No Smoking


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 幸福な夢を見た。

 内容はひとつも思い出せないけど、きっと、確かにいい夢だったとわかる。雲でできた毛布にくるまれるような、そんな感覚を抱きながら、わたしは満ち足りた気分で目を覚ました。

 ううん、眩しい。細めた視界に映る寝室はすっかり明るかった。スモーカーさんがカーテンを開けていったのだろう、窓からさす朝日がほんのりと手足を温めてきて心地よい。……彼はもう本部に着いた頃だろうか。
 わたしの頬は柔らかな枕に沈んでおり、薄目を開けるとまつ毛の先が清潔な布地を撫でた。寝ぼけ眼で見つめた先、ベッドの隣の空白にはうっすらとしたスモーカーさんの痕跡がある。ちょうどシーツのシワが――さながら点を結ぶ星座みたいに――彼の寝相を覚えてるのだ。凹みの深さからあの人の体重を感じられて、ちょっと面白い。

「んー、んん」

 ふわふわ漂う眠気を跳ね除け、大きく伸びをして身体を起こした。ボサボサの前髪を撫で付けつつ、昨晩、仕事の都合があるから早朝には家を出ねばならないと仰っていた渋面を思い出す。やーしかし、あんな大真面目にお勤め行きたくなさそうなスモーカーさんなんて初めて見たなあ。仕事人間の彼にしては珍しすぎる振る舞いである。まあ一番乗りにお祝いしたかったらしいあの人には悪いけど、わたしとしてはむしろ都合がよかったというか。なにしろ今晩のことを考えると気まずいし、どんな顔で話したらいいのか――

「ん?」

 なにかが転がった気がして振り向くと、わたしの枕元にはオーガンジーのリボンを結えたプレゼント・ボックスが置いてある。高級感のある包装紙に巻かれた、両手に持てるくらいの立方体だ。

 ……これは。

 おっかなびっくり手にとって――結構重みがある――箱をぐるぐる回してみる。記名はないが差出人は一人しかいない、間違いなくスモーカーさんからだ。まさかのサプライズである。あの人がそんな気を回すのも驚きだけど、そもそも欲しいものとか聞かれた覚えからしてない。まるでサンタさんだ。ていうかなんなんだろ、中身。
 箱を枕の上へ慎重に載せて、いそいそとリボンを解いていく。破れないように包装紙を剥がし、きっちり折りたたんで横に置き、開いた蓋の隙間からそうっと覗き込んでみれば、まん丸なレンズがつぶらな瞳でわたしを見上げてきた。

「あ!」

 フィルムカメラだ。しばらく前にわたしが欲しがってたの、覚えてくれてたらしい。慌てて取り出した本体を何度か裏返し、手の中に収め、ファインダーを覗いてみるなどして、ようやく実感が湧いてくる。うわ、うわ、どうしよう、すんごい嬉しい。色々調べて悩みすぎたせいですっかり買う機会見失ってたんだよなあ。上等そうな黒の革張りでちょっぴし無骨だけど、性能は確実に良さそうだ。これフィルムは装填されてるのかな、試しに一回――
 っと、そうそう、箱の奥の方にもうちょっと何か入ってたんだった。カメラを置いて再度確認してみると、箱の底にはフィルムのスペア数本と一枚の厚紙が敷いてある。はっとして取り出すと、シンプルなメッセージカードには黒いインクでわたしの名前が書かれていた。

 "親愛なるナマエ"

 流れるようなスモーカーさんの字だ。彼がひとりこの文字を綴るようすを想い、こそばゆい気持ちになりながら、続く文を指でなぞる。

 "20歳の誕生日おめでとう"

「んふふ」

 メッセージカードで口元を抑え、ごろんとベッドの上に転がった。うー、もう、スモーカーさん大好き。布団の上で足をパタパタ動かし、書かれた文字を何度も読み返して、空も飛べそうな浮かれ気分をなんとか発散する。惜しいなあ、今彼が目の前にいたらめいいっぱい抱きしめてるのに。

 そうだ、せっかくだから最初の被写体はスモーカーさんになっていただこう。あの人もご自分のプレゼントの性能がどんなもんか見ときたいだろうし。
 わたしはよいせと起き上がり、カメラを丁寧に箱の中に戻してリボンを結び直した。両手に抱えてベッドから降り、サイドテーブルに置こうと向き直ったところでちょうど壁掛けのカレンダーが目に入る。

 今日の日付に書き込まれた丸印。

 わたしの、誕生日だ。

 緊張と、 不安と、ほんの少しの期待を持って迎えたこの日に、わたしは小さく口角を上げた。




 お気に入りの服に着替えて、寝癖を頑張って整え、ちょっと豪華な朝ごはんを食べ、いつにも増して念入りに消臭し、洗濯を終え、靴をぴかぴかに磨いて家を出た。青空の下、鼻歌を歌いながら本部への道を歩いていると、いつも街路の掃除をしているおばさまが「ご機嫌だねえ」と微笑みかけてくれたので、わたしは特別な日なんです、と返して手を振った。
 どこか夢見心地な気分だ。本部へ続く長い階段を登る間も、靴裏は地面を離れて雲の上を歩いていた。ぼんやりしているとすぐ、脳裏にはこの先起こるであろうスモーカーさんとのあれやそれやが去来してしまう。うう、よくない昼間っから。なるべく健全なよそごとで思考を埋め尽くすのに努めなくては。このあとはクザンさんから仕事前にお昼のランチを一緒しないかと誘われている。あのだらけきったおっさんがわたしの誕生日をご存知かどうかは怪しいので、きっといつもの感じだろう。というわけで平常心平常心。

 クザンさんはご自身の執務室でわたしを待っていらっしゃるとのことなので、いつものように海軍本部の天守閣まで昇っていく。目的の階に辿り着き、クザンさんの部屋を目指すも、普段はひっきりなしに誰かしらが行き交っている廻縁の廊下はやけに人通りが少ない。訝しみながらぐるりと迂回して進んだのだが、結局一人の知り合いともすれ違わずに見慣れた襖の前にたどり着いてしまった。変だなあ、時間的にはお昼休みのはずなんだけど。

 うーん。頭上高くの欄間を仰ぎつつ首を傾げる。クザンさん、ほんとにここで待ってんのかな。あまりの静けさを訝しみつつ、わたしは引き手に指をかけて勢いよく戸を開いた。




「え」



 満員電車に乗り間違えたのかと思うほど、ずらりと向けられた無数の視線。

 ぱっと認識できたのは数人の見知った顔だ。立ち並ぶ白い制服、テーブルと料理、飾り付けられた部屋――目の前に広がった光景に意表を突かれた瞬間、ぱん、と破裂音が聞こえ、わたしの視界を遮るように紙吹雪が降り注いだ。


 ――え?


 耳と頭が痺れ、思考が完全に停止する。前髪に引っかかった銀の紙がはらりと鼻先を撫で、宙を泳ぎ、畳の床へ落ちていく。までの刹那の静寂。立ち惚けるわたしに、先頭の人影がわっと押し寄せてきた。

「ナマエさん、お誕生日おめでとうございます!」
『おめでとう。直接伝えられなくてヒナ残念』
「待ってたぜナマエちゃん、お前さんももう大人だな」

 満面の笑顔で駆けつけてくるたしぎ姉さん。その手に持たれた電伝虫から聞こえる声はヒナさん。横から出てきてわたしの背中に手を添えるクザンさん。

「おめでとうナマエ、本当に」
「ナマエが成人かあ、信じられんよ」
「まあ失礼ねえ。おめでと、ナマエ」

 控えめに拍手している裏切りのお兄さん。幾人ものスモーカーさんの隊の海兵さんと、おつるさんとこのお姉さんたち。医療棟の看護婦さんまでいる。

「おっ、聞いたぜナマエ。おめでとさん」
「サカズキからの祝いも預かってるよォ」
「ナマエ、おめでとう」
「おめでとうナマエ。君には感謝している」
「メエエ」

 奥の一角ですでに一杯やっている面々は戦桃丸の兄貴とボルサリーノさん。その手前で優雅に微笑んでいるおつるさん。改まって一礼するセンゴクさん。そしてお連れの白ヤギさん。
 いったい何がどうなっているのか。まだこの場にいる全員の顔を把握しきれないまま、クザンさんに促される形で部屋の中央に導かれる。脳が理解を拒んでいた。現実感がない。意識と足が切り離されてしまったようで、歩む景色だけがロト・スコープのような不自然さで鈍く流れていた。

「いやァ、びっくりしたろナマエちゃん。お前さんが今日誕生日って聞きつけて大勢集まってな……」

 頭上から、クザンさんの弾んだ声が聞こえる。

「普通ならここまで騒ぎにゃしねェんだが、なんつっても人生で一回の成人祝いでしょ。昼休憩の間くらいはいいだろうってセンゴクさんが許可してくれたのよ。ちと狭すぎたのは失敗だったがな……今いねェ連中も合間に顔見せに来るって話だもんで」
「わた、しの」
「ん?」

 わたしを、わたしなんかを祝うためだけに、こんなことを? この人たちにとっては本来、なんでもない日のはずだ。すれ違いざまに挨拶するようなのとは訳が違うだろう、どうしてここまで――
 唇を噛む。震える瞼で、ぎこちない首で、部屋全体を見回した。ようやく反応を見せたわたしの言葉を聞こうと、多分、この場の全員がじっと耳を傾けていた。そこにあるのはわたしの笑顔を望む、純粋な期待と好意だ。無駄にしてはいけない。今さら意味のない負い目を感じるくらいなら、せめて、笑わなくては。

「あり、が」

 何か言おうとして、舌がから回った。口角を上げようとしたけど、表情の作り方をすっかり忘れてしまって、やり方がわからない。服の裾を強く握りしめる。せり上がってきた熱に喉が詰まって、息苦しい。

「あらら……? 大丈夫かナマエちゃん」

 大丈夫、って、なにが。

 クザンさんが大げさに動揺してる気がして顔を上げ、そこでぽた、と顎からぬるい温度が落ちたのに気がついた。視線を落とすと、襟元には小さな染みがふたつできている。頬をまたひとつ何かが伝って落ちた。唇の端を掠めたそれは塩辛い味がした。

「あれ……おか、しいですね、こんな」

 なんの抵抗もなく、まるで他人事のように、瞳からぼろぼろ雫がこぼれていく。泣いてる。慌てて手の甲で拭っても止まらない。目頭を抑えようが、息を止めようが、そこから先は、降り出した夕立も同じだった。

「ごめん、なさい。なんか、」

 最悪だ、こんな、せっかく集まってくれたのに、湿っぽくするなんて。わたしらしくないと思うだろう。きっと白けさせてしまう。けれど、泣き止まないと、と思えば思うほど、戸惑い、焦ったようなみんなの表情は透明な膜の向こうに霞んでいく。

「ごめ、っ……さ……」

 どうしても声が出ない。涙の重さに耐えきれず、わたしは俯いて顔を覆った。

 誰も何も言わなかった。部屋にあるのは、ただわたしの涙が落ちる音だけ。お願いだから見ないで欲しい。わたしにここまでしてもらう価値なんてないのだ。わたしのことなんて気にしないで欲しい。この場で跡形もなく消えてしまえたらどんなにいいか。嬉しいのに、幸せなのに、どうしてこんな気分になるんだろう。素直に受け取れない自分がもっと嫌いだ。鼻がつうんとして痛かった。その痛みだけが優しかった。

「――ナマエ」

 不意に、力強い声が人波を割った。

 ごつごつした靴音がゆっくり近づいてきて、わたしの正面で立ち止まる。滲む視界の、指の隙間からは見慣れた革製のブーツが見えた。涙で溺れそうな手のひらから、酸素を求めて顔を上げると、どこか困ったような、宥めるような仕草で頬を拭われる。冷たい革手袋の感触と、葉巻の匂いだ。

 ああ、どうして、ここに。

 堪らず、わたしは声を絞り出した。

「スモーカー、さ」
「そのままで」

 ふり仰ごうとするわたしを遮り、彼はすとんと自然に跪いた。頭の高さが揃い、両手を優しく解かれて、こちらを覗き込む茶褐色の瞳と視線が合う。いやだ、きっとわたし今、ひどい顔をしてるのに。スモーカーさんは目を眇め、少しだけ笑うと、わたしの体を強く抱き寄せた。うなじを覆われ、煙臭い肩口に頬が埋まる。囁きが低く響いた。わたしの耳元で、わたしだけに聞こえるように。

「誕生日おめでとう。お前が、この世界に生まれてきてくれてよかった」


 ――とても、耐えられない。


 嗚咽が込み上げ、わななく喉笛では、上手く息ができなかった。わたしの涙は栓をなくしたように、胸を貸してくれるスモーカーさんの上着を濡らしていく。どうしよう。みんなの前でこんな、ことされたら、ばれてしまう。はやく離れなくちゃ、と思うのに、スモーカーさんの腕が、声が、匂いが、わたしの感情を乱すから、ちっとも泣き止めそうにない。

「悪ィが、一旦席を外す」

 震えるわたしの体を抱き上げ、彼は有無を言わせず歩き出した。心配げなどよめきが聞こえたが、わたしはもういっぱいいっぱいで、気の利いた一言も言えないまま、今はただスモーカーさんの肩に縋りついて涙の雨が止むのを待つしかなかった。





「――落ち着いたか?」
「う、……はい」

 クザンさんの執務室を曲がってすぐの、日当たりのいい開けた軒下。しばらく風に当たり、スモーカーさんにしゃくりあげる背中をさすってもらってるうちに、段々と涙は収まりつつあった。そして理性を取り戻せば取り戻すほど、あまりの後悔にこの場からいっそ身を投げたくなってくる。や、もちろんしないけど、あくまで気持ち的に。ああ、なんだってあのタイミングで決壊してしまったんだろう。わたし、人前で泣いたことなんか滅多にないのに。

 ずず、と鼻を啜り、手すりに片肘を掛けているスモーカーさんを振り仰ぐ。涼しげな横顔だ。何であの場にいたのか不思議だけど、この人だけはどこまでも平常運転なのがありがたいやら、恨めしいやら。

「ごめんなさい、なんか感極まっちゃって。ほんと、お恥ずかしいとこをお見せしまして……」
「大丈夫だ、分かってる」

 マリンフォードの街並みを見下ろす、スモーカーさんの白い髪が揺れている。彼は横目にわたしを見ると、ほんのわずかに瞼を細めた。

「いつか、お前が抱えてる……罪悪感が軽くなりゃいいと思う。今すぐに、たァいかねェだろうが」
「……なんか、お見通しですね。スモーカーさん」
「お前は分かりやすいからな」

 彼の大きな手のひらがゆっくりと腰へ下っていく。あったかい。今さら、スモーカーさんに触れられてることに意識が向いて、途端にお尻のあたりがそわそわしてきた。うう、情けない。それだけ気持ちに余裕が出てきたってことなんだろうけど。わたしは煩悩を振り払い、なるべく明るい声で話しかけた。

「あっ、あの、プレゼントありがとうございました。びっくりしましたよ、まさかわたしがカメラ欲しがってたの覚えてくれてたなんて」
「恋人宛てにしちゃ色気はねェがな。で、使ってみたか?」
「ふふ、まだです。せっかくならスモーカーさんと居る時にしようかなって。お嫌でなければ撮らせてくださいね」
「構わんが、お前の写真も寄越せよ。今のところ妙なコスプレ写真しか手持ちにねェんだ」
「はッ……はあ!? あれまだ残ってたんですか!? うそ、さ、最悪、捨ててくださいそんなの!」
「安心しろ、管轄の権限で出所アタッチに吐かせて出回った分は洗いざらい回収した。この世に残ってんのはおれが持ってるネガだけだ」
「えっ、すご……じゃなくて変なところで白猟っぷりを見せつけないでください。ていうかそれもちゃんと廃棄しといてくださいよ」
「代わりをくれりゃ考えてやるさ」

 スモーカーさんはいたずらっぽく口角を上げた。考えるだけじゃなくてちゃんと処分してくれなきゃ困るのだが……とりあえずはよしとしてあげよう。わたしはこの人の少年っぽい笑い方に弱いのだ。ていうかちょっと、さっきからスモーカーさんの機嫌がよすぎるのが気にかかる。いつもなら、わたしがほかの人に可愛がられてると大抵複雑そうな顔してるんだけど。

「それにしてもスモーカーさんがこういうお祝いに参加するの意外でした。別に家でもできるのに」
「ボディーガードだ。どうせ今日、お前の成人祝いに託けて酒を飲ませようとする輩が湧くだろ」
「あ、なるほど……」
「そら見ろ、早速お出ましだ」
「えっ」

 スモーカーさんが顎をしゃくった先を振り返ると、曲がり角から出てくる背の高い人影が見えた。
 終電で項垂れているサラリーマンのような、若干やつれ気味のクザンさんだ。彼はがしがし頭の後ろを掻きながら、憔悴したようすでわたしたちのほうまで歩み寄ってきた。仕草は何気ない感じだが、滲み出る疲労を隠しきれていない。

「よう、ナマエちゃん。声聞く限りじゃ調子戻ってきたみてェだな」
「あ、はい、おかげさまで」

 笑顔を見せると、クザンさんはホッとしたように胸を撫で下ろす。いつものらりくらりとしてる彼にしては珍しい姿だ。ほんと、悪いことをしてしまった。

「クザンさん、さっきはそのう」
「いや、いいのよ。こっちこそ驚かせちまってすまなかったな。せっかくの誕生日に……」
「だから言ったろ、泣くからやめとけって」
「あのなァスモーカー、お前冗談じゃねェならもっと本気で止めなさいよ。この子があんな尋常じゃない泣き方するなんて誰も思わねェだろ」

 ……わたしにはわかる、スモーカーさんは薄々こうなると察しててわざと止めなかったと。そしてわたしとの相思相愛っぷりを皆さんに見せつけられて大変美味しい思いをしておられるということを。ほんといい性格してるよ、まったく。
 とはいえぶつくさ言おうが既に後の祭り。結局はわたしの後ろ向きすぎる思考回路が原因なのだ。スモーカーさんを責めるのはお門違いというものだろう。

「あー、で、どうだナマエちゃん。あれならこのまま解散ってことにしても……」
「いえ、さすがにそういうわけには。戻りますよもちろん」

 クザンさんと顔を合わせた時点で心は決まっている。いい加減覚悟を決めて、きちんと祝われ直さなくてはならない。今あそこがどんな空気になってるのか想像するだけで気分は針の筵だけど。

「一からやり直させてください」


 ――と、引き返したはいいものの。

 部屋の前にたどり着いてしまうと、急激に勇気が萎んでいく。目の前に立ちはだかる引き戸の圧力ときたら、さながら『神曲』の地獄の門だ。わたしがきたとき以上に、あまりにも静かすぎる。まさしく「この門をくぐるものは一切の希望を捨てよ」だ。ああ恐ろしい。

「あの、クザンさん。皆さんどんな様子でしょう、その、わたしがいなくなったあと」
「あー……言いたくねェが、ありゃもうお通夜だな。たしぎちゃんはおろおろしてるし、おつるさんもしんみりしてるし、センゴクさんは役に立たねェし。せめてガープさんが居てくれりゃよかったんだが……おれ、我慢できなくて出てきちまったのよ」
「うううー、引き返したくなってきました」
「ホラ頑張れよ、いつもの能天気の出番だぜ」

 べし、と軽く背中をはたかれる。わたしはじとりと手のひらの主を睨みつけた。

「スモーカーさんは気楽そうでいいですね」
「てめェの尻拭いだろ、しっかりやれ。あの場から一回連れ出してやっただけ感謝して欲しいもんだ」
「釈然としません。言っときますけどわたしの涙腺にとどめ刺したのスモーカーさんなんですからね」
「そう愚図るな。横についててやるから」

 う、不本意だけど心強い。

 というわけで右側にクザンさん、左側にスモーカーさん。捕まった宇宙人さながらのポジション取りで、いよいよ取っ手に両手をかける。そして深々と深呼吸。すー、はー。よし、勢いでごまかそう。

「ただいま戻りました!」

 声を張り上げ、ぱしん、と勢いよく襖を叩き開ける。瞬間、矢のように集中する視線。視線。――視線。時間が止まる。用意していた言葉が緊張で飛びかけたところを、すぐそばにあったスモーカーさんの袖口を握って繋ぎ止め、わたしは誠心誠意ぺこりと頭を下げた。

「ええと、さっきはごめんなさい。今日は集まってくださって、その、ありが――どわあっ!?」
「ぶわーっはっはっは!!」

 突如、爆音と共に地面が消えた。

 ぐるん、と大きくぶれる視界。わたしは本能的にしがみつけるものにしがみつかねば死ぬと、手当たり次第に腕を伸ばす――間も無く尻餅をついた。そしてすぐ、スモーカーさんのぎょっとしたような顔が遥か下方に、クザンさんすら見下ろす高さになってることに気づく。わたし、肩の上に載せられてる。呆気に取られて腕の中を見ると、そこには目の横に半円の傷が入った老人の満面の笑顔があった。

「ガ、ガープさん」
「聞いたぞナマエ、おめでとう! で、宴の会場はここであっとるんじゃろうな。妙に静かなんで場所を間違えたかと思ったわい! ぶわっはっはっは!」

 建物を揺らさんばかりのどでかい笑い声がこだまする。わたしの体ごとゆっさゆっさと前後に揺れる。

 な、なんたる……なんたるムードメーカー。

 ずけずけ部屋の中央に歩んでいく、あまりにも乱暴なガープさんの登場に吹き飛ばされ、急に風通しがよくなっていくのがわかる。部屋中の海兵は困惑しながらも、わたしの様子を見て一安心と知ったように表情を綻ばせつつあった。ありがとうガープさん。この瞬間、間違いなくあなたはわたしの英雄です。

「あららら……」

 にわかに騒然としてきた部屋の中、あともうひと押し、というところで助け舟を出してくれたのは気の抜けたようなクザンさんの声。

「ガープさんが居ないせいで大変でしたよ。一体どこ行ってたんです?」
「知らんのか、主役は遅れて登場するもんじゃ」
「あんた主役じゃねェでしょ……」
「ええい喧しいぞクザン! ほれナマエ、酒じゃ! 乾杯の音頭を取らんか!」
「えっ、わわ」

 どこから取り出したのか、ぽいぽい放り投げられた徳利とお猪口を空中で掴む。ナイスキャッチ。ガープさんに急かされるままにとにかく注ごうと傾ければ、さっと下から伸びてきた手に持ってかれてお水の入ったグラスと入れ替えられた。はっ、スモーカーさん。

「昼間っから酒は駄目だ。それで我慢しろ」
「お固いのー、ナマエもうハタチなんじゃろ」
「おれにゃ保護対象の監督責任があるんでね」
「"野犬"がよく言うわい。よしナマエ、準備はいいな!」

 まだ全然準備できてないけどこうなりゃヤケだ。奥のベテランの面々を中心に、一同にはちらほらと笑顔が見えつつある。きっと、なんとかなったのだ。状況を理解した海兵の皆さまが大慌てで飲み物の用意を始めているのを目下に、わたしは手にしたグラスを頭上に掲げた。

 えーと、こういう時は何ていうんだろ、えーと……

「わ、わたしの生誕を祝して?」

 どっ、と大きめの笑い声と共に乾杯の合唱が上がる。間に合わなかった空の杯が振り上げられて、カチンと小気味良い音を鳴らした。

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