No Smoking


▼ 05-2/3

 夕食のあと、シャワーを浴び終え、救急箱を抱えて部屋に戻ってきたわたし。傷も塞がってきたので問題ないだろうと軽く洗った髪は、まだしっとりしたまま新品の寝間着を湿らせている。
 わたしは現在、ベッドの上に裸足で座り込み、額の生え際の右、頭頂部くらいの位置にある傷にガーゼを押し当ててなんとか包帯で固定しようと奮闘しているのだが……これどうやって巻いてあったんだろう、思いの外上手くいかない。そもそもそんなに器用なたちではないのだが、怪我した位置が微妙過ぎて上手に包帯を通せないのだ。わたしが壊滅的に不器用ってわけではないと思いたい。

「……さっきから何してんだ、お前は」

 ベッドの上で包帯と悪戦苦闘していると、ソファの方からスモーカーさんの呆れ声が聞こえてきた。そろそろ仕事も尽きてきたのだろうか、机の上の資料はだいぶ少なくなっている。
 スモーカーさんに助けを……でも今日の昼間、甘え過ぎていたなと反省したばかりなので、ちょっと気が引ける。「なんでもないです」と言いかけて包帯を巻き直そうとした拍子に、患部を抑えていたガーゼがふわりと吹き飛んだ。白い布切れがゆっくりと宙を舞い、ぱさりと床に落ちるのを目で追いながら、わたしは乾いた笑いを漏らす。微妙な沈黙はやめてほしい。

「……スモーカーさん、申し訳ないんですけど、これの巻き方教えてくれませんか」

 渋々頼むことにする。……はあ、また恩を重ねてしまった。まったく、お礼への道のりは遠い。

「それくらい初めから他人に頼みゃいいだろう。救急箱持ってこっちに来い」
「ハイ、ありがとうございます」

 快くご了承頂けたので、裸足にスリッパをつっかけてスモーカーさんの元に駆け寄った。スモーカーさんがソファの真ん中に腰を下ろしているので、少しは寄ってくださいよと文句を言うと、うるせェと一言。ほとんど引きずられるみたいに腕を取られて、スモーカーさんの正面、足の間に座らされた。いやまあ、手当てするには適当な位置だろうけど、近いし、やたら収まりが良すぎて落ち着かない。

「ナマエ、何浮き足立ってんだ。照れるような柄じゃあるまいし」
「何言ってんですか。わたしは入浴後にも関わらずもはや匂い移りは避けられないことに打ちひしがれてるだけです。灰とか絶対に落とさないでくださいよ」
「おれァそんなヘマはしねェ。……大人しくしとけ」

 悪態を吐き合っていると、いきなりスモーカーさんの指が髪をさらりとかき分けたので、わたしは慌てて口を閉じた。手当てしやすいように手袋を抜き取っていたため、彼は珍しく素手だ。がしがしと頭を撫でられた時とは違う、なんだかスモーカーさんらしからぬ壊れ物にでも触れるみたいな手つきで、頭部の傷口を探られている。髪が梳かれるくすぐったいような心地良いような感覚に、わたしの首筋がぞわぞわと粟立った。思わず身じろぎすると、動くなとの叱咤が飛ぶ。んなこと言われたって。

「ん、ガキだけあって治りも早ェな。傷口はほとんど塞がってるし、こいつァもう糸抜いてもいいんじゃねェか」

 傷口を探り当てたのか、スモーカーさんは手を止めて感心したように呟いた。くそう、相変わらずこの人は、わたしを小学生かなんかだとでも思ってるのか。

「ガキじゃないって言ってるじゃないですか……。まあでも、やっと抜糸できるみたいで良かったです。ここ最近ずっと退屈してたとこなんで。明日にでも取ってもらうことにします」
「明日まで待つのか? 今取りゃいいじゃねェか」
「えっ、だって夜分に衛生兵の方に頼むのもご迷惑ですし」
「……抜糸くらいならおれがやるが」
「うえ!?」

スモーカーさんがとんでもないことを言い出した。慌てて振り返ろうとすると、暴れるなとのお言葉とともに、頭の怪我してないあたりをガッチリと掴まれてしまった。くっ、ビクともしない。この腕力おばけめ。

「まっ、まま待ってください、スモーカーさん、自分ではできると思っててもできないことってあるんですよ。そういう慢心こそが大事故に繋がって」
「これでも海兵なんでな、処置の知識ならある程度はある。まァどうしても嫌ってんなら無理強いはしねェが、明日は色々とゴタつくから悠長に糸抜いてる暇があるか分からねェぞ」
「うええ、明日もまたなんかあるんですか?」
「あァ……朝にはマリンフォードに到着する」


 ――え。


「も、もう着いちゃうんですか」
「そうだ」

 ……そんな。正直、あと2、3日はかかるとばかり思っていた。あの島で目的地が近いとは言われたけど、こんなに早く着いてしまうなんて。
 それじゃ本当に、もう明日には、この船とはお別れなのか。早い、早すぎる。もう少し猶予があってもいいじゃないか。だってわたし、まだスモーカーさんになんのお礼もできてないのに。

「どうした? やけに驚いてるが」
「な、んでも」
「何を焦ってるのか知らねェが、なにもすぐに放り出すわけじゃねェ。そう急くな。……で、抜糸はどうすんだ」

 スモーカーさんが緩く煙を吐き出しながらわたしの頭を固定していた手を緩める。彼の言う通り、確かに今すぐどうしようもないことで焦るのは良くない。一度深呼吸をして、わたしはこくりと頷いた。

「それじゃ、お願いします。あの、本当に気をつけてくださいよ。わたしあんまり痛みに強くないので、スモーカーさんが下手なことをしたら船中に響き渡る大声で泣き叫びますからね」
「抜糸は別に痛かねェよ」

 スモーカーさんが救急箱から小さなハサミとピンセットを引っ張り出して、いつも葉巻に火をつけているマッチの火で炙りだす。ひい、怖いよ。スモーカーさんがやるってのが怖いよ。

「動くなよ」

 だから本気で怖いです。というかビビってるわたしをわりと面白がってるだろ、スモーカーさん!


 とか言っているうちに抜糸は無事済んだ。確かに全然痛くなかった。せいぜい一瞬チクっとする程度だった。これはお医者さんの縫い方が良かったのか、スモーカーさんが上手なのか、どっちなんだろう。
 一応抜糸痕から菌が入ると良くないということで、もう一度包帯を巻き直して貰ったのだが、いやはやこちらも流石の手際のよさで済ませてくれた。スモーカーさんてば結構なんでもしらっとできてしまうんだなあ。わたしあんなに苦戦したのに、正直悔しい。

「……しっかし柔らけェ髪してんな。年齢的な問題か」

 包帯を巻き終わったわたしの頭をいじり回しながらスモーカーさんは退屈そうな声で呟いた。ちくしょう、また言外にガキ扱いされている。

「そうですね、スモーカーさんもいいお歳ですから、わたしみたいなキューティクルたっぷりヘアに憧れてしまうのも詮無いことです」
「憧れちゃいねェよ」

とかなんとか言いつつも、スモーカーさんはわたしの髪を梳く手を止めない。なんだか知らんが気に入ったのだろうか。初めはあったくすぐったさも霧散して、いまは心地よさだけが残っている。こうのんびりしていると、煙のせいで多少息苦しくはあるけど、なんか眠くなってきたなあ。
 ん、わたしの目の前の机に、マリンフォードなんちゃらと書かれた資料が置いてある。わたしが寝ぼけ眼で紙を手に取ると、それに気づいたスモーカーさんがあァ、と話し出した。

「そいつの良物件を探しててな」

 彼は紙に手を伸ばして、印がつけられているところをトントンと指で叩いた。よく分からないが、これが候補ということなのだろう。

「お前がよけりゃ、の話だが……おれァひとまずはマリンフォードの町にでも落ち着くのがいいんじゃねェかと考えてる。なにしろ海軍本部の膝元だからな、海賊はほとんど寄り付かねェし、何かありゃおれやたしぎや知り合いの海兵に頼れるだろう」

曰く、マリンフォードには、主に海兵達の家族が暮らす町があるのだそうだ。だから安全もある程度保証できるし、大ごとがあれば避難もしやすいという。詳しいことは追い追い、マリンフォードに着いて、雰囲気を気に入ってからでも決めろと締めくくり、スモーカーさんはわたしの手から資料を抜き取った。
 ……もしかして、スモーカーさんは、わたしが船を降りたあとまで面倒を見てくれるつもりなのか。もう会う機会はないかもしれない、とか思っていたが、向こうにそんなつもりはないらしい。ああ全く、なんてお人好しだ。たかが海で拾った女ひとりに、割く労力じゃないだろうに。

「……スモーカーさんは、ほんと、変ですね」
「いきなりなんだ、それは」
「別に……なんでもないですよ。ただ、ありがたいなと思っただけです」
「どうした。頭を打ってネジでも飛んだか?」

わたしの頭を撫ぜながら、スモーカーさんは皮肉げに鼻で笑う。なんだよ。またそうやって人を馬鹿にしやがって。感謝くらい素直にさせてくれればいいのに。

「うるさいですね。でも、もう明日にはこの船旅も終わりかと思うと、わたしだって少しは感傷的になるんです。なんだかんだ、楽しかったですし、よくしてもらったし、助けてもらったし……」

ふわあとあくびをする。眠気が迫ってきた今は、燻る葉巻の煙もそこまで不愉快ではない。わたしの頭をすっぽり覆えてしまうほど大きなスモーカーさんの手のひらが、ゆっくりと後頭部を上下して、ふわふわした睡魔を運んできた。
 ああ、そうだ、スモーカーさんに聞きたいことがあるんだった。眠る前に言っておかなくては。

「スモーカーさんは……なんか、わたしにして欲しいことってないですか」
「……ナマエ、なんの話だ?」

 尋ねてもスモーカーさんには質問の意図が掴めなかったらしく、訝るように質問で返されてしまった。わたしはどうも眠くて頭が回っていないらしい。

「ひとつくらい、お礼をしたいと思ったんです。たくさんお世話になったので、なにか……」

そう告げると、スモーカーさんはわたしの言い分をなんとなく察してくれたようで、いつもの呆れがちなため息を吐かれてしまった。まあわたしも、たしぎ姉さんに似たようなこと言われて困ったし、その気持ちは分からんでもない。

「まァ……そうだな」
「?」

 くるりと首を真上に傾けると、こちらを覗き込んでいるスモーカーさんと目が合った。思いの外近いし煙いが、就寝前の喫煙には文句言わないって言っちゃったしなあ。彼は軽く噎せるわたしを見て、面倒くさそうな顔をしつつも、至極真面目な声で呟いた。

「なら、てめェの身を守る方法をさっさと覚えてくれ。お前は本気で危なっかしいんだ。おれたちも、いつでも助けにゃ来れねェからな」

スモーカーさんは葉巻を咥えた口を歪めて笑った。

 ――なんだそれは。なんの礼にもなりゃしないじゃないか。まあ確かに、スモーカーさんの心労は減るのかもしれないけど……でもそんなのはやっぱりお礼にはならないだろう。だってそれはつまるところ、わたしのためだ。わたしがやらなくちゃいけないことだ。
 こういうとき、スモーカーさんはやたら優しすぎる。だが、確かにわたしも、たしぎ姉さんには似たようなことを頼んでしまった。スモーカーさん、わざとなのか。これは皮肉なのか。意趣返しってやつか。
 わたしは眉をひそめて、視界の中でひっくり返っているスモーカーさんをじろりと睨め付ける。

「……頭のネジ飛んだの、スモーカーさんの方じゃないですか」
「小煩ェお前との相部屋も今日で終いかと思うと、おれも多少感傷的になるのさ」
「なんですかそれ……」

 首が疲れてきたので見上げるのをやめて、正面に向き直り、わたしは二度目のあくびをする。まずい、本格的に眠くなってきた。寝落ちする前にベッドに移動しないと……。

「一応、聞き入れますけど、それはお礼じゃなくて、忠告をってことですから」
「それで構わねェよ」

 軽く後ろ髪を引かれたような感覚がして、特に何も考えられないうちに、わたしの背中はスモーカーさんの方に倒れこんでいた。ううんスモーカーさん、煙のくせに胸板が硬い。まあでも、居心地は悪くない。

「てか、スモーカーさんは、なんで……こんな親身にしてくれるんですか。青臭いからってだけで、誰彼かまわず手間かけてたら……きり、ないですよ」

呂律の回らない舌で、自分でも何が言いたいのかよく分からないまま、前にも一度したような質問を呟く。
 スモーカーさんに体重を預けると、存外手慣れた手つきで顔にかかった前髪を払われた。ええと、なんだっけ。ああそうだ、ベッドに行かなきゃ。

「スモーカーさん、世話好き、ですね……」

しかし意識は遠のいて、瞼が落ちそうになる。


「……ナマエ、おれァ情が移る前にこの件を片付けようとしたんだがな」

 遠くの方で聞こえるスモーカーさんの声。なんだか耳に心地いい。低い振動が、背中と鼓膜を通して伝ってくる。

「お前が危なっかしくて、そのくせ強がりで、目の離せねェ奴だから、おれの予定は狂ったんだぜ」

 なんだ、つまりスモーカーさんは、わたしを気に入ってしまったのだな。それもわたしのせいで。それなら仕方ないなあ。

 微睡みのままに、ゆっくりと瞼を塞いだ。なんかずいぶん気恥ずかしいことをしていると頭のどこかで理解しながらも、意識は白く塗りつぶされて、どうでもいいやと諦める。そうしてスモーカーさんの温度を感じながら、わたしは抗えない眠りに落ちていった。

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