No Smoking


▼ 47-2/4

 念入りに櫛を通したつやつやの髪、よし。

 どこを触られてもいいよう、すみずみまで清潔にした身体、よし。

 爪先は丸く整えた、歯磨きもしっかりした、体のにおいも多分……石けんの香りだけのはず。気になる左腕のやけどもちょっとずつ薄くなってきてるし、お風呂上がりの顔色も悪くないし、お肌もすべすべ。コンディションは万全だ。鏡に映った表情はちょっと固いけど、及第点としよう。

 わたしは踏み台から降りて、膝下まである真っ白の裾を整えた。透け感がある薄手の生地、ゆったりしたワンピース型の寝巻きだ。お腹から首元までの襟合わせは細いリボンで編み上げられていて、素肌が見えないようきゅっときつめに絞ってある。あっ、そうだ。洗面台に身を乗り出し、首のちょうちょ結びが縦になってないか最終チェック。いよし。

「ふう……」

 詰めていた息を吐き、脱衣所のドアを薄く開けて、そろりとリビングを覗き見た。さてスモーカーさんの様子は、と――入浴前と同じようにソファに鎮座しておられる。特別身構えてる感じもしない、普段通りの半裸スタイルだ。視線は手元に落ちていて、膝を組んだズボンの裾からは皮の厚そうな素足が覗いている。ていうかなに見てるんだろ。
 よくよく目を凝らすと、彼の手に収まっているのはお高そうな和酒の瓶だ。夕食を終えたあと、お風呂に入る前までわたしがリビングテーブルに広げていたプレゼントの中の一つで、確かサカズキさんからの頂き物だったはず。……飲みたいのかな。と観察しているうちに一通りラベルを眺め終えた彼が、組んでいた脚を解いて瓶をテーブルに戻した。コツン。と、そこで目が合った。

「――長風呂だったな」
「え、へへ、お待たせしました」

 はにかみつつ、そう答える。わたしの照れを察してか、スモーカーさんはふっと相好を崩した。

 どうやら身構えなくて大丈夫そうだ。彼の表情に安堵して、わたしはようやっとリビングに踏み入った。そのままぺたぺた足音を立ててソファの近くに駆けつけ、スモーカーさんの前でくるりと一回転してみせる。ふんわり膨らむスカートは、金魚の尾鰭みたいに柔らかでキュートだ。

「じゃん、見てください。今日のために用意したネグリジェです」
「…………」
「ご感想は?」

 首を傾げて覗き込めば、なにやらイマイチな反応を返された。……あれ。

 無言のまま伸ばされた両腕に腋を抱えられ、ぽんと横向きに片膝へ乗せられる。それからスモーカーさんはまじめくさった顔つきでわたしの手を取り――さながら焼き入れの出来を確かめる刀鍛冶みたいに――何度か裏表を返し、袖口をつぶさに観察して、そっと元の位置に下ろした。なにやら難しげなお顔。なんなんだ一体。

「お気に召しませんでした?」
「……誤解のねェように言っておくが」

 眉間の皺を深め、こちらに向き直るスモーカーさん。

「おれにゃガキを抱く趣味はねェんだぞ」
「まー、ひどい言い草ですね。いいじゃないですか、かわいくて」
「悪いたァ言わんがな……せめて色気出す努力をしてくれ。お前に手ェ出すのはただでさえ背徳感があるってのに」
「でも今日からわたしも二十歳ですもん。いっぱしの大人ですよ」
「歳食えば自動的に大人になるとでも?」

 彼は皮肉めいた口ぶりで肩をすくめた。ううむ、手厳しい。このぶんじゃ、わたしはいくつになってもスモーカーさんから大人と認めていただけそうにない。
 にしても、そんなに子供っぽかったかなあ。足を伸ばして寝巻きを眺めてみる。そりゃ露出はほとんどないけど、うっすら肌色が透けてる感じとか、これでも結構頑張ったつもりなんだけど。この方の仰るお色気のハードルって相当高いと思う。

「やっぱりこれじゃそそられませんか?」
「そうでもねェから複雑なんだろ」
「……つまり、良いか悪いかでいうと良い?」
「まァ、そうなるが」
「ははあん。となるとスモーカーさんは潜在的ロリコンなのかもしれません」
「オイ、勘違いすんじゃねェよ」

 ずずいと不本意そうに詰め寄ってくる鼻先。背を逸らして距離を取るも、手のひらでぐっと受け止められてしまった。「いいか」と前置きしたスモーカーさんが目と鼻の先に迫り、人差し指でトントン胸の中心を突つかれる。う、ちょっとくすぐったい。

「おれが唆られてるとすりゃ、お前がおれに抱かれることを散々想像しながらそれを選んだ前提と」
「へ」
「この服をひん剥いたらどれほどのもんがお目にかかれんのかって期待があった上で」
「んな」
「これから、純情ぶって何も知らねェような顔したお前をぐちゃぐちゃに乱してやれるのかと思うと待ちきれねェってだけだ」
「さ、ささ、サイアクの感想です」
「お前が聞いたくせに」

 しれっと言い捨てて、真顔のまま身を引いていくスモーカーさん。ぶつけられた露骨な言葉に、じゅわ、と頭の血管が広がってく感じがする。いきなり、なんてこと言うんだ。わたしが準備万端で今ここに座ってること、指摘されるのがやだから頑張って茶化した振る舞いしてたのに。
 あっさりブリキ人形と化したわたしを見て、スモーカーさんは堪えきれなかったようにくっと喉を鳴らした。薄く細められた目は実に愉快げだ。わたしの横髪をするりと掬い上げ、彼は取りなすようにこう告げた。

「冗談だ」
「……どこまで?」
「手加減してやる予定だからな」

 ――それは、ほとんど本気ってことじゃないのだろうか。

 スモーカーさんは目を伏せるようにして笑う。ご機嫌な彼にされるがまま両耳を掘り出され、わたしは頬の熱を冷ますべくため息を吐くしかなかった。こんな調子で大丈夫なのかなあ、わたし。全く、先が思いやられる……、

「これでよく分かったろ、ナマエ」

 わたしの髪にさらさら手櫛を通しながら、出し抜けにスモーカーさんは言う。調子づいておられる気配がしてじとりと睨むも、案の定どこ吹く風だ。

「なにがですか」
「こういうのはその場の勢いでやるもんってことだ。特に準備なんざ言い出すと、足りなくても足り過ぎても揶揄われる羽目になるぜ」
「からかってくる張本人が言うことですか」
「無駄に勿体ぶるからだ。これに懲りたら次からは素直に流されてくれよ」
「つ、次……、もあるんでしょうか」
「お前に温情があんならの話だが。……ところでナマエ、今日はやけに毛艶がいいな」
「ですから、それは」
「?」

 口ごもるわたしに、スモーカーさんは素直な疑問符を返してくる。あれ、蒸し返そうとした、わけじゃないのか。まだ察してないらしい彼に伝えるのは気が引けつつ、とはいえ誤魔化すのもなんだし、とわたしはちょっとだけ目を逸らして自供した。

「スモーカーさんがたくさん触ると思って、お手入れしたんです。ほらわたしの髪、お好き、ですし……」

 ぴたり、と側頭部を撫でていた手が止まる。

 ……?

 視線を戻せば、軽く見開かれたスモーカーさんの目にぶつかった。え、なんだろ、話の流れからして、そんな驚くようなことは言ってないと思うんだけど。
 理由も分からぬうちに、彼の手がネジを回したように動きだす。スモーカーさんは神妙にわたしの顔を凝視したまま、頬から首すじにかけてを何度か撫でやり、時おり感触を確かめるようにふにふに軽く揉んできた。彼の乾いた手に吸いつく自分の肌が、なんだかわざとらしくて居た堪れない。もしかして、準備する、ってこういうことじゃなかったんだろうか……。程なくして、彼は眉を寄せながら口を開いた。

「……。ナマエ」
「なん、でしょうか」
「狙ってやってんのか?」
「まあ、そうともいえますかね」
「となると、いつにも増して触り心地がいいのも、おれの気のせいじゃねェのか」
「気のせいじゃ、ないと思います」
「やけに脱がせやすそうな服着てるのは」
「……わざと、です」

 気恥ずかしさに顔を背けつつ、大人しく白状する。分かりきってることをわざわざ言わせてくるあたりが、この人の心根の悪いとこだ。

 と、スモーカーさんはふいに身を屈め、わたしの耳の裏に鼻先を擦り寄せてきた。ぎょっと振り返りそうになるのを、頭をぶつける前に危うく堪えたものの、至近距離で深く吸い込まれた息のせいで結局派手に身じろぎしてしまう。うわ、か、嗅がれてる。

「――いい匂いがする」
「せ、石けんの、香りですか?」
「違う。もっと甘い」
「それは……心当たり、ないですね」

 受け答えは冷静さを努めるものの、低い振動を当てられた耳にはぐわんと熱が灯っていく。きっと、わかりやすく真っ赤になってるのが彼にも見えてるんだろう。広い手のひらに顎を掬われる。頭の後ろでスモーカーさんが動き、柔らかな唇が耳たぶに触れた。

「ナマエ」
「、っ」

 鼓膜に直接流し込まれる、僅かに期待を滲ませた声。ざわざわとうなじが粟立つ。くすぐったさに声を上げそうになるのを、奥歯を噛んでなんとか凌いだ。

「他には何を?」
「じぶん、で、確かめてくださ」

 耐えきれず、逃げようとしたところで。

 言い終える前に、くる、と脚を持ち上げられた。

「わひゃ」

 視界が回る。上体が後ろに崩れ、そのまま、ぼふ、とクッションの上に押し倒された。

「……!」

 咄嗟に肘を突こうとするも、肩を掴まれて遮られる。片足を乗り上げたらしいスモーカーさんの重みで、ソファが大きく軋みを上げた。黒々とした影がふっと翳す。ぎくしゃく天井を仰げば、威圧的なシルエットの中に、こちらを見下ろす危うげな視線が見えた。濃い陰影にかたどられた、感情の読めない眼差しだ。それがなんだか、一瞬知らない人みたいに見えて、思わず生唾を飲む。

「も、もう、するんですか」
「そのつもりで誘ったんじゃねェのか?」
「さ、誘っ……たつもりは。それにこう、いざとなるとタイミングとかわかんなくて」

 怯えたように声が震えてしまう。こうやってスモーカーさんに組み敷かれることなんて滅多にないから、一気に現実味が出てきて動悸がしてくる。普段も意識してないなんてことはないんだけど、こうやってあからさまに上を取られてしまうと、体格とか、力の差を、改めて突きつけられてる気がして。
 スモーカーさんがわたしの手首を押さえつける。痛くはない、けど、びくともしない。顎に添わされたもう一方の手にくっと顔を持ち上げられて、強引に視線を合わせられた。彼は、まるで池に落とした一枚のコインを探すみたいに、しっかりとわたしの目を覗き込んだ。吸い取られるみたいに、頭から言葉が消える。ただ一つの事実だけ理解する。

 今から、スモーカーさんに、抱かれるのだ。

「――っ!」

 迫りくる影にぎゅっと目を塞いだ。刹那、引き結んだ唇に暖かいものがそっと触れる。わたしを味わうようにやわやわ動いて、軽いリップ音を立てて、離れ――……何も起こらない。わたしはぱちりと瞼を開けた。至近距離のスモーカーさんは目をすがめ、口の端に微笑を溜めている。

 キ、キスされた。だけ……。

「ふ、……緊張しすぎだ」
「し、しますよ、そりゃ」
「肩の力抜け。いきなりがっつきゃしねェよ」

 スモーカーさんは密やかに笑って、もう一度優しく、わたしの唇を食んだ。

「ぅ、ん、……」

 そっと目を閉じ、教えられた通りに受け入れる。スモーカーさんが寝る前とか、リビングでだらけてる時とかのわたしによくしてくる、じゃれるような口付けだ。なんだか拍子抜けしてしまう。もしかしてこういうときのために慣らされてたのかな。と胡乱に思いつつ、素直に体の強張りが解けてくあたり、この人の思う壺で情けなくもある。
 鼻筋を傾けながら、角度を変えて、繰り返し唇を合わせられる。やがて余裕が出てきたのを見透かされたのか――それともスモーカーさんが先に焦れたのか――いつまでも戯れを続ける気はないようで、彼はわたしのゆるく開いた隙間に生ぬるい温度を押し当ててきた。反射的にぴたりと閉じるも、すぐさま、上唇を付けたままの彼の口から強かな命令形が吐き出される。

「口、開けろ」
「う……わたしあれ、あんま好きじゃ……」
「早く」
「急かさ、っぁ」

 言葉を発した隙を突かれ、ぬる、と湿った塊を喉奥に差し込まれた。深すぎる異物感にえずくより早く、ずるりと上顎を舐められる。その瞬間、快楽ごとかき出されたみたいに、胎から湧き上がった熱がぞわぞわ首筋を駆け抜け、詰まったような声が鼻に抜けた。自分のものとは思えない、一丁前に甘ったるい声だ。な、なに、今の。
 動揺するわたしに構わず、貪るようにひたすら、余すことなく蹂躙される。苦しさに首を竦めても、顎を抑えられて逃げることを許してくれない。萎縮した舌を無理やり絡め取られると、舌先が痺れるような葉巻の苦みを感じるのに、与えられる唾液からはほんのり甘いスモーカーさんの味がした。柔らかくて暖かい生き物が、わたしの粘膜を味わうようになぞっていく。

「――っ、……ぅ、」

 くすぐったいのと、怖いのと、気持ちいいのと。

 これから、こういうことをするのだと知らしめられてるようなキスだった。厚い彼の舌が、くちゅくちゅと粘着質な水音を立てて絡みつくたび、腰に甘い痺れが走る。スモーカーさんの手に縋りつき、わたしは膝が震えそうになるのを必死になって堪えた。声が漏れてしまうのがいやで、なんとか押し殺そうとするのだが、そのせいで上手く酸素を取り込めず、だんだん、目の前が霞んでくる。それを見咎めたのだろう、スモーカーさんは舌を引き抜いて、たしなめるようにわたしの頬を親指で叩いた。

「こら、ちゃんと息吸え」
「はあっ、は……っ、む、ずかし、んですよ……」

 半泣きで言うと、軽く笑われた。

「は、っぁ」

 わたしの呼吸が落ち着くのを待たず、襟元に潜り込んだスモーカーさんが口付けを落としてくる。彼の短い髪が首すじに触れるのがくすぐったくて、わたしは思わず身を捩った。傷跡のあたりを舌先で舐められ、つつかれ、ときどき柔らかく歯を立てられると、本当に食べられてしまいそうでぞくぞくする。どうしよう、わたし、この人のせいでおかしくなる。

「あ、っす、もかさ」
「うん、……?」

 いつのまにか下半身へ降りていたスモーカーさんの手に、反応を伺うように内ももの付け根を撫でられた。彼がこれまで、徹底して触れてこなかったわたしのプライベート・ゾーン。その間際。いよいよなのを理解して、背中側の、クッションの端っこを握りしめる。服越しに浮いた下着の線をなぞるように鼠蹊部をさすられると、びくっと一人でに腰が跳ねた。反応してしまったのを指摘されたくなくて、誤魔化そうとお尻を引き――そこで気づく。

「っ……?」

 下着の内側にじんわり広がる違和感がある。ぬめった、生暖かい、何かが。はっとして膝を閉じ、そしてすぐさまそのわけに思い至る。さあっと血の気が引いていく。

 ――わたし、たぶん、濡れてる。


「ま、ってくださっ」
「!」

 咄嗟に声を上げて腕を突き出すと、わたしが押し返した胸板は存外あっさりと浮き上がった。スモーカーさんの体の隙間から転がり出て、即座に膝を折りたたみ、ソファの端っこでうずくまる。だらだら冷や汗が止まらない。

「どうした」
「わ、わたし、おかしい、かも」

 戸惑ったようなスモーカーさんの声に背を向けながら、お腹のところの服を両手で押さえ、なるだけ小さく丸くなった。き、消えたい。
 わたし、ど変態だ。まだほとんどキスしてただけで、触られてすらないのに、なんでこんな――どうしよう、スモーカーさんにばれて、それで、ふしだらな女だと思われたら。今までこんな風になったことなんかないのに。そのはずだ。それとも、わたしは元々こんなやつだったのだろうか。自分の体が自分のものじゃなくなってくみたいで、急に怖くなってくる。ただでさえ歪なこの体が、あの夜に犯されてないままなのか、ほんとは自分でだって分からないのに。


「――ナマエ」

 息を吐くように、スモーカーさんがわたしの名前を呼んだ。幼子へ言い聞かせるように柔らかい声だ。

「大丈夫だから、落ち着け」
「スモーカーさ」
「悪い、急ぎすぎたか」
「ち、違くて、ただ、その」

 こんな態度じゃ、誤解されてしまう。スモーカーさんが悪いんじゃないのに。縮こまるわたしを見つめる、視線の気配に焦りが募る。彼に負い目を感じさせたくなくて、言い訳しなくてはとぐるぐる言葉を探すものの、まさかキスだけで劣情を催しましただなんてばかげたこと言えっこない。
 どうしよう、どうしよう。混乱の最中に会話が途切れてしまう。身を切るような数秒の沈黙ののち、先に口火を切ったのはスモーカーさんの方だった。

「……なァナマエ。前もって言っておくが」

 壊れ物を扱うような手つきが触れ、慎重に、横顔にかかった髪をかき分けられる。空気に晒された耳に、静かな声が落ちてきた。

「初めから上手くやろうとしなくていい。別に、途中で止めたって構わねェんだ。無理だと、怖いと思ったらそう言え。お前がこういうことに恐怖心があるのは分かってる。それがただの苦手意識ってだけじゃなく、あの悪夢に……何らかの原因があるってことも」
「……」
「無理強いはしねェよ。ナマエ、お前の過去やこの先がどうあれ、おれは今、お前がおれを受け入れる覚悟をしてくれただけで充分だ」

 スモーカーさんの言葉が、渇いた土へ注いだ水みたいに、自然と胸に沁みていく。落ち着き払った語りかけを聞いているうちに、渦を巻いていた不安が少しだけ凪いできて、わたしはなんとか顔を上げた。まっすぐわたしを捉える彼と目が合う。もう、ほとんど泣きそうになりながら、わたしは恐る恐る口を開いた。

「スモーカー、さん」
「うん?」
「わ。わたしが、……すんごく、すけべな子だとしても、呆れたりしないですか?」


 沈黙。


「――……」

 スモーカーさんは何度か目をしばたたき。
 斜め上を見て、考え込むように口元に手をやり。
 ややあって、ぽつりと、独り言のように呟いた。

「……そういう方向性たァ思わなかったな」

 ――言うんじゃなかった。

 唖然とした彼の声に、途端に後悔と羞恥心と熱が込み上げてきて、もう一度ハリネズミみたいに丸くなる。頭が爆発しそうなくらい恥ずかしい。最悪だ、もう、さいあく。絶対引かれた。死にそう。もう二度とスモーカーさんの顔見れない。

「や、やっぱり聞かなかったことに」
「ああ、……もしかして」
「い、言わないでくだ」
「さっきのキスで感じたのか?」
「スモーカーさ……!」
「っふ、はは」

 突如、スモーカーさんの口からかつて聞いたことがないほどに屈託のない笑い声が出る。ぽかんとして見上げると、なんとも、実に嬉しそうな顔をした彼がこつんと額を合わせてきた。

「安心しろ、至って健康的だ」
「やっぱりばかにしてるじゃないですか」
「馬鹿にしたわけじゃねェよ。ハシャいでんだ」
「うう、もうやだ、やっぱやめます」
「そいつは困るな。せっかくの朗報なのに」

 泣き言をいうわたしににんまり目を細めるスモーカーさん。なんか、よく分かんないけどかなり喜ばせてしまったらしい。そんな彼の様子にほっとしたような、かえって不安なような。この人の態度を見るに、心配してたほどのことじゃなかったみたいだけど、こんなでも真剣に怖がってるのに。

「ほらおいで、お嬢さん」
「う」

 複雑な気分で唸っていると、腰に腕を回され、いきおい抱き起こされた。反動でむき出しの肩にしがみつく形になってしまい、焦ってぎくしゃく身を引き、そうしてようやく、彼と向き合う形で座ってることを意識する。
 見上げると、視線が合った。それが再開の合図であるかのように、スモーカーさんはごく自然に手を伸ばし、あっさりとわたしの体に触れた。胸の中心――硬く絞ったリボンの結び目へ。輪っかに指の先をくぐらせながら、彼は身を屈めてこちらを覗き込んだ。

「解いても?」

 振る舞いだけは紳士的に、しかしこれは多分質問じゃない。スモーカーさんはつまり、「解くぞ」という宣言をしたのであって、わたしの許可は求められていない。とはいえ、もはや断る理由は、なかった。

「……は、い」

 わたしが頷いたのを確認して、スモーカーさんは、ゆっくりと、焦らすようにリボンの端を引いた。

 しゅる、と音を立てて結び目が解ける。あっさりと。彼の器用な指先が、絡んだレースアップのリボンを下へ、下へと抜き取るにつれ、襟元の締め付けが緩んで、デコルテが大きく開いていく。スモーカーさんの体温が肌を掠めるたび、静電気のようにぱちぱちと小さな痺れが走る。

「……っ、ぁ」

 スモーカーさんの手が襟にかかった。彼の手の温度が鎖骨の上を滑って、まるで花びらが綻びるように、服の襟合わせがはだけて落ちる。背中を伝い落ちる布の感触、空気に触れる首からおへそにかけての上半身。まるで、羽化したばかりの蝉になったみたいだと思った。わたしの抜け殻はソファの座面に落ちて、生白く透けた体がスモーカーさんの目に晒されている。胸のふくらみを覆う白いレースの下着だけが、かろうじて、早鐘を打つわたしの心臓を守っていた。

 見られてる。焼けつくような視線を肌に感じる。スモーカーさんの眼差しが皮膚をなめると、火が灯ったように熱くて、じんわり、汗が滲んだ。

「あ、あんま、見ないでください」
「……なんで?」
「聞き返すのも、やめてください」
「あまり意地の悪いことを言うんじゃねェよ」
「それ、わたしの台詞……っわ」

 いきなり、強く抱き寄せられた。瞬間、脳を焦がすようなスモーカーさんの匂いに包まれる。突然のことに目を白黒させてるうちに、筋肉質な腕がわたしの腰にしっかりと回って、身じろぎ一つとれないくらい完全に閉じ込められてしまった。な、んだろう、いきなり。

「あ、あの」
「苦しくねェか」
「へいきです、けど」
「ならよかった」
「いい、とまでは、――」

 すり寄せられるスモーカーさんの素肌に息が上ずった。肌の出てるとこ全部が触れている。まるで熱の塊みたいな彼の、汗ばんだお腹がくっつくと、密着感が強くて、なんだかすごく、えっちなことをされてるような――や、正にそういうことをしてるんだけど――気分になってくる。吐息が彼の首すじに当たらないよう、呼吸を抑えようとするのだが、上下する胸をしっかりスモーカーさんの胸板に押し当ててることを意識してしまうともう、どうにもならなかった。

「お前は、柔らけェな」
「そ、そうでしょう、か……」

 う、こんなに小さいのに、伝わるものなんだろうか。それとももっと全体的な感触の話をしてるんだろうか。確かに、彼の身体はどこもかしこも引き締まっていて、骨組みが頑丈で、こうして触れ合っていると、自分なんかはふにゃふにゃの軟体動物なんじゃないかって気さえしてくる。
 いっそう強くわたしの体をかき抱く、スモーカーさんの吐息が、ほんの少し荒い。その熱と匂いに包まれたまま、わたしは彼の分厚い背中へ慎重に手を回した。筋肉にぴったりくっついたスモーカーさんの肌は、まるで完璧に張り上げたキャンパスみたいに一切の緩みがない。わたしの体とは大違いだ。それでも人肌のなめらかさとか、腕に浮き出す血管だとか、少し早い鼓動だとか……無機物に例えるにはあまりにも有機的で、ああ、おんなじ生き物なんだなって、当たり前のことを思う。

「スモーカーさん、あっつい、ですね」
「まァ……正直、かなり興奮してるからな」
「ふふ、ほんとに?」
「ほんとに」

 緊張を隠すように、小さく笑い合う。

 スモーカーさんがわたしの額にキスを落とす。瞼から頬、そして唇に。上向きに首を伸ばし、今度こそ、求められるままに明け渡した。性の喘ぎを混ぜ込んだような口付けが、何度も、繰り返し折り重なる。次第に、湿り気を帯びた体温が混ざり合って、境目が溶けて、ドクドク脈打つ拍動が、どちらのものなのかもわからなくなっていく。
 過ぎ去っていく嵐みたいに、ふっと唇を離される。完全に混ざり合ったわたしとスモーカーさんの成果が、つ、と糸を引いて垂れ落ちた。ずっと見上げていたせいか、逆流した液体のせいで溺れたみたいに鼻の奥が熱い。熱に浮かされたように見つめ合う。視線が強く絡んで解けそうになかった。

「ナマエ」

 白いまつ毛の奥に透ける、獣欲の滲んだ目。

 いつもよりほんの少し赤く染まった唇から、落ちる涎を拭うこともせず、スモーカーさんはけもののように低く唸った。口の隙間から覗く犬歯が、よく見ると鋭いことに今更気づいた気がする。

「……いいか?」

 なにが、とか、もう聞けなかった。警鐘を鳴らす理性と裏腹に、まるでお腹を空かせた仔犬みたいに、きゅうきゅう子宮が疼いていた。今まで知り得なかったその飢餓感に、わたしの肉体の内側に、男の人を受け入れるためだけの器があるのを知る。スモーカーさんに埋めて欲しい。泣きたいくらいに心細くてたまらない。その衝動に見合わない自分の体の未熟さが、今だけはひどく恨めしかった。

「スモーカー、さん」
「ん?」
「わたし、その。慣れて、なくて」
「……ああ」

 スモーカーさんが、この期に及んでなお素直になれない、わたしの言葉を読み解いてくれる。彼はよく知る仕草でわたしの髪を撫でた。わたしの複雑な感情を揃える正しい作法を、彼が一番よく知っていた。

「出来うる限り、優しくする」

 柔らかい囁きに、なんだか切なさが込み上げてしまって、わななく瞼を閉じる。相槌すら下手くそで、スモーカーさんの首におでこを埋めるのがやっとだった。

「――寝室、行くか」

 スモーカーさんの口から合図がかかる。頷くより早く、彼はわたしの体を抱え上げた。

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