No Smoking


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「ナマエさん、お疲れ様です!」

 弾む足取り、大きく振られた右手。そしてちょっと上気したとびきりの笑顔。

 透き通るような木漏れ日が差し込む、天気の海軍本部のいい昼下がり。わたしは口に運んでいたジュース入りのコップをテーブルに置き、こちらへ一目散に走り寄ってくる人影に手を振りかえした。どうやら待ち合わせに遅れるまいと急いで来てくれたらしい――今日も今日とて可憐なたしぎ姉さんは、わたしが待機していたテーブルに駆けつけるなり隣の席に足を引っ掛け全てを巻き込みながら地面に向かってダイブした。

「たしぎ姉さん!? 大丈夫ですか」
「す、すみません、平気ですっ!」

 眼鏡を掛け直しつつ大慌てで立ち上がったたしぎ姉さん。あれだけ派手にすっ転んでも怪我一つないあたりさすがスモーカーさんの右腕というべきか、タフである。そんなわけでお互いの身の安全のためにも、わたしはひとまず向かいの空席を勧めることにしたのだった。

 さて、わたしがたしぎ姉さんとの待ち合わせに指定したのはここ、海軍本部の食堂にある窓際のテーブル席である。ハプニング続きだった春島旅行明けから暫くの本日、朝早くから彼女に「お昼休憩ついでにお会いできないか」と電伝虫でお尋ねしたところ、二つ返事でご了承頂けたのだ。わざわざ食堂までお呼びたてしてしまって申し訳ないというか、本来わたしが仕事部屋に出向けば済む話ではあったのだが……まあたまにはスモーカーさん抜きで、女の子同士話したい時だってあるわけで。そんな口実を思い浮かべながら、わたしは手元に置いておいた紙袋をたしぎ姉さんに差し出した。

「たしぎ姉さん、これお土産です」
「わあっ、ありがとうございます! そうだ、春島旅行は楽しめましたか? スモーカーさんにも伺ったんですけど、土産話ならナマエに聞けと断られてしまったもので」
「ふふ、おかげさまで楽しかったですよ。念願の海列車にも乗れましたし、セント・ポプラの景色も満喫できましたし、買い物も充実しましたし。宿に着いてからは温泉にも……」

 はっ、いかん。温泉については触れるべきじゃなかった。なにしろ混浴を申し出たわたしの失言こそ全ての元凶、あそこから全ての歯車が狂い始めたのだ。追求されてしまったら色々と都合が悪い――と肝を冷やしたものの、たしぎ姉さんに引っかかるところはなかったらしいく、とびきり眩しい笑顔を返された。

「わあー……羨ましいです! お仕事として同伴できるなんてスモーカーさんも役得ですよね。機会があれば私もナマエさんとご一緒したいなあ、なんて……あっ、もちろん迷惑でなければですが!」
「いえいえそんな、全然迷惑なんかじゃないですよ。わたしの保護対象の件があるのでどれくらい融通が効くか分かんないですけど……遠出はむりでもせめてお泊まり会とかしたいですよね」
「ふふ、いいですね! 近々予定を立てましょうか、よく考えてみたら、ヒナさんと三人でお出かけして以来女子会らしい女子会もしてませんし」
「あのショッピングもずいぶん前に感じますねえ。今回はヒナさんをお誘いできないのが残念です」

 などと口にしながら、鮮やかな長髪を靡かせた麗しき女将校の姿を思い浮かべる。この頃は輪をかけてヒナさんが恋しいのだが、彼女の居所は遥か海の彼方。次にお会いできるのはいつになるやらだ。

「あれ、もしかしてご存知ありませんか? ヒナさん、また近いうちに本部にいらっしゃるそうですよ」
「えっ? なんでまた」

 突然の朗報に思わず面食らう。というか素直に喜んでいい話なのだろうか。良し悪しのいずれの理由にせよ心当たりはない。首を傾げていると、たしぎ姉さんはそわそわと赤みのさした笑顔を浮かべるのだった。

「実はもうじき、海軍本部で勲章の授与式があるんです。こういった式典、ナマエさんは初めてですよね。本部では年末の十六点鐘を除くと数少ないお祝い事なので、島全体がお祭りムードになるんですよ」
「へえ、そりゃまた初耳です。ってことは、海兵さんからすると昇格のチャンスですよね。道理でご家族の方も浮かれるわけです」
「ご明察です! そんなわけなので、私たちに直接の関係はないんですが、ヒナさんは部下の方の昇格があるからと数日間本部に滞在されるんだそうです。定期召集のときはバタバタしてしまいましたけど、今回はのんびりお話しできる機会もあると思いますよ」
「それは嬉しいお知らせです。ちょうどヒナさんに話したいこともありましたし……」

 というのは、勿論スモーカーさんとのあれこれについての相談である。こんなことでヒナさんを頼るのも情けないけれど、現状、碌な経験もないわたしの手に負える話じゃなさそうだし。

 授与式について説明してくれるたしぎ姉さんの弾んだ声に相槌を返しながら、視線を窓の外に向けてひっそりため息を吐き出した。旅行を終えてからも特に変わったことはなく、スモーカーさんともこれといって気まずいわけでもないのだが、わたしの気分はいまいち晴れないままだ。さながらロンドンの垂れ込める雨雲の如く。
 ……別に、あの人に対して何か思うところがあるわけじゃないのだ。ただ、いつになく惨めな気持ちだった。勝手に期待を裏切られた気になって、自惚れた卑しさを突きつけられたかのようで。とかく自分が嫌になりそうな、そんな憂鬱な気分だった。


「――ナマエさん、なんだか元気ないですね」

 たしぎ姉さんから出し抜けに声をかけられる。ぎくりとして正面に向き直った。押し黙ったのは一瞬だったが、そんなにあからさまだっただろうか。

「えっと、そう見えましたか?」
「あっ、気のせいだったらごめんなさい。どことなく上の空というか……悩みごとでもあるのかなって」
「悩み……」

 ジュースにさしたストローを指の間で転がしながら返事の言葉に迷う。どうだろう、悩み……というほどのものではない気はするけど。彼女の目からすると、今のわたしはそれほど憂鬱そうに映るんだろうか。ううむ……辛気臭さを振り撒いて実に申し訳ない限りだ。謝罪の意を込めて苦笑を向けると、たしぎ姉さんは気遣わしげに眉尻を下げた。

「あのう、私でよければ相談に乗りますよ。ナマエさんの助けになるかはわかりませんが、お話を伺うくらいならできるので」
「……そうですね。なら折角ですし、聞いてくれますか?」

 間髪入れず「もちろんです!」と食いついた彼女に、ふっと息を吐いて微笑みを返す。今のわたしにとってはありがたい提案だった。こういうことを考え出すと視野狭窄に陥りやすい自覚はあるし、気持ちを整理するためにもひとまずお言葉に甘えたいところだ。
 とはいえ、スモーカーさんとたしぎ姉さんはれっきとした上司と部下。プライベートすぎる話は気まずいだろうし、下手なことを言って業務に支障が出ては問題だから……うーん。

「えっと、これは友達の話なんですが」
「ご友人……となると市民の方でしょうか」
「あー、そうです。さっきまでその……彼女から受けた相談について考えてたんです」

 我ながら捻りのない前置きをしてしまった。聞き手によっては自分の話ですと白状してるようなものだろうが、とはいえ今の相手はたしぎ姉さん。多分ばれないだろう。なんか目を輝かせてるし。

「もしかしていわゆる恋バナですか?」
「まあ、そうなりますかね。わたしも当事者ではないんで、噂話のが近い気もしますが」
「なるほど、よし、分かりました!」

 身を乗り出してきりりと表情を引き締めるたしぎ姉さん。袖を捲らんばかりの意気込みである。そんな面白い話じゃないので期待させるのも申し訳ないのだが……ここまできたら乗りかかった船、彼女の忌憚ない意見をお聞かせ願うとしよう。

「ざっくり説明しますと、その友人にはほとんど家族みたいな、気を許せる感じの男性がいるんですが」
「ふむふむ、ナマエさんとスモーカーさんみたいな感じでしょうか? それとも幼馴染みたいな」
「あ、あー、はいまあ、後者ですかね。ええとそれで、あるとき彼女はその男性のお宅に泊まりにいくことになったそうで」
「えっ、い、いけませんよそんな!」
「いえ、といってもですね、その2人にとっては珍しくもない出来事だったんですよ。友人も気構えることなく家に上がり、日中はつつがなく過ごしたんですが……夜になって別の布団で寝てたらいきなり近くに来いと言われ」
「ひゃあっ……そ、それで!?」
「友人も混乱しつつ流されるような形で添い寝したんですが、結局朝まで何もなかったんです。その挙句、お前なんか相手にするわけない的なことを言われてしまい」
「ええっ……?!」
「それで友人はなんでか知らないけどショックを受けて……相手のことが恋愛的な意味で好きなわけでもないのに、どうしてそんな気分になったのか分からないそうなんです」

 ううん、今の説明で大丈夫だったかな。ちょくちょく嘘を織り交ぜて話したとはいえ、実体験ってことがばれないかどうか少し不安だ。ていうか内容が内容なので普通に恥ずい。素直なたしぎ姉さんのことだし、深読みしないでくれるとは思うんだけど。

「大体そんな事情になるんですが……」

 ジュースをひと口含み、ちらと彼女の顔を覗き見る。

「これってどういうことだと思います?」
「そ、そんなの決まってますよ! そのご友人は自覚してないだけで、きっと本当は相手の方が好きなんです。私、そういう展開恋愛小説で見たことあります!」
「たしぎ姉さんそういうの読むんですか?」
「実をいうと大業物名鑑の次くらいには……あっ、これ秘密ですよ!」

 へえ、意外……ってこともないか。たしぎ姉さんは海兵であり剣士であり乙女なのだ。恋に恋するピュアピュア乙女仲間だ。って違う違う、肝心の疑問点はだ。

「だとしてもその、相手の男性はどうなんでしょうか。からかってるって感じではなさそうなんですが、それでも一晩中手出ししないなんてもう脈なしってことですよね」
「それはあり得ません。だって夜に近くに……って誘ってきたんでしょう。確実にそういうことかと」
「でも、それならどうして後から興味ないみたいな態度取るんですか? わけわかんないですよ」
「あっ、さてはナマエさん、意外とこういう話に疎いんですね? 分かりきったことです、ご友人が大切だからですよ! 相手の方は多分、これまでの家族みたいな関係が崩れてしまうのが怖いんです。だからまだ覚悟のできていないご友人に手を出せなかったとか、何事もないように振る舞っただとか、そんな感じに違いありません!」

 うーん、それもどうだかなあ。いや、確かにそういう部分はあるのかもしれないけど、たとえスモーカーさんが気遣ってくれてるからといって、わたしを恋愛対象に見てる証明にはならないだろう。そもそも彼はわたしを安心させるためにああいうことをしたわけで、求められてると思ってしまったのはただの幻想だったわけで……いやいや、何考えてるんだわたし。この言い方じゃますます、他でもないわたしがそういうことヽヽヽヽヽヽを望んでたみたいじゃないか。そんなわけがない――絶対にあっちゃいけないのに。

「……ともかく、ナマエさん」

 またしても悶々としはじめたわたしを見兼ねてか、たしぎ姉さんは不意に声の調子を柔らげる。顔を上げると、穏やかに微笑む彼女と目が合った。

「肝心なのはご本人の気持ちですよ。結局相手の本心なんて、どれだけ考えたって分かりっこありませんから。こういうのは意外と、ご友人の方から一歩踏み出してしまえば丸く収まるものです。背中を押してあげるのが一番ですよ、きっと」

 ……。

 肝心なのは、わたし自信の気持ち、か。

「うう……」

 顔を覆う。痛いところを突かれた気分だ。それはおそらく、わたしがこれまで目を逸らしてきた部分――明確な言葉にしてしまったら後戻りできなくなりそうな予感がして、無理矢理考えるまいとしてきたことだった。

「あっ……! ごめんなさい、無責任な立場で好き勝手言ってしまいました。こういうことに疎い私が言えた義理じゃありませんでしたね」
「そんな、まさか。わたしのがダメダメですもん。……やっぱりたしぎ姉さんはさすがですよ」
「えっ!? そ、そうでしょうか」

 きっと、たしぎ姉さんの言う通りなのだ。スモーカーさんの言動の意味を推し量る前に、わたしは――それがどれだけ無様で、惨めで、身の程知らずな感情であろうと――自分の本心と向き合うべきなのだろう。

「たしぎ姉さん、参考になりました。ほんと、ありがとうございます」
「そ、そんな。でもお力になれたのなら嬉しいです。ナマエさんと話せて私も……って、あっ!」
「どうかしましたか?」
「ごめんなさい、もう時間が」
「ああ、ほんとだ」

 昼休憩も終わりが近いのか、食堂の出入口のほうが次第に騒がしくなってきた。たしぎ姉さんが「そろそろ戻らないと」と腰を上げたので、わたしもそれに倣って空のコップと共に席を立つ。どうやら思ったより時間が押していたらしい。もう一度告げようと思っていたお礼の言葉もおざなりに、わたしは慌ただしく去っていく彼女の背中を見送ったのだった。


「……」

 インクを纏わせたペンを執り、のっぺりとした書類の表面に走らせる。ちょっとした修正点へ二重線を入れていくだけの単純な仕事。わたしに任されている時点でさして重要な案件でもない。そんなわけで、テーブルにだらしなく頬杖をつき、手元だけは流れに任せながら、わたしは先ほどの会話を頭の中で幾度となく反芻させている。

 現状、考えるべきことはひとつだ。わたしの本心……極力認めたくなかったその事実を己自身に突きつけるのは、思った以上に心苦しい作業だったが。

 ――わたしはずっと、自分のことなんかよりも、ただスモーカーさんが何を考えてるのかを知りたかった。でも、わたしだってあの人から大切にされてることくらいとっくに分かってるのだ。だからこそスモーカーさんがわたしのトラウマを刺激しないようにしてることも、そのせいでわたしを女として見るのを避けてることも、あの興奮がお風呂のハプニングによる生理現象だったことも、既に納得してるわけで……。
 でも、だとしたら、一体わたしは何が引っかかっていたのだろう。このもやもやした気持ちの正体はなんなんだ。まさか一縷の可能性を期待してたのか? たしぎ姉さんの憶測を聞いて、"もしかしたらスモーカーさんはわたしを好きなんじゃないか"って、ちょっとだけ舞い上がったんじゃないのだろうか? ばかばかしい、身の程知らずにも程がある。わたしのつま先から頭のてっぺんまで、あの人に相応しい要素は何一つないというのに。

 ぴっ、と力任せに打ち消しの線を引く。大体本当の意図がなんにせよ、スモーカーさんだってあんなにあっけらかんと、「お前みたいなのに手を出すほど倒錯した趣味はない」とか言ってたじゃないか。それがわたしが子供っぽすぎるからか、それともある種男性に対してのトラウマを抱えてるせいかは知らないが、とにかく初めから可能性なんかないのだ。ああだけど、そんなことで落ち込んでしまってる時点で、つまるところ……。

 ――わたしはスモーカーさんが好き、なのだろうか。

 それは一概に否定できない。だってわたしは、なんだかんだ言ってもスモーカーさんのことは大好きだし、一緒にいると安心するし、時々この人になら全てを差し出してもいいみたいな気持ちになる。肝心なのはそれがどういう種類の"好き"なのかどうかだ。
 ふう、とまたもため息を吐く。少し前から、自分がおかしいのは分かってるのだ。果たしてわたしは、本当に純粋な感情でスモーカーさんに接しているのだろうか。人工呼吸の話を聞いてから変に意識し始めて、首をもたげつつあった疑念は、旅行の一件を経ていよいよ無視することができなくなってしまった。


「――愛と恋の違いって何なんでしょうか」
「なん……だって?」

 愕然。

 いつもの仕事手伝いの真っ最中。ぽつりと零したわたしの問いかけに、クザンさんが手にしていた印鑑が真っ逆さまに転げ落ちて執務机と激しめの衝突事故を起こした。向かいの客用テーブルで書類を広げているわたしに向けられた表情は、さながら豆鉄砲をくらった鳩の如しだ。

「あららら……いやゴメンよ、どうも耳が遠くなったみてェでな……もういっぺん言ってくれねェか」

 などと、耳の裏に手をやりながら宣うだらけきった大男を、薄目でじろりと睨め付ける。絶対聞こえてたくせにご自分の耳を疑うのはやめていただきたい。わたしが浮いた話に興味を持つのがそんなにおかしいか。まったく失礼な。

「ですから、好きにも色々と種類があるじゃないですか。友人と家族と恋人とではやっぱり違うでしょう、その境目はどこにあるのかという話で……」
「まさかナマエちゃん、想い人でもできたのか」
「そういうわけじゃありません。普遍的な疑問です」
「はァ……なるほど」

 執務机の向こう、クザンさんはなにやら納得のいかなさそうな顔で顎を撫でている。そんな目で見るのはやめてほしい。いやまあ確かに今のは、恋にうつつを抜かしているとも捉えられ兼ねない発言だったかもだが(あながち誤解とも言い切れないし)、しかしわたしが唐突に話を振るのだっていつものこと。多少の脈略の無さは看過していただきたいものだ。クザンさんの追及から逃れるべく、わたしは咳払いを一つした。

「とにかく。酸いも甘いも噛み分けた伊達男のクザンさんなら当然持論の一つや二つあるでしょう。折角なのでご教示願おうかと」
「ナマエちゃんの中でのおれのイメージどうなってんのよ……やれやれ、光栄の至りだ。しかし、愛と恋の違いねェ……」

 背もたれに載せた頭の後ろで手を組みつつ、考えごとの要領で天井を振り仰ぐクザンさん。よかった、とりあえず訝しむのはやめてくれたらしい。さほど間をおかずわたしに視線を戻した彼は、相槌を打ちながら鷹揚に口を開いた。

「んん、そうだな……やっぱり相手に何も求めないのが愛で、相手のなにもかもを求めたくなるのが恋なんじゃないの」

 おお、……なるほど。真面目くさった顔でこれまた大真面目な回答をくれた。らしくないってほどじゃないけど、ちょっとばかし意外だ。

「さすが色男。いいこと言いますね」
「まァなんだ、あくまでおれの見解だが、結局のところ恋ってのは本能でしょ……相手のことが頭から離れなくなったり、他のやつに渡したくねェと思ったり、あわよくば抱きたくなったりするもんだ。そういうの抜きに相手が幸せなら嬉しい、みてェなのが愛なんじゃねェのか?」
「ふうん……やっぱりクザンさんにもそういう経験があるんです?」
「そりゃなァ。こう見えておれも若ェ頃にゃ身も心も燃え上がってた時期があってよ……情熱的な恋に身を焦がし、火傷もたっぷりしたもんだ」

 クザンさんは冗談めかした口ぶりで口角を歪め、悪戯っぽくウインクを飛ばしてくる。ううむ、大人だ。アダルティだ。飛んできた星を叩き落としながら、わたしは真剣な態度を取り繕った。

「それじゃクザンさんの説に則ると、肉体的な欲求がないと恋とはいえないんですか」
「お、ナマエちゃんにしちゃ直球な質問じゃない」
「まあ、クザンさん相手ですし。わたし自身も気になることといいますか……」

 すっかりお留守になっていた手を動かし、ペン軸を指の根元に挟み込みつつ書類を捲る。別に照れ隠しってわけじゃないが、面と向かって話すにはちょっと気まずい内容だったのでつい。

「さあなァ、人それぞれではあんだろうが……ないといけねェってより、そこが恋の始まりだろ。キスしたいとか抱きしめられたいとかそれ以上のこととか、そういう欲求くらいお前さんにもあんでしょ」

 う……当然のように言ってくれる。

 インクに浸したペン先で瓶の縁をつつきながら、なるだけ波風を立てない返事を考えた。かといって虚勢を張ってもむなしいだけである。恋愛感情の例えにありがちな「燃え上がるような」感情をちょっとでも味わったことがあるんなら、わたしだってこんなふうに悩んじゃいないのだ。

「もちろん憧れはありますけど。わたし、特定の相手にそういうのを望んだこと、多分これまで一回もないんですが」
「……そりゃまじか? いやでも初恋の思い出の一つくらい……」
「それが、そのう」
「まさかねェのか?」

 無言の肯定を返した。

 ……クザンさんは絶句している。

 くそう、どうせこうなると思ったよ。生前会った人や物は殆ど覚えてないとはいえ、体験したこと自体を忘れるってことは多分ない。つまり純粋無垢な乙女のナマエちゃんことわたしがこの歳まで好いた相手の一人もいないのは、残念ながら純然たる事実なのである。
 あからさまに呆気に取られているクザンさんの気配を諌めるべく、わたしはじろりと視線を送った。……なんだろうあの顔は。面白がるようでいて憐れむような、複雑そうでいて納得したような、そんな感じの遠い眼差しで彼はポリポリ頭を掻いている。

「言いたいことがあるならどうぞ、クザンさん」
「あァ、いや……色々と合点が行ったっつうか、なんつうか……コリャ苦労するわけだ、と思ってよ」
「今のところ大した苦労はしてないですよ。それが問題なわけですが」
「お前さんはそうだろうが……まァ、なんだ……ナマエちゃんってやっぱりお子様だよな」

 これに関してはぐうの音も出ない。

 いやでも、わたしの男性への苦手意識についてはそれなりに事情もあるわけだし、忌避感を持ってしまうのは生まれ育った環境のせいもあるというか、せめて言い訳くらいはさせて欲しい。

「――け、けど、相手が誰であれ下心を持つのは失礼じゃないですか? 一方的だったらどうするんです、気持ち悪がられるかもしんないのに」
「いやいや……おれァ女の子からそういう目で見られりゃ嬉しいぞ。それだけおれが魅力的ってことでしょ」
「はあ、そういうもんなんですかね」
「ナマエちゃんは相変わらず相手本位っつうか、自信無さすぎなのよ。お前さんみたいな娘に好かれたら誰だって悪い気はしねェと思うがなァ……」
「それは人によりけりじゃないですか。好意を押し付けられても生理的に無理な相手だって居ますし」
「オイオイ、そりゃ条件が悪ィでしょ。こういう話をするなら、ある程度好感持てる相手ってのは大前提でいこうじゃない」

 なんか話がよくわからない方向に逸れてきたが、言われてみればそれもそうだ。お花屋さんのお兄さんのような例外を除けば、一方的な男の人に嫌な思い出が多すぎて偏った発想が染み付いていたのかもしれない。

「いっぺん試しに想像してみなさいよ。相手は誰でも良いぞ、勿論おれでも構わねェ」
「お断りします。そんな妄想はしません」
「あららら、振られちまったか……そんじゃま、詳細は聞かねえから好きに決めてちょうだいよ。そうだな、例えば飲み会に行ったとして……」

 ってつっぱねたのに勝手に話し出すし。まずもってわたしは未成年だ。状況設定から間違えている。

「宴もたけなわって頃に、隣に座った相手が周りの奴らから見えねェように手を繋いできたとするでしょ。自分とは違う女の子……じゃなくて異性の手の感触にドキッとしてだな……」
「ちょっと、クザンさん」

 乗せられてたまるか。大体スモーカーさんの手なんて数え切れないほど触ってきたし、今更そんなことで意識するわけもないのだ。あのやたら分厚くて、節張ってて、ほんの少しかさついてる、それでいてひどく柔らかに動く手のひらの――わたしをどこまでも安心させるあの温度が時々無性に恋しくなることはあっても、それはときめきとは程遠い、何か別の種類のものだ。

「そこで顔を見ると、酒のせいか普段と違ってやたら色っぽく見えたりするわけよ。そうなると、こっちも段々その気になってくる」
「……あの」

 それもありえない話だ。そもそもスモーカーさんはわたしが来てからは(未成年の前だからか)滅多に飲酒しないし、アルコールに強いのでほとんど顔色も変わらない。それを言うならセント・ポプラの晩のほうがよっぽど……じゃない、何を考えてんだわたし。というかスモーカーさんを当てはめて聞いてしまってる時点で既にクザンさんの術中なんでは?

「んでもって思わせぶりに席を立つもんだから、誘いに乗って付いてったら人目を忍んでいきなり情熱的なキスをされたりして」
「……」

 変な汗が出てきた。いや、違う、考えるなわたし。かつて一回不埒な想像をしてしまったことはあるけど、あれはあくまで不可抗力だ。わたしが望んだわけじゃない。大体クザンさんの想定は現実離れしすぎなのだ。酔ってたってあり得ないだろう。よりによってあれだけの自制心をお持ちのスモーカーさんがそんな真似するわけ――

「『もう我慢できない』なんつって身体をまさぐられながら、熱っぽい眼差しを向けられるわけだ……。んでこのまま二人で抜け出さないかって囁かれりゃ、後はもうめくるめく夢の夜に……」
「――ッや、やめてください!」

 両手をペンごとテーブルに叩きつけ、勢い余ってソファから腰を浮かせてしまう。芝居がかった仕草で論っていたクザンさんが、ぴたりと動きを止めて立ち上がったわたしを凝視した。

 ……あ、どうしよう、間違えた。

 こんな大袈裟な反応、すべきじゃなかった。手汗が凄い。耳が熱い。完全に墓穴を掘った。まずい、ほんとに違うのに。ばかかわたしは。こんな反応したんじゃ、クザンさん相手じゃなくたってあらぬ誤解を招くだろうに。

「ナマエちゃん、まさかとは思うが」
「ち、違います。変なこと言わないでもらえませんか」
「顔色がすげェことになってるが」
「セクハラです、いい加減にしてください。次やったらクザンさんのことキライになりますよ」
「話題振ってきたのはお前さんなのに理不尽じゃないの。つうか、一体誰相手にんな顔……」

 誰にもなにも、選択肢が限られてるのはクザンさんもご存知の通り。わたしが誰のことを考えてたのかがばれるのだって、問い詰められたら時間の問題だ。

 わたしに取れる選択肢は一つ。

 ――逃げよう。

「わ、わたしちょっと頭冷やしてきます」
「え、ちょっ待、ナマエちゃ……」
「それでは!」

 クザンさんの追求から逃れるべく、なんか言ってるのを丸ごと無視して大急ぎで部屋の外へ飛び出した。震える口元を手の甲で抑えながら、サカズキさんが見たらお叱りを飛ばしてきそうな全力疾走で廊下を駆け抜ける。
 イエス・キリスト曰く、「情欲をいだいて女を見る者は、心の中ですでに姦淫をしたのである」。七つの大罪のうちの一つは色欲だし、仏様だって煩悩は心の汚れって言ったはずだ。わたしはまったくもって信心深くはないけども、つまりはそう、古今東西いつの時代もいやらしい妄想はすべからく裁かれるべきなのだ。

 とりあえず頭から水でも引っ被ろう。

 ああ、もお、やっぱりわたしはどうかしてる。

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