No Smoking


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「――じゃ、午後にはもう本部を立たれるんですね」
「ええ」

 海兵たちがまばらに走る第三訓練場、その外れ。

 青空目掛けて梢を伸ばす常緑樹が、足元へ涼しげな木陰を作っている。さざめく葉擦れの中、わたしは乱れた前髪をかき分けて視線を下ろした。目の前には走り込みを終えたばかりのヒナさん。備え付けのベンチへ腰を下ろし、荒い息を整えながら、タオルで首すじの汗を拭っている。
 今日も今日とて麗しの彼女は、一つに束ねたポニーテールにスポーティなタンクトップという、いつもに比べて飾り気のない出で立ちである。それでいてなお洗練されて見えるのがさすがだ。筋肉質な両腕は野山を駆る鹿のようにしなやかで、つい不躾に見入ってしまう。ああ、遺伝子の残酷さをまざまざと感じる。

「……どうかした? ナマエ」
「あっ、いえ。それよりごめんなさい、忙しいときにお邪魔しちゃって」
「いいのよ、少し体を動かしたかっただけだから。むしろ休みなのに気を使わせて悪かったわね」
「そんな。わたしが押しかけた側ですし」

 なにしろあまりに何気なく放たれた「今日ヒナが本部を出航するらしいな」との情報を耳にしたのがつい十数分前。思いがけぬ話に面くらったわたしは、急遽スモーカーさんに途中だった洗濯物を放り投げ――差し入れの禁煙・消臭グッズを引っ提げて――アポも取らずに駆けつけたばかりである。ひとまず目的を忘れないうちにと、わたしは抱えていた紙袋をヒナさんに手渡した。

「当社の新商品が出たのでお渡ししときたかったんです。船便だと時間かかりますんで」
「嬉しいわ、ありがとう。あなたの出してる商品、他に似たのもないし手放せないのよね。売れ行きはどうなの?」
「ふっふ、上々ですよ。評判もいいらしくって、近々"東の海"にも店舗進出するとか」
「やるわね」
「わたし、ほぼなんもしてないんですけどね」

 と頬をかく。近頃は消臭グッズ開発の代表者としての仕事も落ち着いてきて、次作の方向性が決まるまでは使う当てのない報酬を溜め込むだけの日々だ。わたしが欲しいがための消臭剤なのにいいのかなあ。と気が引けつつ、海軍艦での衛生環境が改善されたとの話を聞くと多少恩は返せたのかなと喜ばしくもあり。わたしの前で喫煙しない、という言いつけを守ってくれてるスモーカーさんのためにも、よりよい禁煙グッズの開発に勤しみたいものだ。

「確か今日、スモーカー君も非番なんでしょ?」

 と、示し合わせたようなタイミングでスモーカーさんの話題が出る。わたしは軽く相槌を打った。

「はい、このあと二人でお買い物してきます。ずっと付き合ってもらいたかった場所があって……頃合い見て迎えにきてくださるそうです」
「あらそうなの。今度こそ本当にデートね」
「まあ、そう……なりますかね?」

 水筒を口に運ぶヒナさんを尻目に、なんとはなしに前髪をいじる。授与式のあとは結局、わたしの靴があれだったので夕飯だけ買ってすぐ帰ったし、あんま落ち着ける感じじゃなかったもんなあ。首の怪我もあって暫く気が抜けなかったから、言われてみるとこれがお付き合いしてから初めてのデートになるのかもしれない。

 ――って待てよ。

 はたと自分の格好を見下ろしてみる。風を受けてはためくのはレース襟のトップスと動きやすさ重視のショートパンツ、履き潰れてきたスニーカー、おまけに例の如く勝手気ままな鳥の巣頭……。

「う、意識すると落ち着かなくなってきました。服、もっとしっかり選んできたらよかったです」
「そう? いつも通り可愛いわよ。ヒナ絶賛」
「あはは、ありがとうございます。けどちょっと幼すぎたと言いますか……もっと大人っぽいのがよかったかなって。だって、この格好で普段着のあの人と手、とか繋ぐとなると」
「なにか問題?」
「スモーカーさん、誘拐犯みたいじゃないですか」
「ゆ……」

 意表を突かれたのか、水を含もうとしてたヒナさんが慌てたように口元を抑える。安心していただきたい。かつての年齢騒動以来、きちんと身の丈は知ってるつもりなのだ。比喩的にも物理的にも。
 客観的に考えて、スモーカーさんに引きずられて歩くわたし――さぞや犯罪じみた絵面だろう。そもそも日頃一緒にいて見咎められないのは、あの人が歴とした海軍将校だからである。そういった社会的信用が得られない私服となると……結果は推して知るべしだ。いっそ全部の服の背に正義って書いといてもらったほうがいいかもしれない。

「いえ……あのね、ナマエ」

 悩ましげに眉間を抑えたヒナさんが、待った、って感じに腕を突き出してくる。

「いくらなんでもそれはないわよ。あなたの年齢をかなり下に見積もってたわたくしが言っても説得力がないけれど、誘拐犯は言い過ぎだわ」
「返事に詰まってたように見えましたけど」
「客観的に考えるのが難しいの、もうあなたたちが並んでるの見慣れちゃったから。でもやっぱり誰が見てもそうはならないはずよ」
「うーん。だといいんですが」
「……信じてないわね。正直いうと、以前までなら勘違いされてもおかしくないと思ったわ。けれどねナマエ、自分では分からないでしょうけど、あなた最近ぐっと可愛らしくなったから」
「えっ?」

 思わぬお言葉に間抜けな疑問符が出る。咄嗟に頭とか顔とか胴回りをぱたぱた撫でさすってみるが、べつに全然いつも通りの感じだ。普通のわたしだ。

「な、なにも特別なことはしてないはずですが」
「身だしなみの話ではなくて。あまり上手く言えないけど……表情とか、仕草とか、雰囲気みたいなものかしら。ずいぶん色っぽくなったわ。スモーカー君に腹立ってくるくらいにね」

 い、色……って。

 え、そんな傍目にわかるくらいあからさまなのか、わたし? スモーカーさんのこと、変に意識してるつもりはないはず、なんだけど。そんなに……ううわどうしよう、めちゃくちゃ恥ずい。

「お、お見苦しい限りです、ほんと……」
「フフ、あなたって相変わらずピュアなのね」

 揶揄うような微笑に居た堪れなくなる。よりによってミス・クールビューティーことヒナさんに色気づいただなんて言われてしまうとは。そういやクザンさんやおつるさんも似たような見解だった気がするし、だだ漏れでやんなるなあ、もう。

「でもとっくにやることはやってるんでしょう?」

 ぎくりと反射的に身を強張らせる。

 うう、やっぱり。聞かれると予想はしてたものの、こうも疑いなく尋ねてこられると……なんとなく後ろめたい気持ちになって、わたしは背中に回した手先を擦り合わせた。

「いえそれが、まだ……」
「嘘よね? ヒナ驚愕」

 ご尤もである。同棲歴もそこそこの、初々しい学生カップルってわけでもないわたしたちが、一つ屋根の下いまだ何もないという現状のがおかしいのだ。普通に考えて。

「付き合ってからしばらく経つじゃない。あり得ないわ。あのスモーカー君がよく我慢してるわね」
「……わたしの心の準備ができるのを待ってくれてるんだと思います。けじめって言ってました。成人するまで、っていう期限付きですけど」
「ああ、そう……なのね。毎度ながら信じられないわ。過去のこともあるし、相当大事にしたいんでしょうね、ナマエのこと」
「ん……そうですね。大切にしてもらってます」

 認めると、ヒナさんは呆れ交じりに笑った。

「――そんなわけなので、わたしも覚悟を決めて、色々事前準備とか、下調べとかをですね。えー、コホン、してこうとはしてるんですが」

 照れ隠しの咳払いをしながら、流れに乗じて話を切り出した。実のところ、慌ててここへ駆けつけたのは彼女になら悩みを打ち明けられるという打算もある。面白くなりそうな気配を察してか、きらりと目を光らせたヒナさんが「座って」と腰をずらしてくれたので、お言葉に甘えてお隣へ失礼した。

「で、どうしたの?」
「ええと、その、ですね。すすんで人様に聞かせるような話じゃないんですけども……考えてたら、日に日に不安になってきまして。だってスモーカーさんってこう、なんというか……」
「何、引かないからきちんと仰いな」
「あんまり大声で言えないんですけど、やったらキスが長いんですよ」
「フ……っ、げほッ、……、コホン! 失礼、続けてちょうだい」
「大丈夫ですか、声がさがさでしたけど」

 問題ない、のジェスチャーをしつつ喉を潤す彼女を待って、ぎりぎり届くつま先で地面の小石をいじいじと転がす。とにかく、スキンシップになるとスモーカーさんという人はしつこめなのだ。言い換えればそう、わたしの小さな器に収まりきらない、色んなものを持て余してる感じ。

「別に、嫌というわけじゃないんですけどね。ただ、キスだけでこれなら、ちょっと先行きが不安というか……わたし本番、大丈夫なのかな、とか……」
「まあ、最近のスモーカー君の様子からすると、あなたが無理だって押し通せば聞きそうだけれど」
「でもわたし、最近ほんとだめなんです」
「なにが?」
「この頃もう、スモーカーさんにとことん弱くなってきてて。ヒナさんが聞いたら笑うかもしれないんですけど、お付き合いを始めてからこっち、この人がわたしを好きなんだって思うと、どんどん流されるようになってきちゃって」
「あらあら……」
「スモーカーさんに頼まれごとされたら、大丈夫じゃなくても断り切れない気がします」

 ふう、とため息を吐いて小石を蹴飛ばした。さっきから口を開くたび惚気みたいになってしまうのは不可抗力だと思いたい。

「それで、ヒナさんに折り入って相談がありまして」
「あら、いいわよ。なに?」
「笑わずに聞いてくださいね。その、こんなの話せる相手がヒナさんくらいしかいらっしゃらなくて」

 唇を舐めて深呼吸。きちんと前振りはした。同意も得た。まだ日は高いとはいえせっかくの機会を逃すわけにはいけない。よし、言うぞ。

「つまり、ええと、お、男のひとって、どういう下着選んだら喜んでくれるんでしょうか……」

 覚悟を決めたわりに視線は明後日を彷徨ったし見るからに挙動不審だし尻すぼみな声になってしまった。唖然とするヒナさん。背中に滲む冷や汗。訓練場の向こうでおうい、と叫ぶ海兵の声。

 やおら、ヒナさんは目元を覆って項垂れた。

「うー……こんな悩みばかみたいですよね」
「いえ、ごめんなさい。ちょっと目が眩んで」

 き、消えたい。時すでに遅しとはいえ取り下げたくなってきた。ちくしょう、この世にインターネットさえあればこんな恥晒さなくても「勝負下着」とかで検索かけるのに!

「ち、違うんです。いやちがくないですけど、下手に準備期間をいただいてしまったせいで、なんかもう、何をどうしたらいいのか分かんなくて。匂いとかも気にした方がいいんでしょうか。処理とか、避妊とかも、なんかもう、ほんと困ってます。そもそもわたしの体格でできるのかどうか――」

 弁明しようと早口に捲し立てるものの現在進行形で墓穴を掘り進めてる気がする。今までこういうことに縁がなさすぎたせいで、知識の足りなさが露呈して情けない限りだ。大体ここでのわたしの情報源なんてせいぜいおつるさん隊のお姉さまがたが話してる噂話くらいのものある(それも参考にしていいのやら)。というか冷静に鑑みれば、いくら気の置けない仲とはいえ、彼女もスモーカーさんの好みなんか想像したくもないんでは? こ、後悔先に立たず。やっぱりこんなしょうもない疑問は心の内に秘めておくべきだったのだ。

「……あなたが真面目すぎて安心するわ」

 ややあって、苦笑いを浮かべつつおもてを上げるヒナさん。変に間はあったものの、一応気を悪くされてはない……らしい。

「ご、ごめんなさい。変なこと聞いて」
「いえ、むしろ肩透かしだったわ。大人って下世話で嫌ね。ヒナ反省」
「えっ?」
「気にしないでちょうだい。そうね、スモーカー君ならあなたが何したって喜ぶでしょうけど」

 いまいちついていけないわたしをよそに、彼女は顔に添えた人差し指でとんとんと顎を叩く。

「参考までに言っておくと、がっついてる男に下着見てる余裕なんてないから好きにしたらいいわ。引き千切られたとしても悲しまずに済む値段にしなさい、勿体無いから」
「な、なるほど」

 思ってたアドバイスとはちょっと違うけどその発想はなかった。熱心な新聞記者のようにこくこくと頷きながら、脳内で取り出したメモ帳にヒナさんの助言を書きつけていく。

「なににせよ過激なのは控えた方が無難だと思うわ。気負わないのが一番じゃない?」
「大丈夫でしょうか。わたしってただでさえお堅い感じなのに、守りに入っちゃって……」
「うーん、そうね……。あなたって相当純粋だし、確かに冒険するくらいでもちょうどいいのかしら。けど、くれぐれもやりすぎには気をつけなさい。見られるとしたら朝よ。下手に煽るようなことになって朝っぱらから盛り上がられたら敵わないでしょう」
「あお……って、そんなことなります?」
「なるわね。ナマエ、散々自分で生殺しにしてきたんだから舐めてかからない方がいいわよ。ヒナ忠告」
「なんか生々しくて怖くなってきました」

『ぷるるる……ぷるるる……』

 不意に電伝虫の呼び出し音が鳴り響いた。音のした方を見ると、わたしの肩掛け鞄からだ。

「あ、ごめんなさい。出ていいですか?」
「きっとスモーカー君よね。どうぞ」
「失礼します。もしもし?」

『――ナマエ』

 予想通りの低い声。ぱちっと瞼を開いたナマエツムリが、次の瞬間じとりと目つきを悪くする。通話の機会が多いからか、この子はスモーカーさんの顔真似がなかなかに上手だ。単に無愛想な性格が一致してるだけかもしんないけど。

『確認してェんだが、今大丈夫か?』
「平気ですよ。ヒナさんも構わないそうなので」

 とは言いつつ、さっきまでの話題が話題だったので若干そわそわして落ち着かない。通話越しだからか、スモーカーさんは別段気がついた様子もなく言葉を続けた。

『これから家を出る。お前慌てて出て行ったろ、必要なもんがあるなら持って行くが』
「あっ、お願いしたいです。キッチンのあたりにあるお買い物用のお財布分かります? ほら、いつもの」
『ああ……あれか。分かった、あとは?』
「うーんと。あ、お迎えなんですけど、商店街で待ち合わせするのでもいいですか? ここちょっと遠いから、来た道戻るのも手間かけるでしょうし」
『おれにとっちゃ手間でもねェが』
「時短ですよ時短。ほらあの、前行った本屋さんらへんで待っててください。わたしもすぐ向かうので」
『……分かった。迷うなよ』
「余計なお世話です」
『で、ヒナ』

 なにやらヒナさんにお話があるらしい。小電伝虫の顔を向けると、面倒ごとの気配を察してか彼女は鬱陶しげに眉を寄せた。

「なによ」
『聞いての通りだ、ナマエの見送りを任せる。訓練場の外までで構わねェ』
「わたくしを顎で使うつもり?」
『同期のよしみだ、そう言うな』
「はいはい、またそれね。言われなくてもそのつもりよ。これでもあの日のことは反省しているの。誰かさんにすごい剣幕で責められたし」
『責めちゃいねェだろ。ありゃ……』
「? それってなんの」
「ああ、気にしないでナマエ。それじゃスモーカー君、ご機嫌よう」
「あ」

 ぶつっ、と問答無用に通話を切るヒナさん。なんだろう、無理やり話を逸らされた気がするけど。首を傾げつつ、ナマエツムリを鞄へしまい込んでいるうちに、ヒナさんはタオルと水筒を置いたままするりとベンチから立ち上がった。日向に躍り出た白い脚が眩ゆい。

「さ、行きましょうか」
「あのう、わたし一人で大丈夫ですよ。あの人、まだ昼間だってのに過保護すぎなんです」
「気にしないで、見送るつもりだったのは本当だから。それにほら――」

 ヒナさんがくいと指差した先、日差しを遮る巨大な鉄球が弧を描き、明らかに的を外れた位置にどかんと落下する。地面を揺らす振動。舞い上がる砂埃。心なしか着地の瞬間に野太い悲鳴が聞こえた気がする。

「ああいう事故もあることだし」

 ……素直にお言葉に甘えることにした。


 その後の、ヒナさんにあれやこれやと相談しながら歩く道中。別れの挨拶にさっきのぶつ切りじゃ味気なかろうと思い、「スモーカーさんに顔合わせときます?」と尋ねたところ、

「やめておくわ。のぼせ上がったカップルに関わると碌なことないのよ、馬に蹴られる前に退散するわ」

 と断られてしまった。お忙しいのは重々承知しているのだが、またしばらく会えないと思うと名残惜しい。そんな態度を察してか、訓練場を出てからも少し長めに見送りをしてくださった彼女は、結局商店街の手前までわたしに連れ添ってくれた。お別れの寸前、「がんばってね」という応援の言葉と共にハグを頂戴してしまったのはスモーカーさんには秘密にしておこう。ほんのり汗の匂いがしてくらくらしてしまった。危なかった、危うく悩殺されるとこだった。

 ――ヒナさんの背が角に消えるのを見届けて、大きく振っていた腕を下ろす。

 さてと、この後の予定もあることだしまだしんみりともしていられない。スモーカーさんが痺れを切らす前にと、わたしは早足で待ち合わせ場所を目指した。

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