No Smoking


▼ 45-1/4

 きらきら、冷えた水を両手に浴びる。

 透明な水流が縒り合いながら注ぎ、指の隙間をなめらかに伝い落ちていく。耳に届くのは伸びやかな小鳥の囀りと鼻から抜けるわたしのハミング。選曲は――タイトルは思い出せない――昔どこかで聴いたミュージカル・ソングだ。白く爽やかな朝陽がリビングから奥のキッチンまで差し込んで、スポンジに重ねた手元を眩しいくらいに照らし出していた。

 光を反射する水滴に瞼を細める。

 こんな晴れの日にピッタリの、いい朝だ。


「――スモーカーさん、準備終わりましたかー?」

 一曲歌い上げたところで声を上げた。朝ごはんに使った最後の一皿を水切り用のラックに立ておいて、エプロンの裾で手を拭きふきキッチンを抜ける。今日のメニューはカリッと焼き上げた絶品明太トーストとコンソメスープとシーザーサラダの簡単セットだったので洗い物も楽ちんだ。指がふやける前に終えられたことに満足しつつ、エプロンを脱ぎ捨てて洗面所の方へ向かってみる。
 先ほどからお返事がないが、もしかして慣れない身支度に手間取っていらっしゃるのだろうか。服はわかりやすい位置に掛けておいたから大丈夫だと思うけど、万に一つもわたしの不手際で遅れるようなことがあっちゃいけない。なんせ今日は――

「あ」

 と、わたしが歩み寄ろうとした丁度のタイミングで押し開かれるドア。その隙間からひときわ鮮やかな白色が視界に飛び込んでくる。頭上を仰ぎつつ、ご機嫌いかがですか、などと冷やかそうと、して。

「――」

 一瞬、知らぬ人にさえ思えて息を呑んだ。

 そこに、上から下まで真っ白の軍服に身を包んだ背の高い男性が立っていた。センゴクさんがいつも着てるのとよく似た海軍の礼装。胸元に弧を描く鮮やかな金色の飾緒、二対の肩章、正中線にきちんと整列した金ボタン。喉元まで覆う詰め襟は息苦しげに見える――と、順繰りに見上げた先で視線がかち合う。見慣れた褐色の眼差しでわたしの顔のど真ん中を見据え、彼は大儀そうにため息を吐いた。

「どうも性に合わねェな、こういうのは」

 などとうんざりしたように口にしつつ、早速襟元を寛げるしかめ面は無粋なまでにいつも通りのそれだ。つまるところ、髪の毛先までぴしりと完璧に整えられた目の前の男の人がかのスモーカーさんであることに疑いの余地はないのだが、そのお姿を前にするとどうにも思うように言葉が出ない。な、なんだろう、おかしいな。

 そもそも今現在、彼が身に纏うご衣装を念入りにアイロンがけしたのは他でもないわたしである。しかしながら、わたしの貧相な想像力ではこんな……こう、ここまでの仕上がりになるなんて欠片も予想できてなかったのだ。せいぜい見慣れなくて笑っちゃうかもな、ってくらいの心構えだった。実際「海軍将校」の型にきちんと収まってるスモーカーさんはどうにも窮屈そうで、らしくなくて、仰る通り全然似合わないんだけど――見た目に限ってはハリウッド俳優も顔負けなくらい様になってるのでばかに動揺してしまう。白、膨張色なのにいつにも増して引き締まって見えるし。体格がいいのは重々承知してたけど、なんか、人種の差をまざまざと見せつけられてる気分だし。く、くそう。中身はいつものスモーカーさんだって分かってるのに、こんなの、なんか。……なんか!

「……どうした」

 いつまでも口を利かない百面相のわたしを訝しんでか、スモーカーさんが眉頭を寄せつつ尋ねてくる。さりげなく距離を詰めようとする彼に飛び上がって、わたしは急ぎ半歩ほど後退った。

「えっ! あ、いや、ええと」
「ナマエ?」

 あたふた手を動かして取り繕おうと必死になるも、下手くそな言い訳は喉の奥で形になる前に潰れていく。おかげさまで残ってるのは最初に彼の姿を目にした瞬間浮かんだありきたりな一言だけだ。うぐ、言わされたみたいで悔しいんだけど、ここまで引っ張ってしまった手前白状しないわけにもいかない。心憎いほどに洗練された彼のお姿を見上げつつ、わたしは観念して声を絞り出した。

「か、かっこいいですね、その……けっこう」

 スモーカーさんの目が微かに見開かれる。彼はしばしわたしの顔を観察するようにじろじろ眺め――大変失礼である――かと思うと突然、なにやら得心がいったように視線を和らげた。

「……ふ」

 低く吐き出された声、悪戯っぽく眇められた目元。消え入りたくなるのでそんな魅力溢れる表情をなさるのはやめて欲しい。わたしを揶揄うネタを見つけてスモーカーさんはご満悦のようだ。後ろ手にドアを閉じながら気安くこちらを覗き込んでくる。咄嗟に体を逸らせば、彼はわたしを追い詰めつついよいよ楽しげに笑みを深めた。よ、よくないお顔だ。

「惚れ直したか」
「さ……最近惚れたばかりなので難しい質問です」
「珍しく殊勝じゃねェか」

 などと言い残し、あっさりわたしの脇を通り過ぎて行くスモーカーさん。内心胸を撫で下ろすも、馴染みのない整髪剤の残り香は殊更にわたしを落ち着かない気分にさせる。はあ、多分わかってやってんだろうけど、まじに目の毒なので不用意に近寄らないでいただきたいものだ。大体この人は性格に見合わず白が似合いすぎなのである。わたしの贔屓目でなければ、凡ゆる海兵さんの中で海軍の礼服が一番似合うのはスモーカーさんで間違いない。

 さて、一体なぜスモーカーさんはあのような格好をなさっているのか。その理由はもはや言うまでもない――つまり今日こそが例の"勲章授与式"、島中の皆様が待ちに焦がれた祝いの日なのだ。

 人々の活気を反映したかのようにお天気続きの今日この頃。式が近づくにつれ、海軍本部には浮き立つような気配が漂い始め、すれ違う海兵さんの間にもいそいそと華やいだ話題が増えてきていた。
 初めはピンときてなかったわたしも根っこは祭り好きの日本人。日に日に彩られていくマリンフォードの街並みを目の当たりにすれば、期待に心を弾ませずにはいられなかった。なんせ普段滅多にお目にかかれない多忙な中将の方々が本部に滞留し、サカズキさんが手ずから庭園の飾り付けを指示し、サボり魔のクザンさんでさえ準備に精を出すほどの大イベントだ。まあ肝心のスモーカーさんはいかにも普段通りのテンションだったけど……ともあれ聞いた話では裏切りのお兄さんの怪我もほぼ完治とのことで、こちらとしても気兼ねなく昇進祝いできるというものである。


「ナマエ」

 不意に呼びかけられ、ぱっと背後を振り返った。リビングの向こう、陽の光を浴びて真白に輝かんばかりのスモーカーさんは、軽く顎をしゃくってから奥の部屋へと姿を消す。どうやらお呼びたてされてるらしいが……なんの用事だろう。白すぎてちょっと眩しいからなるべく距離を置いていたいのだが。

 などと言ってても仕方ないので、彼の後を追いかけてリビングの横を通り過ぎ、半開きのままのドアから顔を覗かせてみる。鼻先に触れるのは煙と、木と、少し油っぽい紙の匂い――背の高い棚がひしめき合うスモーカーさんの私室だ。といっても印象としてはほとんど物置に近い。部屋の中央を横切る影を追うと、ガタン、と重たげに引き出しを開けている彼の背中が目に入った。

 少しだけ気後れしながら慎重に足を踏み入れる。奥の窓から差す朝日を受け、埃がちらちら舞いながら煌めいていた。光の筋が照らし出すのは、積み重ねられた書類、冊子、捨て置かれた表彰、数種類の葉巻の箱とその印字。あとは何が何だかよく分からない器具や工具、金属、革……諸々、エトセトラ。棚や引き出しに押し込まれたそれらは一見雑然として見えるが、きっと置き場に意味や秩序がきちんとあって、当人はなにを探し出すにも苦労はしないのだろうな、という感じがする。まるで、一つ狂えば成り立たなくなる難解な数式を眺めてるみたいだ。
 この部屋はなんとなくスモーカーさんのプライベートな香りが強く、下手に片付けるのも憚られて、これまで軽いお掃除をする以外は極力踏み込むのを避けてきたのだが――特に寝室を共有し始めたここ最近は、彼の方から私室に呼び入れてくれることも多くなった。色々と許してくれてる感じがしてなんとなく嬉しいものの、遠慮のいらない距離感というのは、未だにちょっと慣れない。

「こっちだ。暇なら手ェ貸せ」

 スモーカーさんの呼びかけでふっと我に帰る。そうだった、まずはお手伝いの要件を確認しないと。手招きされるままに歩み寄り、彼の手元を――若干背伸びしつつ――覗き込めば、開かれた引き出しの中に透明なケースが重なっているのが見えた。色とりどりのリボンと意匠の凝ったメダル……おお、これは。

「うっわあ、スモーカーさん勲章こんなに持ってるんですか? どれつけます?」
「なんだって構わねェよ。好きなの選べ」
「え、待ってください、真剣に考えるんで」

 場所を空けてくれた彼にくっついて立ち位置をずらしつつ、一番上のケースを手に取ってみる。こういうのを飾ったりせずに引き出しの中に突っ込んどくあたりがスモーカーさんらしいというか。

「ていうかほんとに適当で大丈夫なんですか? こういうのって普通、着ける順番とかあるんじゃ……」
「軍法に記章令の規定はあるが、碌に守ってる奴ァいねェよ。併佩さえ時系列順にしときゃいい。不安なら右端の……一番新しいのがそれだ」

 へいはい……だかなんだかよく分からないが、ここは彼の指示通りにしとけば問題ないだろう。組み合わせた時の相性が良さそうなのをいくつか選び取り、手元に並べて色の具合を確認する。うーん、悪くはないか。
 しかし普段あんま意識しないけど、こういうのを見るとスモーカーさんもれっきとした軍人さんなんだなあ、と今更ながらに感じる。わたしが知らない30年ほどのスモーカーさんの人生を考えると不思議な気分だ。特に、今わたしが彼の目の前に存在する現状を思うと。ケースの蓋を開けながら、わたしはくるりとスモーカーさんに向き直った。

「大人しくしててくださいね」
「背足りるか?」
「ばかにしないでください、と言いたいとこですがちょっと屈んでもらえると助かります」

 含み笑いを浮かべながら、スモーカーさんは棚の天板に腕を掛け、背の低いわたしを覆うように身を乗り出してくれる。正面から来られると圧が凄いが、とりあえずお礼は告げて彼の胸元へ腕を伸ばした。

 勲章の金具を緩め、胸ポケットの裏に指を通して位置を合わせていく。しん、と意外なくらいの静寂が部屋に落ちていた。無垢の布地の表面で動く自分の手の影。頭上から落ち着き払ったスモーカーさんの息遣いが聞こえる。なんか、やけに見られてるような。ポケットの内側から感じる彼の体温も相まってほんのり照れ臭くなるものの、作業に集中してなんとか気を紛らわせようと心がける。そんな努力が身を結んだのだろう――いつの間にか夢中になっていたようで、三つ目の金具を留め終える頃にはすっかり緊張を忘れていた。

「――よし、できました」
「器用だな」
「人にするのは得意なんです」

 などと答えつつ、完了の合図に手のひらでスモーカーさんの胸板を押し返した。何の抵抗もなく身を起こしてくれた彼を振り仰いで息を吐く。よかった、だんだん見慣れてきた。

「お兄さんのお祝いもしたいですし、わたしもあとで本部に伺いますね」
「……正装は持ってんのか? 体裁なんざなんだって構わねェたァ思うが、おれと違ってお前は外面を気にするたちだろ」
「ふっふ、それが聞いてくださいよ。こないだ式に顔出す予定だっておつるさんにお話したら、お下がりのフォーマルなワンピース仕立て直して頂けることになったんです。パーティーのときのは黒すぎるから、海軍の式典には白の服のがいいだろう、って」
「お前……いくらなんでも甘やかされすぎじゃねェのか。相手はあの大参謀だぞ、何か裏が……」
「深読みしすぎですよ。わたしはおつるさんの愛弟子なんで、多少便宜を計らってもらえるんです」

 胸を張って宣うも、スモーカーさんは相変わらず渋い顔で鼻白んでいる。前から薄々察してはいたものの、どうもこの人はおつるさんのことが得意じゃないらしい。多分、どうしたって歯が立たないから苦手なんだろうな。そもそもわたしの知る限り海軍本部内におつるさんに敵う人はいない……となれば、そんなおつるさんに甘やかされているわたしはある意味で最強だといえる。ふっ、平伏すがいいスモーカーさん。

「きちんとお見せするんで、とびきり可愛く着飾ったナマエちゃんを楽しみに待っててくださいね」
「あァ、期待してる。なるべく早く顔見せに来い。いの一番、たァいかねェのが妬けるがな」
「やけ、……」

 ま、負けた。

 調子づいていた大口が呆気なく萎んでいく。ひどい、今のはどう考えても突っ込むか呆れるかするところだったろうに。最近のスモーカーさんときたらすっかり開けっぴろげというか、わたしの冗談さえ柳に風と受け流してくるので困ったものだ。
 話題を繋ぐ言葉が見つからずに顔を伏せていた。どうしたものか、思いっきり墓穴を掘ってしまったのでこれ以上余計なことは言えない。足元に落とした視界には、アンバランスな絵面で向き合うスモーカーさんのでかい革靴とわたしのスリッパが映っている。先ほどに比べ、床に映る影はいくらか短くなってきてる気がする……。

 はっ。

「す、スモーカーさん。そろそろ」
「……あァ、もう時間か」

 壁面の掛け時計にちらと目をやるスモーカーさん。本部までの道のりを思うとぼちぼち出発すべき頃合だ。今が慌ただしい朝であることに感謝しつつ、わたしは悠長な彼の腕をぐいぐいとせっついた。

「ほら急いでください、せっかく間に合わせたんですから遅刻しちゃだめですよ。お兄さんにもよろしく伝えといてください。一応、わたしは式後に挨拶に伺うつもりですが……まだどうなるかわかんないんで、適当に時間潰しててもらえると助かります」
「分かった。他には?」
「うーんと。あ、道中気をつけてくださいね。冗談抜きで、今のスモーカーさんこそその辺の女の子とかを誑かしそうで心配です。今日は皆さん浮かれてるでしょうし」
「安心しろ、とっくにお前のもんだ」
「はあ……よくそんな歯の浮きそうなセリフ言えますね。身に余ります」

 しれっとした横顔を睨みながらため息を吐いた。人を揶揄いやがって、まったく。今のはぎりぎり耐えられたとはいえ、こうも翻弄されっぱなしではわたしの沽券に関わる。さっきもそれで困ったばかりだし、これから人前で顔を合わせる機会も増えるだろうし、特に今日は絶対バレないよう気を張っておかないと――

「ナマエ」
「え」

 く、と平たい指先に顎を持ち上げられた。と認識する一呼吸のうちに、頬へ柔らかい感触が落ちる。わたしの横顔をくすぐりながら離れていく、突き刺すような整髪剤の香り。現状への理解が及ばず、目をしばたたいて、わたしはぽかんと彼を見上げた。

「行ってくる。また後でな」

 何事もなかったかのような声色を残して服の裾が翻る。網膜に焼き付く白の残像。ささやかに空気を揺らしながら、スモーカーさんは開け放しのドアを抜けて振り返ることなく姿を消した。



「はあ、あ……」

 背後の棚を支えに、ずるずるその場へへたり込む。朝っぱらから疲労感がすごい。握ったままの両手を目元に押し当て、わたしは深々と息を吐いた。

 どうしよう。スモーカーさんがかっこよすぎて訳がわからん。

 ほんと、よくもまあ今まで好きにならずに済んだものだ。スモーカーさんとこういう関係になる前のわたしって一体どんな気持ちで接してたんだっけ。もう全然思い出せない。隠す気のない彼に引っ張られないようなんとか冷静にと努めているのだが、心を強く持たないとわたしまでばかになりそうだ。というかこんな調子じゃ本部で会ったときに絶対ボロが出てしまう。いかん、平常心平常心。
 汗ばんだ手を開き、スモーカーさんが触れたあたりのほっぺたをそっと撫でた。ああもう、いってきますのキス、なんて柄じゃないと思うのだが。あれかな……こういうのって純日本人のわたしからすると落ち着かないけど、海外ドラマとかならナチュラルにやってるの見るし、ここじゃわりと当たり前の文化だったりするのかもしれない。それに考えてみれば、これってスモーカーさんが葉巻吸ってないからこそ気軽にしてもらえるわたしの特権な訳で、自惚れ、だとしても悪い気はしない。張り合うのもばかばかしいが、まさかここにきて天敵はまきへの勝利を確信することになるとは思いもよらなかった。

「ふふ」

 はじめはそんなつもりじゃなかったけど。禁煙、口すっぱく言い続けてきた甲斐があったかもしれない。

 ――さ、そろそろわたしも準備にかからないと。服の裾の埃を払い、膝に手を置いて腰を上げる。開けっぱなしだった引き出しをよいせと閉め、わたしは出口へと向き直、

「ぎゃあ!?」

 長方形のシルエットの中に佇む人影。軽く両の腕を組み、ドア枠に肩を凭せ掛けて、居るはずのないスモーカーさんが立っている。面白がられてる気配。ぶわと冷や汗が噴出し、みるみる血の気が引いていく。な、なんで。もう行ったはずじゃ、というか一体いつから、見っ、

「鍵を忘れたんで取りに来たが――」

 指の先に引っ掛けたキーケースのチェーンを軽く揺らし、彼はくつと喉を鳴らして笑った。

「お前も相当で安心したよ」
「んな、ま、待ってください、今のは……!」

 引き止める言葉に聞く耳持たず。後も濁さず引き返していったスモーカーさん、のおかげで無為に終わった咄嗟の抗議が狭い一室にこだまする。容赦なく遠ざかる靴音、ぽつねんと置き去りにされた憐れなわたし。さ、最悪だ。なにもかも。

 窓の外、高らかなファンファーレが響き渡る。

 ――ああ。どうやら、先行きは悪そうだ。

prev / next

[ back to title ]