No Smoking


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「今日は楽しかったか?」
「ふふ、お陰様で。お二人の訪問を許してくれてありがとうございました」

 時計の針も夜の10時を回ったころ、お先に失礼した本日の風呂上がり。いつものリビングのソファへ浅く腰掛けたわたしの正面に、スモーカーさんが向き合う形で跪いている。最近の日課である湿気た包帯の交換は、ここ暫くお忙しい彼とのんびり話せる貴重な機会だ。スモーカーさんは消毒したばかりのわたしの傷の具合を確かめながら、ため息を吐くように呟いた。

「もうだいぶ塞がってきてるな」
「おお、そうなんですか? こんなに早いってことはやっぱり大した怪我じゃなかったんですかね」
「んなわけあるか、傷跡はきっちり残ってんだぞ。お前の治りの早さが並じゃねェだけだ」
「治ってるならそれでいいじゃないですか。もう少しわたしの回復を喜んでくださいよ」
「首の傷なんだ、慎重にもなる。……とにかく、まだ暫くは安静にしてろ」

 そんな苦言を呈しつつ、彼はわたしの傷口辺りにガーゼを当て、手際良く新しい包帯を巻き直していく。

 ……ううむ。悪戦苦闘のすえわたしを身悶えさせないコツを掴んでくれたスモーカーさんのおかげでくすぐったさに関してはギリ耐えられる程度なのだが、こうしている間は必然的に顔の位置が近くなるので、特に無言になる瞬間はどうしても落ち着かない。それに――身長差的に仕方のないこととはいえ――未だにスモーカーさんに膝をつかせるのはなんかこう、妙な抵抗感というか、罪悪感みたいなものがあるのだ。
 そわそわして小さく身じろぎすると、「動くな」との叱咤が飛んでくる。なんだろ、随分前にもこんなことがあったような気が……いや、もしかしたらわたしが怪我するたびに毎回やってるかもしれない。こういうのも"相変わらず"ってことなんだろうか。

「――そういや、ひとつ聞いときたいんですけど」
「なんだ」
「今更なんですが、わたしとスモーカーさんってつまりその……お付き合いしてる、って認識でいいんですよね?」

 スモーカーさんはちらりとわたしを一瞥して、また手元へ視線を戻す。しかし軽く伏せられた瞼には、少しだけ機嫌良さげな色が乗ったような。

「あァ。お付き合いしてる仲でも交際相手でも恋人同士でも構わねェぞ、好きな表現を選べ」
「なんか楽しんでませんか? ていうかそういう話じゃなくてですね」
「?」
「その、今日ヒナさんたちと話しててちょっと気になったんです。ほらわたしたちってあれからもずっと相変わらずじゃないですか。だからこう、普通の交際ってどんなことをするもんなのかなって」
「さァ、……少なくとも相手に包帯を変えさせんのが"普通"じゃねェのは確かだな」
「真面目に考えてくださいよ」
「何度も言ってんだろ。何を吹き込まれんだか知らねェが、こういうのはそれぞれペースってモンがある……お前が焦る必要はねェよ」

 スモーカーさんはやけにふんわりしたことを言って話を切り上げてくる。食い下がろうとしたところできゅっ、と固定される首元。どうやら包帯を巻き終えてしまったらしい。

「息苦しくねェか?」
「あ、はい、大丈夫です」
「よし」

 スモーカーさんの手のひらが、わたしの首元を軽くひと撫でしてから遠ざかる。薄れていく体温に小さな名残惜しさを覚えつつ、締め付け具合を確かめていたおもてを上げれば、なにやらわたしを凝視していたらしい彼と視線がかち合った。こんな至近距離で顔を突き合わせると色々思い出してしまい――というか何かされるんじゃないかと身構えて――ばかみたいにどぎまぎしてしまう。そんなわたしの内心など重々承知の上なのだろう、スモーカーさんは曰くありげに片眉を上げると、指先でわたしの髪を掬いあげてするりと耳の後ろに回してきた。され慣れた仕草、のはずなんだけど、妙に緊張する。わたしは咄嗟に目を逸らした。

「ええと、スモーカーさん」
「ん?」
「お風呂、次、空いてますよ」

 などと促してみる。いつも通り、を心がけすぎて逆に不自然になってる気もするが、スモーカーさんは存外素直に「あァ、そうだったな」と返事して、わたしに注いでいた意図の読めない視線を外してくれた。あ、特になんか求められてるわけじゃなかったらしい。よかった……いや、よくはないのか。ううん、こんな風にとぼけてばっかじゃダメってのはよくわかってるんだけど、かといってスモーカーさんにその気がないかもなのに下手な真似できないし……ホント、なんだかなあ。
 スモーカーさんは何も変えなくていい、とは言うものの、実際のところどうなんだろう。現状に満足しておられるのだろうか。そもそもこれまで通りに振る舞えてる気もしない――勿論わたしがこうなることを想定した上での「これまで通り」なのだろうが――とはいえ、この人を受け入れると決めた以上、わたしからも何かしら歩み寄りはすべきだろうと思うわけで。しかしいくら考えても適度なアイデアが出ないというか……軽いキス程度で一杯一杯なのに、それ以上のことはまだ早すぎると思うし……。

「ナマエ」
「ぉわ、な、なんですか」
「シャワー浴びてくる。お前はもう寝るんだろ」
「あ……と、そのつもりですが」
「おやすみ」

 スモーカーさんが、わたしの前髪を掻き分けておでこに軽い口づけを落としてくる。慌てて前髪を抑えると、見上げた先の彼は実に穏やかな眼差しをそっと細めてみせた。……うぐ、調子が狂う。ほんのりアルコールの匂いも浴びた気がするし……まあ葉巻吸ってないだけいいんだけどさ。
 その場に膝を立て、腰を上げたスモーカーさんをそろりと目で追いかけながら、結局今日も大したこと話せなかったな、と内省する。わたしたちの関係について、本当は聞きたいことも話したいことも沢山あるはずなんだけど、面と向かうと一向にきっかけが掴めなくてダメだ。もうちょっと一緒にいる時間さえ持てればなあ……と思うけど、わたし寝るの早いから、寝室に引き篭もっちゃうとどうしても顔を合わせる機会が少なく――。


 ――あ。

 踵を返しかけたスモーカーさんの袖を急いで掴む。彼ははたと足を止め、怪訝そうにわたしの方を振り返った。お風呂を急かしたくせにどういう了見だって感じなんだろうけど気を悪くしないで欲しい、多分彼にとっても悪い話じゃないだろうし。

「あの、一つ提案がありまして」
「……提案?」
「いいこと思いついたんです。スモーカーさんさえよければなんですが」

 声を弾ませ身を乗り出す。続くわたしの一声に、スモーカーさんは静かに目を見開いたのだった。

「今日から一緒に、わたしの部屋で寝ませんか?」




 それから、部屋を片付けたり枕を移動させたり一応シーツを変えたりなんだりしてスモーカーさんを待つこと暫く。

「――さ、どうぞ、入ってください」

 寝室、もとい自室のドアを開け、ぬくぬく湿気を纏ったスモーカーさんを薄暗い部屋のなかに招き入れた。わたしに手を引かれた頭上高くの彼は、裸の上半身と右肩にタオルを引っ掛けたいつものお風呂上がりスタイルで、しかしそのてっぺんのお顔にはどうも冴えない表情を貼り付けている。なんだかんだわたしの部屋には殆ど足を踏み入れてこなかった律儀なこの人のことだ、きっとよしと言われてもすぐには馴染めないのだろう。背後に続くスモーカーさんの気配を感じつつ、わたしはスリッパを脱ぎ捨てて一足先にベッドの上に這い上がった。

「やー、前々からこのベッドでかすぎるのに占領しちゃってて申し訳なかったんですよ。そこで思ったわけです。最近スモーカーさんかなり喫煙控えてくれてますし、添い寝くらいならしょっちゅうしてますし、わたしの夢見も良くなりますし、そろそろ寝室共有するくらいならいいんじゃないかなって」
「……」
「あ、スモーカーさん寝る時間遅いと思うんで、好きな時間に入ってきて大丈夫ですよ。寝相悪かったら遠慮なく転がしてください、わたし多分起きないんで。それと念のため言っときますが、葉巻吸ってる時と葉巻吸った後は入っちゃダメですからね」
「…………」
「そんでそっちがスモーカーさんの枕です。わたしはこっちなので間違えないでくださいね。そうだ、スモーカーさんって布団一枚で寒くないですか? 一緒に入ってたらあったかいので大丈夫だと思いますけど……まあ、もし不便があれば教えてください」

 よし、言うべきことは大体言ったかな。一向に返事がないのは気になるけど、もうだいぶ眠いので今日はここいらで切り上げさせていただこう。わたしは目元を擦りながらもぞもぞと掛け布団の中に潜り込んだ。

「それじゃわたし寝るので、おやすみなさ」
「ナマエ」

 ――ぎ、とベッドが重たげに軋む音。刹那。視界を埋めていた天井が濃い影に遮られたと思いきや、枕の横に投げ出していた左手首を上から強く抑えつけられた。

「……え」

 はた、と寝ぼけ眼の意識が五感に向く。

 手首に絡まる湿り気を残した指の感触と、僅かに香るわたしと同じ石鹸の匂い。リビングから差す灯りにかたどられたシルエット。迫りくる、スモーカーさんの深い吐息――を間近に感じた瞬間、唐突に眠気がふっ飛んで、わたしは大急ぎで残る右手を突き出していた。おそらく彼の胸板の辺りに衝突したであろう掌底はしかし、暖簾に腕押し糠に釘、反撃どころか制止の意味さえ成してくれない。やっと状況を理解する。どうもベッドに膝を乗り上げたらしいスモーカーさんが、わたしに覆い被さるような体勢で首元に顔を寄せてきてる、ようなのだ。

「ままま待っ、待ってください、一体なにを」
「……誘ったのはお前じゃねェか」
「へ」
「おれと一緒に、寝てェんだろ?」
「はッ……!?」

 頭からさっと血の気が引く。もしかして、これはかなり不味いタイプの認識の齟齬があるのでは。

「ちがっ、わ、わたしほんとに、今のところは、そういうつもりじゃなくて、……ッ!」

 最後まで言い切れずに言葉を呑む。く、首。包帯の巻かれた隙間から耳にかけての首筋を、スモーカーさんのぬるい吐息が掠めていく。かと思うと、布団の中へ潜り込んできた手にお腹を優しく撫でられた。彼の五指と布とが擦れて、変に擽ったくて、ぞわぞわ背筋に震えが走る。改めて意識するとスモーカーさんの手、怖いくらい大きいし、なんか触り方も、やらしい。彼の、多分中指あたりがわたしのお臍のへこみを探りあて、くるくるいたぶるように動くので、思わず爪先が伸びてしまう。な、なにこれ。

「は、っ、うあっ、それやめ、……っ」
「……お付き合いしてるんなら、いいだろ」
「ぎ、ぃやっ」

 這い上がってきた唇が耳殻をやわやわ撫でさすってくる。低い囁きがじかに鼓膜を揺らし、同時につつ、とくだってきた指に下腹部をなぞられて、引き攣ったように瞼が震えた。こ、これは。よくない。どう考えてもえっちなことをされようとしている!

「――ッ、だ……!」

 ばっ、と。咄嗟にスモーカーさんの唇を遮った。

「だめです! よくないです、こういうのはまだ早」
「何も駄目じゃねェ、何が不満だ」
「こ、ここ、心の準備とかいろいろあるんですよ。いきなりとか無理です、絶対にむり!」
「……お前な」
「まずもって圧倒的に知識不足なんですよわたしは、自分がこんな……ことになるなんて考えたことも無かったんですから! ゆ、猶予をください。準備期間が必要です」

 枕ごと後ろにずり上げつつ、ぐいぐいスモーカーさんの顎を押し返して喚いた。そう、こういうのにはきちんと踏まねばならない段取りがあるわけで、いわゆる恋のABC、イニシャルから順序通り進めていただかないと困るのだ。そもそも恥ずかしすぎるし、自信もないし、いくら相手がスモーカーさんとはいえ男の人からそういう……ことをされるのはまだちょっと怖いし、向こう半年ほどは待っていただかないと色んな意味で命に関わる。そりゃスモーカーさんは初めてでもないだろうから、こんなのスキンシップの延長みたいなもんなんだろうけど、わたしにとってはもっとこう、なんというか、人生においての重要事項なのであり、お付き合いしてるからといって早々出来ることじゃないのだ。乙女の貞操観念を舐めないでいただきたい!

「…………」

 わたしの手に顔の下半分を塞がれたまま、スモーカーさんはじろりとこちらを見下ろしてくる。必死の抵抗の甲斐あって最低限の距離は取り戻したものの、左手首はまだ押さえられたままのうえ掛け布団に跨る彼の体重のせいで抜け出せそうになく、実際かなり危険な状況だ。というかそのつもりはなかったとはいえわたしから誘ったようなもんなので、最悪、まじに引き下がってくれないかもしれない。そうなったらどうしよう。こんなことでスモーカーさんを怖がりたくない。

 頼むから聞き入れてくれ、と必死で祈る。

 ――不意に、手のひらの中で唇が動いた。

「分かった」
「えっ」

 それはもう、実にあっさりと。わたしの手を引き剥がしつつ、スモーカーさんは何事もなかったかのように身を起こす。あれ。や、え、これはどういう。動揺するわたしの間抜けづらを見下ろして、彼は揶揄うように口角を吊り上げた。

「安心しろ、端から期待しちゃいねェよ。お前にその気がねェのは見りゃ分かる」
「んな、わ、分かってたならどうしてこんな」
「あわよくば押し切れねェかと思ってな」
「ばッ……、ばっかじゃないですか!?」

 この、この野郎。わたしの懸念は何だったのか、ほんとの、本気で、かなりびびってたのに……!

 わなわな震えるわたしに対し、尚も楽しげな笑みを向けてくるスモーカーさん。ちくしょう、なにがおかしいんだなにが。熱っぽい頬を抑えつつじとりと舐めつければ、彼はまるで堪える様子もなく「まァそう怒るな」と悠長なことを言って、宥めるようにわたしの仰向けのおでこを撫でてくる。く、こんなんでちょっと和んでしまう自分のちょろさが憎い。

「しかしお前、猶予だのと言ってたが……いずれは、ってつもりはあるんだな」
「そ。そりゃ、まあ、すぐには無理ですけど、こういう関係になった以上は、その……」
「ならいい。おれももともとお前が成人するまで手ェ出すつもりは無かったんだ。さして年齢に意味があるたァ思わねェが……一応、ケジメとしてな」

 彼の指がさらさら前髪をかき分けていく。わたしは二度瞬いてスモーカーさんを見上げた。けじめ、って……いや、待ってくれるのは正直いってありがたい、んだけど、この人がそういう考えを持ってたのは意外というか、らしくないというか。一体何に対するけじめなんだろう。世間体とか気にするタイプじゃないだろうに。

「だが、それ以上は待たねェぞ」

 顔を覗き込んできた、スモーカーさんの目が柔らかく凪いでいる。う、ううん。今更この話題が恥ずかしくなってきて思わず目を逸らしてしまった。何を大真面目に話してんだろ。大体わたしとなんか、そんな、待ち侘びるほどいいもんじゃないと思うけど。
 ていうか……あれ。よく考えると、それってつまり、わたしが二十歳になったら、する、ってことで……ま、待てよ。誕生日までって考えると、思ったより日がないような気が――

「ちゃんと心構えしておけよ」
「う。あ、……え、えと。ど、努力、します……」
「……ハ」

 軽く笑い声をあげてから、スモーカーさんはそのままシーツを引いてわたしの隣に潜り込んでくる。焦って体を逸らすも、遠慮なしに伸ばされた彼の手に腕を引き寄せられてしまった。ま、前置きがなさすぎる、っていうか凡ゆることが唐突すぎて全然気持ちが追いつけない。目を白黒させながら布団の中でスモーカーさんを見上げると、一体どういうおつもりなのか、彼はひどく優しげな声でわたしの名前を呼んだ。

「ナマエ。おいで」
「……。なんなんですか、も……ぅわっ!」

 渋々手を差し出すなり、両腋を掴まれ、ひょいと体ごと持ち上げられる。なんだろう、あまりに軽々扱われるので、自分の体がふわふわ綿入りのぬいぐるみになったように錯覚しそうだ。ぐるりと体が反転し、スモーカーさんの上にうつ伏せのお腹が乗る。そう、これはまさしく「あなた、トトロっていうのね」って感じだ。こ、こんなに密着してて大丈夫なんだろうか。彼の鎖骨下らへんに腕をついてもぞもぞと上半身を浮かせれば、わたしを見上げるスモーカーさんと目が合った。色々文句を言いたいのに思わず気が削がれてしまう。なんか、やけに楽しそうだし。

「あの……重くないですか」
「本気で聞いてんのか?」
「いえ、愚問でした」

 喉を鳴らして笑うスモーカーさん、ご機嫌よろしくて何よりだ。かくいうわたしは肌の触れてる面積が大きすぎるのと、全身に響いてくる低く波打つ心音と、ダイレクトすぎる彼の匂いのせいで、一ミリたりとも落ち着けそうにない。そんな心境を知って知らずか、スモーカーさんはわたしの後頭部を掴んでいきおい手前に引き込んでくる。わ、と叫ぶ間もなく前のめりに体勢が崩れ、ほっぺたと彼の筋肉質な首筋がぶつかった。ち、ちかい。わたしの髪に鼻先をうずめ、スモーカーさんは小さく息をついた。

「あァ……」
「ど、どうしました、スモーカーさん」
「……堪らねェと思ってな」

 感じ入るような吐息。彼の手のひらがそっとうなじに回される。やけに暖かい……というか、熱い。

「スモーカーさんって、わたしにぞっこんですよね」

 彼の首元へ頭をもたせかけつつ調子づいてみる。確かヒナさんにも言われたけど、最近はさすがのわたしも、スモーカーさんにどうやらめちゃくちゃ好かれてるらしいと実感しつつはあるのだ。しかし、いまいちわからないのはその理由のほうだった。わたしの外見も、性格も、態度も、あらゆる要素の何一つ、スモーカーさんに想われるに足るとは思えない。ほんの少し不安に思いつつ、わたしは慎重に口を開いた。

「わたしの、どこが好きなんですか?」
「全部」

 ――即答だ。眩暈がする。

 眉間を抑えつつもう一度身を起こした。スモーカーさんはわたしの首に手を添えたまま、それはもうしらっとしたお顔で恥ずかしげもなくわたしを見上げている。ああ、どうしよう。やはりスモーカーさんはとんでもない大ばか野郎なのかもしれない。

「あの、冗談ですよね?」
「冗談のつもりはねェが」
「ならちょっとどうかしてますよ。色ボケしてるご自覚を持たれた方がいいと思います。だいぶ重症です。わたしスモーカーさんが心配になってきました」
「てめェな……燻されてェのか」
「こっちのセリフです。全部ってなんなんですか、絶対んなわけないでしょう! ていうかわたしが聞いてるのはもっとこう具体的な、例えばこう、きっかけとかエピソードとかそういうものであってですね」
「……説明すると長くなる。それでいいなら話すが」
「や、やっぱ結構です。やめときます」

 誉め殺しと惚気の気配を感じて即座に待ったをかける。スモーカーさんはそりゃ残念だ、と嘯いて、わたしの頬をゆるゆると撫でた。皮肉めいたことを言いながら、わたしを見る彼の目は相も変わらず優しい。

「重症だってのは否定しねェがな。ここのところ、お前が可愛くて仕方ねェ」
「は、……初めて言われましたそんなこと。自分で言うのもなんですけど、結構可愛くない性格してると思いますよわたし」
「時々うんざりさせられるが。そこもひっくるめて好きだ」

 う、う、わ。……こ、こういう時だけやったらストレートなの、心臓に悪いからやめてほしい。

 しどろもどろになりながら視線を右往左往させ、しきりに瞬きを繰り返して、深呼吸して、ようやくスモーカーさんの顔に視線を戻すことに成功する。もう、ほんと、すっかりされたい放題だ。いつになったらこういうのって慣れるもんなんだろう、一生無理な気もする。わたしだって、情けないことばっか言ってないでもっとちゃんと頑張りたい、とは思ってるんだけど。はあ……余裕な態度で撫で回してくるこの手のひらが恨めしい。わたしは身を乗り出して枕に沈んだスモーカーさんの頭を見下ろし、やっとのことで、もそもそと歯切れの悪い言葉を紡ぐ。

「その……ちゃんと、言えてなかった気もしますけど。わたしもスモーカーさんのこと、好きですよ」
「お前の好きは信用ならん」
「……ちゃんと男の人として好きってことです」
「どうだか」

 なんか本気にされてない気がする。視線で抗議すると、スモーカーさんは少しの間動きを止めて、じっとわたしを見つめ返してきた。曖昧な色の視線。意図を測りかねていると、彼はどこか気怠げなため息を吐き出した。

「別に疑ってるわけじゃねェよ。ただ……」
「……?」
「負担なんじゃねェかと思ってな。少なくともこれまでの方が気楽だったろう。お前は多分、おれに……抱かれたいわけじゃねェだろうから」
「だっ……そ、そ、んなことは、わたしはその」
「分かってる、お前は素直じゃねェからな」

 ベッドに落ちたわたしの影の中で、スモーカーさんは僅かに目を伏せる。

「それでも、実際のところ確証のねェ話だろ。お前がおれが頼りにしてるのは知ってる。おれを受け入れるだけの情愛があるってことも。だが……お前はおれに惚れてるわけじゃねェだろう。おれはお前が何も知らないのをいいことに、無理やり口説き落としただけだ。だからいつか、お前がどこぞの馬の骨に入れ込むようなことがあってもおかしくねェんじゃないかと……」

 珍しく取り止めのないスモーカーさんの吐露に思わず眉を寄せる。おかしい。なんだって普段、傍若無人を地で行くこの人に限ってこんなしおらしいこと言い出したんだ。念のためぺたりとおでこに手を当ててみると、スモーカーさんに胡乱げな眼差しを向けられた。

「……何してんだ」
「まだお酒抜けきってないんですか?」
「……。言いてェことは分かる」
「分かってるなららしくもなく弱気なこと言わないでくださいよ。わたしは別に押し切られたからこうしてるわけじゃないし、相手がスモーカーさんじゃない限り他の誰ともこんなことできません。というか、わたしがあらゆる意味でスモーカーさんじゃなきゃダメなのは、スモーカーさんが一番よくご存知でしょう」

 刺々しく言い募ると、スモーカーさんの目が一瞬僅かに見開かれ。それからすい、と弓なりに細められる。なんとなく自嘲気味な笑い方だ。

「悪い。頭では分かっちゃいるんだが……温度差がな。この状況で……おれだけが、お前が欲しくて堪らない」
「……。手、出さないつもり、って言ってたのに」
「それとこれとは別の話だろ。惚れた女を前にして欲情しねェ男がいるか」
「ほ、ほれ……っぅ、わ」

 彼の指先が、つとわたしの背筋を下りていく。心なしか、またしてもやらしい触り方だ。冷や汗が滲むのを感じつつ顔を上げれば、スモーカーさんの危うげな色の眼差しに射止められた。ごくりと生唾を飲む。わたしの視線を受け止めて、彼は低く掠れた声で囁いた。

「早く既成事実が欲しい。お前がおれから逃げられねェように」

 ぎゅ、と腹の底が引き絞られるような感覚。こういうとき、なんとなく自分の倒錯を感じる。

 信用ないな、わたし。もしかして、やたら周囲に隠す気がないのも外堀から埋めようとしてるからなのだろうか。そんなことしなくたって、わたしはスモーカーさんから離れられやしないのに。
 しかし、こうやって話し込んでみてやっと分かったことだけど、わたしの思ってた以上にこの人にとって肉体的な繋がりというのは重要で、かつ急を要することであるらしい。分かるようで分からない感覚だ。なにをそう焦る必要があるんだろう。よりによって、わたしみたいなちんちくりんを相手に……。

「なんか、実はその……意外、でした」
「なにが」
「スモーカーさんは、あんま、なんというか、……旅行の時は状況が状況でしたし、わたしのことはそういう目で見れないんじゃないかと思ってました。わたしってこう、他の女性の方と比べて上から下まで寸足らずな感じありますし……ここ数日も、そんな感じじゃなかったので、てっきり」
「……あのな、ナマエ」

 スモーカーさんが憮然とした表情をわたしに向ける。尾てい骨の上あたりに置かれた彼の手が、するりと素肌へ入り込んできて太腿が震えた。ゆ、指の位置が、なんか微妙なラインを攻められてる気が――

「おれが……ここに至るまで一度も、お前の裸を思い浮かべて慰めたヽヽヽことがねェと……本気でそう思うのか?」

 は、。

 なぐ、



「――ぅあ!」

 腰に置かれていた手を跳ね除け、スモーカーさんの体の上から転がり落ちた、ところでいきおい首根っこを掴まれた。ベッドの外へ逃げ出そうともがくも、ずるずる呆気なく布団の中へ引き戻される。こ、こ、このやろう。

「おい、どこ行くつもりだ」
「セ、セセ、セ、クハラ、でっ……」
「交際相手でもセクハラになるわけか?」
「つ、付き合ってるかどうかとか関係ないです。そういう露骨なの本気でやめてください! んああ、ほんッとに、もお……!」
「おれァお前が存外耳年増で安心してるよ」
「ご……ご存知の通り子供じゃないので」

 ぐ、ああ、し、信じらんない。今までずっと一つ屋根の下で暮らしてたのに全然気づかなかったというか、そういう想像されてたって事実が衝撃的すぎるけど、若干この、なんというか、事実としてそういう目で見られてることにほっとしてる自分があらゆる意味で最悪というか、そもそもスモーカーさんってご自分でそういうことしたりするんだ……じゃなくて。何考えてんだもう、何一つ聞かなかったことにしたい。
 頭まで布団を引っ被って身悶える。と、いきなり肩を引かれて手前に転がされた。仰向けのわたしを片肘をついた状態で見下ろして、スモーカーさんはふっ、と眦を下げて笑う。多分わたしの顔が相当愉快な有様だったのだと思われる。

「悪かった。暫くは健全な付き合いを心がける」

 スモーカーさんはわたしの鳥の巣頭を丁寧に撫で付けながらそんなことを言っている。何食わぬ顔しやがって、腹立つ。とりあえず撫でて宥めときゃいいと思ってそうなとこも腹立つ。悲しいことにその通りだ。
 はあ……全く変な汗をかかされた。健全なお付き合い、とかいう言葉がこんなに似合わない方もそういないだろうに。よくよく考えてみればスモーカーさんだっていい歳した男の人なわけで、長いこと同居しておいて今更、めんどくさいわたしにいちいち合わせてやる謂れなんてないはずなんだけど。なんだかんだでわたしに甘いのか、誠実であろうとしてくれてるのか。……もしかして、けじめ、ってそういう意味なのだろうか。

 今更ながら。……すごく、大切にしてもらってるのかもしれない。実際、わたしを好きだった間もずっと、何もしないでいてくれたわけだし――。

 ――や、待てよ。

「仕方ないから許してあげますけど、……その代わり、今から聞くことに正直に答えてください」
「なんだ」
「あの時変な反応してたでしょう。わたしのファーストキスって、本当は何回めだったんですか?」

 わたしの唐突な問いに、耳の上の髪を解いてきていた手を止めて、イマイチ微妙な顔をするスモーカーさん。なんか不穏な気配だ。

「そんなに気になることか?」
「めちゃくちゃ大事なことです」

 頭上のスモーカーさんを見上げながら強く言い切る。わたしが認識してないのが一回、あの人工呼吸の件だけならそれでいいのだ。これは信用問題に関わることである、きちんと答えていただかなくてはならない。わたしの気迫に押されたのか、スモーカーさんは気乗りしなさそうにしながらも口を開いた。

「三回目だ」

 さ、三。……。

 指折り、数えるまでもなく数が合わない。

「う……嘘だと言ってください」
「そうだな、まァ……正確には四回か。確か救命措置の吹き込みに二回……」
「そういうこと言ってんじゃなくて、というかちゃっかり人工呼吸カウントしないでください! それよりそのもう一回はなんなんですか、一体いつ、どこで……」
「さァな」

 なにがさァな、だちくしょう。初めになあなあにされた時点で薄々察してたけど、やっぱり、わたしはとっくの昔にスモーカーさんに慰み者にされてたのである。ひどい、ひどすぎる。ていうかまじでいつの話なんだ、まさか人工呼吸の件より前とか言わないだろうな。自分の純潔を信じてこれまで必死だったわたし、めちゃくちゃばかみたいじゃないか。やっぱしヒナさんたちの反応の通り、スモーカーさんの理性はあんま当てにならないのかもしれない。


「――そういや丁度、こんな感じだったな」
「え」

 唐突に、冷えたスモーカーさんの唇が落ちてくる。

 反応が追いつけずに一瞬息を止めていた。スモーカーさんが指の背でわたしの耳を撫でながら、ほんのりアルコール味の息を入れてくる。数秒の沈黙のあと、彼の唇が離れてようやく、わたしは呼吸の仕方と文句の言葉を思い出した。

「……ちょっとお酒くさいです」
「今のうちに慣れておけよ」
「はあ、もお……」

 一回で済ませてくれるはずがないのはすでに自明の理だった。性懲りも無くもう一度唇を重ね合わせてくる、スモーカーさんの首にやれやれと腕を回す。彼の鼻先が頬に当たるのが分かる。医療棟以来のキスだけど、やっぱりこの人はちょっとねちっこくて良くないと思う。それでもやたら緩慢な、とろとろと微睡むような口付けは妙に心地良く、繰り返すうちに段々意識が朦朧としてきた。息継ぎの瞬間を見計らって、ふわりとあくびをひとつ吐く。

「スモーカーさん、わたし、かなりねむいです」
「……本当に色気のねェ奴だな」
「だって、しょうがないじゃないですか。今日は市場に行くのにすんごい早起きしたんで……なので、そろそろ寝かせてください」
「お前、寝てる間に、とか考えねェのか?」
「ばかですね、スモーカーさんは……今更、そんなことするつもりもないくせに」
「誰に合わせてやってると思ってんだ」

 そんな悪態をどこか遠くに聞きながら、わたしはいよいよ重みを増しつつある瞼をゆっくりと閉じた。そっとわたしの目元を撫でてくる、スモーカーさんの指先がくすぐったくて、少しだけ声を上げて笑う。

「おやすみ」
「……おやすみなさい、スモーカーさん」

 なんか今日は、よく眠れそうな気がする。

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