覚の後、わたしの体を誰かが引き起こした。

 なんでもいい、苦しい、助けてくれ。こんなところで倒れてどうする。だって、わたしは。

 わたしは……死にたくない。



「……落ち着け、ナマエ」


 その声はあまりにも揺るぎなく、確固としてわたしを繋ぎとめた。例えるなら、いきなりチャンネルが合わさったかのような、焦点が定まったような、そんな感覚だ。ピタリと全てが噛み合った世界は相変わらずで、何も変わってはいない。いつの間に仰向けになったのか、天井の木目がやけに鮮明に見える。
 ……ここはセンゴクさんの部屋だった。

「呼吸を整えるのに集中しろ。いいな」

「――ス……モーカー、さん」

 強張った目だけをやっとのことで動かして、わたしはあの白髪の強面を見つけた。スモーカーさんが特に焦った様子もなく、存外いつも通りの表情なことに、わたしはようやく平静を取り戻すことができるようだった。
 ふと瞼を塞がれる。視界が隔離されて一瞬背筋が凍ったが、顔に触れる指も、わたしの上半身を支えている腕も、嗅ぎ慣れた苦手な匂いがするものだから、わたしはやけに安心しきってしまっていた。スモーカーさんの手袋越しの指先が、汗の浮いたわたしの額を拭う。それはどうにも身に馴染んだ仕草だった。

「……スモーカー。これは一体どういうことだ?」
「おれにも詳しいことは。ただ……こいつはどうにも夢見が悪ィんで。まァ、寝てるわけでもねェのにこうなるのを見たのは初めてですがね」
「この娘が……毎晩こうなのか?」
「あァ。とはいえ、本人は覚えちゃいねェんだが。それに最近は……なんてェのか、宥めてやると落ち着くんで」

センゴクさんが訝しがる気配がする。

「それはお前がやっているのか、スモーカー」
「……………………まァ……」

スモーカーさんの返事めっちゃ嫌々だな。そんなに不本意なのか。放っとけないお人好しのくせに。
 それにしてもこの話に関しては、わたし本人よりスモーカーさんの方が詳しいというのはなんとも奇妙な感じだ。わたし、寝てるときはいつもあの堪え難い恐怖に晒されていたのか。よく寝不足で済んでいたものである。

「そうか、お前がなあ……」

しみじみと呟くセンゴクさん。ときどきこの人は反応が年寄り臭い。実質、スモーカーさんの倍はありそうだけど……相当歳は行ってるのだろうが、見た目が若々しいのでハッキリとはわからない。

「……ナマエ、落ち着いたか」

 スモーカーさんの指が瞼から離れたので、わたしはゆっくりと目を開く。一瞬目が眩み、数回瞬きをしたあと、スモーカーさんとセンゴクさんがこちらを覗き込んでいるのを確認した。勿論呼吸も落ち着いたし思考も冴えている。自分で言うのもなんだが、わたしはなかなかにタフらしい。

「すいません……白昼夢に頭をやられました」
「そうみてェだな。……指は」
「めっちゃ痛いです」
「またか。まァ出血も大したことはねェ、すぐ治るだろうが」

スモーカーさんがわたしの背中を支えている腕を引き起こし、上半身を立て直してくれた。切れた方の手を差し出して、軽く状態を診てもらう。しかし、本当にこちらへ来てから、わたしはずいぶん怪我が多い。またか、と言われて返す言葉もないほどには。いいかげん、真面目に身を守る方法を検討しなくてはならない。

 そんなわたしたちをしげしげと興味深そうに眺めるセンゴクさん。彼もやはり元帥ということだろう、わたしがいきなり錯乱したことにも泰然とした態度を崩してはなかった。

「……おつるさんから提案があってな」

センゴクさんがそう口火を切る。て言うか誰だ、おつるさん。

「初めから薦めてみるつもりではあったんだが、聞いたところではお嬢さんに利がないように思えたのでな。本人に希望を聞いてみようと思ったんだが……ふむ、この様子を見る限り、どうやら釣り合いは取れそうだ。結局肝心なことも分かってはいないし、いっそ私からの任務にでもするとしよう」

彼はなんだか要領を得ないことを一人で納得しながら呟いている。なんだというんだ。スモーカーさんですら話が読めずに眉を寄せている。そんな感じのわたしたちへ視線を寄越したセンゴクさんは、全てを置いてきぼりにしてこくりと相槌を打った。

「そのお嬢さん……ナマエを私の一存で海軍本部の保護対象としよう。スモーカー、お前には彼女の身柄を任せる。そうだな、家にでも置いてやれ」
「……はァ?」


 いやいや……なに言い出したんだこの人。

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