No Smoking


▼ 44-1/3

 ――トク、トクと。淡い拍動を刻んでいる。

 消毒液の、匂いがする。

 糸をひとすじ手繰り寄せたみたいに、ゆっくりと意識が浮上した。薄皮一枚隔てた暗闇の向こうから、穏やかな光の気配を感じる。塞いでいた瞼をそっと持ち上げると、膜が張ったような視界に飾り気のない天井が映り込んだ。大きめの窓、白く透けるカーテン、金具に吊られた空っぽの輸血パック。なんだか見覚えのある内装だ。ここは――医療棟、だろうか。

 ……どうやら、今回も無事生き延びたらしい。

 天井を見上げたまま、ひっそりと息を吐き出した。こんなふうに病室で目を覚ますのは、一体何度目になるだろう。うんざりしてしまいそうなのであえて回数の明言は避けておくが、この分だとそろそろ一生分の不幸を使い果たしそうだ。とはいえ、今回のことで諸悪の根は絶たれたはずである。これが最後の病院送りになることを祈っておこう。

「――……」

 はて。なにやら、人の気配を感じる。

 やおら視線を向けた先、ベッドのそばには意外にもスモーカーさんの姿があった。考え事をしてるときの前屈みの姿勢で丸椅子に腰掛け、まるで鉄の塊になったみたいにじっとしている。手元に視線を注いでいるせいか、どうやらまだわたしの意識が戻ったことには気づいていないようだ。その姿がなんとなく新鮮に思えて、わたしはしばらくそのまま、彼の無防備な横顔を眺め続けた。
 俯きがちな輪郭の線、形のいい鼻先、深く影の落ち込んだ目もと。一体なにを考えてるんだろう。傍目には、少なくとも気分が良さそうには見えない。てっきりまだ事後処理とかで忙しくしてると思ってたんだけど……。わざわざ付き添ってくれるなんて、わたしのことがそんなに心配だったのだろうか。

 ふっ、と込み上げた息を吐く。

 途端、スモーカーさんが弾かれたように顔を上げた。ばちんと勢いよく視線がかち合う。わたしの無事を確認するなり、彼の面差しが――安堵や、緊張や、不安が綯い交ぜになったような――複雑な感情に彩られるのが目に見えて、なんだか少しおかしかった。

「ナマエ」
「おはようございます、スモーカーさん」

 掠れ声でご挨拶しつつ、肘を支えに上半身を引き起こそうとした。が、いまだ貧血の腕にはどうも思うように力が入らない。ふらつくわたしを見かねてか、スモーカーさんが躊躇いがちに手を差し伸べてくれたので、わたしは「ありがとうございます」と素直にお礼を告げた。

「ふふ、今回は待っててくれたんですね」

 力強い彼の手を支えにしながら、顔を覗き込むようにして笑いかける。そんなわたしの振る舞いに、スモーカーさんの張り詰めたような緊張はいくらか和らいだようだった。きっとこれは、以前わたしが彼に与えたトラウマ――曰く、わたしからの手酷い拒絶を受けたこと――が原因なのだろう。らしくもなく不安にさせて、ほんと申し訳ない限りだ。

 スモーカーさんの手を離して居住まいを正し、寝相でよれた襟合わせを整える。わたしが身に纏っているのはやや大きめサイズの清潔そうなシャツだ。どうやら寝てる間に着替えさせてもらったらしい――流石にあの血みどろの服のままにはしておけなかったんだろう。なんとなしに光が差す方へ視線を巡らせると、レースカーテンの向こうに透けて見えたのはまだ晴れやかな午後の青空で、時間帯はおおよそ三時くらいかなと見当をつける。となると、さほど長い間眠ってたわけじゃなさそうだ。
 きょろきょろ落ち着かないわたしに対し、スモーカーさんは姿勢を元に戻したきり微動だにせず、こちらから目を逸らすことさえしない。わたしの言動に生ずる僅かな不具合も見逃すまいとしてるかのようだ。そんな彼の視線を意識しつつ、後回しにしていた首の包帯にそろそろと触れてみる。ふむ、思いの外硬い。神経の集中した指先は、患部にしっかり巻かれた布の手触りをこと細かに拾い上げた。

「……思うんですけど」

 包帯の表面を撫でながら口火を切る。一向に話を切り出さないスモーカーさんの代わりに、なるべく深刻なトーンに聞こえないよう意識する。

「わたしって体質がこの世界に合わないんじゃないでしょうか。思えば初めからおかしかった気がします。運命に嫌われてると言いますか、このままじゃいつかもう一度死にそうですよね」
「……」
「オカルトな言い方ですけど、そういう因果なのかもしれません。本来いるべきじゃないものがいるから、帳尻合わせする仕組みが働いてるとか」
「止めろ。つまらねェ推測をするな」

 ぴしゃりと強い語調で咎められる。知ったことかとでも言いたげな風だった。まあ確かに、わたしを生かしてくれたスモーカーさんにいきなり振るような話じゃなかったかもしれない。苦笑しつつ向き直ると、彼の眉間の皺はまたひとつ深さを増していた。

「……傷は痛むか」

 視線がちらと首元へ落ちてくる。わたしは包帯に添えたままの指先で、この辺にあるであろう怪我の位置を上から軽く抑えてみた。止血のためかきつめの包帯は圧迫感が強く、傷そのものの痛みはほとんど感じない。

「それほどじゃありません。出血は多かったですけど、大した怪我じゃないですよね?」
「……結果的にはな。だがあと数ミリずれてりゃ、死んでてもおかしくなかった」
「悪運の強さだけは喜べますね。というかそれよりもなんか、掴まれたとこのが痛いです」

 軽く伸びをして顔を顰めた。頭皮とか背中とか腕の輸血針の跡とか、痛いところはそれはもうあちこちあるのだが、特にこう……あんま思い出したくないけど、胸の辺りがじんじんする。スモーカーさんはぴくりと表情を固くすると、少し間をおいて、やたら起伏のない声で尋ねてきた。

「どこを触られた」
「ん……と、まあ、平気ですよ。服越しでしたし」
「……」

 押し殺すような、険しい顔つきだ。何か言いたげに脚の間で組んだ手――血で汚れたためだろうか、手袋は着けていない――を握り込んでいる。この件を突っついて彼をやきもきさせるのは本意ではないのだが、しかし当事者としてあの後最終的にどういう顛末になったのかくらいは知っておきたい。わたしは何気なく口を開いた。

「あの人はどうなりました?」

 ――ピシ、と空気にひびが入る。

 スモーカーさんの額に青筋が浮いた。力の籠った指先を小刻みに震わせながら、片手の甲を痛々しいほどに歪めている。想定以上の剣幕だった。肌に突き刺さるひりつくような激昂に、思わず足がすくんでしまうほど。

「怒ってるんですか」
「お前にじゃ、ねェよ」
「わかってますって」
「……身内に、ああいう――おれのやり方に不満を抱えてる輩が居るのは知ってたんだ。だが、お前に手を出すほどの下衆だとは、……腹の虫が治まらねェ。あと数発殴っておくんだった」

 スモーカーさんは唾棄せんばかりに吐き捨てた。ここまで直情的にぶち切れてる彼の姿は珍しいくらいで、しかしその理由がわたしと思うと、図らずもじんわり嬉しくなってしまう。いやいや、どう考えても不謹慎だ。反省しよう。
 怒りを飲み下すのに苦心しているのか、スモーカーさんは固く目を閉じ、眉間を抑え、ゆっくりと息を吐いている。しばらくの間そうして、やがてようやく落ち着きを取り戻してくると、彼は顔を伏せたままおもむろに口を開いた。どこか息苦しそうな声色だった。

「悪ィ。全部、おれの責任だ」
「気にしないでください。スモーカーさんは十分対処してくれましたし、今回のことは全体的に、軽率な真似をしたわたしが悪いんですし」
「違う。おれが、……冷静じゃなかったからだ。気が立ってたせいで判断を見誤った。あそこで無駄に追い詰めたのはどう考えても悪手だった。おれのミスだ」
「けどほら、考えようによってはですよ。今回のことがあったおかげで心配の種は無くなったんですから、怪我の功名と思えばいいじゃないですか」
「んな風に思えるわけねェだろ。お前をこんな目を合わせておいて、その上、あんな……」

 言いかけて、スモーカーさんは不意に口を噤む。

「……スモーカーさん?」

 戸惑いつつ呼びかける。彼はもう一度なにか言いかけて、迷い、開きかけた唇を引き結んだ。……どうしたんだろう。この人がこんなに長いこと言葉を詰まらせるなんてわりかし珍しいことだ。険しい表情は相変わらずで、発散される苛立ちが黙っていても伝わってくるほどなのだが、しかし僅かに混じる後ろめたそうな色が彼の激情を鈍らせているような感じがした。

 急きたてるような沈黙の中、根気よく彼の言葉を待つ。ややあって、スモーカーさんは悄然と面を上げた。何かを諦めたような眼差しだった。

「――お前からしたら、どの口で言ってんのかって話だろうがな。昨晩おれが……おれのしようとしたことは、奴とそう大差ねェ」
「……?」

 ぱちりと目を瞬いた。投げやりな彼の態度と、「昨晩」という単語が頭の中でいまいち繋がらない。スモーカーさんは目を逸らし、自嘲気味に言葉を続けていく。

「都合よく……お前を追い込んで、逆らわないのを良いことに手を出そうとした。お前が怯えてるのも、動揺してるのも分かっていて、おれは卑怯にもつけ込んだ。邪魔が入らなけりゃ最後まで止めようともしなかっただろう。お前の意志を尊重すると再三言っておきながら……笑い種だ。そのくせ、他人にはてめェを棚に上げて当たり散らすときてる」

 ――あ。

 ようやく合点がいく。色々あったせいですっかり過去の記憶になってしまってたけど、そうか。スモーカーさんの中でのわたしは、あの晩、ヒナさんに連れられて彼の元から逃げ出したきりなのだ。

「悪かったと、許しを乞うのも烏滸がましいな。ナマエ……」

 呻くような彼の言葉を最後に、沈黙が下りた。



 わたしは、静かにスモーカーさんの姿を見つめていた。目に映るのは苦悩に満ちた横顔だった。

 目が覚めたときからやけに余所余所しいとは思ってたのだ。けどまさかこの人が、あの件についてそんなに思い悩んでたとは想像だにしていなかった。それじゃ、昨晩わたしを襲いかけたこと……あれからずっと負い目に感じてたのだろうか。さっき言ってた、"気が立ってた"原因も、もしかしたらそれが関わってるのかもしれない。スモーカーさんはまだ、わたしが知ってるヽヽヽヽことを知らないから。
 自ずと眉尻が下がる。きっと……今までのわたしだったら、この人の懺悔の意味を正しく受け取れてなかったんじゃないだろうか。無神経な返事で封殺して、曖昧な優しさに甘えたに違いない。でも今は色々なことが鮮明に見える。だって彼の動機は、気の迷いとか誰でもよかったとか、きっとそういうんじゃないのだ。スモーカーさんはわたしからの拒絶を恐れてて、それと同時に強くわたしを求めてる。それはひとえに彼がわたしを、好きだから――なのだ。たぶん。

「……スモーカーさん」

 そうっと、呼びかける。

 答えるべき問いは、とっくの昔に提示されていた。今まで自分の目を覆い、欺いて、逃れてきた彼からの追求。確信なんて未だにない。回答の先に何が待っているのかも分からない。だけどいい加減、覚悟しなくちゃいけないのだ。今、だからこそ。

「次会ったら、言おうと思ってたことがあるんです」

 彼の反応を待たずに身を乗り出し、おもむろに乾いた手の甲へ触れた。節張っていて、少しささくれていて、それでも暖かなスモーカーさんの感触だ。いつも通りの温度に少しだけ緊張が和らいで、いくらか肩の力が抜けたような気がする。されるがままのスモーカーさんは、困惑したように息を止めていた。

「あの時、受け入れようとしたのはわたしなんです。……いやじゃ、なかったです。スモーカーさん」

 込み上げるような照れ臭さに、じわじわと頬が熱くなっていく。わたし今、どんな顔で話してるんだろう。繋いだ手を通して、この熱は伝わってしまってるだろうか?

「全然、怖くなかった訳じゃありません。ただそれは……多分、この関係がどう変わってしまうのかとか、自分の気持ちが見えない不安とかであって、スモーカーさんに触れられるのが嫌だったわけじゃないんです。わたしは……期待、してました。スモーカーさんに迫られて、このままじゃいけないってわかってても、拒絶したくなかったんです。吐き気も、悪寒も、感じなかった。だから、あんなのと一緒にしないでください」

 言葉を、一つずつ、丁寧に選ぶ。スモーカーさんがゆっくりと目を見開いていく。こんな赤裸々な吐露を口にするのは、涙が滲みそうになるくらい恥ずかしくて堪らないけど、それでも今回こそはちゃんと伝わるように。絡まってしまった誤解の糸を、一つずつほどいていくみたいに。

「スモーカーさんなら大丈夫だって、わかってます」
「まさか、……」
「長いこと、お待たせしてごめんなさい」

 はにかみながら口にする。心から出た謝罪だった。今なら、多分分かる。本当に長い間……スモーカーさんに酷いことをしてしまったと。


「――ナマエ」

 夢とうつつを彷徨うような、低く掠れた声。

 握っていた手が解かれ、わたしの顔に伸ばされる。信じられないものを見るような表情のスモーカーさんに、用心深く頬へと触れられた。

 くすぐったさにまぶたが震える。平たい指の先だけが輪郭の線をなぞっていく。幻じゃないかと、わたしの在処を確かめるような仕草だと思った。なにもかも今更だろうけど、わたしの言葉だけは疑わないでほしい。首を傾けてその手のひらに顔の半分を押し当てる。スモーカーさんは息を呑んで、わたしの耳の後ろを撫でやり、陶然とうわ言のように囁いた。

「おれの勘違いじゃねェ、よな」
「……たぶん、そうです」
「本気で、分かってんのか」
「はい」
「いいのか」

 スモーカーさんがわたしの顔を持ち上げ、親指でそっと口の端を撫でる。どくりと心臓が音を鳴らした。この先。何を求められてるのかを、理解する。

「……いい、ですよ」
「冗談で、済ませる気はねェぞ」
「分かってます。……きて、ください」
「ナマエ」

 わたしの声に導かれたみたいに、スモーカーさんが身を屈めて顔を寄せた。迫るかんばせが視界を埋め尽くす。緊張して喉が震える。近すぎて焦点が合わないけど、やっぱりこういう時、吊り上がった彼の眉は妙に男性的に見える。伏し目がちな眼差し、薄いまぶた、白く抜けたまつ毛の色。ほんの少し首を傾けた、スモーカーさんの高い鼻先が頬に当たる。わたしより熱い体温と、ほんの少しの葉巻の匂いと、それよりもうんと強い彼の肌の匂い。耳元で脈打つ、わたしの――或いはスモーカーさんの――あまりに早い鼓動だけしか聞こえない。

 この瞬間に、五感の全てが支配される。火傷してしまいそうな、互いの吐息が混ざり合う。僅かに唇の先を掠めたスモーカーさんのそれに、びくりと肩の先が跳ねた。全ての動きが止まる。注がれる彼の眼差しが、最後の許しを乞うていた。

「スモーカーさん、わたし――」

 喘ぐように喉を震わせる。この一線を踏み越えるのは、まだ怖い。でも、だとしてもわたしは、この先に――スモーカーさんが与えてくれるものを知りたい。

「スモーカーさんが、欲しいです」

 あの時の答えを。わたしが言い終えるのとほとんど同時に、彼の唇がわたしの唇に重なった。


 ――スモーカーさん。


 目を閉じる。

 声が、息が、彼の喉の奥へ呑まれていく。

 それは、腰が砕けてしまいそうなほど、どこまでも柔らかな口づけだった。軽く開いたスモーカーさんの唇は、乾いていて、熱くて、驚くほど優しい。この人の体に、こんなに柔らかい部分があるのが不思議だった。この時のためだけにそうあるんじゃないかと、思い違えてしまいそうなくらいに。
 いまにも張り裂けてしまいそうな心臓が胸を打っていた。耳の後ろに添えられた指がわたしの髪を掻き分ける。触れられたところから、はぜるような痺れが全身に広がっていく。脳髄に麻薬を流し込まれてるみたいだ。彼から与えられる全てが、おかしいくらい気持ちよくて、自分の中で何が起こってるのかさえ分からなくて、少し怖い。わたしは身震いしながら、頬に添えられたスモーカーさんの手に必死で追い縋った。

「――っ、は」

 唇が離れる。震える瞼を持ち上げると、想像以上の至近距離で熱っぽい眼差しに射止められた。微かなまつ毛の羽ばたきを感じて、息が詰まる。

「ナマエ、……」

 こつ、と額がぶつかった。スモーカーさんの声が滲む歓喜に揺れている。ああ、どうしよう。肌の熱が伝播して、胸が締め付けられたみたいに痛い。この人はほんとうに、わたしのことが好きなんだ。

「……スモーカーさん」

 そっと、彼の頬を覆いこんだ。わたしの両手の感触が心地良かったのか、スモーカーさんは人懐っこい犬みたいに目を眇めた。細い瞼の隙間から注がれる、メープルシロップみたいな色の視線。慣れない空気が落ち着かなくて、わたしはほんの少し目を逸らした。

「わたし、これがファーストキスなんですよ」
「……初めてじゃ、ねェだろ」
「きゅ、救命措置は数に入らないので」

 あれをキスのうちにカウントされては困る。なにしろわたしはこれまでの人生、唇だけは本当に好きな人ができるまで守り通そうと思って生きてきたのだ。それを捧げたんだから、スモーカーさんはもっと光栄に思ってほしい。すると彼は一瞬意表を突かれたような顔をして、なぜだかひどく可笑そうに破顔した。

「あァ……そういやァ、そうだったな」
「なんですかその言い方……まさか、またなんか隠してるんじゃ――」

 ――。

 口元の温度が途切れる。わたしの手をすり抜けた、悪戯っぽく細められたスモーカーさんの目を見てようやく理解が及んだ。……不意打ちだ。最初の一回を皮切りに、わたしの唇の価値はずいぶん安くなってしまったらしい。

「それで、今のは何回目だ?」
「……あのスモーカーさん、話を逸らさな」
「せいぜい数え切れるうちに教えてくれ」
「へ、」

 反論する間もなく口を塞がれる。咄嗟に身を引こうとすると、逃すまいとばかりに腰に手を回された。ああ、もう……相変わらず勝手な人だけど、まあ、散々辛抱させてしまったし、今回ばかりは仕方ないか。その唇を辿々しく受け止めながら、少し悩んで、わたしは浮いていた腕をぎこちなく彼の首の後ろに回した。

 それからスモーカーさんは宣言通り、何度も、何度も、唇を合わせるだけの、食むようなキスを繰り返した。触れ方はどこまでも優しいのに、受け止めきれないくらいの怒涛だった。かすかに肌が離れるたび、なんとか息継ぎを試みようとするのだが、大抵はスモーカーさんの吐く息に押し流されて終わってしまう。少しは手心を加えてくれと訴えようとして霞む目を開くと、揺れる長いまつ毛と、少し歪んだ眉が見えた。は、と口の隙間から漏れ出す息が荒い。理解してしまう。余裕がないのは、むしろスモーカーさんのほうなのだ。

「っ、ナマエ……」

 一瞬、低い声が漏れ聞こえる。切羽詰まったようなそれを聞いてしまうともう駄目だった。わたしの理性はすっかりスモーカーさんに甘くなってしまったらしい。とても抵抗できそうにない。とにかく、今はなんとか、わたしがスモーカーさんに合わせてあげないと。

「――……は、……」

 短い彼の呼吸の間隔を意識する。唇を合わせるたび、段々と、上り詰めるように呼吸が揃っていく。

 まるで一つの生き物になったみたいに、スモーカーさんと同時に息を吸って、酸素を共有して、同じ温度の息を吐く。互いの境目が溶け落ちていくかのような、あまりに官能的な体験だった。膝が笑ってしまう。どうにかなりそうだ。こんなの、聞いてない。

「は、あ……っ、スモーカーさ、」

 かくん、といきおい腰が抜けた。スモーカーさんが後ろに倒れ込もうとするわたしの背を支えて、逃すまいと唇を追いかけてくる。わたしは慌てて彼の顎を遮ったが、あっさり引き剥がされてもう一度鼻筋を押し当てられた。爛々と注がれる危うげな視線。ちか、すぎる。

「悪い、足りそうもねェ」
「待っ、て、くださ」

 途切れ途切れの声で、必死に限界を訴える。これ以上は、もう――




「――大丈夫ですか、ナマエさん!?」


 バァン!と部屋の扉が叩き開けられた。

「!?」

 ビクリと文字通り飛び上がる。心臓が塩をかけられたナメクジの如く縮こまる。逆上せていた頭から急速に血の気が引いていく。

 ……い、今の声は。

 咄嗟に視線を向けたスモーカーさんの肩越しに見える、大きく開かれた病室の入り口。反動でぎいぎい揺れるドアの向こう――そこにはがっつりしっかりこちらを見つめ、息急き切って駆け込んできたそのままの姿勢で呆然と立ち尽くすたしぎ姉さんの、姿が。


「……え?」


 唖然。沈黙。時間が止まる。


 ――嘘だと言ってくれ。

 たしぎ姉さんは完膚なきまでに静止している。わたしたちの様子をどう捉えておられるのか定かではないけど、この姿勢、この角度、この空気。顔は熱いし、息は上がってるし、なによりスモーカーさんとの距離が近すぎる。頭の中で有効そうな言い訳を並べ立てるも、だめだ、さしものたしぎ姉さんも騙されてくれる気がしない。彼女の頬がみるみる赤く染まってきているのが目に見えて分かる。――ま、まずい。違うんですたしぎ姉さん、いや違くはないけど、とにかくなんとかこの場を収める方法を……ここはもう舌戦だけは強いスモーカーさんに頼るしか。
 お願いしますと目前の男に視線を戻して訴える。腹立たしいことに微塵の焦りも見られないスモーカーさんは、わたしの眼差しを受けてちらと背後を振り返り。固まっているたしぎ姉さんの姿を一瞥し。そして何ごともなかったかのようにわたしの背中を抱え直すと頬に軽いキスを落としてきた。

 ……は?

 え。ちょっとなに、な、人前で、

「しっ、しししし失礼しました!!」
「ち、ちがっ、たしぎね――」

 わたしの悲鳴をかき消すほどものすごい勢いで踵を返した後ろ姿が、バタァン!とこれまた盛大な音を立てて閉められた扉の向こうに消える。床の上を転がるような――というか思いっきりすっ転んでる――足音が慌ただしく壁の向こうを横切り、そして。

「いっ、い、い、いつから、そんなあっ……!」

 やんぬるかな、たしぎ姉さんのでかい泣き声が木霊を響かせながら遠ざかっていく。引き止めようと伸ばしたわたしの腕だけが無為にも虚しく残された。

 ――なんでこんなことに。

 バッと目前の男をふり仰ぐ。二人して接近する足音に気づかなかったのは仕方なかったにしても、その後の展開についてはなにをどう考えてもスモーカーさんのせいだ。いや、ほんと、余計なことさえしなきゃ誤魔化せる可能性はなくもなかったのに! そもそもご自分の部下相手に対してどうしてわざわざバレるような真似したんだ一体、嫌がらせ以外の理由が思いつかない、まじで理解不能だ。震える拳を握ってスモーカーさんを睨みつけるも、それはもうしらっとした態度で受け流された。こ、こいつ。

「スモーカーさん、何してくれてんですか!」
「お望み通り対処してやっただろ」
「なんであの状況でほっぺたにキスしてきたのかどうかを聞いてるんです!」
「へェ、場所が不満だったか?」
「ばっ、ぐあああ、そうじゃなくて……!」

 だめだ、お話にならない。スモーカーさんの体を押し退けて、ベッドから降りようと冷たい床に足を下ろした。とにかくまずは追いかけないと。なんせたしぎ姉さん完全に勘違いしてる。確かにスモーカーさんと、その、いちゃついてたのは間違いないけど、いつからもなにもこれが初めてなのに!

「放っておけ。どうせ言い振らしゃしねェよ」
「だ、だとしてもです、誤解を解かないと」
「何も間違っちゃいねェだろ」
「うひゃ」

 よろめきつつ出口に向かおうとしたわたしのお腹に回された腕。スモーカーさんは背後からわたしを抱きすくめ、膝の上に尻餅をつかせるなり耳元に唇を押し付けてきた。思わず飛び出しそうになった悲鳴を呑んで、なんとか彼の腕から抜け出そうと体を捩ったが、く、くそう。当然のことながら勝てそうもない。

「スモーカーさん、あの、離し……!」
「怪我人が歩き回るんじゃねェよ」
「そう仰るなら怪我人の心臓を慮ってください!」
「好きだ、ナマエ」
「へあ!?」

 耳を抑えて振り返る。

 い、今。なんて。

「お前が好きだった、ナマエ。今まで、ずっと」

 スモーカーさんは言い含めるように口にして、愛しげにわたしを抱き寄せると、ただただ柔らかに微笑んだ。



 ――あ、あああ、あり得ない。


 なんで今、……っほんとに、ああ、この、どうしたものだろう。身が持たない。今後スモーカーさんと平穏無事にやっていける気がしない。心臓への負担が大きすぎて、このぶんだと少なくともわたしの寿命の半分は犠牲になる。大体、スモーカーさんがこんなどストレートな愛情表現をするなんて全く聞いてないのだが。こんなのって詐欺だ。なのにクーリング・オフもできない。あんまりだ。
 言葉を失って、わたしは彼の膝の上で石になる。スモーカーさんはわたしの茹で上がっているであろう顔を眺めると、困ったように失笑した。

「確かにこの分じゃ、傷口が開きかねねェな」
「ご、ご理解いただけたようで」
「ったく、とことんタチの悪ィ奴だ。おれをどれだけ辛抱させたら気が済む?」
「今回に関してはわたしのせいじゃな……」
「分かったから、ちったァ落ち着け」
「うぅわっ」

 スモーカーさんがわたしの膝裏に手を差し入れ、ひょいとベッドの上に戻してくる。あっさりシーツに転がされる体。い、今、めちゃくちゃ子供扱いされた気がする。これが好いた相手に対して相応しい振る舞いといえるだろうか。内心ムカつきつつ這い出そうとすれば、ベッドに腰を下ろしたスモーカーさんに上から二の腕を抑え付けられた。わたしの体に影が落ち、意地の悪い眼差しが目前に迫る。こ、これは。

「は、離してください」
「安静にしてろ、つっただろ。できねェなら無理にでも大人しくさせてやるが」
「ばっかじゃないですか?! ちょっと、こんなことしてる場合じゃ、スモーカーさ」



 バァン! と部屋の扉が叩き開けられた。

「ちょっと、たしぎが物凄い勢いで走っていったけれど一体何ごと――」

 スモーカーさんの肩越しに見えた病室の入り口。そこには呆然とこちらを見つめるヒナさんの姿が。ものすごいデジャブを感じる。彼女はわたしとスモーカーさんの現状を即座に把握するや否や、軽く相槌を打って、ビデオの巻き戻しみたいな滑らかさでするするとドアの後ろまで引き下がった。さすがのエリート女将校、こんな時まで無駄に判断が早すぎる。

「あら失礼。わたくしとしたことが」
「ひ、ヒナさ、違うんです! これは……」
「おめでとうナマエ。けれどスモーカー君、ほどほどにしといたほうがいいわよ。そう遠くないうちに他のお客さまが押しかけてくるでしょうから。それじゃ、お幸せに」

 と、言うだけ言って、パタン……と静かに部屋のドアを閉めて去りゆく鮮やかな桃色のロングヘア。カツカツ、羽の生えたようなヒールの音が廊下の向こうへと遠ざかっていく。引き止めようと伸ばしたわたしの腕だけが、二度目にしてまたも虚しく残された。

 ――あ、あまりにも、ひどい。

 わなわな震えながら相変わらず涼しいご尊顔をしておられるスモーカーさんを睨みつける。またしてもなんたる悪びれなさだ。さっきもほぼまるっきり同じことをした気がするが、文句のひとつやふたつ程度では到底足りない。この人が追撃さえしなけりゃ防げる事故だったはずなのに。ほんとにひどい、ひどすぎる。

「スモーカーさん、ど、どうしてくれるんですか」
「……なにをだ」
「早々にお二方にバレたことをです!」
「元から隠す気もねェが」
「困ります、お願いだから隠してください! 変に噂になりたくないですし、特にクザンさんとかに知られたら100%面倒なことになるんですから!」

 ほんとに勘弁してほしい。わたしはまだ自覚したばかりだし、いろんな面で覚悟が決まってないし、そもそも繊細かつ純情な乙女心の持ち主なのだ。大体これはわたしだけじゃなく二人の問題である。保護対象だなんだと、周りからあれやこれや口出しされるのはスモーカーさんだって不本意のはずで……

「おれの知ったことか」

 ――こ、こ、このやろう。

 わたしの怒りなど意にも介さず、でかい手が性懲りも無くわたしの顎に添えられる。"大人しくさせる"というのがどういう意味だか知んないけど、彼の表情を見るに健全なやり方ではないのは確かだ。二度も突撃されたというのに何という面の皮の厚さ、全く反省の色が見られない。
 それから顔面蒼白のクザンさんが飛び込んでくるまでの数分間。スモーカーさんとの仁義なき攻防を余儀なくされたことは言うまでもない。

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