No Smoking


▼ 42-2/3

 キャベツにじゃがいも、にんじん、玉ねぎ。

 パリッと皮の張ったウインナー・ソーセージ。焼き目のついた厚切りベーコン。おまけに香り付けの乾燥ローリエ。幾重に重なった層の隙間を満たすのは、ふつふつ沸き立つこがね色のコンソメスープだ。鍋の中を彩る鮮やかな暖色のグラデーション――これらをそのまま絵の具にできるとしたら、きっと綺麗な夕日が描けるだろう。

「ふー……ふー……」

 小皿に掬い取ったスープの湯気に息を吹きかけ、頃合いを見て味見をひと口。優しめの塩気と仄かなチキン・ブイヨンの風味、鼻に抜けるような香辛料の刺激のすみずみまで舌の上で味わう。うーん、味付けもばっちり。これで野菜とベーコンのだしが出るまで待てば完璧だ。右手のおたまでぐるりとかき混ぜ、簡単に灰汁を取っておく。これから15分ほどかけて、じっくりことこと煮込むのだ。

「ん?」

 濁った気泡を小皿に取り分けたところで、はたと顔を上げた。今、外から物音がしたような。

「――ただいま」

 ビンゴ、我が同居人のお帰りだ。玄関先から帰宅を知らせる声がして、まもなくスモーカーさんがキッチンに顔を出す。足音と気配からタイミングを見計らうのはお手の物、というわけで、わたしは背後を振り返らないままお出迎えの挨拶を口にした。

「おかえりなさい、スモーカーさん。今日の夕飯はポトフですよ。シンプルイズベストな家庭料理です」
「あァ、やたら美味そうな匂いがする」
「初めにベーコンをこんがり焼くのがコツです。こうすることで旨みと香りが出るのです」
「そうか、道理で肉くせェと……」

 背中越しの声にいきなり距離を詰められてぎくりとした。遠慮なく背後に歩み寄り、手元を覗き込んできた彼からは、ひんやりとした外気と咽せるような葉巻の残り香が漂ってくる。わたしはさりげなく体を傾けて距離を取った。もうすぐでジャケットの裾が触れるとこだったのに、スモーカーさんときたら気にかけてすらない様子だ。ため息を吐きたい気持ちを堪え、つまみを捻ってコンロの火力を落とした。

「あの、近いです、スモーカーさん」
「……そうか?」
「葉巻の匂いが気になるんです」
「今は吸ってねェだろ」
「服に染み付いてるんですってば……。もう、いいからちょっと離れてくださいよ」

 頭上から声を降らせてくるスモーカーさんの胴体を押し除けて、蓋を手に取り鍋を閉じる。謎に張り込んでくれてるとこ悪いが、完成はまだお預けなのだ。

「煮込み終わるまで座って待っててください。それほど時間はかかんないので――」

 言いつつ、きょろきょろ辺りを見回した。あれ、どこやったっけ。引き出しを探そうと手を掛ければ、「あァ」なんて短い返事と共に――どうやら後ろの棚に置きっぱなしだったらしい――キッチンタイマーが差し出された。

「……ありがとうございます」

 何を探してるかも言わなかったのに……存外、よく気がつく人だ。こういうときいつも、なんとなく悔しい気分にさせられる。
 落ち着かない内心を飲み込んで、アナログ式のダイヤルを15分の目盛りに合わせる。カチカチと古風なゼンマイ音を立て始めたタイマーをコンロ脇のキッチン台に置き、調理器具の片付けに取り掛かった。せせこましく動き始めたわたしの妨げになる前にと思ったのか、スモーカーさんはようやくその場を離れる気になったらしい。ちらと振り向くと、棚の上に革手袋を放り投げながらカウンターキッチンを迂回していく後ろ姿が見えた。

「あの、スモーカーさん」

 ボウルを水に浸けておこうかと、視線を下げて蛇口の栓を捻り、水音にかき消されないよう声を張る。さっきは心なしかつっけんどんな振る舞いをしてしまったので、なるべく明るい口調を心がけて。

「最近、お仕事忙しそうですね。今日も先に帰ってるようにって話でしたし」
「あァ、連絡が遅れて悪かった。大した案件はねェんだが、色々と立て込んでるもんでな」
「お疲れ様です。というか手間になるなら、もう一緒に帰んなくていいんじゃないですか? なんだかんだで内部犯の件は無事解決したわけですから」
「……いや、あと数日は様子を見る」

 ふうん? 数日って言い方がどうも引っかかるけど、スモーカーさんのことだから何か考えがあるんだろう。ともあれ、わたしの態度が変に思われてないようで助かった。
 さっさと水を止め、エプロンの裾で手を拭いながら腰の結び目を解く。そのまま脱いでスモーカーさんの手袋の横に畳んで置き、近くに積んでおいたカトラリーボックスを引っ掴んだ。ナイフとフォークと、あ、スプーンが入ってない。そういや今朝使ったんだっけ、今から使うぶんだけ補充しておこう。いち、に……よし、オッケー。

「そういやナマエ、たしぎから聞いたらしいな。近いうち本部で勲章の授与式があるって話なんだが」
「ああ、はい。ざっくりとですけど」

 というより、あの時は上の空だったのであんまり頭に入ってなかったというか。曖昧な記憶を掘り起こしつつ、食器をカチャカチャ鳴らしながら食卓へ運ぶ。前髪を払うふりをして見やれば、スモーカーさんはちょうどダイニングチェアに腰を降ろしたところだ。それにしても、彼の口からこう……イベントごとの話題が出るのは珍しい気がする。

「で、それがなにか?」
「なにか、ってわけでもねェが……どうせおれたちは式にゃ出ねェし、当日は碌な仕事もねェってんで非番の予定でな。お前さえよけりゃ、街の方にでも連れてってやろうかと思ったんだが。まァ折角の晴れの日だ、たまには息抜きでも――」
「へ」

 意表を突かれてパッと顔を上げ……かけたところでスモーカーさんの仕草に疑問符が浮かぶのが見え、慌てて手元に視線を戻した。び、びっくりした。
 全く頭になかった想定だ。話には聞いていたものの全然それどころじゃなかったから、すっかり他人事とばかり。それにスモーカーさんから用事もないのにおでかけに誘われたのは多分初めてのことである。そりゃもちろん彼に他意がないのは分かってるし、せいぜい娘を遊園地に連れてってあげるかと思い立った保護者くらいの心境なのだろうが――それが他でもないスモーカーさんからの提案と思うと、喉の奥に真綿が詰まったような、変にむず痒い心地がするのだった。

「ナマエ?」
「あ、えと。はい。まあ、わたしでよければ」
「……気が乗らねェなら無理にたァ言わんが」
「いえ! その、行きます、スモーカーさんと。まあなんです、他に約束もありませんし」
「フ、……あァ、分かった」

 視界の外で、スモーカーさんがおかしそうに笑っている。……ううん、きまりが悪い。こう、なにかしら釘を刺しておきたいが、下手に言い訳しても不自然だし、素直に喜ぶのも癪だし……なんだかなあ。

 悶々としながら食卓の横に立ち止まる。別に、スモーカーさんと出かけられるのが嬉しいとかそういうんじゃないけど。まあこの人にとっても羽を伸ばせる滅多にない機会であるし、一人で過ごすのも寂しいだろうから、付き合って差し上げてもいいかなってだけで。
 などと見え透いた言い訳を脳内で並べていたせいか、わたしは愚かにもスモーカーさんがカトラリーボックスを受け取ろうと手を伸ばしたのを見過ごしたのだ。というより、視界には確実に捉えてたのに、鈍い脳みそがブレーキを踏み忘れたのである。

 かくして当然の帰結。スモーカーさんの指先がわたしの指先に触れる。予想外の体温。パチン、と電流が駆け抜けたように錯覚し――


 反射的に腕を引っ込めていた。



「ッ――!」

 刹那、耳を劈く金属音。

 支点を失ったカトラリーボックスが宙で見事にひっくり返ったのだ。頭が揺れるほどの振動に思わず目を塞ぐ。溢れ出した銀色の食器はテーブルの角にぶつかって、四方八方ばらばらと床へ散乱した。ぎらついた金属光沢が流れ落ちるさまはさながらゲーセンのコインゲーム。ガチャン、と耳障りな雑音を最後に、空のケースが右足の横を跳ねていった。

「――……」

 沈黙が、鼓膜を切るような残響をひときわ鋭く引き立たせている。

 まずい、ばかだ、完璧にやらかした。今のわたしはどう考えたっておかしかった。どうしよう。昼に続いてまたしてもだ。過剰な反応をしてしまったのを誤魔化し切れる気がしない。
 呆れか驚きか戸惑いか、なんにせよスモーカーさんは言葉を失っている。 緊張で震えそうになる喉を振り絞って、わたしはやっとの事で口を開いた。

「あ、ご、ごめんなさい」
「…………いや」

 言外に、どう考えても訝しまれてる。ちくしょう、それもこれも全部クザンさんのせいだ。恨んでやる。あのおっさんがあんな……変な想像をさせたから!

 そんな責任転嫁をしながらも、疾しさを彼の眼差しに見抜かれるのが怖くて、わたしは逃げるようにその場にしゃがみこんだ。カトラリーボックスを拾い上げ、わざとらしくガチャガチャ音を立てながら散らばった食器をかき集める。フローリングが傷ついてたらどうしよう。ほんと情けない。とにかく一旦時間を稼いで、なんとか気の利いた言い訳を考えなくちゃ、と思ったのに。
 床の影が動き、椅子を引く音がして、ぼやけていた輪郭が解像度を増した。どうやらスモーカーさんが傍らに膝をついたらしい。指先の動作が乱れる。ああくそ、緊張するな、こんなことで。

「貸せ。手伝う」
「い、え、こっちの不手際なので大丈夫です。自分でやるんで座っててください」
「お前に床を這い回らせとくのは落ち着かねェんだ。どうせやることもねェしな」
「お気遣いどうも。けどほんと、お構いなく」

 顔を上げないまま突き返す。スモーカーさんのこういう言い回しとか、不器用なようでいて器用な配慮とか、普段は心から好ましく思うんだけど。今に限っては放っといて欲しかった。
 しかし都合の悪いことに――わざとかもしれないが――わたしの意を汲み取る気はまるでないようで、彼は立ち去る素振りさえ見せてはくれない。

「……お前」

 手元のケースへ乱暴にフォークの束を投げ込んで、聞こえなかったふりをする。やけにしつこい。そっちがその気ならこっちも無視決め込んで……

「あれから、目を合わせなくなったな」

 ぎくり、とあからさまに反応してしまった。

 自然と拳に力が入る。ああ、もう、ままならない。どうしてわざわざ今、あの時のことを持ち出してくるんだ。蒸し返さないでほしい。目を合わせなかったのはわざとじゃない。今日、まだスモーカーさんの顔を一度も見てないのだって、ただの偶然なのに。

「……自意識過剰ですね。気のせいじゃないですか」
「ならこっち向いて話せ。説得力の欠片もねェぞ」
「……」
「ナマエ」

 命じるような、苛立ったような、鞭打つような。

 その声に促され、わたしは渋々おもてを上げる。とはいえ、スモーカーさんはやたら食い下がってくるけど、こんなの別にどうってことはない。普段通り平気な顔を見せてあげれば、この人も納得するはず――

 ――と。

 至近距離でスモーカーさんと目が合った。

 瞬間、思考が停止する。射抜くような双眸がわたしの瞳を通り抜けて脳の中心を貫いた。少し不機嫌そうな表情で、唇を軽く引き結び、彫像の如き縦皺を眉間に刻んでいる。すっと通った鼻筋、彫りの深い目もと、切れ長の一重まぶた。こう改めて見ると――というか知ってたけど――スモーカーさんは、鋭すぎる目つきを除けば意外にも整った顔立ちをしてる。というか、なんというか、スモーカーさんってこんな雰囲気だったっけ? 最近は見慣れたと思ってたけど、やっぱ葉巻吸ってないからとか、そういう理由で違和感を抱いてしまうんだろうか。……生唾を飲む。初めて目にしたみたいにまじまじと、色素の薄い虹彩の模様まで観察してしまい、それがやけに居心地悪くて、わたしはパッと顔を背けた。

「……はい。これで満足ですか」
「ナマエ」

 咎めるようにもう一度名前を呼ばれる。どくどく跳ねる鼓動の音を悟られたくない。俯いたまま無言を返すと、スモーカーさんは浅くため息を吐いた。

「言っただろ。……今更、お前に妙な真似をするつもりはねェ。だからそう警戒するな」
「分かってます。けど、そうじゃなくて」
「そうじゃねェなら……なんだ?」
「それ、は、……」

 ぎゅっと服の裾を握り締める。柔らかなスモーカーさんの問いかけが痛い。何か答えなくちゃいけないのに、ミキサーでかき混ぜたみたいに、ぐちゃぐちゃの思考が定まらない。
 一体この気持ちをなんて説明しようというのだ。あの日を思い出して気恥ずかしいから? 対象外だと言われたのがショックだったから? 見抜かれそうで怖いから? それともまさかスモーカーさんに対して不埒な想像をしたことが後ろめたくて、とでも言う気か。ふざけてる。こんな卑しさを曝け出すくらいなら、警戒心からくる行動だと勘違いされてたほうがよっぽどましだ。内部犯に拉致された事件のあと、病室で変に気まずくなってしまった時の二の舞になるのは避けたい。何も言うべきじゃない。

 ……だけど、そんな理性の訴えを押しやってでも、わたしにはひとつだけ、どうしても知りたいことがあった。

「――その」

 思ってしまったのだ。あの時、あの日の夜のこと。もしかして今なら、尋ねられるんじゃないかって。

「これから聞くことに、深い意味はないんですけど」

 渇いて張り付いた喉を引き剥がし、慎重に口を開く。やめておけと、頭の隅で警鐘が鳴っている。
 分かってる。今更言及すべきことじゃないだろう。けど、だって、先に話題を持ち出してきたのはこの人のほうだ。あれからずっとわたしを苛んでいる疑問。彼の言動の矛盾。あの夜の誘惑するような声や、眼差しや、耐え難い熱の、全てが幻だったとは到底思えない。もしかしたら、スモーカーさんが最後までわたしに手を出さなかった理由は……ただ単に拒絶を恐れていたというだけで、わたしを欲しがっていたのは本心だったんじゃないか、などと、考えてしまう。

「スモーカーさんはあの晩、わたしがもし……受け入れてたら、一体どうするつもりだったんですか」

 こんな都合のいい妄想を、いっそ粉々に砕いてほしい。


「……」

 呼吸を飲み込んだ気配がして。
 それから、スモーカーさんは黙り込んだ。

 変な誤解はされてないと思いたい、けど、わたしの意図はきっとばれてしまっただろう。羞恥心を突きつけられるような沈黙だった。堪え難さから少しでも逃れたくて、落ちているスプーンにそろそろと手を伸ばす。どうやらこれが最後の一本らしい。それを手に取り、しまい込んだ途端、いきなり伸びてきたでかい手にカトラリーボックスを掴み取られる。ぎょっとして頭上を振り仰ぐや否や、わたしから距離を取ろうとしたみたいに、スモーカーさんは素早く立ち上がった。

「……スモーカー、さん?」
「はァ……」

 彼を追って腰を上げる。掴んだ箱をテーブルの一番奥に置きやって、スモーカーさんはがしがし頭を掻いた。なんだろう、いまいち彼の心境がわからない。怒ってる、とも、呆れてる、とも知れない……捲し立てたくて仕方ない叱責の言葉を、無理矢理噛み潰そうとしているような表情だった。

「ナマエ」
「は、はい」
「ひとつ、忠告しておく」
「……は、い」

 スモーカーさんの視線が、つ、とわたしの襟元へ下る。一瞬。それから彼は強く目を瞑り、瞼を開いて、それからもう一度わたしの顔を見た。

「男ってのは味を占めるもんだ。ナマエ、本気で手を出されたくねェなら、お前はおれの戯言なんざに付き合うべきじゃなかった。半端な真似をするな。次同じことがあったら、お前を尊重してやれるかどうか分からねェ」


 ぶわ、とうなじが粟立った。

 彼の言葉と、視線と、歪んだ眦を見て理解する。これは叱責などではない。懇願だ。そしてこれがわたしの問いに対しての返答なら、それはつまり、そういうことなんじゃないだろうか。

「そ……」

 心臓が軋む。正不正解を判断する余裕さえないまま、考えなしの言葉が口をついて出た。

「それは多分、むりです」
「なんで」
「だって、スモーカーさんの頼み事を断るのは……わたしにとって、すごく難しいんです」
「無責任なことを言うんじゃねェよ」
「っ!?」

 ガタンと食卓が揺れる。わたしの両脇、テーブルの端を掴んだ彼の腕に阻まれて逃げ場を失う。ぎょっとして顔を上げるなり、目前に翳された彼の胡乱な眼光に息を呑んだ。一体、なにを――

「――それならお前は、おれが今この場で、抱かせろと言ったら従うわけか?」
「ばっ!? は!? な、んな、っ……!」

 二度目にテーブルを揺らしたのは逃げ腰のわたしだった。今なんて、もう、突然のダイレクトな物言いに理性が追いつかない。顔から火が出たように錯覚する。変な汗が、なんでそんな話になるんだ。性急すぎる、わたしが聞きたかったのはあくまで大前提の可能性の話であって、そういう、具体的なことまで話が及ぶのは想定の範囲外で、大体そういうことは将来を誓い合った相手としかしないって決めてて、だからつまり、覚悟もないし、その気もないし、ありえない。かといって否定の言葉を吐いては僅かな可能性すらも摘み取ってしまう気がして、わたしはそれが怖い。

「答えろ、どうなんだ」
「せ、セクハラです、わたしはそんな」
「まさか期待してたのか」
「ち、ちが……」
「本当に?」

 わずかな躊躇を見抜かれたのだろう。詰め寄ってくるスモーカーさんから逃れようとして、ダイニングテーブルに腰を乗り上げてしまう。まずい、どうしよう。これは本当に違う。何か歯車を掛け違ったような、嫌な予感が。

「待っ……スモーカーさん、い、いきなりっおかしいですよ! 落ち着いてください、苛立つのはきっとお腹が空いてるせいです」
「あァ、そうかもな」
「もうすぐ、すぐですから。あと少しだけ我慢してください」
「話を逸らすな。自分が欲しいもんが何なのか、おれはよく分かってる」
「ぅ、わ」

 がたん、と。彼を遠ざけようと突き出していた両手首を取られ、背中からテーブルに押し付けられた。スモーカーさんが食卓に乗ったわたしを見下ろしている。薄く陰の落ちた目。淡々と凪いだ昏い眼差し。足先に引っかかっていたスリッパの片方が床に落ちる。彼の親指が、わたしの手首の筋を無遠慮に押し込んだ。

「顔が赤い。汗が浮いてる。脈拍も……」
「そ、そんなことは」
「理由はなんだ?」

 スモーカーさんの鼻先がぐいと迫る。掴まれた手首の拘束から逃がれることもできず、わたしは咄嗟に顔を背けた。近づいてくるのが分かって、強く目を瞑る。おでこを擽る彼の毛先。微かな吐息が耳たぶにかかる――

「ひ、や」

 い、今、首すじをスモーカーさんの唇が掠めた。偶然じゃない、わざとだ。酷くささやかな接触ではあったけれど、それがわたしの官能を引き出すためになされた行為だということを、わたしは肌で理解していた。

「だ、駄目で、待ってください! こういうのは、本当に好き合ってる同士が、もっと段階を踏んで、その、することで――」
「うるせェ。下らん御託は聞き飽きた」
「よくない、ことです」
「それはお前次第だ」
「さ、さっきは、妙なまねをする気はないって」
「お前が本気で望まないならな」

 耳元で囁かれる声に、あの日ほど切羽詰まった熱はない。何を考えてるのかわからない。頭がぐらぐらする。余裕がないのは、よっぽど、わたしの方だった。

「本心を言え。お前がおれを意識してることは分かってる。いい加減認めろよ」

 できるわけない。本心も何も、確証が持てないのはわたしだって同じなのだ。そりゃ、この人は特別な感情がなくたって女性と行為に及べるのだろうが、わたしはそうじゃない。わたしは本当に好きな相手としかこういうことはできないし、仮にその相手がスモーカーさんなのだとしても、好意を返してもらえる見込みがない以上不幸な片思いに終わるだろう。わたしみたいな小娘が本気になったところで彼を困らせるだけだ。だから、惨めになるってわかってるのに流されるべきじゃない。今まで通りで何がいけないんだ。スモーカーさんとの間にしかない、あの穏やかで特別な何かを大切に思ってたのはわたしだけだったのだろうか。

「――!」

 ジリリリリ、とタイマーのベルが鳴り響く。

 ばっ、と慌てて正面を向いた。瞬きの音すら聞こえそうな至近距離。顔を上げた先のスモーカーさんは微動だにせず、じっとわたしを見つめている。時を知らせる鐘の音など、まるで聴こえちゃいないみたいに。

「な、鍋……火、止めなくちゃ」
「あァ」
「煮崩れ、しちゃいます」
「あァ、そうだな」

 スモーカーさんの分厚い両手が手首を離れ、わたしの頬を覆い、耳の上をゆっくりと撫でて、首から肩へ滑り落ちていく。服が擦れるのがくすぐったくて、それでもおかしいくらい心地よくて、わたしは思わず身震いした。

「は、っ、やめ」
「今なら間に合うだろうが」
「スモーカ、さ」
「振り払わなくていいのか?」

 わずかに首を傾けながら問うてくる。わけがわかんない。泣きそうだ。スモーカーさんはわたしに、どうしろっていうんだろう。その気になればわたしのことなんかどうとでもできるくせに、何度も何度もわたしの意思を確かめようとするはなぜなんだ。
 脇腹を掴まれる。悲鳴の代わりに上気した息を吐く。きっと今のわたしは、捕食者を目の前にしたねずみみたいに怯えた表情をしてるのだろう。なのに、解放された両腕は縫い止められたようにテーブルに転がったままだ。体の動かし方を、思い出せない。

「ナマエ……」

 喚いていたタイマーが、いつの間にか止んでいる。

「本気で嫌なら、抵抗しろ」

 陶然と、ゆるく細められた視線。分かって、いるのだ。スモーカーさんが欲しいもの。彼の飢えを満たすもの。それがわたしの首の下に付いてること。

 ――ああ、ほんと、ばかみたいだ。


 性急に、渇いた大きな手が服の内側に潜り込んでくる。柔らかさを確かめるみたいにわたしの腹へ指先を沈ませて、スモーカーさんは熱っぽい息で嘆息した。肌を覆う体温が服の裾を捲り上げ、肋骨を下から順番に数えていく。くらくら、目眩がした。

 怖い。

 怖いのに、なんで逆らえないんだろう。スモーカーさんがわたしの身体を欲しがってる。やっぱりあの晩のことは勘違いなんかじゃないんだ。スモーカーさんの本能は間違いなくわたしを求めてる。その事実が、どうしてだかたまらなく嬉しい。スモーカーさんが分からなくて、積み上げてきた何かが崩れ去っていく気がしてこんなに怖いのに、卑しい自分が嫌で嫌で堪らないのに、このまま受け入れたらどうなってしまうのかを知りたい。苦しい。もしかしたらこの人は、他の誰でもなくこのわたしを求めているんじゃないかって、こんな眼差しを貰えるのはわたしだけなんじゃないかって、自惚れた可能性に浸りたくなる。はしたない。どうかしてる。どうかしてる――

「す、もか、さん」
「どうした、ナマエ……?」

 哀しいのに嬉しい。
 怖いのに心地いい。
 嫌なのにやめないでほしい。

 どうにかなりそうだ。

 彼の手が、やんわりとわたしの身体を圧迫してくる。それを自覚するたび、下腹にきゅうと甘い疼きが走る。わたしの身体を覆い尽くせそうなほど広いスモーカーさんの手のひら。火傷しそうなくらいに熱い。潜り込んだ親指が、わたしの下着のワイヤーをゆるやかに押し上げる。彼にとっても、わたしにとっても、とうに言い訳のしようがない状況。

「――おれが欲しいって、言えよ」

 スモーカーさんが優しく牙を剥く。待てのできない野良犬がそうするみたいに。わたしはこのまま、テーブルの上で無惨に食い散らかされてしまうのだろう。

 もう、自分の心臓の音しか聞こえない。

 きっとあのベルが、最後のチャンスだった――





 ――鋭いノックの音が二回。

「ッ!」

 わたしとスモーカーさんがほとんど同時に息を呑んだ。彼の手がビタリと硬直する、瞬間、我を取り戻す。こんな時間に一体誰が。状況把握は追いついていないがこの好機を逃してはならないと、わたしは咄嗟にスモーカーさんの胸板を押し返していた。

「出て、ください」
「誤魔化すな。お前が認めるまでは止めねェ」
「スモーカーさん、お願い、ですから」

 半泣きになりながら手に力を込める。びくともしない。わたしの顔を見て、スモーカーさんは物言いたげに眉を歪めた。反論しようとした彼を遮るように、再び急かすようなノックが鳴り響く。

「……ッ、チ――」

 玄関の方に顔を向け、彼は鬱陶しそうに舌打ちした。

 スモーカーさんの手がするりと腹から抜けていく。唐突に失われる体温。手に乗っていた彼の体重が失せ、一瞥もくれずに向けられた背中が目で追う間も無くわたしの視界の外に出る。普段よりいくらか荒い足取りはあっという間に遠のき、バタンと大袈裟に音を立ててドアの向こうへ消えた。



 しん、と静まり返る、人の気配を断たれた部屋。

 呆然と天井を見上げたまま、は、と乱れた呼吸を吐く。脈拍が早すぎて息苦しい。そこで初めて、背中に当たるひんやりとした食卓の温度に意識が向いた。相当追い詰められてたらしい。実際、本当に危なかった。もし今のノックが無かったらと思うと、……。

「……っく、」

 顔を覆う。両手は緊張に震えている。

 ああ、ちくしょう。なにをしてるんだ。流されてしまおうだなんて恥知らずな、ましてや恋人同士ですらないスモーカーさんと、どうしてこんな。最悪だ。わたしはいつからこんなふしだらな女になったんだ。拒むことはいくらでもできたはずなのに。
 目元から手を浮かせると、指先を濡らす水滴が逆光に反射して見えた。それすら今は腹立たしく、赤くなっても構うものかと手の甲で強くこすって拭い取る。それからよろよろとテーブルに肘をつき、わたしは力の入らない上体をなんとか引き起こした。たくし上げられたままだった服の裾がぱさりとお腹に落ちる。まだスモーカーさんの手の感触が身体に残ってる気がして、ぞわぞわ、鳥肌が立った。まさか彼がわたしに、あんな触り方をするなんて。

 かぶりを振る。とにかく今は、あの人が戻ってくる前にここから離れなくちゃ。なあなあに済ませられるならまだしも、スモーカーさんのあの様子だとわたしが明確な返答をするまで逃してくれないかもしれない。卑怯と言われようが、もうまともに彼と顔を突き合わす自信を持てなかった。

「……?」

 玄関からなにか、言い争うような声が聞こえる。様子がおかしい。何事かと腰を上げるより早く、カツカツ響く音が足早に近づいてきて、先ほどスモーカーさんが閉めた扉が勢いよく開かれる。振り向いた途端、鮮明な桃色が目に飛び込んできた。

「――ナマエ、あなた」

 彼女と同時に目を丸くする。

 久しく見る女将校の姿がそこにあった。

「ヒナさん、なんで……?」
「はあ、まったく……わたくしのことはいいの。我ながらグッドタイミングだったわね」
「待っ、てください、これはどういう」
「説明は後でするわ。それよりあなた、大丈夫?」

 歩み寄ってきたヒナさんが、気遣わしげにかがみ込んでわたしの前髪を除ける。そこでようやく自分の状態を思い出した。先ほど強く擦ったために赤く腫れているであろう目元と、乱れた着衣と、ぼさぼさの頭と、テーブルに乗り上げた身体。只事ではないのは目に見えて明らかだろう。
 顔を上げれば、ヒナさんの肩越しに追って部屋に入ってきたスモーカーさんが見えた。焦りと苛立ちを綯い交ぜにしたような表情。ただでさえ勘の働くヒナさんのことだ。あの彼を振り払ってきたことからして、既に大凡の展開は察してるのかもしれない。

「今すぐ帰れ、ヒナ」
「ええ、勿論そうさせてもらうわ」

 彼女がわたしの両手を取り、そっと引いて床に立たせてくれる。ふらつきかける足元に、ヒナさんの支えは心底有り難かった。スモーカーさんの、責めるような視線を遮ってくれることも含めて。

「少しナマエを預かるわ」
「待て、そいつにはまだ――」
「スモーカー君、少し頭を冷やしなさい。まるで脅迫じゃない、この子を怯えさせてどうするの」

 わたしの肩を抱きながら、ヒナさんは呆れたようにため息を吐いた。

「安心して。悪いようにはしないわ」
「……」
「行くわよ、ナマエ。大丈夫?」

 俯いたままこくりと頷く。彼女に手を引かれて、スリッパの片方は置き去りに、ドアの近くに突っ立っているスモーカーさんの横を通り過ぎた。
 その時、すれ違いざまに一瞬、彼の手が引き留めかけたように動いて見えたのはたぶん気のせいではなかったと思う。けれどわたしは、そのことにまるきり気づかなかったふりをした。

「ナマエ」
「……夕飯、食べといてください」

 振り返らずにそれだけ告げ、わたしは家を後にした。

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