No Smoking


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「ガープさん、ヒナさんも!」

 喧騒に紛れぬよう声を張り上げる。ボルサリーノさんからの情報通り、庭園を抜けて会場に入れば、すぐに人垣から頭ひとつ抜けたガープさんを発見することができた。更にその隣には人ごみの中でこそなお精彩を放つヒナさんのロングヘアも。なんとなく珍しい取り合わせな気がするが、世代や階級の差こそあれ、お二人には気兼ねのない交流があるらしいと風の噂で聞いている。人の隙間を縫い、例によってへろへろと駆け寄ると、わたしに気づいたヒナさんはあらと目を丸くした。

「ごきげんよう。どうしたの、その格好」
「あはは……恥ずかしながらおつるさんの伝手で」
「驚いたわ、ヒナ感心。大人っぽくてカワイイじゃない。もう少し派手でもいいとは思うけど」
「いやいや、これでも十分すぎるくらいですよ」

 スカートの裾を持ち上げつつ苦笑する。確かにヒナさんのふりふりひらひらな好みからすると控えめに感じるかもしれないけど。そんな風なやりとりをしているうち、ようやくこちらに意識が向いたらしいガープさん。手にしたどでかい骨付き肉を口いっぱい頬張るそのお顔は疑わしげだ。
 
「なんじゃお前、迷子か? どっかで会ったか?」
「なに言ってるのガープ君、ナマエよ」
「ん? ……おお、ナマエか! ぶわっはっはっは、ヒナ、お前に言われんかったら気づかんかったぞ!」
「ご無沙汰してます。ところでたしぎ姉さんは?」

 きょろきょろ周囲に視線を巡らせるも、標的に最も近い手がかりであるはずのたしぎ姉さんは見当たらない。わたしの問いかけに形のいい眉を寄せ、ヒナさんはやはりといった様子で片頬を押さえた。

「それが、惜しかったわね。ついさっき、あなたを探してるって部下の子が声かけてきたのよ。たしぎも手伝いに飛び出したんだけど……あの子方向音痴だから、当分戻ってこないでしょうね」
「! わたしを探してたその海兵さんはどちらに?」
「そこの扉から中庭へ向かって行ったわ。方向的に、あなたとすれ違ったんじゃないかしら」
「ありがとうございます、ちょっと探してきます。お騒がせしてすみませもご!」

 いきなり鼻先へぶつけられた芳醇な小麦の香り。な、何事。目を白黒させつつふかふかを引き剥がせば、まつ毛の先にガープさんの手に掴まれたBLTサンドが姿を現した。瑞々しいレタスの色と芳ばしいベーコンの香りが食欲をそそる。

「ナマエ、行く前になんか食っとけ! お前ろくにメシ食っとらんじゃろ、冴えない顔しとるぞ!」
「ちょっとガープ君、おめかしした女の子になんてことするのよ。ああほら、パンくずがついてる」
「あ、ありがとうございます、ガープさんも。いただいておきます」
「ぶわーっはっはっはっ! 食え食え、せっかくの食い放題じゃ! ほれ、丸ごと持ってけ」
「あなたね、謝罪の一つくらいなさいよ」
「フン! ごめんなさい」
「ものすごくイヤそうね……」
「お気になさらず。ていうか"英雄"に頭下げさせたとかで睨まれると怖いのでやめていただけると」
「ごめんなさい」
「ふかぶかとやり直さないでください」

 やれやれ、相変わらず嵐のような方だ。おかげさまで別れを告げたあとも、わたしはでかめのロールパンサンドを手に食いしん坊さんのような格好で元来た道を歩かされる羽目になった。なんか絶妙に恥ずい。

 ともあれ、肝心なのは裏切りのお兄さんである。向こうもわたしを探してるようだから、うかうかしてるとみるみる引き離されてしまうだろう。急がなくちゃ。

 さっきはすっ飛んできた道のりを逆走しつつ、テラスで休憩している人々の顔を覗き見ながら進む。緑アフロ頭のグラサン海兵さん、なぜかご自分の服を引きちぎっている骸骨みたいな顔の海兵さん、弁髪と口髭が立派な背の高い海兵さん、めちゃくちゃ頭の長い海兵さん、寅さんのそっくりさん――ううん、全体的にキャラが濃い。しかし目につくのは将校の方ばかりなので収穫はあんまりだ。テーブル席の間を抜けて庭園へ戻る道を引き返す。確か来るときは右からだったから、そうなるとええと……。

「ナマエ?」

 はっとして振り返る。

 テラスに面した煉瓦敷きの遊歩道、すれ違いざまにわたしを呼び止めたのは馴染みある青年の声だ。白いマリンキャップのつばの下、そこには心なしか華やいだ本日の主役の顔があった。

「裏切りのお兄さん!」

 思わず笑みが溢れる。わたしの珍しく愛想のいい態度のせいか(或いはこの格好のせいか)、彼は一瞬驚いたように目を見張ったが、すぐに「やあ」といつもの胡散臭い笑顔を返してくれた。お兄さんとは内部犯の件で色々あったけど、すっかり元通りでなによりだ。

「よかったです、最悪もう会えないかと思いました。ここまで人が多いとは思ってなくて」
「僕もずいぶん探したよ。ナマエがつる中将に捕まったらしいって話を大佐から聞いてさ」
「あ。ということはやっぱり、スモーカーさんもここにいらしてるんですか?」
「そのはずだよ、本部で別れたから今どの辺りは分からないけど。それよりナマエ、その格好めちゃくちゃ似合ってるね。花嫁さんかと思った」
「うわやめてくださいよ、恥ずかしいんで」

 ううむ、何度言われてもこの手のコメントには慣れない。なんかこう、皆さんなんだかんだで口が上手いから困ってしまう。ともあれこれでスモーカーさんが来てるのも確約されたことだし、ひと安心かな。

「っと、と」
「あ、ちょっと進もうか」

 立ち往生してたせいで通行人に押されたらしい。よろめいたわたしの背を支えたお兄さんの手がそのまま道の先を示したので、素直に従うことにした。くそう、全てはこのヒールのせいである。隣を歩くお兄さんは、生まれたての子鹿みたいなわたしをなんとなく庇いつつ付いてきてくれている。

「どこか落ち着ける場所があるといいんだけど。お互い結構歩いただろうしね」
「そうですねえ。ていうかお兄さん、せっかくの祝賀会なのにわたしなんか探しててよかったんですか? 上官との顔合わせもあるって聞きましたよ」
「ああ、それならもう、さっき新兵の頃お世話になった教官とご飯食べつつ話してきたよ。緊張しちゃって全然喉通らなかったんだけどね」
「へえ……あ、じゃよかったらこれいりますか? 頂き物なんですが、 一人で食べるには多すぎまして」
「いいの? せっかくだし貰おうかな」

 半分にちぎったパンを手渡しつつ歩道脇の芝生の隅の方へ。ここらには立ち話してる人もちらほらいるし、長話してても浮いたりはしないだろう。木陰の中に整列した柵の前で立ち止まり、わたしはくるりとお兄さんに向き直った。

「改めてお兄さん、昇格おめでとうございます。今それくらいしかお渡しできるものないんですけど」
「はは、十分だよ。ありがとう」
「こちらこそ、怪我もすっかりよくなったみたいで。その節は本当にご迷惑をおかけしたというか、ほんと逃げ出したりして申し訳ありませんでした」
「あれに関しては疑って当然だよ。僕、かなりテンパっちゃってたしさ。もっと上手く立ち回れてたら君が怪我することもなかっただろうし、本当はこんな名誉を譲られるような立場じゃないんだけど……」

 言葉を切り、彼はおどけたように肩を竦めた。

「今は祝いの席だしね。反省会はやめておくよ」

 白いペンキで塗られた木柵に浅く腰をかけ、お兄さんはわたしが手渡したサンドイッチに齧り付く。ちょうど同じくらいの高さに揃った横顔から視線を外し、わたしも彼に倣ってひと口頂いた。うん、さすがガープさんセレクトは外れなしだ。噛み締めて飲み込むまでの無言も、会場の賑わいのおかげかそれほど息苦しくはない。降り注ぐ木漏れ日は暖かく、わたしたちの間隙を埋めてくれていた。

 ――しかし、今更ながら。

 今回の件やその前から、お兄さんはなんだって、わたしを護る手伝いなんかをやりたがったんだろう。彼は出会ったばっかの頃からわたしに対して常に好意的というか、親しげというか、姪っ子の面倒を見る兄ちゃんみたいな感じで気にかけてくれてるけど、実際に関わってる量に対してはいまいち釣り合ってない感じがする。そもそもの話、自分が好かれてる理由さえよく分かってないのだ。単なるファン心理……みたいなのだけじゃ、ないような気がするんだよなあ。

「ひとつ聞いてもいいですか?」
「もちろん」

 ずいぶん快い返答だ。わたしは頬張っていたスライストマトを飲み込み、野暮を承知で口を開いた。

「気になってたんですけど、お兄さんはわたしに対して直接の責任とか、恩義とかがあるわけではないじゃないですか。なのに、どうして……あんな大怪我してまで、わたしを助けようとしてくれたんですか?」
「そりゃ、僕は海兵だからね。もちろん君の大ファンだからって理由もあるけど、罪のない一般市民を守るのが僕らの仕事だ。あれくらいなんでもないよ」
「お兄さん、いくらなんでもかっこつけすぎです。ほんとのところを教えてください」
「おっと、手厳しいなあ」

 お兄さんは困ったように頬を掻く。それから両手を膝に下ろし、彼は幾分真面目な顔をした。

「まあ、何よりナマエはスモーカー大佐にとっての……なんというか、特別な子だからね」

 ……?

 どういう意味だろう。まあその、わたしがあの人に特別視されてるのが知れ渡ってるのは仕方ないとしても、今の言い方からすると、お兄さんがわたしを助けたのはまさかのスモーカーさんのため、ってことになる。意外、というのは失礼かもだが……うーん、部下の忠義みたいなものなんだろうか。

 そういや、お兄さんがスモーカーさんにどういう感情を持ってるのかとかって全然知らないな。どうなんだろう、あの人は悪い上司ではないだろうけど、海軍内での立場は芳しくはないし、そのことを不満に感じてた部下だって実際にいたわけで……。

「あの、お兄さんはスモーカーさんの隊を抜けようとかって考えないんですか?」
「え?」
「その、おつるさんからこの祝賀会はそういうスカウトみたいなのを兼ねてるって聞いたんです。ほら、やっぱり海軍だと、スモーカーさんの部下ってだけで風当たり強いとこあるじゃないですか。別の隊に行きたいとか思わないのかなと」
「まさか。頼まれたって抜けないよ」

 当然のように言って、最後の一口を放り込む。指先をはたいてパンくずを落としながら、お兄さんは遠くに見える白い制服の群れに目を細めた。

「――僕さ、海兵になるのを決めたきっかけがあって」

 興味を惹かれ、含みのある口調で話し始めたお兄さんを見やる。彼はわたしにちらと目配せしてから、ゆっくりと言葉を紡ぎ始めた。まるで宝箱から一番大切な記憶を取り出すみたいに。

「もう10年以上前かなあ。子供の頃、家族とシャボンディパークに遊びに行ったんだ。楽しくてすっかりはしゃいじゃってね、口酢っぱく注意されてたのに、両親とはぐれたことにも気づかないで一人で走り回ってて……そしたらうっかり、運の悪いことに天竜人の前を横切っちゃったんだよね」
「え」
「無礼な子供だから処分しろって、護衛の黒服たちに命令しててさ。他に海兵も連れてたけど、皆申し訳なさそうにしてても助けてくれなかった。その時はもう終わりだと思ったよ」

 穏やかな語り口に見合わぬハードな展開だ。彼の話に聞き入りながら、自ずと眉根が寄っていく。

「そしたら横から割り込んできた海兵に思いっきり蹴り飛ばされたんだ。僕は地面を転がって、ちょうどそこにあったヤルキマン・マングローブの液だまりに落ちた。あんまりにも痛くて怖くて動けないでいると、さっきの海兵が近寄ってきて僕を引きずり出したんだ。樹液で全身ベタベタの僕を見て、天竜人はうえって顔をしてた。そしたらその海兵が言うんだよ。『高貴な方に汚ねェもんをお見せするわけにはいかない、目に触れない場所で処分します』ってね」

 ……。お兄さんがここにいる以上生還しているのは間違いないのだが、思わず固唾を飲んでしまった。それにしても話に出てくる無茶苦茶な海兵、なんだろう、こう、違和感みたいなのがあるような。

「僕は海兵に首根っこをひっ掴まれたまま、人気のない場所まで連れて行かれた。地面に降ろされて、いよいよ殺されるんだと震えてると、海兵はいきなり言ったんだ。『早く行け。蹴ったりして悪かったな』って」

 はた、と思い至って顔を上げる。

 ――もしかして。

 わたしの食い入るような視線を受け、にやりと口角を上げるお兄さん。彼はとっておきの秘密を明かすみたいに、もったいぶって人差し指を立てた。

「それが、若い頃のスモーカー大佐」

 やっぱり。

 思わず声の出そうになった口元を抑える。え、どうしよう、なんかすごい話を聞いてしまった。というか、そっか、あの人ってそんな前から海兵してるんだ。

「じゃ、もしかしてまだ下級兵だったころの?」
「多分そうだね。ちょうど今の僕くらいの歳だったのかな……制服着てたし、この帽子も被ってたよ」
「うわあ信じられません! えっ、いいなあ、わたしも見てみたかったです」
「ははは、今の大佐しか知らないと想像つかないかもね。なにしろ坊主頭だったし」
「坊主」
「しかも当時から堂々と葉巻吸ってたよ。一人だけ目立ってたからよく覚えてる。今思うと、天竜人の護衛についてただろうに無謀すぎるよね」

 うわすごい、わたしが知らない頃の、それも10年近く前から、スモーカーさんってほんとスモーカーさんって感じだ。写真とか残ってないのかな、ヒナさんに聞いたらなにか出てくるかもしれない。興奮を隠しきれないわたしを見てか、お兄さんは楽しげに笑い声を上げた。

「まあ僕は子供だったし、何が何だかわかんなくて、当時は助けられたことにも気づいてなかったんだけどね。けどその海兵がリスクを負ってまで僕を助けてくれたことが分かってきて、海兵に憧れるようになって、結局こうして軍に入ったんだ。大佐の隊に配属された日は感動したよ。ホント、嬉しくてさ」
「へええ……それじゃ、スモーカーさんの部下になったのって偶然だったんですか?」
「うん。スモーカー大佐には言ってないし、多分僕の顔は覚えてないと思うけど、それでいいんだ。とにかく、少しでも恩に報いたくてね」

 お兄さんが真摯に仰るもんだから、なんともじーんときてしまった。くう、粋な話だなあ。最後に残っていたサンドイッチの端っこを噛み締める。そんなわたしを覗き込んで、お兄さんは得意げな顔をした。

「ね。大佐、イカしてるでしょ」
「悔しいんですけど、スモーカーさんってちょっとかっこよすぎるんですよね」

 もごもご呟いてパンを飲み込んだ。こういう話を聞くほど、今のスモーカーさんとわたしの関係が嘘みたいに思えてくる。わたしはあの人が掬い上げてきた無数の罪なき一般市民に過ぎなかったはずなのに、一人だけ抜け駆けしちゃって誰かに怒られやしないだろうか。まあわたしが「罪なき一般市民」なのかは議論の余地がありそうだけど。

「えっなになにナマエ、珍しいね。いつもだったら喫煙者でさえなければ、とか言うとこなのに」
「わたしだってたまには素直に褒めますよ。喫煙者でさえなければ、とは常に思ってますけど」
「けどさ、前は大佐なんて眼中にないって感じだったでしょ。何か心境の変化があったの?」
「そういうんじゃないですから。というか今まで眼中にないと思ってたのはわたしのほうで……」
「え?」

 まーたいつもの女子高生みたいなノリが始まった、と適当に受け答えしてたところ、お兄さんが唐突に顔つきを厳しくする。な、なんだろう。特に変なことは言わなかったと、思うけど……

今まで思ってたヽヽヽヽヽヽヽ、ってなに?」

 ――油断した。

 さっと血の気が引いていく。ま、まずい、お兄さんの耳聡さを完全に舐めていた。この人がなんで「裏切りの」お兄さんなのかを忘れたわけじゃないのに。冷や汗を垂らしながらじりじりたじろぐも、お兄さんは勢いよく腰を上げ、ものすごい速度と剣幕で詰め寄ってくる。あ、圧が。

「ということは大佐がナマエに惚れてるのに気づいてるってことだよね? 誰から聞いたの? 本人? ていうかそれ大佐知ってるの?」
「いや、ちが、誤解です、違います」
「もしかして付き合ってるの? いつから? えっ、いよいよ大佐に告白されたの? 誤魔化しても無駄だよナマエ、今のってそういうことだよね?」
「ま、待ってください、一旦落ち着……」
「いいや、これに関してだけは今すぐはっきりさせて貰わないと。逃がさないよナマエ、さあ大人しく白じょ、うわッ!?」

 突如、お兄さんがつんのめって頭から地面にすっ転んだ。わたしの右脇に転がっていった彼を反射的に目で追いかければ、うつ伏せた制服の背にはなにやらでかい靴の跡が残っている。日差しを遮る背の高い影。近くに誰か――

 ――あ、葉巻の匂い。

「スモーカーさん」

 ぱっと振り仰いだ瞬間、意表を突かれて息を飲んだ。う、うわ。相変わらず礼服が似合いすぎている。今朝のうちに見慣れたと思ってたのに。相当焦ってたのかスモーカーさんの吐く息は珍しく荒く、整えられていたはずの毛先はやや乱れてきてしまっている。あちこち駆けずり回って向かい風を浴びまくったのが一目で察せられる感じだ。これが胸キュンというやつだろうか。いや苦労をかけておいて何言ってんだわたし。
 などと悠長にときめいている間に、スモーカーさんはわたしの肩をぐっと抱き寄せて、倒れた海兵の背に射殺さんばかりの視線を向ける。が、芝生まみれの顔を上げたのがお兄さんと分かると、拍子抜けしたように手の力を緩めた。

「何してんだてめェは……」
「た、大佐」

 呆れ声のスモーカーさんとおっかなびっくりって感じに敬礼のポーズを取るお兄さん。……沈黙。
 ややあって、お兄さんはおもむろに、期待を隠しきれないような視線をわたしに向け――っていかん、スモーカーさんとのこの距離感を受け入れてたら言い訳が効かない。わたしは肩を掴む手のひらの熱をなるべく自然に振り払って、四つん這いのままのお兄さんに駆け寄ろうと踏み出した。

「ちょっと、いきなり蹴飛ばすなんて行儀悪いですよ。大丈夫ですかお兄さ」

 ――へ。

「ぉ、わあっ」

 腰に手が、と認識するより早く、容赦のない浮遊感と共にぐるりと視界が反転する。体勢を崩しかけて咄嗟にしがみついた先はがっしりしたスモーカーさんの首で、目と鼻の先には見慣れた形の耳があって、わたしの上半身は彼の胸板に乗り上げていて、つまりは誰がどう見たって抱き上げられてるわけだが。突然の事態に動揺して反応が遅れる。かくいうスモーカーさんの横顔はいまいち感情の読めないしかめ面だ。ただわたしの腰を抱く腕だけが変に緊張して強張っている。な、なんなんだ。どうしてこんないきなり、公衆の面前で、なんの断りもなく、ていうか今ごまかそうとしたとこだったのに!

「スモーカーさん、なにす……」
「もう用事は済んだだろう。行くぞ」
「勝手に決めないでください。あと自分で歩くんで下ろしてください!」
「断る」
「だああもう、お洋服に匂い移りしたらどうしてくれるんですか、せっかく仕立て直してもらったのに!」
「騒ぐな。目立ちてェんなら止めねェが」

 はっ。

 スモーカーさんの体を押し返していた両手を止め、2メートルの高さから恐る恐る周囲に視線を巡らせる。
 み……見られてる。向こうで話してた上司と部下らしき二人組、お酒片手に雑談してた姉ちゃんたち、通りの通行人もちらほらと。こ、この、見せもんじゃないぞ。なんだってこんなに視線を集めてきやがったんだスモーカーさんという人は!

 うああ、もう、最悪だ。熱い頬を押さえつつ押し黙ると、彼は抵抗を諦めたわたしを見てふっと視線を和らげた。なにか満足したのか、溜飲が下がったのか。すぐに会いに行けなかったうえだいぶ走り回らせたようだから機嫌を損ねても仕方ないと思ってたけど、悪態が出てこないところを見るにわたしに文句があったわけじゃないらしい。まじで、なんなんだ。

「や、やっぱり……」

 そしていよいよ、もう逃れられない諸悪の根源が立ち上がる。スモーカーさんが来てしまった以上、言い訳したところで嘘つくんじゃねェよとばらされるのがオチだ。もう口止めの方向に切り替えるしかない。辟易しつつ声のした方を見やれば、そこにはキャップで隠れた目元を腕で抑えているお兄さんの姿。……え、これってまさか。

「大佐、お、おめでとうございます、僕……ッ」
「おい……今日祝われるのはてめェの役だろう」
「も、申し訳ありません。しかし、……保護対象と、その……上手くいって本当に、良かったなと……」

 な、泣いてる。人の恋路に対しての思い入れが強すぎる。スモーカーさんすら若干引いてる。今わたしとスモーカーさんは完全にシンクロしてるよ。目元を擦り、お兄さんは鼻の赤くなった顔を上げた。

「ズズッ……し、失礼しました、気持ちが昂ってしまって。あっ、先ほどは話が白熱して詰め寄ってしまいましたが、もちろん僕は保護対象に対しては何の下心も持ち合わせていないので!」
「いいんですけど、なんか失礼ですね」
「別に心配しちゃいねェが……話ってのは?」
「えっ。あー、お兄さんが海兵を志したきっかけとか小さい頃の思い出とかだったんで全然スモーカーさんが気にするような話じゃないですよ」
「ナマエ、君も大概失礼じゃない?」

 おかしいな、噂話してうっかり惚気て諸々バレかけたのを当人に知られるまいとしただけなのだが。なにやら思案げな顔のスモーカーさんに肝を冷やしつつ、とにかくこの立て板に水のような海兵の口に釘だけは刺しておかねばと、わたしは彼の腕から身を乗り出した。

「それよかお兄さん、水を差すようで悪いんですけどこのことは絶対に言いふらさないでくださいよ。噂になったりしてくれぐれもクザンさんとかセンゴクさんの耳に入らないよう……」
「君の迷惑になることはしないさ。安心してナマエ、口の固い仲間にしか話さないから」
「は?」
「ほどほどにしておけよ」
「ちょっ……スモーカーさん!」

 軽く肩を竦め、お兄さんに背を向けてあっさり歩き出したスモーカーさん。制止したところで当然聞き耳持たずである。ああまったく勝手な。さっきから何焦ってるのか知んないけど、あの裏切り者にお別れくらいはさせていただきたいものだ。
 色々追っつかないまま、仕方なしに上から失礼しようと首を伸ばす。するとそこで、スモーカーさんはふと思い出したように足を止めた。肩越しにお兄さんを振り返る、彼の目が悪戯っぽく眇められたのに気付けたのは、たぶんわたしだけだった。

「さっきは、蹴ったりして悪かったな」

 ――……あ。

 お兄さんは一瞬、不思議そうにこちらを見上げ。やがてはっと思い至ったように目を見開き、唇を震わせて何か言いかけたが、それを飲み込み、帽子を取り払って礼をした。スモーカーさんはそれを見届けなかったし、もう振り返りもしなかったが、それでもお兄さんは深々と頭を下げていた。わたしたちが見えなくなるまで、ずっと。



「スモーカーさん、あざとすぎです」

 お兄さんの姿を見届けて、わたしは彼の腕の中にようやくすっぽりと身を収めた。人波を割いて歩くスモーカーさんのこの目立ちように対する恨み言とか、匂い移りへの文句とか……言いたいことは山ほどあったが、たまには飲み込んで差し上げるとしよう。なにせ今は、ちょっといい気分だから。

「何が?」
「全く、なにしらばっくれてるんですか」

 白々しく宣う彼の胸元をぺしぺし叩く。お兄さんを助けたこと、ちゃんと覚えてたんじゃないか。スモーカーさんが彼を信用してたのも、きっとそれが理由だったに違いない。ほんと、ずるい人だ。

「ふふ」
「何、笑ってんだ」
「そういうとこ、堪んないなあって思ったんですよ」

 そんなふうに嘯きながら、花飾りで重たい頭をもたせかけた。彼の腕に抱えきれない、わたしのドレスの裾がふわりと翻ってそよ風に舞う。一体どこに連れ去ろうというのやら、そんな必死に隠さなくたって誰も取りやしないだろうに。まあ、無事迎えにきてくれたから、いいや。周囲の視線から逃れたくて、わたしはスモーカーさんの首元に頬を埋ずめた。

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