No Smoking


▼ 42-3/3

 夜の海は静かに凪いでいた。誰かがつまみ食いしたみたいに小さく欠けた月は、薄く雲がかかって輝きも朧ろだ。冷えた潮風が露出した部分の皮膚を撫で、闇に沈みかけたバルコニーを吹き抜けていく。わたしはひとつ息を吐いて、ブランケットを纏ったロッキング・チェアの背を数センチうしろへ傾けた。

「どう、ナマエ。寒くない?」

 振り返ると、橙色に切り取られた船室の扉からヒナさんのシルエットが抜け出してくるのが見えた。彼女が手にしたマグカップからは、ふた筋の湯気が霞のように棚引いている。

 平気ですと返し、わたしは差し出されたマグカップを両手で受け取った。溢れないようゆっくり膝の上に載せ、なめらかな曲面を手のひらで覆う。鼻腔を満たすのは格式高い紅茶の香りだ。唇を寄せて傾ければ、ミルクティーのまろやかな甘みが口に広がった。
 ……暖かい。色々あったおかげで食欲はすっかり失せてしまったけど、こうやって何かお腹に入れると意外なくらいホッとする。ヒナさんは丸いティーテーブルにご自分のカップを置き、流れるようにわたしの隣へ腰を下ろした。

 あのあと――ヒナさんに連れられてきたのはマリンフォード湾岸の港、つい先刻帰投したばかりという風体の海軍艦だった。ここは船尾に張り出した猫の額ほどのバルコニーで、背後をふり仰げば重たげに帆をたくし上げたメイン・マストを拝むことができる。整備のためか港には海兵が数名残っているらしく、墨のような色をしたさざなみに揺られていても甲板はいまだ人の活気を残していた。
 道中伺った話によると、ヒナさんが早めに本部へ戻られたのはやはりくだんの式典準備が理由らしい。わたしが拉致された件についてはたしぎ姉さんに連絡をとった際耳に入れたとのことで、ずいぶん心配をかけたようだ。そんな事情もあり、マリンフォードに到着するなりスモーカーさん宅に様子を見に来てくれたそうなのだが……結果は歓迎とはほど遠い惨状である。見苦しいところをお見せしてしまってお恥ずかしい限りだが、ともあれ紙一重のところだった。あのまま続けていたらどうなっていたかとか、あまり考えたい話じゃないし。


「――念のため確認しておきたいのだけど」

 おもむろに切り出された台詞に、円い縁から唇を離して視線を上げた。暗やみに目が慣れてくると、月明かりだけでもお互いの表情を伺うのにそれほど難儀はしない。こちらを見つめるヒナさんは、優雅に頬杖をついたまま形のいい眉を寄せていた。

「まさか合意の上だったりしないわよね?」
「え……、あ」

 一瞬疑問符が浮かびかけ、すぐさま問いへの理解が及ぶ。い、いくらなんでも直球すぎる。思い出したように込み上げた羞恥心が頬にさっと熱を通した。

「いえ……」
「ということは無理やり?」
「えと、そういうわけじゃないんですが」
「ふうん、別に庇わなくたっていいのよ。とにかく、未遂に済んでなによりだわ。わたくしの早とちりじゃなかったみたいね」

 揶揄うような表情で目を眇めるヒナさん。口をぱくぱくさせて言い逃れの言葉を探すが、事実なのだから反論の弁が立つはずもない。スモーカーさんの名誉のためにきちんと説明したいところなのだが、自分が流されかけたことを告げるのはどうしたって気が進まなかった。というかそれ以前に恥ずかしすぎる。「何があったの」と問う彼女の眼差しから逃れたくて、わたしは行き場なくマグカップの肌を摩った。

「その……スモーカーさんを」

 もごもごと、歯切れ悪く言葉を選ぶ。ヒナさんに幻滅されたらどうしよう。わたしは両の肩を縮めた。

「多分、焚きつけてしまったんです」
「なぜ?」
「お、思わせぶりなことをしたので」
「……?」
「ですから、その」

 震えそうな指で、強くカップを握り締める。

「か、庇うとかじゃなく、ほんとにスモーカーさんは悪くないというか、ああいう状況になったのも別に無理強いされたからじゃないんです。寧ろ彼はこうなるのを避けたがってたと思うし、旅行のときもその、色々あったんですけど、結局は何事もなく済んで安心してたように見えました。ただ、今日のは……」

 わたし今、何喋ってるんだろ。捲し立てるばかりで顔が上げられない。停滞した思考に反して、台詞だけが足早に空回りを続けている。

「だからつまり、わたしが悪いんです。スモーカーさんは全然そんなつもりじゃなかったのに、もしかしたら、とか身の程知らずに期待してしまって。それでわたしが一方的に変な態度をとって、詰め寄られたのに濁して、スモーカーさんは逃げ道をくれてたのに最後まで止めようとしなかったからっ」
「ちょっと待って」

 はっきりと明瞭な制止の言葉。弾かれるように顔を上げた。見れば、ヒナさんは指で口元を押さえながら考え込むように睫毛を伏せている。吊り上がった柳眉は心なしか、先ほどよりも険しい。

 ――まずい。

 状況を冷静に認識した途端、ヒートアップしていた脳からさっと血の気が引いていくのが分かった。どうしよう、自分の発言を思い出せない。なにかとんでもない失言をしてやしないだろうか。やっぱり呆れてるんだろうか。幻滅しただろうか。わたしが、こんな惨めな卑しさを抱えていることを知って?
 気分がよくない。胃の中身がぐるぐるする。口をつぐみ、固唾を飲んで返事を待つなか、遂にヒナさんがおもてを上げ、訝しげにわたしを見た。赤い唇が慎重に開く。断罪の言葉に身構え、わたしはきつく喉を塞いだ。

「あなた、まさかまだ知らないの?」
「……え?」

 いかにも間抜けな声が出る。

 ヒナさんは戸惑ったような表情でわたしを見ていた。

 あれ……? おかしい、なんだろう。彼女の物言いがあまりに屈託のない声音だったので、思いっきり意表を突かれてしまった。お互い困惑を抱えたまま、数秒間見つめ合う。……なにか、激しい温度差のようなものを感じる。
 もしかしてこれ、わたしがことを深刻に捉えすぎてただけ? というか「まさか」の脈略がよく分からない。まだ知らないのかと言われても、一体何について仰っているのか――



「スモーカー君はあなたが好きなのよ」



 ――……は?


 ひゅう、と吹き込んだ夜風が沈黙を攫っていく。薄明かりに透けながらさらさらと靡くヒナさんのロングヘア。まるでスローモーションのように揺れるそれが、すっかり彼女の肩の定位置に収まるまで、わたしは呆然と言葉を失う羽目になった。

 ……今、なんて?

「あ、」

 いや。うん、そうだ。落ち着けわたし。ヒナさんに限ってこんなタイミングで冗談を言うはずないだろう。つまりなんのことはない。せいぜいスモーカーさんはわたしに甘いから、多少の失敗は気にしなくてもいいって感じのニュアンスだったんだろう。きっと間違いなくそうだ。突拍子もない発言だったので、危うく意味を履き違えるところだった。

「ええ、まあそりゃ、スモーカーさんはわたしのことが大好きでしょうけど――」
「いいえ、わかってないわ。そうじゃなくてナマエ、スモーカー君はね、一人の男としてあなたに惚れてるのよ。あの歳にして初めての片想いってやつね。本人が認めてたから間違いないわ」
「はい?」
「やっぱり聞いてないのね。あの男、らしくもなく尻込んじゃってバカみたい。ヒナ失望」
「待っ、え、ちょ、ちょっと待ってください」

 右手を突き出しストップをかける。

 全く理解が追いつかない。

 いやいや、おかしい、どう考えても変だ。なにぶっ飛んだこと言ってんだこのお姉さまは。折角わたしがヒナさんがそんなばかなことを吐かすまいと気を利かせたのに、やっぱり誤解なくそのまんまの意味だったなんて。こんなこと言いたかないけど、ヒナさん、絶対なんか勘違いしてる。周囲の人からスモーカーさんとの関係を邪推されるのは今に始まったことじゃないけど、それは部外者ゆえの身勝手な想像だ。いくら本人が認めてたからってそれがそのまま事実なんてことには……。

 本人?

 って、誰のことだ。いや、なに言ってんだわたし、スモーカーさんご自身に決まってるだろう。つまりヒナさんのこの妄言はスモーカーさんに確認を取った上でのもので、だから……そういう意味でわたしが好きだと、彼自身が認めてるわけで……

 ……え?

「スモーカーさんがそう言ったんですか?」
「ええ」
「冗談ではなく?」
「勿論よ。以前、直接問いただしたんだもの」
「なにか、誤解があるのでは」
「あら、わたくしがそんなに信用ならない?」
「そ、そういうわけでは」

 彼女の拗ねたような視線にしどろもどろになりつつも、脳裏を埋め尽くすのは否定の仮定ばかりだ。だって、ありえない。そんなはずない。頭は勝手にヒナさんが間違っている根拠だけを探そうとする。

『本心を言え。お前がおれを意識してることは分かってる――』

 まだ耳にこびりついている、淡々としたスモーカーさんの声を反芻する。だってあれの、どこが好いた相手に対する態度なのか。そうならそうと、スモーカーさんならもっと上手くやれるはずで、わざわざあんな回りくどいやり方をする意味は? でも多分彼がわたしに配慮してるのはほんとで、あの夜だって今までだってずっと、あの人はわたしの反応を窺ってばかりで――だからもし、スモーカーさんがああいう、曖昧な態度を取る原因が、今まで散々あの人を突き放してきたわたしにあるんだとしたら――けど、まさか、そんな……。


「――うそ」

 訳、わかんない。


 だって、

 ええと、……。

 ……?


 頭が真っ白になる。混乱している自分の後頭部を、俯瞰して眺めているみたいな、奇妙な感覚に陥っている。ヘリウム入りの風船のように浮き上がる意識の紐をやっとのことで手繰り寄せようとするが、おぼつかず、あまり上手くいかない。

「わたくしの思うに、きっかけはそれよ」

 つと、ヒナさんの視線が遠巻きにわたしの左腕を指し示した。唐突に与えられた現実感に追い縋りたくて、わたしは長袖の奥に引っ込んだ手を意味もなくひっくり返す。回らない頭はばかに素直に、肌に残されたいくつかの焦げ跡を透視した。

「火傷の……? でもあれは、ずいぶん前の話じゃ」
「そうよ。柄にもなく健気でしょう、笑っちゃうわ。あなたにも、言われてみれば心当たりくらいはあるんじゃないかしら」
「……」

 そんなはずは、とは思いつつも。
 確かに、思い当たる節は無いでもなかった。

 ――火傷を負った事件と、その直後の記憶はもうずいぶん曖昧だ。あの時期は辛いことが多かったし、風邪も拗らせたしで、思い出すにしても断片的なシーンが多い。……確かいきなりスモーカーさんに避けられて、一悶着あって、それでも結局無理を押して会いに行ったんだったか。あの雨の降る墓地で、スモーカーさんはなにを話してただろう。重要なことだった気がするけど、どうもはっきりと思い出せない。
 でも、思えばそれからだ。スモーカーさんはわたしの前で葉巻を控えるようになったし、隙を見せるたび苦い顔をしたし、物言いたげに言葉を呑むことがずっと増えたように思う。それでいてひどく優しくもあった。わたしを前にしたとき、スモーカーさんの纏う空気が柔らかくなるのが好きだった。それで時折、わたしの名前を呼ぶ響きに妙な色が混じるときがあって、わたしは何度もそれを気のせいだと一笑に付してきた。頭ごなしに否定してきたスモーカーさんの戯れが、本当に、切実なものだったんだとしたら。そんな可能性に足元がぐらつくような心地がした。

 コップに入った透明な水へ、絵の具を一滴垂らしたみたいに。スモーカーさんがわたしに注いできた言葉と、視線と、態度の数々が鮮明な意味を持ち始める。これまで、訳がわからないと素通りしてきた彼の言動の全て。さっきの畳み掛けるような問いかけも、セント・ポプラでの夜も、家出したわたしを夜通し待っていたときも、彼がわたしを引き止めた満月の海も、お花屋さんに告白された日の振る舞いも、夕方の公園での言葉も。全部。なぜ見落としていたのだろう。だってそもそもこの火傷さえ、スモーカーさんが、自分のものだとかなんとか言ってキス、を……して……


『聞け、ナマエ。おれは――』

「スモーカー君はあなたが好きなのよ」


 噛んで含めるように、ヒナさんはそう繰り返した。



 潮風が吹く。波打つわたしの毛先がさわさわと頬を擽っていた。

 ――そう……なのかもしれない。徐々に、どうやら少なくとも彼女の言い分は事実らしいと、意固地なわたしにもようやく飲み込めてきたが。でも、頭では納得しつつあるのに、感情や、実感といったものが全く追いついてこなかった。喜んだらいいのか、困ったらいいのか、嘆いたらいいのか、全く分からない。まるで液晶を隔てた画面の向こうの出来事みたいに。
 見下ろしたマグカップの中に、わたしのシルエットだけが所在なさげにぽっかりと浮かんでいた。膝の上でじっとしたままのミルクティーは、風に晒されてすっかり冷めてきてしまっている。

「……いつから、知ってたんですか?」

 手元に向けて、独り言のようにぽつりと溢した。視界の隅で、ヒナさんがきまり悪そうに脚を組み替える。しばしの沈黙。ややあって、彼女は観念したように口を開いた。

「実を言うと、結構前から。あなたが覚えているか分からないけれど、事件のすぐ後……今のところ彼と最後に呑みに行った日よ」
「……。その、責めるわけじゃなくて、純粋な疑問なんですが。どうしてわたしに伏せてたんですか?」
「そりゃあわたくし、あの男の手助けなんて御免だもの。できればナマエにはもっと素敵な相手を見つけて欲しかったし」
「でも、なら、今は……」
「……わたくしはあなたの味方なの。これ以上拗れたら可哀想じゃない」

 それは……どういう意味だろう。判断に迷って、躊躇いつつも顔を上げる。視線が重なるのと同時に、ヒナさんは困ったような顔で微笑んだ。

「だってあなた、スモーカー君が好きなんでしょう?」

 ――……。

 じわじわ頬が熱くなる。ああ、きっとあからさまに真っ赤になってるんだろうな。彼女の意見に賛同するかは別にして、そんなふうに見られてたことが既に恥ずかしい。ヒナさん、「あら」とか言って口元を抑えつつ、ちょっとにやけてるし。

「わかんない、です」
「そう?」
「だって今の今まで、わたしなんかがそういう対象になるわけないと思ってましたし、話に聞いてもまだピンと来てないですし、それに……」

 一旦言葉を切り、落ち着きのない親指をマグカップの側面で重ね合わせる。今日一日、ずっと考えてたけど答えが出なかったこと。この段に来ても、わたしは未だ自分の感情に確信が持てなかった。スモーカーさんのことは勿論大好きだ。その気持ちに嘘はない。……でも。

「複雑なんです。スモーカーさんは、今は……わたしの、生きる意味みたいなものですから」
「な、――」

 ガツンと金槌で殴られたみたいに、頬杖をついた肘からずり落ちかけたヒナさん。らしくなく大袈裟だ。泡をくったような勢いで前のめりに詰め寄ってくる彼女から、わたしは背を逸らして距離を保った。

「い、いつの間にそんなことになったのよ」
「その……わたし一度、自分がここにいちゃいけないんじゃないかって、全部放り出そうとしたんです。そしたらスモーカーさんに引き止められてしまって、おれのために生きろと……そう言われました」
「……とんでもないわね。あなたたち相当ぶっ飛んでるわ。というか、それなら何も問題ないじゃないの。もう好きとか嫌いとかいう次元の話じゃないわよそれ」
「でも、だから難しいんです。あの人のことは……誰より大切だと思います。自分の命なんかよりずっと。それを安易に、恋愛感情に置き換えていいのか」
「あなたって、本当……」

 ヒナさんは頭痛を堪えるように眉間を抑えた。わたしの激重感情にいよいよドン引きしておられるのかもしれない。その上――彼女を困らせてばかりで申し訳ないのだが――気がかりはそれだけじゃなかった。

「それに、わたしは……あの人の期待に応えられる、自信もなくて」

 煮え切らないわたしの言を聞いて、ヒナさんは怪訝そうに眉を寄せる。

「……どういうこと?」
「男の人が苦手、かもしれないんです」
「初めて聞いたわよ。そんな風には見えないけれど」
「正確には、その、……そういう目的で触られるのが怖いんです。以前、その、色々ありまして」
「ああ、……そういうこと」

 合点がいったように相槌を打って、彼女はご自身の椅子の背にぎしりと体重を預けた。よかった、デリケートな話なので不安だったけど、海兵さんからしたらありがちな話なのだろう。思っていたよりあっさりした反応で済ませてくれてほっとし――じゃない、前言撤回、めちゃくちゃ怒ってる。怒髪天を衝かんばかりだ。彼女の全身から煮えたぎる静かな怒りに思わず怯んでしまった。

「……むかつくわ。信じられない。ヒナ憤慨。あなたが許すならそいつを絞めあげてやりたいわ。インペルダウンの檻の中にぶち込んであげる。LEVEL5……6でも足りないくらいね」
「あ、ありがとうございます。でももういいんです。二度と会うこともありませんから」
「そう……もし何かあったらすぐ仰いなさい。わたくしがのしてあげるわ。というかそのこと、スモーカー君は知ってるの?」
「分かりません。薄々、勘づいてるんじゃないかとは思いますが」
「なるほどね。……彼が今日まで大人しくしてた理由が分かった気がするわ」

 今度こそ否定の言葉を持てず、わたしはヒナさんとほとんど同時に苦笑した。

 ふわ、と夜風が運んできた眠気にあくびを一つ噛み殺す。両手を持ち上げ、長話に渇いてきた喉をすっかり冷め切ったミルクティーで潤した。
 飲み干したマグカップをテーブルに置き、痺れを拭おうと伸びをする。安楽椅子が傾くと同時に、ふと、床にも届かずに揺れるわたしの脚が視界に入った。見下ろせば、目に映るのは子供みたいに薄い体と、微妙にサイズの合わない服と、サラサラストレートとは程遠い煤けた色の癖毛だ。自分の全身は、ヒナさんに比べると――比較するのもおかしいのは分かってるのだが――なんとも垢抜けないというか、洗練されてないというか、ひどく不恰好に見える。……思わず嘆息した。

「スモーカーさんは、わたしのなにがそこまでお気に召したんでしょう」
「え?」
「だってわたし、ただでさえ可愛げがないのに、ここじゃ誰が見てもちんちくりんだし、見た目も大して良くないし、口を開いても子供っぽいし、めんどくさいし……相当な物好きでもない限り、わざわざ恋愛対象に選ぶ理由がないじゃないですか。特にスモーカーさんなんか、いくらでも選択肢はあるでしょうに」

 あの人、今まで散々人を子供扱いしてきたくせして、ほんとどういう趣味してんだろう。周りにいるのだって魅力的な女の人ばっかりなのに。実はロリコンでした、て言われたほうがよっぽど納得できるくらいだ。わたしは自分のことだから無い物ねだりは諦めてるけど、それでも時々がっかりしてしまうのに。それをわざわざ、どうしてわたしみたいな……。

「反論したいことは逐一あるけど……まず」

 思考を遮ったのは含みのある口調だった。暗がりの中、ヒナさんは口角を持ち上げながら悪戯っぽく目配せを交わしてくる。

「スモーカー君なら、あなたのことがとにかく可愛くて仕方ないって言ってたわよ?」
「かっ……過剰な誇張表現はよくないですよ」
「失礼ね。ナマエ、言っとくけどスモーカー君って相当あなたにベタ惚れなのよ。すぐ惚気るし、下心だらけのくせに格好つけてるし、以前の社交パーティーの時なんかあなたに変な虫がつくんじゃないかって一丁前に焦ってたんだから。フフ、あれは今思い出しても傑作だったわ」
「……それ、ほんとですか?」
「ダサいったらないわよね。幻滅した?」
「えっ。いえ……」

 仄かに火照った耳を慌てて抑える。ああ、ほんと、やだな。自分を散々卑下したくせに特別扱いされるのは嬉しいとか、やっぱりわたしってずるいやつだ。

「まあ、詳しい話は本人に聞くといいわ。 それはもう丁寧に教えてくれるでしょうから」
「そう……? ですね」

 皮肉めいたヒナさんの台詞に、しかし裏の意味を読み解けるほどに頭が回らず、適当な相槌を返した。

 ……それにしても、さっきからやけに口が重い。瞼を持ち上げるのさえ、少し億劫だ。ぐしぐしと目をこすっていると、気遣わしげなヒナさんにいつの間にか顔を覗き込まれていた。

「眠いの? ナマエ」
「……少し」
「休んでいいわよ。疲れたでしょう」

 ヒナさんが身を乗り出し、わたしの椅子の背にあったブランケットを広げて肩に掛けてくれる。のろのろ目をしばたたいて、ありがとうございます、とお礼を言った。……つもりが、くすりと笑われてしまった。どうやら舌足らずになってたらしい。
 瞼を閉じ、すう、と深呼吸をひとつした。遠くの方で囁く潮騒は、意識しなければ耳に入らないほどに密やかだ。わたしはふいに、幼い頃の記憶を思い出した。細い光の筋みたいな襖の隙間から、大人たちの内緒話を聞いて眠った夜のことだ。いつか、自分もあんな風に夜を明かすのかと思いを馳せたものだった。

「……ヒナさん」

 薄目を開く。風と波の音が混ざり、自分の声の境目さえどこか不確かに聞こえている。いつの間にか薄い雲は晴れ、欠けた隙間を埋めるような月明かりが真っ直ぐ海上に差していた。小さく瞬く星を背景に、ヒナさんの鼻先が僅かにこちらへ傾ぐ。一瞬、この世のものとは思えないほどに幻想的な眺めだった。

「ひとつ、変なこと聞いて良いですか」
「なあに?」
「ヒナさんは、スモーカーさんのこと……どう、思ってるんですか?」

 一瞬、意表を突かれたような顔をして。それから彼女はどこかおかしそうに笑った。

「確かにあんまり良い質問じゃないわね」
「……ごめんなさい」
「責めてるわけじゃないのよ」

 そうね、と前置きして、空を仰ぐ。彼女の髪がせせらぎみたいに流れ落ち、光に透けるさまを、素直に綺麗だと思った。白い輪郭線に象られたヒナさんの横顔。特製の秘密を囁くようなルージュの唇に、わたしはぼんやりと魅入った。

「昔は憧れてた気もするわ。スモーカー君は出会った頃からあんな感じでね……同期の中でも目立っていたし、悔しいけれど実力もあったから。正直、カッコ良かったもの」
「……」
「今となっては笑い話ね。ホントがっかりさせられたわ。スモーカー君の名誉のために詳細は伏せておいてあげるけど、彼って本当に碌でもない男なのよ。同期のよしみだの腐れ縁だの、散々都合よく振り回されて、わたくしもすっかり愛想が尽きちゃったわ」

 そう呟いて微笑む、ヒナさんは相変わらず美しかった。

 ――やっぱり、スモーカーさんってばかだなあ。

 呆れて笑ったわたしを、ヒナさんは不思議そうに見つめてくる。なんでもないです、と呟いて、背もたれに体を預け、最後に目を塞いだ。わたしがスモーカーさんの立場だったら、絶対、彼女を放っておいたりしないのに。ほんと趣味が悪い。選択ミスしたこと、後になって後悔するんじゃないかな。よりによって、わたしなんかに絆されたりしなきゃよかったのに。
 波の音を聞きながら、今ごろ家で一人過ごしてるであろうスモーカーさんの姿を想像する。あのあと、ちゃんとご飯、食べてくれただろうか。わたしのはっきりしない態度に腹を立てているだろうか。それとも後悔しているだろうか。明日家に帰ったら、ちゃんと話ができるといい。今なら彼の言葉へ素直に耳を傾けることができると思う。スモーカーさんと顔を合わせたら、今度こそ自分の本心を言葉にできるんじゃないかって、そんな気がする。


「……いいこと、ナマエ?」

 ヒナさんの声が耳に落ちてくる。ほっそりした指先がわたしの前髪を撫ぜていた。

「まずはスモーカー君にちゃんと好きって言わせなさい。ヒナ命令。あの男はずるいから、どうせあなたから先に認めさせようとしてるのだろうけど……こういうのは惚れさせた方が勝ちなのよ。優位なのはあなたなんだから」

 いつだったか、誰かにも、似たようなことを言われた。なんでだったかな。思い出せない。それにしてもスモーカーさん、周りから負け通しを望まれてる感じで、ちょっと笑える。

「おやすみなさい、ナマエ」

 子守唄のように優しいその声を合図に、わたしの意識はさざめく海鳴りに沈んでいった。

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