No Smoking


▼ 46-3/4

「――何がそんなに嫌なんだ?」

 コツ、とソーサーに置かれたカップが波打ち、濃厚なエスプレッソがほろ苦く香る。

 ここは商店街の片隅にある、隠れ家風のこぢんまりとしたカフェだ。生クリームをそのまま塗りたくったみたいな漆喰の壁には、海やヨットが描かれたターコイズ・ブルーのキャンバスがいくつも飾られており、猫の額ほどしかない店内にもささやかな開放感を与えている。注文のドリンクが運ばれてきて一息ついたころ――不意に投げかけられた問いは柔らかなBGMにすっかり馴染んで、危うく聞き流してしまうところだ。角砂糖を溶かしていたコーヒースプーンをそのままに、わたしはテーブルを挟んで向かいのスモーカーさんへ視線を投げかけた。

「何の話ですか?」
「おれとの関係を伏せたがる理由が分からん」

 臆面もなく口にして、スモーカーさんはテーブルに頬杖をつく。カップからこぼれる湯気越し、捲り上げた袖口から伸びる腕のすじに自然と目を引かれた。

「青キジなんかが面倒臭ェのは分かるが、さっきの連中はつる中将の部下だろう。バレたところで実害はねェし、お前に隠し事は向いてねェよ」
「それは……そうかもですけど」
「で、お前の意向を汲んで上手くやり込めてやったってのにまだ浮かねェ顔だ。前々からあの女どもに苛立ってただろ……胸がすくところじゃねェのか」
「そこまで性格悪くないですよ。大体隠す隠さない以前に、さっきの流れで出てけるわけないでしょう。それだけのことで――」
「それだけって割にゃ引きずってるみてェだが。連絡入れたときは普通にしてたろ、口数が減った原因は明らかじゃねェか」

 ……ううん、参ったなあ。

 視線を手元に戻し、熱気が伝導したスプーンで深い黒に円を描いた。カップの底に沈んだ砂糖の、じゃりじゃりした感触が伝わってくる。くるくる、中央にちっちゃな渦が巻いている。
 そんなあからさまに、不機嫌な態度を取ったりはしてないはずなんだけどな。現に店員さんへ注文を伝えるときの、フルーツタルトかショートケーキか悩むわたしを見かねたスモーカーさんが半分こを提案してくださったくだりで、「えーいいんですか」などとはしゃいだのなんか、かなり自然だった――と思うし。なのに、彼の追及はあまりにもわたしを見透かしすぎていて心配になる。どことなく据わりが悪くて、わたしはテーブルの下で足首を組み替えた。

「お構いなく、誰のせいとかではないので。ていうかスモーカーさんこそ、わざわざお姉さんたちのお喋りに付き合うことなかったのに」
「……うん?」
「いつもだったらさっさと追い返してるとこだったでしょう。だから隠れて待ってたのに、なんか、わたしがいないからってずいぶん楽しそうにしてたじゃないですか」
「ああ、いい機会だから『あまりうちのナマエを虐めてくれるな』とでも言っておこうかと。……」

 含みを持たせたまま途切れた言葉に顔を上げれば、こちらをじっと観察してくるスモーカーさん。指先でとんとんテーブルを叩いて、彼は底意地悪く目を眇めた。

「お前、まさか妬いてんのか?」
「は?」
「当てつけてくるたァ珍しいじゃねェか。んな風に勘繰らなくても、お前を放ったらかしてあいつらの誘いに乗ったりはしねェよ」
「んな、ち、違います! そういうんじゃなくて、わたしはわたしに関するデマを聞いて面白がってたスモーカーさんに対して文句を言ってるんであって」
「そうか。そりゃ残念だ」

 ぬぁにが残念だ。お姉さま方の噂話では飽き足らず、まだわたしをからかうネタが欲しいのかこの人は。いくらこういう間柄だからって、わたしは分不相応な独占欲を出すほど自惚れちゃいないぞ。じとりと睨みつけるも、頬杖を解体した彼は素知らぬ顔でコーヒーを口に運んでいる。ほんとに分かってんのかなあ。何事もなかったかのようにカップを置き、スモーカーさんはやおら神妙な顔をした。

「とはいえ、釘を刺そうなんざ余計な世話だったみてェだな。よりによってお前が一方的に、あいつらに苦手意識を持ってるたァ思わなかった」
「そりゃあ……わたしだって、やりにくい相手ぐらいいますよ」
「にしたってらしくねェだろ。ナマエ、結局気落ちしてる理由は何なんだ?」

 む、軌道修正されてしまった。こういうときのこの人はなんというか、なあなあで済ませてくれないので厄介である。しかし落ち込んでる理由と言われましても、彼からしたらめちゃくちゃしょうもないうえ、お互い相入れない悩みなので話したところでなあ。うんうん首を傾げながら、砂糖がほとんど溶け切ってるのにスプーンをかき回し続け、ややあって、わたしは不承不承言葉を絞り出した。

「――わたしがスモーカーさんに不釣り合いなことなんて、はじめからわかってたじゃないですか」

 スモーカーさんは釈然としない様子で薄く口を開いたが、とりあえずは遮らないでくださるらしい。眉間に皺を刻んだまま、わたしの話に耳を傾けている。

「それはいいんです。子供っぽいのも、背が低いのも、可愛くない性格なのも知ってるし、とっくに諦めてますから。けど、お姉さんたちってこう、ちょっと下世話なところがありまして。自分のことなら受け入れられても、スモーカーさんが不名誉な評価を受けるのは耐え難いと言いますか」
「不名誉な評価だと?」
「ですから、その……あんま言いたくないですけど。つまり、スモーカーさんが変態とか、ロリコンだとか、あることないこと思われるのが、いやで……」
「お前時々、本当に仕様もねェことで悩むよな」

 鮮やかに一蹴された。想定内の反応だが、つい口をへの字に曲げてしまう。

「だから言いたくなかったんです。一応、わたしにとっては深刻な悩みなんですよ。ヒナさんは心配しすぎって言ってくれましたけど、皆さんが以前、わたしを子供だと勘違いしてたのは事実でしょう」
「ったく、何を今更……いつものことだから驚きゃしねェが、そんなに他人の目が気になるもんかね」
「気になりますよ。わたしのせいで謂れのない風評被害を受けさせてしまってるわけですもん。なのに、当のスモーカーさんは堂々と人前でいちゃついてきますし」
「……そこまで嫌だってんなら控えるが」
「いやなわけじゃ」

 咄嗟に否定すると、スモーカーさんは意外そうにぱちりと目を瞬いた。考えなしの即答だったのだが、時間差で羞恥心が迫り上がってきて、じわじわ熱くなる頬に耐えきれず俯いてしまう。喉の奥が塞がるような照れ臭さを誤魔化そうと、コーヒーの香りを胸に深く吸い込んだ。

「スモーカーさんがわたしを……きちんと恋人として扱ってくれるのは、気恥ずかしいですけど、その、嬉しいんです。だからこそ申し訳ないというか。わたしはただ、わたしと付き合うことがスモーカーさんの足を引っ張ってる現状に、勝手に情けなくなってるだけなんです」
「……」
「あ、でも心配しないでください。聞かれたから答えただけのことで、そこまで深刻に悩んでるわけじゃないので。というか対処法も分かってますしね。今日はちょっと油断しましたけど、これでもスモーカーさんといるときはなるべく大人っぽくするように努力してるんです。今後の成長に期待してください」
「なあ、ナマエ――」

 わたしを呼び止めたところで、スモーカーさんが不意に目を逸らす。つられて振り返ると、カウンターから出た人影がこちらに向かって廊下を曲がってくるのが見えた。ネイビーブルーのエプロンを身につけた姿勢のいい女性で、片手に乗せたトレーにはきらきらしたケーキがふたつ乗っかっている。先ほど注文を取ってくれた店員さんだ。わたしたちの視線に気がつくと、にこりと愛想よく笑いかけてくれた。

「お待たせしました。こちら、ご注文の苺のショートケーキとフルーツタルトになります」

 テーブルの脇で足を止め、彼女は慇懃にそう告げる。コーヒーの苦味で満ちていた空間にケーキの甘い香りが混じって、先程までの微妙な空気が中和されていくようだ。わたしはひっそりと息を吐いた。

「ショートケーキのお客さまは?」
「あ、わたしです」
「タルトのほうは……」

 すかさずスモーカーさんが揃えた指をこちらに向けたので、わたしの目前にトントンとふたつケーキ皿が並べられる。……あれ、半分こって話だったのに、ナチュラルに欲張りさんの絵面にされて納得できないのだが。スモーカーさんに目線で訴えるも無視。今回に限っては子供っぽく見られてたとしたらこの人のせいである。とはいえ店員さんの前でつっかかるわけにもいかず、わたしは伝票を置いて立ち去る店員さんをそのまま見送るしかなかった。

「……ちょっと、スモーカーさん」
「おれァいいから先に好きなだけ食え。余ったら貰う」
「でもふた皿あるのに」
「見栄張るんじゃねェよ食いしん坊め。なるべく多く食いてェって顔に書いてあるぜ。どうせ二言目にゃ取り分について交渉する気だったろ」
「ぐぬぬ」

 それは仕方ないだろう。このぴかぴか光輝く魅惑のケーキたちをご覧いただきたい。生クリームがふんだんに塗り重ねられた背徳的な三角形、断面にはきめ細やかなスポンジケーキ、そして鮮やかな赤を湛える大粒の苺たち。シンプルかつ王道のショートケーキは、口に入れた瞬間、柔らかなクリームと果実の酸味が舌の上で完璧なハーモニーを奏でるに違いない。一方、アーモンドが芳ばしいサクサクのタルト生地、フルーツの隙間から覗く卵色のカスタード、その上を彩るオレンジ、キウイにマスカットに木苺……と、あれもこれもとワガママに贅沢なフルーツタルトは、一口食べ進めるたび新鮮に舌を驚かせること請け合いだ。うーん、抗えない。わたしがこの究極の二択を決めきれなかったこともきっとご理解いただけるだろう。

 もういいや、細かいことは。フォークを手に取り、わたしはこれ見よがしに肩をすくめた。

「……仕方ないのでお言葉に甘えます」
「素直だな。もう少し粘るかと」
「どうせ食い意地張ってますから。この際、今日の文句はケーキに免じてちゃらってことにしときます」

 今さらどう取り繕っても意味ないし、ていうか早く食べたいし。すでにわたしはどっちからいくかどうかで頭がいっぱいなのだ。スモーカーさんに譲るぶんはあとで考えることとして、耳にかけた髪が視界を遮るのにも構わず手元の皿と睨めっこする。うーん、やっぱ一口めはショートケーキからかなあ。それともはじめはボリューミーなタルトの、が――。

「!」

 視界の隅でスモーカーさんが動いた、刹那。

 ふっ、と迫った暖かい陰が、わたしの目元を撫でた。

「髪が」

 びく、と背中を引きかけた。のを、彼の意図を理解してなんとか堪える。コーヒーの香りが強くなる。毛先を掬い上げ、耳に運ぶ指の先。その感触を鋭敏に感じすぎて、頭の中を直に撫でられたように錯覚しそうだった。

「どうも、です」

 目を伏せながらお礼を言う。びっ……くりした。別になんてことない仕草だけど、伸ばされたスモーカーさんの腕が、当然のようにわたしまで届くのが予想外だったのだ。だって、こちらからは椅子に乗り上げでもしないと届かない距離なのに。
 彼の手が離れるのを見計らい、平常心のふりをして、急ぎ切り分けたショートケーキを食べた。甘い。期待に違わぬ味わいを舌は伝えてきているのだが、糖が脳まで回ってこない。ばかみたいだ。こんなの、今更動揺するようなことじゃないのに。

 頬が熱くて、それすら気取られてる気がして、わたしはスモーカーさんを覗き見た。瞬間、目が合った。スモーカーさんは柔らかく目を細めて、多分ずっとそうやってわたしを見ていたのだろう。彼の眼差しは、いつも耐えがたいほどに雄弁だ。飲みこみきれずに息が詰まる。ほんの少し手が震える。あの視線に愛しさを注がれるたび、わたしはどうしたらいいか分からなくなる。

「――今のお前はまだ、おれを受け入れるだけで精一杯なんだろうな」

 釘で打たれたようなわたしの緊張を受け止めたまま、どことなく嬉しそうにスモーカーさんは言う。先ほどの話の続きだろうか。てっきり――主にわたしの低すぎる自己評価について――反論されるものかと思ってたけど。

「戸惑うのは分からんでもねェよ。長らく片想いしてたおれと違って、お前にとっちゃ急な話だっただろ。不満はねェんだ。……ただ少し気掛かりでな」
「気がかり?」
「お前は結局おれを優先しようとするから、調子に乗っちまうのさ。どこまで許されるのか試してるうちに歯止めが効かなくなる。ナマエ、お前はなにもおれに求めねェのに」
「……それは」
「安心しろ、お前がそういう性分なのは分かってる。出会ったばっかの頃から人に頼るのが下手だったろ……それをどうこうしろたァもう言わねェよ」

 困ったように笑い、スモーカーさんは意味ありげにこちらを見据えた。わたしの隠したいことも全部、無遠慮に見透かそうとするあの眼差しだ。まるで深い洞穴の奥を覗き込むときのように、彼は注意深くわたしを正視した。

「だからこそ……見落とさねェようにしておきてェんだ。これでも一応、お前よりは大人なんでね」

 真っ直ぐに向けられた思わぬ言葉に理解が遅れ、ぱちぱちと瞬きを返す。スモーカーさんは「まあ、保護者はとっくに失格だろうが」と自嘲気味に付け加えて、わたしを解放するみたいに軽く瞼を伏せた。

「……」

 会話が途切れる。

 ケーキをもう一口咀嚼する猶予に、わたしはゆっくりと考えを巡らせた。スモーカーさんが言わんとしていることは、なんとなく分かる。彼は元々わたしに対して心配性で、いつも目にかけてくれてたけど、今のはけしてそれだけの意味じゃなかった。この人は多分、バランスの話をしているのだ。スモーカーさんを絶対視しすぎるわたしの態度を彼がよしとしていないのは確かで、だけどその悪癖が治らないうちは、彼が何を告げてもわたしにとっての強制になってしまう。だから何も言わずに、スモーカーさんが折れてくれると。そういう割り切り方ができるから、"大人"ってことなんだろう。……なんとも、我慢強い人だ。

「あの。ほんとのとこ、スモーカーさんは」
「?」
「わたしに、頼ってほしいんですか?」

 無粋なことを聞いてみる。スモーカーさんは渋い顔でコーヒーカップを傾けた。

「そりゃあな。何度もそう言ってきたつもりだが」
「確かにそんな気もします」
「しかし無理に頼れ、ってのもな。おれの押し付けがましい言い分じゃねェか」

 スモーカーさんの発言とは思えない健気さに思わず相好を崩してしまう。別に構わないのに、と思うのはお門違いだろうけど。彼が相変わらず、びっくりするくらいわたしを気遣ってるのがなんだか可笑しかった。

「じゃあ、もっとわがまま言っていいですか?」
「……いくらでも」
「ふふ」

 スモーカーさんはわたしに甘すぎる。とはいえ、泳がせてくれてる彼に助けられてるのも事実だ。未だに色んなことをセーブしてるこの人に、箍を外せる日はくるのだろうか。正直、惚気のひとつ聞き入れられない今のわたしに受け止めきれる気はしない。

「じゃあ、早速なんですけど」

 言いつつ、わたしは目の前の皿をスモーカーさんのほうへスライドさせた。きれいに半分、てっぺんの苺は乗ったまま。背の高い四角になったショートケーキは、テーブルの真ん中で立ち往生した。

「やっぱりこれ、スモーカーさんも半分食べてください。そしてできれば感想を」

 にこりと笑いかける。きっと、いまいちケーキに身が入らないのは、まだスモーカーさんの「美味い」が聞けてないからだ。いや、別に甘すぎるとか、好みじゃないとかの文句だって構わないのだが、とにかく、傲慢なわたしには彼との些細な共有がなくては物足りない。我ながら身勝手な言い分だ。

 釈然としない様子で、スモーカーさんが眉を上げる。

「そいつがお前のわがままなのか?」
「もちろん、特大の贅沢のつもりです」
「……やっぱり下手クソだな」

 呆れ顔で笑って、彼はわたしの差し出した皿を手繰り寄せた。

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