No Smoking


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「――……」

 錘を括り付けたかのような気だるさの中、ゆっくりと意識が浮上した。

 ずしりと重たいまつ毛を持ち上げる。くう、眩しい。視界に映るのは瞼にかかる前髪と、肩を並べた二つの枕と、白く輝くくしゃくしゃのシーツ――昨日とほとんど変わらない、朝の寝室がそこにあった。
 しかしなんだか体の節々が軋む。一日中運動した次の日みたいな虚脱感があって、その上やけに肌寒い。寝ぼけ眼を擦りながら、のろのろ掛け布団を肩まで引き上げ、そこでようやく違和感の正体に気づいた。わたし、裸だ。

 そうだった、昨晩、……。

 じんわり恥じらいが湧いてきて、お布団にもぞもぞ顔を埋めた。眠りに落ちた瞬間の記憶がないのではっきりとは思い出せないけど、一糸纏わぬ己の姿を見るに、確かひと通り綺麗にしてもらったあと、スモーカーさんに抱きしめられたまま眠ったのだ。うー、下着くらいつけとくんだった。こんな明るいなかで裸を見られてたら色々と支障がありまくる。

 というか、あの人はどこに――

「!」

 キイ、とドアの開く音がした。布団の端から目元だけ出して見やると、そこには行儀悪く裸足でドアを開けるスモーカーさんの姿――どうやら両手が塞がっているためらしい――がある。そんな彼は、ジャケットは着てないまでもほぼ普段通りの格好で、あまりに地に足がついた現実なものだから、なまめかしい夜の記憶といまいち繋がらない感じがした。
 わたしの視線に気づいたのか、スモーカーさんがふとおもてを上げる。目が合った。がしかし、つらりとしたその表情は動かない。何を考えてるのか読み取れなくて、ちょっと気まずくなる。観察するようにわたしを正視したまま、彼はおもむろに口を開いた。

「……おはよう」
「お、はよ、ございます」

 自分でもびっくりするくらいかすかすの声が出た。

 スモーカーさんは手にした水差しを注ぎつつ、ドアを開け放したまま部屋へ入ってくる。どうやらわたしの喉が干からびてるのを見越しておられたらしい。彼はベッドの端に膝を乗り上げると、水で満たしたコップをひょいとこちらへ差し出した。

「悪かったな。……起き上がれそうか?」
「え、と、はい」

 なにを謝られたのかはよく分かんないけど、ともあれ受け取らねばと枕もとに肘をつく。胸からずり落ちないよう布団を押さえ、よいせと上半身を起こせば、スモーカーさんは何やら気遣わしげに眉を寄せた。

「あまり無茶はするなよ、昨晩はだいぶ負担を――」
「大丈夫です、全然へいきで」

 スモーカーさんの言葉を遮りつつ体を捻った。瞬間、股の間に引き裂かれるような痛みが走る。ぶわ、と滲む冷や汗。わたしは咄嗟に脚を縮めた。

「い、ッ、……う……っ」
「だから言ったろ。……大丈夫か」

 水差しをベッドサイドに置き、身を屈めてわたしの腰に触れてくるスモーカーさん。その手が素肌を摩った途端に、昨晩の、痛みに喘ぐわたしを宥める彼の動きを否が応にも思い出させられて、全身が燃えるように熱くなる。
 そ、そうだ。スモーカーさんの謝罪の意図も含め、ようやく理解が及んできた。最中は必死すぎて麻痺してたけど、思い返せば声が枯れてるのも局部が痛むのも当然の帰結なのだ。むしろあれだけの激痛だったのにこの程度の後遺症で済んでるの、人体の神秘を感じる。だって、いくらしっかりめに、その、解してもらったとはいえ――あれはあれで地獄だったけど――ただでさえ体格差があるのに、経験すらないわたしが、スモーカーさんのあんな、……。

 …………。

 ――ぐ、ああ、もう、ほんとやだ。世の中のカップルって皆同じようなことしてるんだろうか。まったく、正気の沙汰とは思えない。
 居た堪れない気分でお水を受け取り、こくこく喉に流し込んだ。甲斐甲斐しくわたしの背を撫でるスモーカーさんの、まるでつがいを労る狼のような献身ぶりが――いよいよ、この人のものになったんだという感じがして――気恥ずかしくてならない。渇きが潤ったころ、わたしは照れ臭さを堪えてそろりとスモーカーさんを見上げた。じっと視線を寄越してくる、眉ひとつ動かない彼の心情はやはり読めない。機嫌が悪いってわけじゃなさそうだけど。

「あの」
「?」
「そ、その、ええと」
「どうした?」
「わたし、大丈夫、でしたか?」
「……なにが?」

 スモーカーさんはゆっくりと瞬いてわたしを見つめ返した。裏表のない感じだ。わたしだけが情事の余韻に取り残されてるみたいで、余計にきまりが悪い。

「う、んと。スモーカーさんやけにあっさりしてるから、もしかしたら後悔とか、してるんじゃないかなって。わたしみたいなのと、その……」
「つまりセックスの感想を聞きてェわけか?」
「せっ、……!?」

 突然のどストレートな単語に凍りつく。浅くため息を吐き、スモーカーさんは鼻白むふりをした。

「……無粋だが、お前らしいといやァそうだな」
「ばば、ばっ、ちがっ、違いますけど!?」
「よかったって言われてェんなら素直に……」
「だっ、だから違うって言ってんじゃないですか!」
「落ち着け、体に障る」

 食ってかかろうとすれば、どうどう、と悠長に制してくるスモーカーさん。こ、こんにゃろう、興奮させたのは誰だと思ってんだ。へどもどしつつ睨みつけるも、彼は悪びれもせず瞼を伏せて受け流してくる。いかにも余裕綽々な態度だ。

「心配するな。おれはお前のために辛抱するのは慣れてるし、端から上手くいかねェ可能性も考慮してた。寧ろ挿れられるとこに入っただけ上出来だろ」
「だああっ!うああ!最低です、品がなさすぎます、もう少し言葉を選んでください!」
「これでもかなり配慮したつもりだが」
「ですから、そもそも感想なんか聞いてないんですってば!」
「……言っておくが」

 冷静に告げて、こちらを覗き込んでくる真面目な相貌。暗がりの中でいくつも睦言を交わした、薄い唇の形にどきりとする。気勢を削がれて口を噤めば、スモーカーさんはわずかに声の調子を和らげた。

「おれはずっとお前とこうなることを望んでたんだ。ようやく念願叶って浮かれてるところでね。あまり水を差さねェでくれると助かるんだが」

 思わぬ台詞に、意表を突かれる。

 ……ほんとだろうか。そういうわりには、さっきから落ち着きすぎてる気がするけど。

「スモーカーさん、浮かれてるんですか?」
「ああ。見えねェか?」
「けっこう、わかりにくいです」
「……まァ、罪悪感と半々ってとこだからな。お前を痛めつけておいて手放しに喜ぶわけにもいかん」
「そ、んなことは。わたし、平気ですよ」
「足腰立たなくさせられてんのによく言うぜ」

 わたしの両手から空のコップを攫いつつ、スモーカーさんはようやく揶揄うような笑顔を見せてくれた。この人もこの人で――あんな夜を過ごしたあととあっては――わたしとの距離を測りかねてたのかもしれない。上手く言えないけど、それだけ近いところまで入り込んでしまった夜だった。

「まァ、これで分かったろ。夜のことに関しちゃ、おれは十分満足してる。何より、お前にゃ色々と教え甲斐もありそうだし……」

 背を逸らし、スモーカーさんはベッドサイドに置いた水差しでおかわりを汲みはじめた。トプトプ、ガラス製のコップに水音が吸い込まれていく。その側面を掴む爪の短い指先と、大きな手のひらと、血管の浮いた前腕、何か喋ってる楽しげな横顔。くっきり浮き出た首筋がすてきな形をしていて、自然と目を惹かれてしまう。スモーカーさんは……語弊を恐れずに言えば、綺麗な人だ。そしてわたしはなぜか、奇妙なことに、この人に触れることを許されている――。

「ナマエ?」
「っえ! あ、えと、はい。わかり、ました」
「……それより、おれはお前の感想が聞きたいね」
「へっ」

 完全に油断してたところに飛んでくるカウンター。スモーカーさんはコップの縁に口を付け、三回喉を鳴らして飲み干してしまうと、こちらにずいと鼻先を寄せてきた。調子、すっかり戻ってきたらしい。

「どうだった?」
「どう、って」
「逃げるなよ。おれァ話したぞ」
「う、……」

 理不尽だ。聞いてもないことをスモーカーさんが勝手に話しただけなのに。閉口するわたしに、しかし彼は真正面から目を逸らしてくれない。はあ、こうなっては抵抗しても時間の無駄だと分かりきってる。わたしは渋々口を開いた。

「まあ、ちょっと痛かった、し、恥ずかしかったし、なんかすごい意地悪なことされた気がしますけど。でも……スモーカーさんが優しくしてくれた、ので」
「ので?」
「……悪くはなかった、です」

 尻すぼみになる声でぼそぼそ呟く。

 うう、ん、今のは素直じゃなさすぎたかな。

 言い直そうとした拍子、目と鼻の先にあった彼との隙間が消え失せ、不意打ちのように口付けられた。ちゅ、と控えめに音を立てて、離れていく、小鳥のようなキスだ。ぱちくりして見つめ返すと、スモーカーさんは眉を上げ、平然と視線を受け止めてみせた。

「な、なんですか急に」
「恋人へのキスに理由が要るか?」
「いえ、その、……っん」

 続けざまに啄まれてびくりと身じろいだ。頬から顎の付け根にかけて、撫でるように移動してくる唇の感触。やわやわ食まれ、甘噛みされ、舐められ……こんなに念入りに味わわれると、もしかしてわたしって美味しいのかな、って気がしてくる。スモーカーさんは片腕でわたしの腰を支え、そのままゆっくりと枕に押し倒してきた。さっき、せっかく頑張って起きたのに。

「スモーカーさん、お仕事、の準備は」
「まだ時間はあんだろ」
「朝ごはんは……」
「今はいい」

 おざなりにあしらって、そのまま耳を齧ってくる。じゃれてくる大きなわんこみたいだ。……実際はそんなかわいいもんじゃなかったけど。
 仕方ないので、わたしは手を伸ばしてスモーカーさんの耳の上らへんを撫でることにした。柔らかい髪の間に指を潜らせてあげると、彼が微かに身震いするのを知っている。昨夜得た収穫のひとつだ。こんな風に戯れていると、昔動物番組で観た毛繕いし合う犬猫の姿なんかと重なって、ああ、やっぱりヒトも動物なんだなあ、って思ったりする。負けじとやり返してくる大きな体を抱き止め、わたしは小さく息をついた。

「ね、スモーカーさん」
「うん……?」
「体のこと、あんまり気に病まないでくださいね。わたしちゃんと、きもち、かったですよ……」
「……」

 息を飲む音。摺り寄せられていた体がぴたりと停止するや否や、彼は何かを振り払おうとするみたいに素早く上半身を起こした。険しい表情で黙りこくる、スモーカーさんの眉間に深々と皺が刻まれていく。

「あ、あの。どうかしましたか?」
「すまん。てめェの年甲斐のなさに呆れてるとこだ」
「へ……?」

 ふー……と自嘲気味に眉間を抑え、彼はどこか落ち着かない様子で腰を上げた。ベッドに転がったまま、離れていくスモーカーさんの姿をぽかんと見上げるしかないわたし。こちらを一瞥することなく、彼は水差しを手早く回収してドアの方へ向かって踵を返した。一体なにがなにやら。

「支度してくる」
「あ、はい、わかりました」
「お前も今日は休め。いい子だから安静にしてろよ」

 子供扱いにだけは余念がなく、彼は開けっぱなしのドアを通り抜けてさっさと立ち去って行ってしまった。さっきまで腕の中にあった温度を取り上げられたせいか、少し心細いような気分になる。

 物寂しさを誤魔化そうと、今度は痛まないよう注意を払って上半身を起こした。横髪が頬にかかった瞬間、ふんわり広がるのは自分のと違う男の人の匂い。くんくん匂いを辿ってみると、体中からスモーカーさんの残り香がするのに気がついた。自分の体じゃないみたいだ。……これ、ちゃんと落ちるのかな。無くなっちゃうのは勿体無い気もするけど、さすがにスモーカーさんの匂いを漂わせて知り合いに合うわけにもいかないし。

「……」

 膝を抱えて、手慰みに髪をすく。改めて、すごい経験だったなあ。わたしの頭にある19……じゃなく、20年ぶんの記憶は一切役に立たなくて、あらゆることが未知だった。わたしの体のことなのにスモーカーさんのがよっぽど詳しくて、されるがままになってしまったのが経験の差を感じて情けない。子供っぽすぎて呆れられなかったかな。や、そりゃ、あの人はいい大人だし、今まで何人の女性ともこういうことしてるんだろうし、敵わないのは当たり前なんだけど。
 にしても、人ってあんなどっろどろに理性を失えるんだな……って知見を得たというか。ほんととんでもないことを口走りまくった気がする。仮にスモーカーさんに持ち出されて弄られたら一生立ち直れないレベルだ。たぶん、世の中での夜のあれそれは、何があろうと昼には持ち出さないという、暗黙の了解のもとに秘されているのだろう。うん。ていうかそうだ、スモーカーさんがなんかずっとやたらと執拗にかわいいかわいい言ってきたことを今になって思い出してきた。思い返せば終盤はもう「ナマエ」と「かわいい」しか言われなかった気がする。いかん、死ぬほど恥ずかしい。

 身悶えたい気持ちをこらえ、ほてる頬を膝に埋めた。瞼を閉じて深呼吸。お布団がひんやりしてて気持ちいい。

 ――でも、すごく、幸せだったな。満たされる、ってきっとああいう感覚を言うんだと思う。お腹の浅いところに熱を灯す、火傷のような痛みすら愛おしくて堪らない。あのとき、スモーカーさんが何を考えていて、何を求めていて、何をくれるのか、手に取るようにわかった。スモーカーさんと繋がっている間だけは、わたしという隙間だらけの人間が、完全になったような感じがした。……。

 って、浸ってる場合ではない。スモーカーさんが戻ってくる前に下着を探し出さなくては。

 胸の前を抑えつつ、布団の端っこをめくって抜け殻を探す。足元の方でくしゃくしゃになってるネグリジェは発掘できたのだが、下着類が見当たらない。もしかして踏んづけてるのかな、と腰を慎重にずらしてみて、わたしはぎくりとたじろいだ。

 シーツに血の跡が、残ってる。

「う、……っわ」

 初めてなのを隠してたわけじゃないけど、こんなあからさまな形で残ってるのを目にすると、こう、めちゃくちゃ恥ずい。昨晩は全然気が付かなかった――出血してたこと、スモーカーさん気づいてたんだろうか。や、当然気づいてるんだろうな……。ああもう、気を遣わせてしまって心底申し訳ない。とにかくこのシーツは早急に漂白して引き出しの奥に封印しておこう。ひとまず見なくていいようにお布団で隠しておく。

「――ナマエ」
「っわ、は、はい!?」

 ジャケットとブーツを装備した、すっかりいつも通りの姿のスモーカーさんが顔を出す。予想以上に戻ってくるのが早い。わたしなんかまだ全裸なのに。

「お前、もう動けるのか?」
「え、そうですね、慎重にすれば多少は……」
「まだきついようなら服着せてやろうか。そのままじゃ風邪引くだろ」
「わたしに恥を晒せと!? お構いなく、例え這いずってでも服くらい自分で着ますんで」
「心配するな、今は落ち着いてる。盛りゃしねェよ」

 なんなんだこの人、やけに食い下がってくる。スモーカーさんは足元に身を屈め、白いレースの布切れを拾い上げた。はっ、あんなとこに。

「ほら、ナマエ」

 わたしのパンツを片手にゴツゴツ靴音を鳴らして接近してくる海兵の影。じりじり後ずさるあられもない姿の乙女ことわたし(もう乙女じゃないけど)。なんという最悪の絵面だ。今のスモーカーさんを見て「彼は治安維持組織の人間です」などと言ったところで誰も信じないだろう。わたしは必死に首を横に振った。

「やだ、いやです、自分で……」
「なにをそう嫌がる必要があんだ。昨晩素っ裸で散々やっておいて今更」
「そっ、それとこれとは別です。わたしはこんな明るいとこで裸体を晒せるほど恥捨ててません」
「あのな、別に夜だって見えてねェわけじゃ……」
「やややめてください。とにかく、そういう問題じゃないんです!」
「めんどくせェな、剥ぐぞ」

 などと言いつつ問答無用で布団をひっぺがそうとしてくる。聞く耳持たずだ。端を握りしめてぐいぐい抵抗するも、彼はわたしの拳に手を重ね、見た目には軽々と――しかしとんでもない力で――わたしの指を一本ずつ外していく。こ、こいつ。

「さっき、からっ、見たいだけでしょう……っ」
「そうだが」

 おしまいだ。わたしの知りうる人間の中で、開き直ったスモーカーさんほど揺るがぬ存在はない。最後の抵抗で、わたしは彼を睨みつけて悪態をついた。

「スモーカーさんのどすけべ」
「昨晩あれだけされたのに分からなかったのか? 言っとくがまだまだ序の口だぜ」
「ひ、開き直んないでください」
「お前のことだからどうせ当分はお預けじゃねェか。今のうちに目に焼き付けさせろ」
「言ってて恥ずかしくないんですか!?」
「ちっとも」

 お、男という生き物は……。

「ちょ、お、待……ッ!」

 ――哀れ、わたしはこうして人間としての尊厳を失い、この年にして下着を履かされ、服を着せられ、丁重に身だしなみを整えられるという、手際のいい羞恥プレイを食らわされる羽目になった。ヒナさんの忠告は、ある意味で正しかったのかもしれない。

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