No Smoking


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 扉を開くと、乾いた木材の匂いがした。

 ひしめき合う木箱の隙間を縫い、スモーカーさんの靴底がカツカツと板目の床を叩く。素朴なパイン材の香りで満ちた密室――人々の賑わいが遠のいて、まるで世界から切り離されたみたいな空間だった。こんな日には不釣り合いの侘しさだが、隠れたがりのわたしには相応の日陰だろう。それにしても物置き部屋っぽいこの感じ、なんだか今朝の我が家に戻ってきたみたいだ。

 スモーカーさんはわたしを三段積みの木箱のてっぺんにぽんと乗せ、くしゃったドレスの裾をお人形さんにするように整えてくれる。普段身なりにはあまり頓着しないこの人も、可愛く着飾った恋人を前にしては丁重に扱いたくなるらしい。くすぐったい気分で靴先を揃えながら、わたしは仄暗い一室を見回した。

 部屋の奥、小さな出窓から溢れる薄絹のような日差し。おぼろげに照らし出された内装や調度品は手が行き届いていて小綺麗だが、ささくれた床には木箱やら樽やらリンゴ入りの麻袋やらが慌ただしく並べられていて雑多だ。ランダムに積み上がった四角い箱たちのシルエットは、わたしに寂れたコンクリート・ジャングルを思い起こさせた。
 しかしどこなんだろ、ここ。道中ちゃんと見てなかったので正確な位置は分かんないけど、裏口みたいな扉から室内に入って徐々に人気のない方へ向かってきた覚えはある。見たところ、中央会館の一室をパーティ用の食糧庫として間借りしてるんだろうか。

「ここ、勝手に入っていいんですか?」
「さてな。今まで見つかったこたァねェが」

 悪びれもせずそう言って、スモーカーさんはそのへんの木箱を開けて中からワインボトルを引っ張り出している。手慣れたものだ。

「常習犯ですね」
「まァな」

 やんちゃ坊主のような顔で笑うスモーカーさん、妙に楽しそうだ。この人のことだからかつて祝賀会へ参加せざるを得なかったときなんかには、この穴場に引きこもって悠々と時間を潰してたに違いない。木箱の中身を物色する横顔を眺めながら、彼がこの隠れ家へ連れ込んだ相手はわたしが初めてだったらいいな、などと贅沢なことを考える。恥ずいので真相は聞けないけど。

「酒ばっかだな」
「皆さん船乗りですからねえ。わたしが飲めそうなのないんですか、水とかお茶とかジュースとか」
「レモネードならある」
「壊血病対策?」
「多分な」
「じゃ、それいただきます」
「了解」

 言うなり、スモーカーさんはガラス瓶の栓をガツッと歯で抜いて、王冠キャップを咥えたままわたしの目の前に差し出してくる。うわ、ふっつうにやったけど痛くないんだろうか。ああいや、能力者には要らぬ心配だろうけどさ……。
 とおっかなびっくりレモネードを受け取って、ラベルのない小瓶をくるりと一周観察しておく。光量が足りないので不明瞭だけど、薄水色に透き通ったガラス瓶は小さな口からしゅわしゅわ音を立てていてラムネっぽい雰囲気だ。ていうかラムネってもともとレモネードなんだっけ。昔聞き齧った知識を掘り起こしつつ、ちびちび口をつけてみる。くう、美味しい。鼻に抜けるような刺激を残して舌を潤していく生ぬるい炭酸……思ってたより喉渇いてたみたいだ。

「――それで?」

 いつの間に開けたのかご自分のワインボトルをぐいっとあおって、スモーカーさんがわたしを座らせた木箱に肘を引っ掛ける。暗がりで見え辛いからか、肩先が触れ合うのも構わずこちらを覗き込んで、彼は意地悪く目を眇めた。

「ずいぶん人気者だったそうじゃねェか、お姫様」
「嫌な言い方しないでくださいよ。……ていうか噂になってるの知ってたんなら、もっと早く見つけてくれてもよかったのに」
「聞きつけたところで青キジに足止めを食らったんだ。お前を連れ帰らせねェようにって腹だろう、ここも今に探しにくるぜ」
「あー、クザンさんが……」

 ん? ということはあのおっさん、タイミング的に私と別れたあとすぐスモーカーさんを捕まえてたってことだよな。その上足止めとは……クザンさんめ、協力するとか言ってたの完璧に詐欺だったんじゃないか。あのサボり魔の大嘘つきめ。スモーカーさんの苦労をお察しする。

「なんというか、色々とお疲れ様でした」
「ああ、全く。どれだけ探し回ったと思ってんだ」
「かなり探したんですか?」
「どこぞの大参謀に嵌められたおかげでな」

 掴んだボトルをくるりと巡らせながらの恨み言はいまひとつピンとこない。はてなを浮かべるわたしを見て、スモーカーさんは皮肉げに片眉を上げた。

「言ったろ。やっぱり裏があったじゃねェか」
「そんなんじゃないと思いますけど。ここに来るのを決めたのはわたしですし、スモーカーさんに会いに行けなかったのはそのー……断りきれなかったわたしが悪いだけで、別におつるさんから無理強いされたわけじゃないですし」
「狙いはお前じゃねェよ。ありゃおれへの嫌がらせだ、間違いねェ。あのふざけた伝令といい……」
「あれ? わたしが祝賀会に向かったことはきちんと連絡していただいてたはずでは」
「いや、んな連絡は来なかった。『ナマエを返して欲しけりゃ迎えに来い』、内容はこれだけだ」

 えっ。変だな、聞いてた話と違う。

「……手違いがあったんですかね?」
「はァ……なわけあるか」

 スモーカーさんはうんざりした様子でため息を吐く。言われてみると彼にしては迎えが遅かったし、わたしの居所を突き止めるとこからとなると想定以上にあちこちしたのかもしれない。苦労をかけたのは大変申し訳なく思うのだが、とはいえ……うーん。

「まあ、たまたま噛み合わないこともありますよ。おつるさん、身支度して下さったときも楽しそうで、騙してるとかそんな感じじゃなかったですもん」
「……何でお前はあの食えねェ婆さんをそこまで信用してるかね」
「だって、仮に裏で糸を引いていたとして、おつるさんがそんなことする理由はなんなんです」
「そりゃ、一つしかねェだろ」
「わかるんですか?」

 目を瞬いて見上げれば、スモーカーさんはこちらを見つめ返し――正確にはわたしの頭だとか衣装だとかをじろじろと観察して――なにやら苦い顔をした。

「……まァ確かに、こんだけ可愛がられてるお前にゃ関係ねェ話だな」
「?」

 何を一人で納得しておられるのやら。釈然とせずに眉を寄せるも、彼にこの話題を続ける気は既にないらしく、会話を打ち切るように酒瓶を傾けている。うーん、しかしほんとに予想がつかない。実情はともかく、せめて推測しておられるらしいおつるさんの動機くらいは教えていただきたかったのだが。……まあいいか、今度直接尋ねてみれば。

 諦めもついたところで、不意に聞こえたのはとん、とワインボトルが木箱に置かれる音。と思うと、不意にわたしの正面へ黒い影が歩み出た。

「ナマエ」
「!」

 そっと触れてきた人差し指に、く、と顎先を掬われる。い、いよいよ来た。こんなとこに連れてこられた時点でいちゃいちゃの気配は察してたが、分かってたところで別に心構えはできてない。
 身を引きそうになるのをなんとか堪え、まつ毛越しにそっとスモーカーさんを透かし見た。暗がりに目が慣れてきたのだろう――濃い影のかかった眼窩のなかでも、わたしを見下ろす茶褐色の瞳はやけに鮮明だ。彼の視線を受け止めたまま、口に運びかけていたレモネードを慎重に膝へ下ろす。なんとなく唇を結び、解いて、そのまま大人しく待ってみるも、言葉の続きはまだ来ない。

 ……ああ、もう。気まずさに耐え切れず、先んじて口火を切った。

「あの、なんでしょうか」
「よく似合ってる」

 焦らした挙句にしては端的すぎるお言葉だ。そのくせ、真に迫って聞こえるというか、からかいの色が見えないので逃げ場がない。じわじわ頬に上る熱を自覚しつつ目を逸らせば、頭上でふっとスモーカーさんが笑った気配がした。

「耳にタコかもしれねェが」
「そ、んなことは、ないですよ」

 ほんとに、そんなことはない。スモーカーさんからの褒め言葉はこう、好きな相手ということを差し引いても、他のとはちょっと特別感が違うのだ。

「で、お前を口説いた不届き者は何人いた?」
「くど、……ってわけじゃないですけど」
「いたんだろ」
「まあ、少しは。声を掛けられたのは、ええと……知り合いを除くと5、6回ですかね」
「かなり出遅れたな」

 即座に顔を顰めるスモーカーさん。不愉快そうだ。晴れ姿のわたしを真っ先に見られなかったのがそんなに悔しいのだろうか。

「大半が社交辞令ですよ。というかスモーカーさん、そういうの意外と気にするんですね」
「なにも、意外ってこたァねェだろ」
「ふうん。もしかして独占欲ってやつですか」
「……さてな」

 目を眇めたスモーカーさんがわたしの顎をなぞり、耳の後ろへ指先をくぐらせる。柔らかな仕草が通り過ぎたあと、かさ、と花飾りが擦れる音がした。

「お前を、自分だけのもんにしようとは思わんが。こんな風に着飾ってんのが誰のためかも知らねェで、物欲しげに眺め回した身の程知らずが居ると思うと気に食わねェ」
「はい?」
「ナマエ。今すぐお前を担ぎ上げて、あの場でおれの女だと宣言してきていいか?」
「――……は?! ぜ、絶対やめてください」
「だろうな。残念だ」

 こともなげに言って、彼はわたしの後れ毛をさらさらと梳いている。な、なにいってんだろ、もしかしてからかわれてんのかな。冗談か本気か、微妙に分かりにくい態度を取るのはやめて欲しい。大体とびきりいい女が恋人ならともかく、わたしみたいなののために周りを牽制する必要なんかないと思うんだけど。

「あのですね、スモーカーさん。愛しのナマエちゃんが魅力的に見えるのは分かりますが、わたしって背も低いし、色気もないし、垢抜けないし、見ず知らずの方からすればさほどのものじゃないと思うんです」
「口説かれたのは事実だろ。さほどのもんじゃねェってのは直接聞いたわけか?」
「そんなの聞くわけないじゃないですか」
「だったらこの話は平行線だな。お前は一生無自覚に愛嬌を振り撒いて、おれの頭を悩ませる訳だ」
「詭弁って言うんですよ、そういうの」

 茶化すような調子のスモーカーさんを睨みつつも、しかし、なんだかなあ。何気ない風を装っているものの、先ほどから彼の言葉の奥にはじりじりとした……やりきれなさ、みたいなものを感じる。それを無視するのも忍びなくて、わたしは小さく息をついた。

「スモーカーさんはずっと焦ってますね」
「……誰のせいだと」

 どうやら的を射たらしい。うなじの後ろでぴたと手を止め、スモーカーさんは憮然とした表情を作る。

「わ、わかってますよ。公言したくないっていうわたしのわがままに付き合わせてることは」
「別にそれは構わねェ。周知させるとリスクがあんのも事実だしな。だがもっと単純な……おれを宥める方法を、お前はとっくに知ってるだろうに」
「? 方法って……」
「確実な証明が欲しい。何度も言ってんだろ」

 つ、とくだってきた彼の五指に下腹を抑えられた。薄いドレスの生地越しに、真ん中を探るようなスモーカーさんの手の温度が染み込んでくる。……。

 ……はっ。

 へ、あ……そ、そういう。

「ええと、それはその。わたしだって、なるべくお待たせしないように、とは、思っておりますけども」
「へェ。早めてくれる分にゃ構わねェぜ」
「うぐ……」

 ぐいぐいくるなあ、スモーカーさん。期限付きとはいえ決定権をくれてるだけ、ありがたくはあるのだが。しかしここでわたしが一言どうぞと許せば、彼は少しも迷わないだろうな、と思うとなんだか危なっかしい気分になる。何せこの人、わたしの首を縦に振らせようと誘導してる節があるし。あとくすぐったいのでお腹をさするの早いとこやめて欲しい。

「一応、これでもわたしなりに譲歩してるんですよ。なにしろ婚前交渉をしてはならぬという親の教えがあるというのにですね」
「お前はおれと結婚してェのか」
「っえ!?」

 な、な、なんでいきなりそんな話に。スモーカーさんの口から飛び出すとは予想だにしなかったワードに仰天してしまったが、考えてみればわたしの前言が原因である。動揺のあまり彼を跳ね除ける形で手にしてた瓶を眼前にかざすも、ま、まずい、変な汗が。

「あ、いや、今のは言葉の綾で」
「どうなんだ」
「え……ええと、あっ」

 レモネードの瓶を奪い取り、真顔で食い下がってくるスモーカーさんにしどろもどろになる。ち、違うのに。さっきは本当にそういう意図があったわけでは、いやわたしに「結婚を前提にお付き合い」の願望があるのは事実だけど、この人にそういう枷みたいなのを求める気はないのだ。家庭に縛られるの、あんまり好きじゃなさそうだし。そもそもわたしなんかがスモーカーさんとそんな、おこがましいだろう。

「現実的に、その、難しいんじゃないでしょうか。いくらなんでも、続くかもわかんないのに気が早すぎですし、スモーカーさんは海兵ですし、下手に弱みになるのも怖いですし。そもそもクザンさんやセンゴクさんが許してくれるかどうか――」
「で、結局お前はどうしたいんだ?」
「わ、わたしはそりゃ……憧れはありますが。けど別に、誰が相手とかそこまで考えたことは」
「おれしか相手いねェじゃねェか」
「それはそうですけど」
「つまり、してェんだろ?」
「う、……」

 居た堪れずに顔を背ける。は、恥ずかしすぎる。わたしの、こんな子供じみた、幼稚な理想を追求してこないで欲しい。



「ナマエ」
「――わ、っ」

 突然に脇を抱え上げられ、すとんと一つ下の木箱の上へ立たせられた。

 ヒールが板を踏んだ瞬間、水平に視線が交わる。窓を背に、わたしに向き合う広い肩と、埃っぽい逆光に透ける真っ白の髪。冷や汗の滲んだ頬を葉巻の残り香が冷ましていく。あつらえたようにぴたりと、いつも見上げてばかりのスモーカーさんの顔が目の前にあった。

「誓ってくれるわけか?」

 わたしの腰を抱き寄せた彼の、眩しい光を覗き込むような眼差しに息を飲む。

 な、なんか、存外乗り気……みたいだ。スモーカーさんのことだからどうでもいいって一蹴するとか、嫌がるとか、呆れるかとかしそうなもんだと思ったのに。奥歯を噛み、唇を湿らせて、わたしはご機嫌なスモーカーさんにじろと照れ隠しの視線を向けた。

「スモーカーさんって、意外とロマンチストですよね。全然似合わないですよ」
「この時代、ロマンのねェ男が海なんざ出るかよ」
「……そこは人によるのでは」
「お前もおれのこたァ言えねェだろ。憧れがあるだのと抜かしておいて」
「そうですけど、スモーカーさんがするとなんか、むず痒いんですよ」

 小っ恥ずかしくて可愛げのないことばかり言ってしまってる気がするが、しかしスモーカーさんは堂々としたもので、気取った振る舞いに一つの躊躇も見せたりはしない。それも衣装のせいか、やたら様になっちゃってるから、ずるいよなあ。一体どこまで本気なんだか、と思いつつ、わたしはスモーカーさんの胸元へ慎重に手を添えた。

「それで、何を……誓って欲しいんですか?」

 どぎまぎしつつ、小さな好奇心が手伝って尋ねてみれば、間髪入れずスモーカーさん。

「怪我をしない、無茶をしない、背負い込まない、隠し事をしない、死のうとしない、やたらに他人を懐柔しない。この辺りだな」
「全部突っ込みどころしかないんですが」
「自覚を持て。あまりおれを不安にさせるな」
「ううん……?」

 なんか思ってたのと違う。もっとこう、病めるときも健やかなるときも……みたいなのを想像してたのだが、「病むな健やかであれ」ってそんな無茶な。最後の懐柔云々はともかく。

「じゃあとりあえず、スモーカーさんを不安にさせない努力をすることを誓います」
「はァ……こんなに信用ならねェ誓いは初めてだ」
「誓わせたいんじゃなかったんですか、言わせといてなんなんですか。スモーカーさんにも無理難題を押し付けますよ」
「ほォ、おれにできねェことがあるなら言ってみろ」

 臆する風もなく口角を上げるスモーカーさん。何を偉そうに。この人だってなんでもかんでもできるわけじゃあるまいし、欠点などいくらでも湧いて出るぞ。

「えーと」

 例えば、デリカシーのないとことか……いや、それは同居してて気を遣ってくれてるのが分かるから指摘するほどでもないか。露骨すぎる時はあるけど、彼の遠慮のない性格はどちらかというと好きだ。となるとやっぱり横暴なとこだろうか。とはいっても、わたしの言葉にはちゃんと耳を傾けてくれるしなあ。なんだかんだ優しくなかったこと、一回もないし。

「まだか?」
「ええと……ま、待ってくださいね」

 まずい、なにかあるはずだ。そう、わたしのことからかってばっかくるとことか。と思ったけど、最近やり返してこないどころか受け流してきて逆に困るって悩んだばっかだ。下手するとここぞとばかりに惚気てくるのでタチが悪い。するとあとは、意地の悪いとこ、は似たような意味だし、わたしを好きすぎるとこ、てバカップルじゃあるまいし、挨拶、もしてくれるようになったし、しんどいときは家事も手伝ってくれるし、甘やかしてくれるし、……はっ!

「わたしの前では葉巻を吸わないこと!」

 閃いた勢いでびしりと人差し指を立てる。うわ自分が信じられん、わたしはぼけてるのか。なんでこれが真っ先に出てこなかったんだろ。地味にショックだ……。スモーカーさんはといえばとっくに予想済みだったのか、意外でもなさそうに肩を竦めた。

「割と努力してるだろ」
「改めて誓って頂くのが重要なので」
「それだけでいいのか?」
「腹立たしいことに他に思いつきませんでした」

 口を曲げつつ、不服ながら白状する。今朝からもしやと思ってたが、わたしも初めての交際相手を前に相当お熱なのかもしれない。大変情けない。

「分かった」

 スモーカーさんは口の端に小さなからかいの色を乗せて、ぐっと距離を詰めてくる。こつん、と額がぶつかって、摺り寄せられた彼の鼻先が頬に触れた。緊張して息が上ずるわたしに対し、案の定スモーカーさんは何食わぬ風だ。ああ、翻弄されてばかりで悔しいのでとっとと慣れてしまいたい。

「覚えてるか?」
「……? なにを、ですか」
「前に、おれが禁煙するなら何でも協力するっつってたろ。欲しいもんがありゃ言えって」
「い……言いましたっけ、そんなこと」
「煙の代わりに飴をくれ」
「え?」

 返事を待たず、スモーカーさんは首を傾けてわたしの唇を軽く啄んでくる。

「……誓いのキスは大事なとこなのに」

 子供じみた文句を言うと、鼻で笑われた。

 促されるままに、瞼を閉じて受け入れる。この人からの口付けはいつも酒精を纏っている気がした。背伸びしないと届かない、わたしを酔わせようとする大人の味だ。葉巻の残り香と、整髪剤と、ほんの少し汗ばんだ頭皮の匂いが鼻先をくすぐる。身体の奥の方を疼かせる、男の人の気配だった。

「段々上手になってきたな」
「……スモーカーさんがしつこいせいですよ」
「おかげと言え」
「偉そうに……ん、」

 紡ぐ言葉まで食い尽くさんとしてるのだろうか。再び押し付けられたスモーカーさんの唇は変わらずに熱い。その温度が重なり合うたび、わたしの腰を抱く腕が徐々に力を増していく。ああこれは、しばらく離してくれないかも、とぼんやり認識した、そのとき。

 カラァン、と、軽やかな鐘の音が響き渡った。

「あ……」

 唇が離れた刹那、続けざまに一回、二回。カラン、カランと高らかに鳴り響いて、七度目に音が止む。澄み切った残響が、わたしたちのあわいを涼風のように吹き抜けていった。

 ――静寂が満ちる。

 やがて、スモーカーさんの肩越し、静まり返っていた屋外から人々のざわめきが帰ってくる。自然と窓に向いていた視線を戻せば、面食らったような表情がわたしを見つめ返した。

「……オックス・ベルか。浮かれてんな」
「今のスモーカーさんにだけは、言われたくないと思いますけど」
「くく」

 わたしの減らず口を聞いて、彼は可笑しそうに喉を鳴らす。昂っていた熱が急速に鎮まって、緩んだ空気がそうさせたのだろうか。不思議でたまらない。どうしてこの人は、わたしの言葉ひとつでこれほど穏やかに笑うんだろう。
 何だか現実感がなくて、手を伸ばしてスモーカーさんの頬に触れていた。淡い光に縁取られた輪郭が、溶け出してしまいそうで不安に駆られたのかもしれない。彼は凪いだ目でわたしを見据えた。宥めるようなその眼差しに、何故だか泣きそうになった。

「なんか、ありきたりなコメントなんですけど」
「ん?」
「最近、幸せすぎて怖くなります」

 どうしたんだろう、わたし。感情の制御が上手くいかなくて、声が僅かに震えてしまう。ああ、スモーカーさんに気づかれる前に、話し終えないと。

「もしかしたら、これ以上いい日なんて二度とないかもしれないって思うんです。いいんでしょうか。だってわたしが、わたしみたいなのが、本当にこんな――」



「――い……ナマエちゃーん?」

 びく、と大袈裟に肩が跳ねる。と同時に、スモーカーさんが素早く視線を走らせた。

 かなり近くからだ。壁越しに呼ばれた名前はわたしのもので、その声には勿論馴染みがある。いきなり現実に引き戻されたみたいだ。わたしがまごついている間にスモーカーさんはさっと腕の拘束を解き――片手はわたしの後ろ腰へ残したまま――ドアの方へつま先を向けた。いやもっと離れた方が、そもそも二人きりのとこ見られて誤魔化せんのかな、などと混乱した頭を回すものの時すでに遅し。

 間も無く、ぎしと軋みをあげてドアが開いた。

 ごくりと固唾を飲む。細い隙間、枠から首から上がはみ出した背の高すぎる礼服姿の男――がひょいと身を屈め、左右に泳がせた視線を部屋の奥のわたしたちに定めた。

「あらら……お前さん方、やっぱここに居たか」
「……青キジ」
「今の聞いた? 七点鐘、まだ3時過ぎだってのに……酔った海兵の仕業かしら」

 気の抜けたことを言いながらドアをくぐりぬけ、天井ぎりぎりに頭を擦らせつつ歩み寄ってくるクザンさん。スモーカーさんの予見通りわたしたちを探してたらしいが、それはともかく、怪しまれると思いきや当たり前のように受け入れられたのだが。普通、男女二人きりこんな距離感で立ってたらおかしいと思うもんじゃないのか。常識がわかんなくなってきた。

「しかしスモーカーお前、見つけたのがおれだからいいけどな……女連れでこんなとこ篭ってりゃ……あー、そういう想像されても仕方ねェぞ。ナマエちゃんを独り占めしてェっつうお前の気持ちは分からんでもねェがな。目撃者もかなり多かったし、その子の名誉のためにももっと気を使ってやんなさい……」
「ナマエ。探し人には無事会えたようだね」
「え、あっ、おつるさん」

 クザンさんに続いて思わぬ人物が顔を出す。はっ。しばらく留守にしてたから、もしかしておつるさんにも探させてしまってたのだろうか。
 急いで木箱から下りようとした矢先、存在を忘れていたヒールの踵をガツンと隙間に引っ掛ける。あっ、と思う間もなく、ぐらりとよろめいた体をスモーカーさんに抱き止められた。い、いかん。不可抗力とはいえおつるさんとクザンさんの目の前でこの人といちゃつくのは恥ずかしすぎる。彼の腕にしがみつき、大慌てで地面に足を下ろせば、目前に広い手のひらが差し出された。

「お手をどうぞ?」

 恭しく腰を折り、わたしの顔を覗き込んでくるスモーカーさん。

 な、なんのマネだ。いちゃつきたくないと心に決めて早々、……っていや、この場合過剰反応する方が怪しいのだろうか。躊躇っていると否応なしに手を取られた。振り払う余裕はなく、そのままカツカツと歩みを進めるスモーカーさんにふらつきながらついていくのがやっとだ。うう、お二人の視線がぐさぐさくる。

「道を開けろ青キジ。お嬢さんもお疲れのことだ、そろそろお暇する」
「おい待てスモーカー、お前なにカッコつけてやが……」
「まあまあいいじゃないか、行かせておやりよ。今日は強引にナマエを連れ去っちまったからね」

 クザンさんを宥めるわが師に、スモーカーさんはじろりと厳しい視線を送る。相変わらず"大参謀"相手とは思えない不躾な振る舞いだ。

「つる中将。この借りは必ず」
「おや、犬っころが噛みついてくるじゃないか。甘い汁は吸わせてやっただろ?」
「……お膳立ては不要なんで」
「フ、フ、その様子じゃナマエも苦労するね」

 腕を組んだまま、余裕の表情で肩を揺らすおつるさん。いまいち話についていけてないわたしとクザンさんが顔を見合わせていると、しばらく間をおいて、探るようなスモーカーさんの声が続いた。

「……気はお済みで?」
「確かめたかったことは知れた。成果は十分さ」
「おれの首輪に当てがっといて今更、こいつが惜しくなったのかと思いましたよ」
「今のその子を見てなけりゃそう思ってたかもね」
「へェ。アンタのお眼鏡に適ったと?」
「あたしが決めることじゃないさ。ただ……」

 わたしのことを話してるのは確かなものの応酬が高度すぎてさっぱり要点が掴めない。とか考えてると、不意におつるさんがわたしを見つめた。どきりとして視線を返す。今日、本部にいるときにも見た――あの眼差しをわたしに向けて、彼女はふっと顔を綻ばせた。

「あたしは女の幸せなんてものに縁はないが。ナマエ、あんたの様子を見てるとそう悪いもんじゃないんだろうと思うよ」

 ――あ、と思う。

 やっぱりおつるさん、気づいてたんだ。

 そうかもしれない、とは予想してたものの、気恥ずかしさに声が詰まる。ああきっと彼女から、わたしは相当浮かれて見えてたに違いない。汗の滲んだ手のひらをきゅっとスモーカーさんに握り返され、いっそういたたまれない気持ちになった。

「……何の話です?」
「ふん、お前も情けない奴だよ、クザン。大将ともあろう男が目を曇らせるとは、全く……相当認めたくないのかね」
「え? あー……いえ、おつるさん、スモーカーのバカのことならおれも……ってあ、ちょっと待ちなさ」

 いい加減痺れを切らしたようで、スモーカーさんは別れの挨拶も告げずにお二人の傍らをすり抜けていく。ほんとこんなことばっかで仕方ない方である。代わりに一言と、半歩遅れのわたしが振り向いた瞬間に、おつるさんに小さく耳打ちされた。

「ナマエ、やり返したい時はあたしにお言い」
「ふっ……はい、その、ありがとうございます!」

 思わず吹き出してしまった。なんとも心強い味方だ。果たしてスモーカーさんにも聞こえたのかどうか……反応はなかったけど案外、そうなった時の対抗策で頭が一杯って可能性もある。
 おつるさんとクザンさんに見送られ、狭い廊下を抜けていく。足早に見えるスモーカーさんの歩幅は、それでもわたしに合わせてか幾分狭い。さりげない気遣いに感謝しつつ、面倒になった彼がまたわたしを抱え上げやしないか、家に辿り着くまで油断できそうになかった。

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