No Smoking


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 ――誰?

 振り仰いだ先。目の前にしたその人物を、はじめ、見覚えのない顔だと思った。

 が、さほど間を置かずに思い出した。この人物を見かけたことは何度かある。そう、彼は確か、スモーカーさんの隊に所属している海兵の一人だ。小太りな背を自信なさげに丸めては、ぼそぼそとくぐもった声で話す、冴えない中年の男だった。
 ……だけど、一体なぜ? 裏切り者はお兄さんじゃなかったのか? 恨みを買うどころか殆ど話したことすらない相手だ。なのにどうしてこの海兵は、スモーカーさんの家に乗り込んでまで、わたしを手に掛けようとしてるんだろう。わけが分からない。しかし現実に、男はねっとりと粘つくような、ひどく高揚した視線をわたしを向けていた。

 下手に首を動かせないため目視できないが、わたしの喉元には鋭利な刃物――恐らく抜き身のナイフか何かだろう――が押し当てられている。だというのに、酸欠で意識がはっきりしないせいか、危機感は未だ遠いところを漂っていた。慣れ親しんだこの明るいリビングが、害意を孕んだ非日常に侵されている実感が湧かない。正常性バイアスというやつだろうか。冷静に考えなくたって、間違いなく絶体絶命の窮地なのに。

「そ……その電伝虫を離せ。さもないと、殺すぞ……」

 男は口の中に乾いたパンを満遍なく含んでいるみたいな、もそもそした声で凄んでいる。浅く被ったキャップの下に見える脂ぎった丸顔。その風貌は例えるなら――肥えたヒキガエルに似ている。引き攣った口角から囁かれるその声や体臭は、言うまでもなく気分のいいものではなかった。
 ともあれ、凶器を持った相手を刺激するのは得策じゃない。わたしは右手を開いてゆっくりと傾け、ナマエツムリをリビングテーブルの天板に滑り落とした。ガツン、と耳を塞ぎたくなるような衝突音が鳴り響く。ああ、頑丈だから大丈夫だとは思うけど、毎度雑に扱ってごめんなさい。今度お詫びに美味しい餌とか買ってあげよう。無事にこの事態を乗り越えられたらの話だけど。

「は、はあ、よし、……」
「っぐ」

 乱暴に襟元を掴んできた太い腕に、体ごと正面を向かされる。ナイフの側面で顔を上げさせられ、ひたひた顎を叩かれた。まるで猫にいたぶられる獲物になったみたいに。

「怖いか? なあ、おい……」

 肉のついた頬を持ち上げて、にたりと嗤う男。

 ぞわ、と背筋が粟立つ。――麻痺していた脳がようやく危険信号を送り始めたらしい。わたしは息を荒げる相手を見上げたまま、刃渡りが喉に食い込まないよう、慎重に生唾を飲んだ。

「あの、あなたは」
「黙れ。し、質問の許可は出してない」
「……」
「おれが、誰か、お前にわかるか?」

 誰かもなにも、どう見たってただの強盗か、不審者か、通り魔か……いずれにせよ犯罪者の言動だ。一般人の、それも自分より弱い女子供を脅して悦に浸る――これを海兵の姿といえるのか。
 渦を巻くような不快感が募る。眉をひそめつつ、わたしは震えそうになる唇を開いた。

「スモーカーさんの部下の方、ですよね」
「は、はは、……おいッ!」

 大声の恫喝。反射的に体が竦んでしまう。そんなわたしの反応に気を良くしたのか、男はしたりげに鼻を鳴らしてみせた。ああくそ、情けない。こんないかにもな下衆からいいようにされたくなんかないのに。

「お、おれをあんな三下野郎の、部下に収まるような器だと思うなよ。いいか、教えておいてやる――」

 ……三下、ってもしやスモーカーさんのことを言ってるのか? なにをばかな。わたしの困惑をよそに、男は口の端に泡を滲ませながら捲し立てる。

「よく聞け。おれは、あの野郎に破滅させられたんだ。あいつさえいなければおれは、こんな目に遭わずに済んだんだ。奴こそ諸悪の根源だ。あいつに肩入れするお前も同罪だ。だから、制裁を受けて、当然なんだ。なのにお前という売女は毎回毎回、恥ずかしげもなく生き延びやがって」
「な……」
「やっと気付いたか? おれがお前を売ったんだ。お前は奴のお気に入りだし、協力したら昇格できるって約束もあったからな。お、お前を狙った手口は三回とも、このおれが、裏で手を引いてたのさ。お前に直接恨みはないが、スモーカーの奴に痛い目を見せてやるのに、都合がよかったんでね」

 ――……。

 言葉を失った。……頭が痛い。

 それじゃとどのつまり、なにか。この男はなんらかの事情でスモーカーさんを憎んでいて、彼を失墜させるチャンスを窺っていたと。そして今、三度の事件――恐らく根性焼きの件と定期召集、直近の島外拉致を指すのだろう――その全ておいて内部犯と通じ、情報を漏洩させた己の所業を、わたしへの冥土の土産とばかりに自白した、と。そういうことらしい。
 ……一から十まで言いがかりだ。ふざけた話だった。わたしの左腕や肋骨や首を散々な目に遭わせた一連の事件が、こんな根も葉もない復讐心とちんけな出世欲を発端にしていたのかと思うとやるせないものがある。これなら保身に必死だった内部犯のほうがいくらかましだ。仮にスモーカーさんに落ち度があるとしても、わたしを標的に据えた時点でただの卑怯者じゃないか。

 ああくそ、一旦落ち着こう。とにかく、こうなると、拉致犯が二人いた件についての話が違ってくる。あの時、わたしを攫ったもう一方の人物。その正体がこの男なのがほぼ確定事項だとすれば……わたしはどうやら、致命的な思い違いをしていたらしい。

「じゃあ、裏切りのお兄さんは……」
「あ? ……ああ、お前確か、あのコソコソ嗅ぎ回ってやがった能無しを、そう呼んでたな。フン、やっぱり組んでやがったんだな。あんな雑魚、嗾けられたところで怖くもないが。あ、あの時だって、時間さえあれば確実に殺れたんだ」

 お兄さんのあの怪我。――ああ、ちくしょう、本当に申し訳ないことをしてしまった。わたしを保護しに来てくれたという言葉に嘘はなかったのだ。お粗末な推理でお兄さんを疑うんじゃなかった。さっき、彼を信じて素直に本部に向かっていれば……今更悔やんでも詮無きことだが。

「そうだ……元はといえば、あいつが裏切りやがったから、……」

 何かが逆鱗に触れたらしい。男はわたしのシャツの襟を掴んだまま、ぶつぶつとうわ言のような呪詛を吐き始めた。焦点の合わない目を壁に向けて、あいつのせいで、とか、あいつさえいなければ、とか同じような責任転嫁ばかりを繰り返す。

 わたしはリビングテーブルの縁を膝裏に感じながら、鈍い頭を必死に巡らせた。前向きに捉えよう。お兄さんが味方で、スモーカーさんの指示で動いていたんだとしたら、状況はそんなに悪くない。最初から裏切り者の存在を把握してたなら、わたしが逃げたこともかなり早い段階で伝えてくれてるはずだ。"あれ"さえ上手くいっていれば、わたしの危機と居所の見当はつくはず――つまり、これは時間の問題なのだ。
 すべきことはこれまでと変わらない。わたしはほんの数分、時間を稼ぐだけでいいのだ。あの人はいつだって必ずわたしを助けに来たし、それは今回だって例外じゃない。

「――お、おれだけがこんな目に遭っていいはずがない。奴ら、おれが、寛大にも許してやってたのにつけ上がりやがった。きっと連中の卑怯な策略にハメられたんだ。優秀なおれを妬んで、お、貶めようとしやがったに違いない!」

 思索に耽っている間にも、男の語気はいよいよ激しさを増していた。力加減を忘れているのか、ナイフの刃は容赦なくわたしの首の皮に食い込んでくる。

「クソみたいな上司も、腑抜けた同僚も、あの裏切り者もっ、人の足を引っ張ることしかできない能無しのくせに! お、おれは、奴らの目論見通り、裏切り者に仕立て上げられたッ!」
「う、」

 息苦しさに耐えきれず微かに身じろぐ。と、男はようやく我に返ったらしい。はっと下ろされた不躾な視線が、品定めするみたいにわたしの全身を睨め回した。

「――だが、こんなチャンスを与えられるとは」

 目を細め、男は感じ入ったように身震いする。

「い、今ばかりは、お前に感謝だな」
「……。わたしを、殺すんですか」
「ハ、ハ、今更怖気づいたのか?」

 ずい、と迫る鼻先。身を引くことも、顔を背けることもできず、せめてもの抵抗で視線を逸らす。

「ああ、そうだ、大人しく死んでくれ。お前を処分したら海の向こうにでも逃げて、高みの見物をしてやるさ。こ、これで証明される。奴が、自分の子飼いの犬も守れない無能だと、このおれが知らしめてやる」

 唾を飛ばして息巻く男の弁に、自分の表情が歪むのが分かる。当人に喧嘩を売るのが怖いからと標的をわたしに変えておいて、よくもまあそんなことを宣えたものだ。
 腹が立つ。今は媚びへつらってでも場を繋ぐべきだと頭では分かってるのだが、正直いって我慢の限界だった。この男の不快な演説を、もう一秒たりとも聞いてたくない。そんなわたしの反抗心を感じ取ってか、男は威嚇するように手の力を強めた。

「おい、なんだあ、その生意気な目は」
「っ、ぐ……っ!?」

 いっそうきつく締め上げられて靴の踵が浮いた。喉が塞いで息が吸えなくなる。咄嗟に男の腕を掴んだが、相手は腐っても海兵だ。わたしの力では到底引き剥がせそうにない。

「す、すましやがって、気に食わないガキだ。自分の立場を分かってんのか。ホラ、泣くとか、喚くとか、命乞いのひとつでもしてみろよ。殺すぞ」

 いよいよ全身が吊り上げられ、爪先さえも床から離れてしまう。全体重を乗せた襟元が悲鳴をあげる。苦しい。生理的に弛んだ涙腺が視界を霞ませてくる。大人しく従うべき状況だ。ここで逆上されたらどうなるか分かったものじゃない。素直に泣き喚いて許しを乞えば、男の溜飲も多少は下がるだろう。それが正解だ。そんなことは、分かってる。

 喉が震える。喘ぐように大きく息を吸う。

 それでも。どうしても。――こんな奴におもねるなんて選択肢を、わたしが選べるはずがなかった。



「お断り、します」

 男が、目を剥くのが見える。静まり返ったリビングに、自分の台詞だけがやたら明瞭に響いて聞こえた。

「あなたに、媚びるほどの価値はない。弱くて、生意気で、気に食わないガキひとりすら思い通りにできない、……その程度の人間があなたです。認めたくないんなら、さっさとわたしを殺したらどうですか? 弱い相手にしかいきがれない卑怯者なんかに、わたしを、恭順させられるわけないんですから」

 言ってしまった、という気持ち半分。
 言ってやった、という気持ちが半分。

 窮鼠が猫を噛むなど、きっと想定の埒外だったのだろう。目の前の顔がひくひくと引き攣り、憎々しげに歪む様を、どこか人ごとのように眺めた。無謀にも思いっきり神経を逆撫でしてしまったが、短絡そうなこの男のことだ。今のわたしの煽りを聞いてすぐ殺しにかかるのはプライドが許さないはず。大丈夫、まだ時間は稼げる。上手く意表を突いて、なんとかこの場から逃げ出す方法を――

「っえ」

 ――ぐるり、視界が回る。

 一面の天井、が。

 刹那、背中を打ち付けた激しい衝撃に呼吸が止まった。リビングテーブルの上に叩きつけられた、と理解するまでにコンマ数秒。脊髄から四肢に走る激痛と痺れに耐え、塞いだ瞼をこじ開ける――と、視界の半分を埋める黒い影が見えた。息を呑み、わたしに覆い被さろうとするそれから逃れようと咄嗟に体を捻る。が、努力も虚しく、うつ伏せになった背中にのし掛かられて、あっさり身動きを封じられた。

「離っ……!」
「き、気が変わった。おれを、馬鹿にしやがったなッ? 身の程を知らない、生意気なガキには、相応の立場ってものを、分からせてやらないと」
「!」

 テーブルの縁へ伸ばしたわたしの右袖に、ガツン、と杭のようにナイフが突き立てられる。う……腕は切れてない、が、引っ張っても抜けない。
 まずい。凶器から手を離させたとはいえ、わたしを屈服させることにやたら拘っているこの男が次に取りそうな行動といえば二択しかないのだ。暴力か、或いは――

「ひ、っ」

 ぬるり、と脇に差し込まれた男の手。まるで人形を扱うみたいに、わたしの上体を持ち上げてくる。背中に生温い贅肉の感触が密着する。僅かに浮いた股の間に割り入ってくる男の太腿。押し付けられた下半身。

 ――明らかな意図。

 ぶわ、と冷や汗が噴き出した。

「は、離して、くださ」
「おい、さ、さっきまでの威勢はどうしたんだ? 別に初めてでもないくせして、今更清純ぶってんなよ、なあ。お前、普段からあいつに抱かれてんだろ」
「っ、な、そんな、わけが――」
「え? ……もしかしてスモーカーのやつ、まだ手出してないのか? 嘘だろ、お、お前まだ処女?」

 カッと頭に血が昇るのがわかる。最低だ。喜悦に上ずったその声が気持ち悪い。

「スモーカーさんが、そんな」
「あ、あー、いいから、そういうの」

 男は辟易したようにそう切り捨て、わたしの体を物みたいに揺する。怖い。いやだ。なんとか、逃げなくちゃと思うのに、脊髄から注がれるような震えは頭から爪先までの全身を支配する。萎縮した両手から感覚が抜けていく。痙攣する瞼。意識が飛びかける。なんで。違う、息だ。息を吸わないと――

「お、意外とある」

 不意に、意識が向いた。

 他人の温度があった。両胸が、じっとりと湿った手のひらに覆われている。何匹もの芋虫が這うような錯覚。ぶよぶよした指先が、わたしの形を確かめるみたいに服の上を撫でさすっていた。

 ――頭が、真っ白になる。

「う、っぇ」

 内臓がうねり、胃から迫り上がった塊が喉をこじ開けた。何も腹に入れてなかったせいか、濁った胃液だけがぼたぼたと口からテーブルに垂れ落ちる。酸を吐いた舌が、焼け付くような痛みを帯びていた。思考が追いついていないのに、それでもわたしの体は、自ずと拒否反応を示したらしかった。

「は、吐くほど嫌がらなくてもいいだろ」

 男の声が動揺に引き攣っている。徹底的な拒絶を受けて、憤慨しているようにも聞こえる声だった。

「少しは、女の身の程を、弁えたらどうなんだ」
「スモーカーさ……」
「それはもういいって」
「い、ッ――」

 強く握り込まれて痛みが走る。反射的に背が丸まったのが癪に触ったのか、髪を乱暴に引っ張られて無理やり顔ごと上げさせられた。

「お、お前で妥協してやるって言ってんだ。少しはいい思いをさせてくれよ、なあ」

 耳の裏にハアハアと生臭い吐息を感じる。シャツのボタンが上から引きちぎられていく。太ももに伸ばされた手が、ボトムスの隙間から奥に入り込もうとしていた。この悍ましさを忘れるはずがない。いつかの夜の海と同じ。奴らはわたしを同じ人間だなんて微塵も微塵も思っちゃいないのだ。道具と変わらない。当然のように貶められて、矮小な自分を突きつけられる。わたしの人格や、意思や、感情などが、まるで無価値に思えて、いっそ死にたくなるほどに。
 なんでだろう。こんな時に、昨日のスモーカーさんのことを思い出す。似たような台座の上で、そこには同じ欲があって、けど何もかもが違っていた。スモーカーさんはずっと、悲しいくらいに、わたしを傷つけまいと必死だった。あの優しさが恋しかった。ばかみたいに今更気づく。わたしはとっくに、あの人のことを受け入れてたんじゃないのだろうか。

 卑欲が、わたしの肌の感覚を侵していく。

 ああ。早く、スモーカーさんに会いたい――



「――あ、」

 声が、聞こえた。わたしの名前を呼ぶ声が。

 男が弾かれたように上半身を跳ね上げた。体が解放されてようやく息をつく。泡を食ったような男の反応を見るに、どうやらわたしの幻聴ではなかったらしい。向こうのほうから物音が聞こえた。スモーカーさんが、もう、すぐそこまできてる。

「なんで、だ」

 男は血相を変えている。玄関から、ガチャン、と金具が引っかかったような音がする。姑息にもこの男、侵入の際に内鍵を施錠していたらしい。とはいえスモーカーさんのことだ、入ってくるまでにそれほど時間はかからないだろう。

「で、電伝虫は。さっき、繋がってなかったはず、」
「……スモーカーさんと、決めたんです」
「あ……!?」

 以前――定期召集のあと。もしまた、悠長に連絡できないくらいの緊急事態が起こったとしても、せめて助けは呼べるようにと……簡単な、いくつかの合図を決めたのだ。もう少し余裕があればよりよい選択肢もあったんだけど、今日はこれが精一杯だった。

「何かあったときはワンコール。あなたがわたしを見つける前に、備え付けの電伝虫からかけておきました。小電伝虫はフェイクです。連絡に失敗したと、あなたへ思い込ませるための」

 家の電伝虫からかけてしまえば位置は伝わる。助けがすぐに来ることはない、と踏んだこの間抜けな男がわたしを害することにやたら時間をかけてくれたのが功を奏した。しかしスモーカーさんのお迎えも過去一の速さだ。次があるなら――ないに越したことはないが――危険が起こる前から隣に立ってるんじゃないだろうか。
 この男は似たようなやり口ばかりを繰り返しすぎた。一体わたしが何回こんな目に遭わされたと思ってる。さっきも言ったけど、本気で復讐がしたいなら、この男はとっととわたしを殺すべきだったのだ。

「もう逃げられないし、逃がしませんから」

 左腕を支えに、上半身を起こす。男の顔を、今度こそ正面から睨みつけて、わたしは強く言い切った。

「わたしに付け込んで、スモーカーさんを出し抜こうなんて、100年早いんですよ」
「お、おま、お前ええ!」

 今しかない。男がナイフを引き抜いた瞬間に、全力で体を捩ってリビングテーブルから転げ落ちた。打った背中を庇いながら、ソファのかたわらに膝をついて身を起こす。大丈夫だ、ちゃんとよけられた。ちょっとだけなにかが掠めた気はするけど、痛みもないし、血も――

「……あれ」

 赤い。

 襟ぐりから胸元にかけての服の布地が、トマトジュースをぶち撒けたみたいに鮮やかな色に染まっている。染まっていく。手で首を抑えてみてようやく、拍動に合わせるようにだくだくと、血液が流れ出ていることに気がついた。
 おかしいな。いつナイフが振り下ろされたんだ。鈍い痛みに対して、溢れ出す血の量が多すぎて混乱する。どれくらい深く切れてるのだろう。わからないが、もしかしたらちょっと、不味いかもしれない。

「――っあ、?」

 ふらつく体を支えようと、首を抑えたまま、逃げた先にあったソファの肘掛けを掴んで、掴もうとした、……のに、足場の感覚が消え失せる。膝から崩れ落ちる。視界が回る。どうなってるんだろう。逃げなくちゃいけないのに。力が抜けていく。両手にフローリングの硬い感触がある。ぽた、ぽたと、血溜まりが広がっていく――

「死ね」

 蹴り上げられて、体が仰向けに転がるのが、なんとなくわかった。ひらめく赤混じりの銀色。血の滴が空中に飛び散る。怒りに満ち満ちた男の顔。わたしの心臓をめがけて、凶刃が振り下ろされる。

 ――それが、男の体ごと横に吹き飛ぶのを、わたしはぼんやりと見上げていた。


「ふざけるなよ」

 怒りに、息を詰まらせたような声だった。

 ソファの陰に視界を遮られ、何が起こってるのかよくわからない。ただ、男の要領を得ない罵倒が飛ぶより早く、拳を振り上げる音と、簡潔な殴打の音が、数回聞こえて。あっけなく伸びたらしい――本当にあっさりしたものだ――スモーカーさんがわたしのもとに駆け寄ってくるまで、多分十数秒もかからなかった。


「ナマエ」

 ひどく狼狽した様子で、スモーカーさんが傍に膝をつく。床と背の隙間に差し入れられた彼の手が、慎重にわたしの体を抱え起こした。ひどく脆い、壊れ物を扱うみたいな仕草だった。
 白んだ視界の中の彼をそっと見上げて、安心して、ほうと息を吐く。真っ白の髪、鋭い切れ長の瞳、精悍な面差し。わたしの名前を呼ぶ声だとか、葉巻くさい彼の匂いとか、触れる時の力加減とか――その全てが心地良く、それでいて、なんだかやけに懐かしかった。

「あァ、くそ、またこれか」
「スモーカーさん……」
「すまねェ」

 謝ることはないのに。今回のことはどう考えても、わたしの軽率な行動に非があるんだし。スモーカーさんがはだけたわたしの襟もとを合わせながら、袖口で首の切り傷を抑えてくる。痛みは、あまりない。

「血が」
「平気、です。ちゃんと、間に合いましたから」
「間に合っちゃいねェだろ、こんな――」

 みるみるうちに彼の白い上着が真紅に染まっていく。手が、怯えたように震えてる。なんだろう、こんな時に限って――むしろこんな時だからだろうか――必死になってるスモーカーさんの表情がやけに愛しくて、自然と唇に笑みが浮いた。

「頼む、目を閉じるな、ナマエ」
「……汚れちゃいますよ、スモーカーさん」
「止血を、」
「安心してください。ちょっと眠たい、だけなので」

 緊張が解けたせいだろうか。瞼が重い。意識が奈落に引き摺り込まれるようだ。このまま身を任せて眠ってしまいたかったけど、今のスモーカーさんから目を離してしまうのは少し惜しくて、ただそれだけの理由が、ぎりぎりわたしの意識を繋ぎ止めている。けど、もうそろそろ限界かもしれない。

 薄れていく視界の中で、スモーカーさんの手が何度もわたしの頬を覆う。革手袋越しの、大きな手だ。

「止めてくれ」

 泣きそうな声だと思った。まつ毛を透かしてそっと見上げる。それはきっとわたしの気のせいなのだろうが、訴えかけるような、くしゃりと歪んだ目もとがなんだかすごく可哀想に思えて、なんとか、どうにか……慰めてあげたかった。

「ねえ、スモーカーさん――」

 何ともないように笑いかけ、スモーカーさんの頬に手を伸ばす。血で汚してしまうのは忍びないので、直接触れてしまわないように心がけて。
 ああ、わたしのためにそんな顔をしてくれることが堪らなく嬉しい。こんな気持ちに、どうやって名前をつけたらいいのかわからない。この人はいつだって綺麗だった。あの時からずっと、わたしの生きる意味。わたしの全て――

「大好き、です」

 力の抜けた腕が、ことりと床に落ちた。

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